“Starting over”

   
 
Chapter five
Monday blue, like cloudy sky.   −曇り空のような月曜日の憂鬱 
 
 
 
 
 
 
 眠りは全くやって来なかった。枕元の時計を見る。短針が2の位置に届こうとしている。私はあきらめてベッドを出る。
 普通どおり、出来るだけ普通どおりに振る舞っていたかった。栞の努力がわかっていたから。今日を、予言の日を、できるだけ普通の一日と同じにしようとする、栞の努力が。だけど、これが私の限界だった。
『栞、やっぱりあなたの方が強いのかもしれないね』、心の中でそうつぶやきながら、厚 手のカーディガンを羽織る。
 そして、ベッドから毛布だけを抜き出して、扉を静かに開ける。
 
 天窓から射し込む光の無い夜、廊下は、真の闇だ。まだ暗闇に馴れない眼で、けれど、なんの不自由もなく私は歩くことができる。手さぐりでノブを探す。それは、探すまでもなく、手を伸ばしたその場所にあった。
 静かにノブをひねり扉を開く。規則正しい、静かな寝息が聞こえる。
 闇に満たされた部屋。少しずつ、闇に馴れた私の眼はベッドで眠る少女の輪郭を捕らえる。私はベッドの中の栞が見える位置に座り、壁にもたれる。そして、毛布にくるまる。暗闇にいくら眼が馴れても、もちろん、栞の表情まではわからない。だけど、それでも、私の心は落着いていた。
 栞がそこにいることが、そこに存在して呼吸をしていることが、何よりも大切だった。
 
 睡眠と覚醒の狭間。意識と無意識の交わる領域。
 私はそこを行ったり来たりしていた。
 栞の笑顔が見えた気がした、栞の泣き顔が見えた気がした、栞の拗ねた顔が見えた気がした。
 相沢君が何かを必死に探していた、血の涙さえ流しそうな表情で。
 名雪がなにか言っていた、いつもよりも真剣な顔で、訴えかけるように。
 北川君が、明るい街灯の下に立っていた。彼は何を言ったのだろうか?彼の前には、白い吐息が残っていた。
 夕焼けの紅を見た気がした。
 雪に覆われた白い中庭を見た気がした。
 星明かりに沈んだ、暗い青色の街を見た気がした。
 幼いころの栞、昨日の栞、そして、あの悲しい夜の栞。
 いろんな栞が私の前を通り過ぎていった。
 そして、私は、眼を閉じたまま何も言わない栞を見た。
 いや、見たような気がした。
 
 
 
 
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
 私をやさしく呼ぶ声。
「ねえ、お姉ちゃん起きて」
 柔らかく体が揺れている。私はぼんやりと思う。
『私のことをお姉ちゃんと呼べるのは、この世界でひとりだけ…』
「お姉ちゃん、学校、遅刻しちゃうよ」
『ただひとりの妹だけ…』
「ねえ、お姉ちゃんってば」
『だけど、その妹は、もう何も喋れなくなってしまって…』
『…ただそこに横たわっている』
 ゆっくりと目を開く、目の前には、栞の顔。
「しお…り?」
「おはよう、お姉ちゃん」
 私はまだ夢を見ているのだろうか、目の前で栞が笑っている。
 透き通るような白い肌。少し朱のさした滑らかな頬。
「お姉ちゃん、学校行く時間だよ」
 けれど、栞はパジャマのうえにストールを羽織った格好で。
「栞は、栞は行かないの?学校」
 栞の笑顔が少し翳る。
「うん、ごめんね、お姉ちゃん。昨日約束したのに」
「そう」まだ、どこか夢を見ているような感じだ。うまく頭が回らない。
「昨日、お姉ちゃんが言ってくれたでしょ。求めることと、無理することは違うって、だ から今日は、無理しないことにする」
「そう」
「今日はお母さんもお仕事、休みみたいだから」
 お姉ちゃん、わたしのことは心配しないでね、そう笑顔で言う栞。
 栞と離れてひとりで学校に行くことがとても嫌だった。だけど、栞の思いに応えたかった、いや、応えなければいけないと思った。
 今日という予言の日さえ、日常に変えてしまおうとしている、栞の思いに。
 普段通り、いつも通りの生活、それが栞が望んだものだから。
「お姉ちゃん、風邪ひかなかった?」
 ベッドに戻った栞が訊ねる。
「うん、大丈夫」
「なら、よかった」
 そう言って笑った栞の顔はやはりとても白くて、雪のように、今にも消えてしまいそう だった。私はそれを見て、とても不安な気持ちになる。
「お姉ちゃん、もう準備しなきゃ、遅刻しちゃうよ」
 じっとその顔を見つめていた私をうながすように栞が言う。私は仕方なく部屋を出る。 
 
 そういえば、栞は、私が栞の部屋で寝ていた理由を最後まで訊かなかった。
 
 
 手早く制服に着替えて、学校に行く準備を済ます。
 もう一度栞の部屋の扉を開ける。
「栞、行ってくるね」
「行ってらっしゃい」ベッドに入ったままで、言う。
「帰ってきたらお祝いしょうね」
「えっ?」疑問の表情をこちらに向ける。
「誕生日のお祝い、しようね」
「うん」笑顔、周囲の空気の中に溶けていきそうな、はかない笑顔。
 
 そして、また、新しい約束。
 私と栞との小さな約束。
 
 ドアを開けて外に出る。昨日までの晴天が嘘のような空。
 どんよりと曇って、重い雲が低く垂れ込めている。いつ雪が降り出してもおかしくないような空。底冷えのする街を、私は一人で学校へ急ぐ。
 本当は、学校になんて行きたくなかった。残り少ないはずの時間を栞と過ごしていたかった。
 けれど、そうやって、時間を止めようとすることは、栞を見ないようにしていた自分と大差ないことを今は知っていた。
 だから、二人の願いのために、約束をかなえるために、私は学校に行かなくてはいけない。時間を進めなければいけない。
 あの時、栞の扉を叩いたときに、私が、それを選んだのだから。
 
 
 
 
 予鈴ぎりぎりに学校に着いた。教室に入り自分の席に座る。
 前の席の名雪がこっちを向いて、おはよう、と言う。
 わたしはあいさつを返しながら、斜め前の席を見る。
 そこは今日も空席だった。
「美坂、大丈夫か?顔色悪いぞ」
 北川君が声をひそめて言う。私はなにも言わずに、口元だけで小さく笑って答える。
『ごめんね、北川君、今の私にはこれが精一杯なんだ』、そんな思いを微かな笑顔に込めて。
 
 やはり、授業はひとつも頭に入ってこなかった。ときには一分間がとても長く感じた。そうかと思えば、気がつけば三十分が経っていることもあった。
 私は学校に居ながら、ただ、栞のことを考えていた。
 早くそばに行って、その柔らかい髪を指で梳いてあげたかった。小さな手を両手で包んであげたかった。
 
 ようやく、昼休みを告げるチャイムが鳴った。
 北川君は、私の方に心配そうな視線を向けながら、他の男子生徒達と教室を出ていった。「香里、大丈夫?」真剣な表情で名雪が言う。
 また、心配をかけてるな、私はそう思いながら、「うん、あまり食欲はないけど、大丈夫よ」、そう答える。
「なら、いいけど…」あまり納得していない様子の名雪。
「ねえ、名雪」
「相沢君はどうしたの?」
 名雪の表情がいっそう曇る。
「祐一は、部屋から出てこないんだよ」
「昨日の夜遅く家に帰ってきてから、一度も部屋から出てこないんだよ」
 なにも話してくれないんだよ、と小さな声で付け加える。
「そう」
 相沢君の願い、それが何だったのか、私にはわからない。けれど、もし彼が、名雪をも拒絶するほどに傷ついているのなら、きっと、それはかなわなかったのだろう。
 あれほど、強く願っていても。あれほど、強く望んでいても。 それでもかなわないほどの、願いごと。それは一体どんなことだったのだろう?
「ごめん、名雪、昼休みが終わったら起こしてくれるかな」私は体中の力が抜けるような気がして、机に顔を伏せる。
「うん、それはいいけど。香里、保健室に行ったほうがいいんじゃない?」
「ううん、ここでいいわ」なぜか、名雪の近くにいたかった。
「そう、わかった」
 名雪がやさしく微笑んでくれる。
 そういえば、私は、この人の微笑む顔も好きだったな。
 そんな考えが頭の片隅に一瞬、浮かんで、私は眠りに引き込まれてゆく。
 眠りの渕に落ちようとした頭の片隅に何かがひっかかる。
――中庭。
 私は、席から立ち上がって、廊下に飛び出す。名雪の驚いた顔を置き去りにして。
 まさか、まさか、今日は来ていないと思うけど。
 鼓動が早まる、嫌な予感が止まらない。
 冷たくて重い鉄の扉を開ける。急いで中庭に飛び出す。昨日、一昨日の晴天のせいで、雪がだいぶ溶けてしまって、所々地面が覗いている。
 気がつけば、いつ降り出したのか、柔らかくて白い雪が舞っている。
 
 私は、自分の目を疑った。
 そこには雪のように白い肌の少女が、傘を握りしめて立っていた。肩に、見慣れたストールを羽織って。
 
 
 
 
 
 
★    ★    ★
 
 
 
 
 
 
 濃い灰色の雲が垂れ込めた空。柔らかく舞う、羽根のような雪。誰もいない中庭に立つ少女。
 雪よりも白い顔で、傘は閉じたままで、それで体を支えるようにして。
「栞」
「おねえちゃん…」
 私はゆっくりと栞に近づく、そして、その右手を取る。
 つめたい、氷のように冷たい。
 私はその手を両手で包み込み、自分の顔の前に持ってくる。そして眼を閉じる。
 なにも、なにも言うことができない。
「お姉ちゃん」
「ごめんね、やっぱり、我慢できなかったよ」
 下を向いたままで、栞がつぶやく。
「どうしても、会いたくて」
「どうしても、もう一度、もう一度、祐一さんの笑顔が見たくて」
「声が聞きたくて」
「まだ、わたしが動けるうちに、まだ、わたしがこの場所にいれるうちに」
 頭と肩にうっすらと積もった白い雪、氷のように冷たい手、それでも、ここで待っていることを選んだ栞の思い。
 それは温かい涙に変わって、止めようもなく溢れ出して、この中庭に吸い込まれていった。
 私にできたのは、栞を抱えるようにしてタクシーに乗せて、家に連れ帰ることだけだった。
 
 そして、その日の夕方、栞は高い熱を出した。
 母さんがいつもの病院に連れていった。
 その日、栞は家に帰って来ることができなかった。
 病室で誕生日の夜を過ごすことになった。
 
 そして、またひとつ、果たされなかった約束が増えた。
 
 
 
 
 
 
 
Chapter six
Can you tell your wishes to somebody?  −願いをちゃんと言葉にできる?
 
 
 
 
 
 
 また日付が変わる。
 昨日と同じような漆黒の夜。
 私は、栞の部屋に一人でいる。
 昨日と同じ場所で毛布にくるまって。
 昨日と同じようにベッドが見える。
 だけど、今日はこの部屋に、私以外は誰もいない。
 
 どうして、私たち姉妹にはあたり前の毎日が与えられなかったのだろう?
 どうして、一日一日を怯えながら過ごさなければいけないのだろう?
 失うことに、傷つくことに、消えてしまうことに。
 
 予言は成就しなかった。
 栞は、誕生日を越えることができた。
 けれど、これではなにも変わらない。
 誕生日を越えることができたのが『奇跡』なの?
 引きのばされた袋小路、行きつくところは必ず行き止まり。
 
 だめだ、暗い夜は、心にまで入り込む。
 気持ちが沈んでゆく。
 私は、この悲しみを承知の上で、あのとき、扉を叩いたはず。
 もう一度、もう一度、あの気持ちを思い出さなきゃ。
 そして、願わなければ、本当の願いを願わなければ。
 
 けれど、それは何だろう?
 栞は何を望んでいるんだろう? 彼女の願いは私の願いと同じなのだろうか。
 ふと、そんな疑問が頭に浮かぶ。
 栞はこの世界にとどまることを本当に望んでいるんだろうか?
 時折見せる、どこか諦めたような表情。それとは対照的な希望の言葉。
 ゆっくりとひとつ息を吐く。気持ちを鎮めるために。
 そう、きっと栞の心も私と同じ、揺れているんだ。とても、細いロープの上で。諦めそうになる自分と未来を求める自分の狭間で。気高い強さとどうしようもない弱さの狭間で。
 
 それなら、私にできることは、栞をこちら側に繋ぎ止めること。
 たった一人の姉、私にしかできないことがある。あるはずだ。
 相沢君にもできないこと、相沢君にも越えられないもの。
 私と栞がふたりで積み重ねた時間。
 積み重ねた思い出、積み重ねた約束。
 そして、積み重ねた後悔。
 そう、後悔さえも、私と栞の絆。
 
 それならば、私は心から願おう。
 すべての思い出を語り合える日が来ることを。
 すべての後悔を忘却の大地に還えす日が来ることを。
 約束が、すべての約束が果たされる日が来ることを。
 そのための時間が私たちに与えられることを。
 ただ、それだけを一心に願おう。
 
――この願いを、この願いだけは、栞に伝えなければ。
 
 頭を壁にあずける。眼を閉じる。
 疲れた体に、ゆっくりと眠りが訪れる。
 今は眠ろう。
 少しでも眠れるうちに、少しでも体を休められるうちに。
 
 今は眠ろう……。
 
 
 
 
 
 
★    ★    ★
 
 
 
 
 
 
 意識がゆっくりと立ち上がる。
 まだ太陽の出ない時間、冬の夜明け前の、はかない時間。部屋の中は冷たい空気で満たされている。
 私は重い頭を抱えたまま部屋を出る。今、動き出さなければ、ずっと止まったままになる、もう一歩も前に進めなくなる。そんな気がした。
 熱いシャワーを浴びる。心の奥底に巣喰う暗い想像を流し去るために、体の芯に残る不吉な冷気を流し去るために。
 何も考えずに制服に着替え、身支度を整える。
 鏡に映る自分の顔、寝不足の疲れた表情、けれど、瞳は光を失っていなかった。
 つい最近、見たことのある強い光。
 それは妄執の光だろうか、それとも希望を見つめる光だろうか。
 
 鞄を持ちコートを羽織る。玄関の扉を開け、街に出る。ようやく夜明けを迎えつつある街、人気のない通りを、通いなれた病院へと向う。
 まだ寝静まった病院の夜間入り口から建物の中に入る。灯りのおとされた廊下、扉を開けたままのエレベーター、売店に下りたシャッター、鼻につく病院独特の匂い。その中で、自動販売機の灯りだけが、現実と繋がっている気がする。
 母に聞いた病室の前に立つ。
 そこは個室で、そんな小さな事実さえも、私の暗い想像をかり立てようとする。
 何度か頭を小さく振る。暗い想像を振り払うために。
 ゆっくりと扉を開く。ベッドに横たわる栞、点滴のためにまくられたパジャマの袖、そこから覗く腕の白さが目に痛い。
 静かな寝息をたてている栞。少しためらったあとに、その額に手をのせる。
「…気持ちいい」ささやく声。
「お姉ちゃん?」さっきよりもしっかりとした口調で栞が言う。そして、うっすらと眼を開ける。
「ごめんね、起こした?」
 力無い動きで頭を横に振り、わたしの言葉を否定する。
 その動きはあまりに力無くて、言い表しようのない悲しさを私の心にもたらす。
「どうして、私だってわかった?」
「お姉ちゃんの手、気持ちいいから…」
 小さく微笑みながら答える。
 私はベッドの隣に置かれた椅子に腰掛ける。
 微かにエア・コンディショナーの音がする。
 部屋の中の空気は、少し淀んでいるような気がする。
「お姉ちゃん、ごめんね」栞が顔をこっちに向けて言う。
「何が?」
「今日も学校、行けそうにないよ」
 私は涙を落としそうになる、でもだめだ、今はまだ泣くべき時じゃない。
 栞の手を握る。
「ねえ、栞」
 そして、静かに言う。
「約束は守らなくちゃダメだよ」
「だから、早く元気になるのよ」
 栞の目から涙が溢れる。
「お姉ちゃん」
「お姉ちゃんも知ってるでしょ?お姉ちゃんが教えてくれたんだよ」
「もし、病気が治ったら奇跡だって」
「お姉ちゃんが言ったんだよ。奇跡なんて簡単に起きるものじゃないって」
 口調は静かで、だから、余計に私の心に突き刺さる言葉。
「なのに、何で、元気になれって言うの?」
「何で、約束なんてするの?」
「わかっているのに、約束なんてかなわないことがわかっているのに…」
「どうして…」
 最後まで口調は静かなままで、それが今の栞の精一杯の力だということを思い知らされる。
 
「栞」
 私は手を握ったままやさしく言う。
「私も、そう思っていた」
「約束なんて意味がない」
「どうせいなくなってしまう妹なんていらない」
「悲しみにたえられないから」
「寂しさにたえられないから、自分の弱さにたえられないから」
 栞の潤んだ眼が私を見つめる。
 その瞳はまだ希望を映すだろうか?
「だけど、みんなに教えてもらったの」
「相沢くんや、名雪や、北川君や、栞、あなたに」 
「願うことの大切さを、思いを重ねることの大切さを、そして、人の思いがときに強い力を持つことを」
 私は一度眼を閉じる。今言わなければ後悔するだろう、いちばん伝えたいこと。
 大切な言葉をゆっくりと紡ぐ、ひとつひとつの言葉を確かめるように。
「栞、約束しよう」
「もう一度一緒に学校に行くこと」
「良く晴れた日にふたりで出かけること」
「まだしてない誕生日のお祝いをすること」
 涙が、もう少しで涙が、零れそうになる。
 必死でこらえながら言葉を続ける。
「そして、もっともっと長い間、私たちが姉妹でいることを」
 栞の瞳がもう一度揺れる、その白い頬に涙が流れる。
 長い沈黙のあとに、その口が紡いだのは、希望の言葉。
「ひとつ…忘れてるよ」
「えっ?」
「料理も、料理も教えてくれるんだよね」
「約束、したよ」
「約束、したよね、お姉ちゃん」
 
 
 8時近くに母が病室に来た。私は入れ替わりに学校へ向かう。
 
 病室を出るとき、栞は静かに眠っていた。
 
 

 
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