再び擬制の終焉




ぼくたちには一つの歴史があって,今のぼくたちの「日常」を支えている。
そしてその歴史はぼくたち一人一人の特殊性として存在してきた。
と主張しても全く構わないことだが(だから,ぼくにはぼくの途があるさと言っても
全く構わないことだが)ぼくたちの日常性を支えているのが,
そのぼくたちの「歴史」だと書きはじめた以上
(そして,このことは全く正しいと多くの諸君は認めてくれるだろう)
ここでは,こう主張しなければならない。
「いっさいのぼくたちの歴史は全くイコールだった」

だから,ぼくたちの「日常性」は無数のイコールで結ばれた,恐ろしい程整然とした
鎖のがらくた「ひとつ(一ヶ)」であって「ぼくの日常性」などというのは,
はじめから存在していなかった。あるのは「ぼくたちの日常性」。
考えの筋途はあくまで,こうあるべき,即ち,「ぼくたちの日常性」を
orがorにorから………と。
良いお医者様を目指して一心不乱に勉強しているのもいれば,一生懸命「革命」を
叫ぶのもいる。まるで「不純異性交友」のないのもいれば,いつもいつも
「純粋異性交友」に追いかけまわされているのもいる。
たしかに人間はいろいろ違う。それは当たり前のことで,それこそ顔が違うようにだ。
「ぼくには,ぼくの途があるさ」といっても一向に構わないと書いたのは
「ぼくには,ぼくの顔があるさ」という限りにおいて,一向に構わないと書いたまで。

さてこの項の「ボクたちの顔」(決して「ボクの」顔ではなくて)は
一体どちらに向いているのか。
上か下か,右か左か,ボブディランの歌のように「時代にとり残されたくなかったら,
とにかく泳ぎはじめた方が良い,さもなくば,石のように沈んでしまうだろう。
とにかく時代は変わりつつある」と気取ったことも多分あっただろう。
が,たしかに,時代にとり残された吹きだまり,河の流れの底の「石ころ」の
ぼくたちは,こう囁く「余裕」を自覚しはじめていた。
「疲れたら休め,彼もそう遠くにはいくまい」「はたまた雌伏という言葉もあるさ」
――ところが,この余裕が専ら「ボクの顔」を保存する,ひらき直りで,
決して「ボクたちの顔」を厚く塗装するものではなかったと,
ボクらの主治医である「政治」が教えはじめている。

怠惰のあとに,訪れた「政治の季節」にうつむき加減の「ボクたちの顔」を挙げて
左に向けて無数のイコールの顔を断ち切ろう。イコールの顔で,
Massとして固められたボク達が,散弾のように飛び散って
何かに喰い込めさえすれば,再び擬制は終焉するだろう。

わっぱりまっせ!デグリゴン?


1966入学(医進66)⇒1973(秋)丹羽 正美 niwa@net.nagasaki-u.ac.jp 記

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