やわらかな、構図
 
              The Dearest Composition
 
 
 
 
 
 
 
 
「わざわざ付き合う必要もなかったのに。相沢君が待っているんでしょ」
「ん……いいんだよ。祐一は」
 
  わたし、水瀬名雪は、親友の美坂香里が部室の片付けをするのに、わざわざついてきて
いる。冬休みもあと一日で明日はわたしの誕生日。その前日の放課後という、時間を有効
につかわなければいけない時に、わたしはどうしてか彼女の傍にいる。
  実際、祐一と、明日の準備のために買い物に行く約束をしていた。先約の彼を待たせて
まで彼女についてきたのは、彼女が自分の入っている美術部の部室から別れるその儀式に、
付き合わないといけないと思ったからだった。
 
「ふぅん、聞き捨てならないわね。相沢君に言っておこうかしら」
「うー、聞き流してよ」
 
  彼女は、転がっている画板やイーゼルを拾い上げ、ちゃんと片づけるよう言っているの
に、とぼやきながら、それらを棚にしまっていく。
  わたしが香里と一緒に帰るときは、いつもここで待ち合わせをしていた。陸上部の練習
が早く終わる日には、わたしがこの場所に立ち寄り、絵を描いている彼女を呼んで、一緒
に山花屋に行ったものだ。
  だから、この場所は、わたしにとっても想い出の場所のひとつだった。彫刻刀でいろい
ろと削られた棚、うす汚れたカーテン、冬は寒そうな剥き出しのコンクリートの壁。オイ
ルの匂いと埃っぽさの入り交じった空気を吸い込むたび、彼女と同じ風景を見られるよう
な気がした。
  そんなことを意識するたび、自分はもうすぐこの学校を離れるんだ、と強く実感する。
大好きな陸上をずっと続けられたし、いろんな友達と会うことができたこの学校には、た
くさんの想い出も詰まっている。でも、祐一と、もっと長い時間、ここで一緒に過ごすこ
とができたならもっとよかったのに、と残念な気持ちも半分。
  そんな思いすら、過去というちっさな冷蔵庫にぎゅっと押し込まれて、保存されちゃう
んだ。どこかに止めておきたいよね、そんなことを考える。
 
  香里は、自分のロッカーを開き、中に入っている荷物を手提げに入れていった。
  その間わたしは、木の引き出しに収められた絵を引っ張り出しては眺めていた。どれも
美術部員の作品で、半分程度は学園祭で見たことがあった。香里の絵も含まれていた。い
くつかは、書きかけの段階から見たことがあった。
「絵は持って帰らないの?」
  香里はロッカーの影に顔を埋めたまま、返事をした。
「一枚、カラスを書いた絵があるんだけど、それは持って帰るつもり」
「あ……」
「その絵、栞がすごく気に入っていたから」
「懐かしいね、わたし憶えているよ。そのカラスの絵」
  香里は、へぇ、と意外さと嬉しさの入り交じった顔をした。
 
 
  それは、わたしが最初に見た彼女の絵だった。
  この学校に入学して数ヶ月、わたしが初めてこの部室に遊びに来たとき、香里はその絵
を描いていた。
  部屋に入ったとき、香里はわたしに気づかず絵に集中していた。彼女の名を呼ぶのも
躊躇われ、わたしはじっと入り口に立っていた。
  窓から斜めに射し込む陽の光が、静かな翳を作っていた。絵になるな――そんなことを
考えながら、彼女の手の動きに見入っていた。風景に溶け込んでいて綺麗だった。邪魔で
きないよ、と思って、そろりと扉を開けたとき、彼女は絵筆を置いた。こちらを振り向き、
少しだけ口元をあげて、香里は優しく呼びかけた。
  一緒に帰ろっか、って。
  そんな風に会話をしたのは、これが最初。
  だからわたしは、目の前の女の子に返事をしたんだ。知的でクールで、それまではちょ
っとだけ遠慮していた彼女に。
  うんっ、て。
  香里にそんな返事をしたのも、描きかけの絵を見せてもらったのも、それが最初。
  だから、わたしは憶えている。
 
  その時見たキャンバスには、静かに立つ一羽のカラスが描かれていた。なにをするでも
なく、両の脚で黙って立ち、首をかしげるように横を向いていた。切り取られた一瞬でな
く、長回しの映画を見ているようだった。真っ黒の表情――カラスなんだから、当たり前
なんだけど――の中の彼の目が、とても印象に残っていた。
  穏やかな目。カラスってこんな円い目をしていたんだ、と思った。
  カラスの周りにはなにもいない。ひとりでぽつんと佇んでいるんだけど、そのことを悲
しんでいるようには見えない。寂しそうだけど、どこか優しくて、強くて。このカラスは、
どこを見ているんだろう。そんなことを考えたのを憶えている。
  不思議な絵だね――わたしがそう言うと、香里は、みんなには地味な絵だって言われる
けど、と少し驚いたように言った。
  わたし、この絵好きだよ、と香里に笑ってみせた。ありがと、と言った彼女の笑顔も、
わたしと香里の最初の想い出だった。
 
 
「あ、この絵だね」
  わたしは、絵の入った木枠を、棚から引っ張り出した。
  あの時に見た絵を、今わたしがどんな風に見るのか、とても楽しみだった。
  乾いた空気の青、緑に色づき始めた林、見知った公園の風景に、カラスは立っていた。
しかし、ただひとつだけ大きく違っているところがあった。
  キャンバスの中にいたのは、一羽ではなく二羽のカラスだった。最初に書かれていた一
羽目の後ろに、ひとまわり小振りのカラスがいた。それは、一羽目と同じようにじっと地
面に立っていた。
「えっと……こんな絵だった?」
「ああ、それ、書き加えたの」
  香里は、ばつの悪そうな、はにかんだ表情をしていた。何かを告白するときのような――
自分に妹がいることを教えてくれたときのような――顔だった。
 
  わたしはあらためてその絵を見た。
  最初から香里はこんな風に完成させる積もりで、一羽目のカラスだけを書いたんじゃな
いか、と思うぐらい、綺麗に整った絵だった。手前にいる一羽目のカラスは、二羽目のカ
ラスと目を合わせていない。ぴったりとひっついているわけでもない。でも、お互いに相
手をすごく気にかけているように感じた。
  後から下りてきた二羽目のカラスは、どんなことを考えているのだろう。一羽目のカラ
スはどんなことを考えているのだろう。彼らの物語をいろいろと考えると、わたしはなん
だかとても嬉しくなってきた。
  急に、祐一の顔を見たくなった。
 
「えっと後はロッカーの鍵をこの中に入れて、おしまいっと」
  彼女は、自分のロッカーを閉め、膨らんだ手提げを持った。それから、わたしから受け
取った絵を大事そうに丸め、肩にかけていた筒に入れた。
「みんな、同じ大学にいけるといいね」
  香里が不意にそんなことを言う。
  うん、香里。ほんとうにそう思うよ。
「ふぁいと、だね」
 
  わたしは、自分の荷物を抱え直した。祐一をあまり待たせちゃ悪いから、ちょっとは
急がないと。ドアを勢いよく開く。
「香里は?」
  彼女は荷物を肩にかけたまま、窓際に立っていた。
「もうちょっと、ここにいるわ」
「うんっ」
  私は頷いて扉の外にでた。ひんやりとした廊下に出た瞬間、言い忘れたことがあったの
を思い出し、扉の隙間から上半身を覗かせた。
「香里」
  逆光の影のなか、振り向いた彼女に向かって言った。
「わたし、その絵、もっと好きだよ」
「ありがと」
  彼女は、口元を少し緩め、穏やかな目で表情を返した。
  あの時のままの、わたしの大好きな彼女の表情だった。
 
 
 
 
 
 
 
Their story surely continues ever...
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【後書き】
拙作「ノースタウン クリスマス」の冒頭に挿入されるエピソードです。
シンプルなお話ですが、こういうのは、相応に嫌いではないのです。
  冒頭でも述べましたが、HIDさんの「こぼれた思い、受け止めて "Time after Time"」
とリンクしています。単独でも読めますが、上記の二作品をふまえた上で読むと、
また印象が変わるかもしれません。
 
そんな作品ですが、感想いただければ幸いです。
 
追記:もしよろしければ、30K Hit記念として、もらってやってください>HIDさん
 
 
 
Written by 宏方智樹
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【One Word】
宏方さんありがとうございます。
わたしの「こぼれた思い、受け止めて」のアフターストーリとしても、もちろん、
これ一本でも楽しめるSSだと思います。
なんというか、雰囲気を共有しているというのでしょうか。
ともあれ、久しぶりに香里を可愛いと思ったのでした(^_^)
HID(2000/1/14)


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