“Starting over”
Chapter threeThe Saturday, special but ordinary. −特別でありふれた土曜日翌朝、私たちは一緒に家を出た。昨日に続いて、雲のない晴天だった。冬の朝の空気は冴えきっていて気持ちがいい。両親は栞が学校に行くことについて何も言わなかった。栞のしたいようにさせようと思っているのだろう。幸い、病状は安定していたから。あるいは、もう栞を見ないようにしているのかもしれない。昨日までの私のように。「寒いねえ、お姉ちゃん」「そうね」栞は落ち着かない様子で、真新しい制服のスカートの裾を下に引っぱっている。「栞、何してるの?」「ははっ、なんか着慣れないから、短いスカートが恥ずかしくて、それに寒いし」照れ隠しの笑顔で言う。「そんな、おばさんくさいこと言ってるから成長しないのよ」「お姉ちゃん、それって全然関係ないと思うよ、ひどいよー」「わたしだって、まだまだこれから育つんだから、そしたら、きっとお姉ちゃんもびっくりするくらい、きれいになるんだから」ぷうっと頬をふくらませて拗ねてみせる。子供の頃と変わらない仕草、私が長い間ずっと見てきた仕草、そして、この一年間、忘れようと努力してきた仕草。「そうねえ、可能性はあるわね、私の妹なんだから、」「お姉ちゃんっ」言葉を弾ませてこっちを向く。もう笑顔になっている。「とっても低くても、可能性は可能性だもんね」「やっぱり、ひどいよ」もう一度拗ねた表情で横を見る。私は笑顔でその横顔を見つめる。ころころと変わる表情。ときには、子供の頃の面影を映すように、ときには、初めて会う他人のように。ふたり並んで学校に入る。「美坂、おはよう。」校門を入ってすぐに呼び止められる。振り向くと北川君が立っている。走ってきたのだろうか、息が荒い。「おはよう、北川君、どうしたの息が荒いわよ」「は、走ってきた…。そこの角で、美坂が校門入るの見かけたから」30mくらい先の曲がり角を指さして、苦しそうに言う。「そんなに走らなくても私は逃げないわよ、それにどうせ教室で会うでしょ、嫌でも」「ま、それはそうなんだけどさ」大きく息を吐いて、息を整える。「やっぱり、朝はあいさつしたいしな」「そう?そうね」小さな笑みがこぼれる。平凡な朝の風景、ありふれた日常に埋もれてしまいそうな。隣では栞が、私たちのやりとりをじっと見つめている。ちょっと息をつめたような顔で、身を固くして。私には栞の緊張が手に取るようにわかる。「お姉ちゃん?」「あ、会うの初めてだったね、同じクラスの北川君」栞の言葉に呆気にとられている北川君を紹介する。それはそうだろう、私は自分に妹がいることを誰にも言っていなかったんだから。「で、北川君、こっちは私の妹の栞」しどろもどろにあいさつをする北川君、緊張して動きがぎこちない栞。そんなふたりは少し微笑ましい。「栞、そんなに緊張しなくていいのよ、それ程のものでもないんだから」「そう、それ程のものでも…って、おまえが言うなよ」そのひと言で緊張がほぐれて、少しの間三人で話しこむ。栞が、長い間病気で休んでいたこと、今日久しぶりに学校に来たこと。栞はにこにこと笑いながら私たちの会話に相づちを打っている。「おっ、じゃあ俺は先に行くな」腕時計を見ながら北川君が言う。「うん」「じゃあ、栞ちゃん、またな」「はい、北川さん、また」栞が小さく手を振る。「さあ、私たちも行こうか」そう言って、栞を見ると誰かを探すように辺りを見回している。私は栞が誰を探しているのか知っている。何度か、中庭で見かけた光景。家では長い間見せたことのない表情で、楽しそうに話していた妹。冬の風にさらされることは、栞の体にいいはずがないのはわかっていた。わかっていたけれど、私にはそれを止めることができなかった。とても、幸せそうだったから、その表情は、ずっと昔の妹の表情を思い出させたから。栞が探しているのは、その時の相手に違いない。だけど、彼は…。「あ、香里、おはよ〜」少し眠そうな声が私を現実に引き戻す。「おはよう、名雪、もうそんな時間なの?」私は反射的に時計を見る、まだ予鈴までには余裕があった。「香里、ひどいよ〜、今日は早起きしたんだから」祐一の人形直すために、と付け加える。名雪の言葉を聞いて、栞が驚きの表情をこっちに向ける。「名雪、紹介するね。妹の栞」「あ、栞です、よろしくお願いします」「え、妹?香里の妹なの?」「そう、私の妹」「あ、えーと、水瀬名雪です。よろしくね、栞ちゃん」指を口に当てるようにして少し考えこんでる栞。「あの、間違ってたらすいません。さっき言ってた“ゆういち”って相沢祐一さんのことですか?」「そうだよ、え、何で栞ちゃんが祐一のこと知ってるの?」「今日、今日、祐一さんは?」栞が真剣な顔で言う。「今日は朝から用事があるって、出かけちゃったよ、学校さぼってね」私は名雪の言葉を聞いて、昨日の相沢君の表情を思い出す。きっと、彼には学校よりもずっと大事な何かがあるのだろう。そして、それはきっと、相沢君が昨日もらしたつぶやき、“あゆ”という人に関係することなんだろう。栞の思い、相沢君の思い、それはすれ違ってしまって。それぞれに考えこむ三人の思考を中断させる合図のように、予鈴が鳴る。「栞、今日一緒に帰るでしょ?」私は昇降口に向かって足早に歩きながら言う。「うん」まだ何か考えてる様子の栞。「じゃあ、昇降口で待ち合わせね」「うん」こっちを向いて、作り笑顔で。そして、私たちはそれぞれの教室に急ぐ。私は、名雪と並んで教室に向かう。「驚いたよ香里、妹がいたんだね〜」名雪はそれ以上はなにも言わなかった。そんな名雪の心遣いがうれしかった。★ ★ ★いつもの退屈な授業。教室の中は暖房が効いていて、暖かい。緊張感の薄い、土曜日の、間延びした雰囲気。主のいない私の斜め前の席。ほんの二週間程前までは、空席だった場所。『今日、祐一さんは?』名雪に問いかけたときの、栞の真剣な表情。きっと、栞が笑っていられるのは、相沢君のおかげ。相沢君と知り合い、話をすることで、栞の中に何かが生まれた。たぶん、それは、希望。それは、願い。そして、誰かを想い、求める気持ち。栞は…。栞は、受け入れられないと知っても、それを持ち続けることができるだろうか?特に何ごともなくホームルームが終わって、みんなはばらばらと教室を出る。私もゆっくりと席を立って教室の出入り口に向かう。「じゃあ、香里、また来週ね」部活に向かう名雪との何気ないあいさつ。そう、私たちは、来週が来ることを当然だと思っている。「美坂っ」北川君に呼び止められる。私は立ち止まって、彼の方を向く。「美坂、栞ちゃんってすごくかわいい子だな」「当たり前でしょ、私の妹なんだから」彼は言葉も返さずにやさしく笑っている。からかいの言葉を予想していた私は、肩透かしを食ったような気分になる。「お前と、栞ちゃん、すごく仲がいい感じがするな」唐突な言葉、私を貫き通す言葉。「あ、当たり前でしょ、姉妹なんだから」それだけ言うのがやっとで。そして、廊下に出て、私は自分が涙を流していることに気づく。たぶん、うれしさの涙を。昇降口、たくさんの生徒の流れの中にポツンと立つ女の子。少し落ち着かない様子であたりを見回している。「栞、挙動があやしいわよ」近づいて声をかける。「あっ、お姉ちゃん」「よかったー」胸を撫でおろす仕草。「たくさん人がいて、会えないかと思っちゃった」笑顔でそう続ける。「栞、疲れてない?」「うん、大丈夫」「そう、じゃあ、ちょっと商店街でも寄っていく?」それもいいかもしれない、さっきの北川君の言葉じゃないけど、“仲のいい姉妹”には それもふさわしいような気がする。「いいの、お姉ちゃん?」「私はかまわないわよ」「うん、じゃあ行こう」満面の笑顔で栞が言う。冬の昼下がり、今日は、空も晴れ渡って、家々の屋根の白い雪が眩しい反射を繰り返す。商店街も、人通りが多い。私たちは並んで歩く。栞は、私よりも少し小柄で、少しだけ早足のようにして、私の横を歩く。ずっと、昔、子供の頃から変わらない歩き方。何度、こうやって並んで歩いただろう?一日の出来事をうれしそうに話す栞。その瞳は、少し熱に浮かされてるようで、その頬は少し熱で火照っているようで、私は、ぼんやりと栞の体のことを考えてしまう。「お姉ちゃんっ。お姉ちゃん、聞いてる?」私の顔を見上げるように、少し不満気に。「え、ええっ、聞いてるわよ。で、栞、いじめられたりしなかった?」「お姉ちゃん、全然聞いてないよー。今、みんながやさしくしてくれたっていう話してたのに」すこし拗ねたような顔で。「そう?そうだね。ごめんね」「うん、いいけど」「それでね、クラスのみんながやさしくしてくれてうれしかった」また話をはじめる栞。「でも、わたし、4月からはみんなと違うクラスになっちゃうんだね」たくさん、休んじゃったから、と少し寂しそうな顔。私は、栞が、そのことを本当に寂しそうに言うのを聞いて驚いた。栞は、自分の病気を知っている、けれど、4月から先のことを考えている。自分の可能性を信じようとしている。これも、相沢君に対する気持ちがあるからなのだろうか?「栞、お茶でも飲んでいこうか?」「あ、なら、あそこがいいな」「どこ?」「前に一度お姉ちゃんに連れていってもらった、えーと、イチゴサンデーの美味しいお店」「ああ、百花屋ね」「栞、イチゴサンデー食べるの?」「うん、あそこのサンデー、アイスがすごく美味しいんだよ」私たちと同じ制服、違う制服、たくさんの客で一杯の店内で、私たちは他愛のない話をして過ごす。名雪も百花屋のイチゴサンデーに目がないこと、名雪が相沢君のいとこで一緒に住んでいること、クラスの雰囲気、仲のいい友達、そんな、なんでもない話題。栞は、ずっと瞳を輝かせて、本当に楽しそうに私の話を聞いていた。今までの空白を埋めるように、私たちは、話して、笑った。どこにでもありそうな、あたりまえの、土曜日の、午後の風景。「お姉ちゃん、ちょっとだけ寄り道してもいいかな」百花屋からの帰り道、栞が言う。「いいわよ、でも、どこに行くの?」「とてもいい所だよ、黙ってついて来て」にっこりと笑って、冗談めかして。水の音の聞こえる場所。私たちの家から程近い公園。冬場は雪に閉ざされて、ほとんど訪れる人もいない。太陽は既に山の向こうに消えて、力を失ったオレンジ色の光が名残のようにあたりを照らす。噴水だけが時が確かに流れていることを証明するように水を噴き上げ続ける。「久し振りだわ、この公園に来るの」「わたしが小さい頃、よく連れてきてくれたよね」「そうね、栞、この公園が好きだったものね」「違うよ、お姉ちゃん」栞が立ち止まって言う。「わたしが好きだったのは、お姉ちゃんと遊びに行くこと、場所がどこでも、なにもない所でも、お姉ちゃんと歩いて、お姉ちゃんと話して、お姉ちゃんと笑っていれば、それで、その場所はとってもすてきな場所だったんだよ、わたしには」私も立ち止まって栞を見る。小柄な体、雪のように白い肌、少しだけ頬に赤味がさしているのは疲れのせいだろうか?短めに切った柔らかそうな髪、私と同じ色の瞳。「お姉ちゃん」その瞳が微かに揺れる。「お姉ちゃん、よかった。もう一度お姉ちゃんって呼べるようになって」「栞…」「ごめんね、栞。私、弱かったね」そう言って、私は自分の両手で栞の右手を包む。子供の頃からよくやったように。「ううん、そんなことないよ」栞の頬に流れる、一筋の涙。「ありがとう、もう一度私をお姉ちゃんって呼んでくれて」栞の瞳に私が映っている。それが歪んでいるのは、栞の涙のせいだろうか、それとも私の涙のせいだろうか。夜の到来を告げるように、冷たい風が吹く。私の両手の中には、あたたかな手。私の瞳の前には、私を映す瞳。「お姉ちゃん、明日もどっかに連れてってくれる?」「そうね、栞がいい子にしてたらね」「ねえ、お姉ちゃん」小さく笑って、栞が言う。私は栞に視線を返す。「そのセリフ、年寄りくさいよ」子供のような無邪気な微笑みが、栞の顔に広がる。そして、一日が終わって。予言の日まで、あと一日。Chapter fourSunday sunset like sunrise. −朝焼けのような日曜日の夕暮れいつもの時間に、いつもの曲が流れて、私は目を覚ます。久し振りの深い眠り。うしろめたさのない目覚め。カーテンの隙間からは柔らかな冬の陽光が射しこむ。今日もいい天気のようだ。お弁当作って出かけるのもいいな、そんなことを考える。姿見の中には、見慣れた顔の私。けれど、一昨日までのように、鏡の中の自分に違和感を感じることはない。手早く着替えて、部屋を出る。「栞、起きてる?朝ご飯にしよう」隣の部屋の扉を軽くノックしながら言う。けれど返事はなかった。「栞、どこか出かけるんでしょ、早く起きて準備しようよ」もう一度、ノック。それでも、返事がない。胸が高鳴る、嫌な考えが頭をよぎる。扉を乱暴に開いて、栞の部屋に入る。ベッドの中は空だった。全身から力が抜けるような気持ちになる。そのとき、トントンと誰かが階段を上る音が聞こえる。「あっ、お姉ちゃんおはよう」栞がにっこりと笑って言う。「栞…」「どうしたのお姉ちゃん?」「栞、もう起きてたの」「うん、早く目が覚めちゃったから、ちょっと散歩に行ってた」「そう」「あっ、お姉ちゃん、心配してくれた?」「当たり前でしょ。栞、もっと自分の体のこと考えなきゃ駄目よ」「この季節にそんな格好で、コートも着ないで外に出て、体にいいわけないでしょ」見れば栞はセーターの上にストールを羽織っただけの格好で。さっきまでの緊張も手伝って、責めるような口調になってしまう。「お姉ちゃん…」私の強い言葉に気圧されたかのようにつぶやく。「お姉ちゃん、ごめんね、心配かけて、今度からは気をつけるよ」栞の右手を取る。つめたく冷えきっている。きっと、ずいぶん長い時間、外にいたんだろう。栞がこんな時間から行く場所を、私はひとつしか思い浮かべられなかった。「ねえ、栞」「なにかを求めることと、ただ無理をすることとは違うからね」できるだけ静かな口調で言う。私の言葉を頭の中で繰り返しているような間があって、「うん、わかった。これからはホントに気をつけるよ」少しだけ笑って栞がこたえる。私たちはふたりで朝ごはんを食べた。トースト、簡単なサラダと卵料理、熱い紅茶。「お姉ちゃん、今度わたしにも料理教えてね」「高いわよ、授業料」「ケチッ」そう言って、舌を出してみせる。「栞、大丈夫?ほっぺたが赤いわよ」朝ご飯の片付けの最中、食器を下げている栞の表情を見ると、どこかボーっとしているようだった。「うん、ごめん、ちょっと横になってきていいかな?」「もちろん」私は、笑顔を作って答える。子供の頃から体の弱かった栞。だけど、私は、栞が体のことで弱音を吐いたり、痛がったりするのを聞いたことがない。 栞は、けして痛いとかつらいとかいう言葉を誰かにぶつけたりしなかった。ずいぶん前、そのことを栞に話したことがある。『栞は我慢強いね』、と。その時、栞は『ううん、ただ慣れちゃっただけだよ』、と答えて、寂しそうに笑った。ひとりで食事の片付けをする。私の頭の中には不吉で黒い影が広がる。忌まわしい言葉、『次の誕生日を迎えられないでしょう』。明日がその予言の日。絶対的なものではないとわかっていても、やはり、その言葉は私の心に影を落とす。「栞、入るわよ」小さくノックをして、扉を開ける。栞は、ベッドの中で眼を閉じている。そっと、その額に触れる。ちょっと熱い、やはり熱があるらしい。「お姉ちゃんの手、気持ちいい」眼を閉じたままで、栞が言う。「ごめん、起こした?」「ううん、眼を閉じてボーっとしてただけだから」「お姉ちゃん、ごめんね、今日、約束したのに」「そんなこと謝らなくていいわよ。熱が下がったらまた出かければいいでしょ」「うん、そうだね」眼を開いて、小さく微笑む。私は栞のベッドに腰掛けて、その顔を見下ろす。そっと、髪の毛に触れて、指で梳くようにする。柔らかな感触、子供の頃と変わらない。「お姉ちゃん、こうやって、何度も看病してくれたよね」「そうね」窓から見える空は、真冬とは思えないような晴天。太陽は一番高い場所に昇って、春かと間違えるほどのあたたかい陽射しを放つ。「私は好きだったわよ。こうやって、栞のベッドに座って、栞の寝顔を見るの」「本当に?」「本当よ」「いまでも?」「そうね、今でも」またゆっくりと眼を閉じて。「少し眠るね」「お姉ちゃん、ストール取ってくれるかな」椅子にかかっているストールをふとんの上からかける。「栞、寒いの?」「ううん、ただ、ストールがそばにあった方が落ち着くから」「そう」「うん」「おやすみ、栞」「おやすみなさい、お姉ちゃん」私は静かに扉を閉じる。★ ★ ★わたしは夢を見ていた。子供の頃の夢。夢の中でわたしは誰かを待ち続けていた。ひとりぼっちの家の中、見慣れた部屋もよそよそしく感じる。冷蔵庫や、テレビや、ソファや、いろいろなものが普段と違って見える。さみしい。どんなに留守番に慣れても、やっぱりひとりはさみしいよ。わたしは夕焼けが好きだった。綺麗だから?そうだね、それもあるけど、それだけじゃないかな。夕焼けは、もうすぐ、みんなが帰ってくる合図だったから。家の中が、もうすぐ、あたたかい場所になる合図だったから。その日もわたしは学校を休んでいた。真冬のある日、朝から降っていた雪も昼過ぎにはあがった。わたしは部屋の窓から外を見ていた。重く低く垂れ込めていた雲がゆっくりと動いて、雲の合間から夕陽が射すのを見ていた。だんだんと紅に染まる街を見ていた。あたりが夕焼けに染まる頃、どこかで泣き声が聞こえた。そんな気がした。最初は聞き間違いかと思った。けれど、それは確かに誰かの泣き声で、とても小さいけれど、とても悲しそうだった。それがどうしても気になって、わたしは、扉を開けて外に出た。門を出た所、人通りもまばらな道に女の子が立っていた。私と同い年くらいの女の子が途方に暮れたように泣いていた。まるで、生まれたての子供が、まだ知らぬ世界におびえて泣くように。とても不思議な光景だった。女の子の周りだけ白い雪が降っていた。雪?よく見るとそれは羽根のようにも見えた。『どうしたの?』わたしが思いきって話しかけても、女の子はなにも答えなかった。『迷子になったの?』やはり返事はない。『お母さんは?』はじめてわたしに気づいたというように顔を上げる。栗色の髪、紅の瞳、その瞳はとて も透き通っていて、吸い込まれてしまいそうだった。『どこから来たの?』女の子は黙ったまま空を指さす。『お空から来たの?』女の子が頷く。『お母さんは?』もう一度訊ねる。…お…かあ…さん…。はじめてその子が口を開いた。まるで、生まれてはじめて言葉を口にするかのようにぎこちなく。そして、また泣き出す。外は寒かった、女の子は、コートも着ていなかった。とても寒そうだった。『ちょっと、待っててね』わたしは家の中に戻って、お気に入りのストールを手に取った。息を切らせて女の子のいた場所に戻ると、そこには誰もいなかった。たださっきと同じように雪が舞っていた。その場所にだけ、夕焼けの中で雪が舞っていた。雪をひとつ手に取ってみた、それは、わたしの手の中にいつまでも残った。夢、これは夢。今、わたしは夢の中にいる。子供の頃の夢?それとも、子供の頃にみた夢?夢の中でわたしは戸惑っていた。…わたしは 本当に 天使に会ったの?…★ ★ ★私は、居間のソファに座っていた。時計の音だけが部屋の中に響いていた。両親は、今日も仕事らしい。家の中には私と栞の二人だけ。気を紛らせようと、テレビをつけたり、音楽を聴いたり、本を読んだりしてみた。けれど、どれも頭に入ってこなかった。どれも、私の焦燥感を煽るだけだった。今、こうしている瞬間にも、私たち姉妹の時間は終わってしまうんではないかと不安で仕方がなかった。私は静かに階段を上る。そっと栞の部屋のドアを開ける。できるだけ栞のそばにいたかった。そばにいて、栞が呼吸するのを見ていたかった。栞は静かに眠っている。寝息もほとんど聞こえないほど。私は、これまで何回も何回も見てきたはずの、その表情を目に焼き付けようとした。愚かしいとわかってはいても、時間がこのまま止まってほしいと願った。やがて少しの時間が経った。窓からはオレンジ色の光が射し込む。夕暮れ、紅の時間。まるで朝焼けのような空。これが本当に朝焼けで、もう一度この日曜日が始まるのならいいのに。何度でも、何度でも、この日曜日が繰り返せばいいのに。「う…ん」栞がうっすらと目を開く。「おねえ…ちゃん?」そして、半分眠りの世界にいるような、覚束ない口調で私を呼ぶ。「おはよう、栞」「おはよう、お姉ちゃん」「あれ、でも朝じゃないよね」「うん、残念ながら朝じゃないわね」私は自分の思考を知っていたかのような栞の言葉に、ついそう答えてしまう。栞は、少しきょとんとした顔で聞いている。「どう、具合は?」「うん、だいぶいいかな」たぶん、嘘だ。まだ、頬が紅い、心なしか栞の吐く息さえ熱いような気がする。「晩ご飯はどうする?」うーん、あまり食欲無いなあ、心配させまいとしてだろう、明るくそう言う。栞の気遣いが、おそらくは、長い間に身に付いてしまったであろう、無意識の気遣いが、悲しかった。「もう少ししたら、お粥でも作ろうか?」「うん、いいの?」「もちろん」栞が静かにベッドの上に身を起こす。そして、ふとんの上のストールを取って、肩に掛ける。窓の外の景色、これまでずっと見てきた景色をじっと見ている。まるで、慈しむように。まるで、名残を惜しむように。私は小さく頭を振る、つまらない感傷を追い払うために。栞のひとつひとつの仕草に意味を見い出そうとすること。それは、きっと愚かしいことなんだ。「夕焼け…」栞がぽつりと言う。「わたし、夕焼けって好きだよ」「きれいだから?」私は訊ねる。「うん、そうだね。それもある」「でも、もう一つ理由があるんだよ」「なんだと思う?お姉ちゃん」私をまっすぐに見る瞳。その輝きが強すぎるような気がして、それが気になって、私は栞の質問に答えられない。「夕焼けはね、ひとりぼっちが終わることを告げる合図だから」「夕焼けになればね、家の扉を勢いよく開けて、誰かが帰ってきてくれたから」「お姉ちゃん」「わたし、ひとりぼっちは嫌いなんだよ」「知ってた?」そう言う栞の瞳は、ゆっくりと涙で満たされて。私はただ、栞の隣に座って、その手を包むように握ってあげることしかできない。お粥をつくって栞の部屋に運ぶ。『お姉ちゃん、今度料理教えてね』今日の朝にも聞いた言葉。その言葉の意味が、私には、私たち姉妹にはあまりに重すぎて。けれど、私は約束をする。「そうね、栞がいい子にして、元気になったらね」願いをこめて、本当にそんな日が来てくれることを願って。「ねえ、お姉ちゃん」栞が静かな声で言う。「いい子にしてたらねっていうの、止めた方がいいよ」「そんな年寄りくさいことばっかり言ってると、早くおばさんになっちゃうよ」最後には少し笑って、そんなことを言う。重くなる雰囲気を吹き飛ばすための、栞の精一杯の抵抗。だから、私も一緒に笑う。「お粥、美味しかった。ごちそうさま」そう言ったあとにしばらくの沈黙。何かを言おうかどうしようか躊躇ってるような。「今日の朝ね、早く起きて学校に行ったんだよ」やっと開いた栞の口から漏れた言葉。「でも、朝早すぎて学校には誰もいなかった」それにお休みの日だしね、と付け加える。私はその光景を想像して胸が痛くなってしまう。おそらくは、中庭で待ち続けたのだろう、現れるはずのない、彼を。冷たくなってゆく指を、体を気にもせずに。「誰もいない学校は、寂しかった、そして本当に寒かった」「だから言ったでしょ、ちゃんと厚着して出かけなさいって」私はどう答えればいいのかわからずに、そんな言葉を返してしまう。「うん、そうだね」栞が薄く笑う。「寒かった。けどね、家に帰るとあたたかい場所があると思うと嬉しかった」そう、この場所は、私にとってもあたたかい場所に戻りつつある。私たちの場所、私たち姉妹の思い出が、記憶が、たくさん残っている場所。忘れてしまっている記憶が、ふとしたきっかけで思い出されることを待っている特別な場所。「ねえ、栞」私はできるだけやさしく言う。「明日も、学校行くでしょ?」少し驚いた顔の栞、けれどすぐに笑顔で。「うん」「じゃあ、朝一緒に出よう」「でも、わたしは早く出るよ」「お姉ちゃん、寝坊したらおいて行くからね」約束、いくつもの約束を重ねて、いくつもの小さな願いを重ねて。少しでも、一歩ずつでも近づくために、私の大嫌いな言葉、安っぽい、価値のうすい言葉。けれど、今の私が望んでいる言葉。『奇跡』という名の未来に。「じゃあ、今日は早く寝るね」笑顔で言って、ベッドに入る栞。そして、「お姉ちゃん、今日は一日一緒にいれて嬉しかった」にっこりと笑う。「今度は、どこか出かけようね」私は言う。「うん」大きく頷く、栞。「おやすみ、栞」「おやすみ、お姉ちゃん」私は、部屋の電気を消し、静かに扉を閉める。扉のノブから手を離すのがためらわれたのはなぜだったのだろう?私は眠れずに、ベッドの中にいた。昨日までの星明かりが嘘のように、真っ黒な夜。部屋の中も暗闇で満たされている。時計の針はもうすぐ真上で重なる。そして、予言の日。栞の16回目の誕生日。