Starting over”   

 
 
 
 
Chapter one 
Can you wish your wishes well?   願いを願うことが、うまくできる? 
 




 
 
 
 相沢君のこんな真剣な顔は初めて見た。
 何かを思い詰めたような表情。顔は疲れきっているのに眼だけが強い決意を示すように輝いている。
 彼のことを『名雪のいとこの変わった男の子』、というぐらいにしか思っていなかった 私は、少し驚いていた。だから、その奇妙な頼みを引き受ける気になった。
『探し物があるんだ』彼は言った。『とても大事なものなんだ。必ず見つけなきゃいけないんだ』
 突拍子もない話だった。子供の頃に埋めたはずの瓶に入った人形を探す。
 もし、相沢君がいつもの表情で言っていたら、冗談でしょ、の一言で片づけただろう。
 でも、彼は必死だった。そして、真剣だった。そう言えばこんな必死な表情をどこかで 見たな、そう思った。
 
 家には帰りたくなかったから、その奇妙な頼みは私にとっても好都合だった。
『次の誕生日を迎えられるか、保証はできません』あの日の医者の言葉。
 その日が、もうすぐそこに迫ってきていた。不吉な予言の日が近づくにつれ、私はいっそう心を閉ざした。ほんの一握りの人達としか話さないようになっていた。
 名雪、相沢君、そして、北川君。それはつまり、ここにいる三人だった。
 
 私たちが連れてこられたのは、町はずれの並木道だった。四人で手分けして木の根元を探していった。
 とても寒くてつらい作業だった。けれど自分がまだ誰かの役に立つことができると思うと指先が冷えていくのさえ、嬉しく思えた。
 ただ、私は探し物が見つかるなんて思っていなかった。
 そんな昔に埋めたものが同じ場所にあるはずもない。
 万一残っていたとしても、それを見つけることなんてできるはずもない。
 一体、どんな計算式でなら、その可能性を算出できるだろう。
 もし見つかったならば、他人はそれをこう呼ぶだろう。
 奇跡だ、と。
 
 真っ赤な夕焼けを名残に冬の太陽が姿を消すと、いっそう寒さが増してきた。
「見つからないな、本当にここなのか?」北川君がさすがに疲れた表情で言う。
「わたし、眠い」名雪が言う。
 でも、相沢君の瞳は変わらずに強い光を放っている。必死だ。
 それは私のたった一人の妹の表情と重なる。自分の病気のことを私に訊ねたときの。
 一年前、私たち姉妹の時間が止まってしまった日の。
「大事なものなんでしょ?」私は言う。
「ああ、とても大事なものなんだ」
「本当にここに埋めたのね?」
「間違いない」
「誰かに掘り返されてる可能性は?」北川君が言う。
「それは、あるな」少し声を落として相沢君が答える。
「でもまだ残ってる可能性もあるのよね?」
 相沢君が黙って頷く。
「じゃあ、もう一度探してみましょう。見落としがあるかもしれないし。」私の口はそう動いていた。
 私は、一瞬自分の耳を疑った。
 自分でも可能性なんて信じていないのに、どうしてそんな言葉が私の口から出たのだろう?
 万に一つの可能性、誰もが軽く口にする奇跡という言葉。
 私はその言葉を否定して生きてきたのに。否定することでしか、自分を繋ぎ止めていられなかったのに。
…その言葉を、呪ってすらいたのに。
 
 あれから何時間経っただろう。
 さっきまで、時折、私たちを怪訝な顔で見ながら通り過ぎていた通行人の姿も、すっか りまばらになっていた。
 指先がかじかんで感覚がなくなっていた。それでも、私は探し続けた、途中で止めるつ もりはなかった。
 なぜ?
 なにを期待しているんだろう?
 探しものが見つかるとは思えなかった。
 けれど、途中で止めることもできなかった。
 
「おい、これじゃないのか」
 北川君が大きな声を上げる。三人が彼に駆け寄る。彼が手にした割れた壜を相沢君が奪 うように手に取る。
 壜の中には片翼がとれて、みすぼらしく汚れた天使の人形。
「これ…なの?」私は訊ねる。
「ああ、間違いない」相変わらず真剣な表情。
「…この人形が、あゆの願いをかなえたんだ…」つぶやくように言う。心に響く悲痛な声で。
 
 七年間の時を越えてふたたび地上に降りた天使。
 そう呼ぶにはあまりに汚れていて、みすぼらしかったけれど、それさえも今の私たちに はふさわしい気がした。
 私たちにふさわしいちっぽけな出来事。それは、奇跡と呼んでもいいほどの偶然。
 けれど、それは待っているだけでは起きなかったはずだ。
 相沢君がしたように、焦がれて、灼けつくように願って、それを求めなければ。
 私はうすうす気づいていた。私が心の奥の氷の中に閉じこめたものの正体。
『願い』
 妹を失いたくないという、願い。
 けれど、それはあまりに可能性が低くて、私はそれを願い続けることから逃げてしまった。彼女を否定して、私の本当の願いを否定して、私自身を否定して。
 悲しみの氷に永遠に閉ざされることを選んでしまった。相沢君とは反対の道を選んでしまった。
 ちっぽけでうす汚れた天使の人形。
 けれど、もしかしたらそれは私を照らす新しい希望の光。
 相沢君の思いを、北川君や名雪のやさしさを、そして、探すことを止められなかった私を。もし、それらを信じることができるのなら、私は、もう一度はじめられるかもしれない。
 今ならば、まだ、間に合うのかもしれない。
「ねえ、ちょっと見せて」
 相沢君の手から天使の人形を受け取る。
 そして、私は堅く目を閉じる。そして願う、脳裏に一人の女の子を思い浮かべて。
 私が自分の中から消し去ろうとしてできなかった、たった一人の、かけがえのない妹を 思い浮かべて。
 
 もし、かなうならば、 あなたが私を許してくれるのならば、できる限り長く姉妹でいられるように、と。
 
 
 
 
 
 
★    ★    ★
 
 
 
 
 
 
「美坂、おい、美坂っ」北川君の呼ぶ声で現実に引き戻される。
「大丈夫か?顔色よくないぞ」
「えっ?ええ、私は平気よ」
「じゃあ、これ返すわね」片翼のない、うす汚れた天使の人形を相沢君の手に戻す。
 彼は黙ったままそれを受け取って、じっと見つめている。
 
「わたしが直してあげようか?」名雪がおそるおそる言う。
 きっと、相沢君の思い出に自分が踏み込んでいいのかを考えてためらっていたんだと思う。幼なじみのいとこである名雪をもためらわせるほどに、相沢君は思いつめた表情をしていた。
「直せるのか?」相沢君が強い口調で、掴みかかりそうな勢いで言う。
「うん、ほとんど作り直しになると思うけど、それでよければ」
 相沢君の勢いに気圧されたように名雪の声が小さくなる。
「頼む」必死な声。
 しばらくの間みんな黙り込んでしまう。
 寒さと疲労、そして、ひとつのことをやり遂げたことの高揚感。
 そういったものがない交ぜになった雰囲気の中で、それぞれが、それぞれの思考に沈んでいる。自分がこれから向うべき先に思いを馳せているような、そんな束の間の沈黙。
 
 やがて、そんな沈黙にピリオドを打つかのように、北川君が私に言う。
「よし、じゃあ俺達は帰るか」
「そうね、相沢君、この埋め合わせはそのうちしてもらうけど…」
 本当は、埋め合わせなんてどうでも良かった。けれど、いつもと同じような軽口を叩いていないと、自分が、今、この場所で、すべてを話してしまいそうだった。
 心の奥底に、固く閉ざしたはずのものを、すべてさらけ出して、泣き叫んでしまいそうだった。
「よかったわね、探し物が見つかって」
 最後にそれだけ言って、彼に背中を向ける。
「ありがとう」
 私たちの背中に、相沢君がつぶやくように言う。
 
 
 北川君と並んで歩く。
 この時期にはめずらしい雲ひとつない夜空。星が、澄み切った空気を引き裂くような鋭い光を放っている。
 興奮の去った体に、夜気の冷たさが染み込んでくる。私は自分を抱きしめるように胸の前で腕を組む。
 いつの頃からか、そうやって腕を組むのは私の癖になっていた。そうしていないと、自分がばらばらと崩れてしまいそうで不安だった。
 
 不意に北川君が立ち止まる。
「じゃあ、俺こっちだから」
 明るい街灯の下。街灯も星と同じくらいにはっきりとした光を放っている。
 澄んだ空気の中の、透明で鋭い光。
「うん、また明日」
 私はそう言って、自分の家への道を歩き出す。
「美坂」
 歩き出してすぐに呼び止められる。私は肩越しに彼を振り返る。
 北川君が何か言い淀んでいる。彼にしてはめずらしいことだった。
「なに?」
 きちんと彼に向き直ってから、私はできるだけ静かな口調で言う。彼を急かさないように。彼が言い淀んでいることを、聞いてみたかったから。
「ああ…、こんなこと俺が言うことじゃないかもしれないけどさ」
 私は黙って続きを待つ。
「美坂はさ、もっと自分のしたいようにしていいんじゃないか、本当に自分のしたいことをして、自分の言いたいことを言って」
 北川君が下を見ながら、やさしい口調でつづける。
「いや、よくわかんないけど、最近の美坂、あまり笑わないし、無理してるように見えるからさ」
 私はどんな表情をしていただろう、彼の言葉は私の心の深いところにとどいた。
 こんな私のことでも、気にかけてくれる人がいる、心配してくれる人がいる。
 心の奥の氷に小さな亀裂が入ったような気がした。
 
 私は夜空を見上げる。そして、視線を北川君に戻す。
 少しの沈黙。
「ありがとう、でも大丈夫だから」
「そうか…」北川君も顔をあげて私を見る。
「うん」
「変なこと言って悪かったな、じゃ、また明日な」
 そう言うと、くるりと背を向けて、迷いない歩調で歩き出す。
 少しずつ遠ざかる北川君の背中、彼の立っていた空間に残る白い息。
 それは、彼の言葉が形になったように、ほんの一瞬残って、消えた。
 
 私はしばらくの間、その場所で立ちつくしていた。
 北川君のやさしい言葉が痛かった。
 私は弱いから、みんなが思ってるよりも、ずっと弱い人間だから。
 誰かの救いの手も、気持ちも、思いやりも、今の私には受け入れる資格がない。
 自分が犯した間違い、それを自分で正すこと。
 たぶん、それが、今の私にできる唯一のこと。
 ゆっくりと、ひとつ息を吐く。白く凝固した吐息を残して、家への道を辿る。
 
 
 
 
 鍵を開けて、家の中に入る。まるで、誰も住んでいないのかのように静まりかえった家の中。
 自分の家なのに、この場所にいることは、今の私には苦痛でしかなかった。
 この場所が暖かな場所であったのは、もうずいぶん前のような気がする。
 灯りも点けないまま階段を上り、自分の部屋に向かう。
 両親はまだ帰っていないのだろうか。
 私の目は隣の部屋の、灯りの漏れている扉に引き付けられる。
 けれど、視線を無理矢理引き剥がすようにして、冷えきった体で部屋に入る。
 暗いままの部屋に。
 土や雪で汚れた制服のままでベッドに座り、背中を冷たい壁にあずける。
 カーテンの隙間から入る星明かりが、わずかに部屋の中を照らし、部屋の中のすべてのものを暗い青色に染めている。
 静かに眼を閉じる。
 人形を見つけたときの相沢君の顔が浮かんでくる。
 彼の眼の輝き、悲痛な、心の痛みをそのまま言葉にしたようなつぶやき。
 
『…この人形があゆの願いをかなえたんだ…』
 
 私はその人のことを知らないけれど、でも、彼の表情を、言葉を思い出すと、それが嘘ではないことがわかる。
 そして、それが彼にとって大きな意味を持つだろうことも。
 
『奇跡ってそんなに簡単には起きないのよ』
 
 いつか、私が相沢君に言った言葉。奇跡を否定したかった私が。
 確かに簡単に起きることは奇跡じゃない、でも、少しでも起きる可能性があるから奇跡って言うんだ。
 可能性を否定していたのは、私の弱い心。
 願い続けることから逃げ出してしまった、私の。
 けれど、今日、私は気づいてしまった。
 信じること、願うこと、思うこと、可能性を否定しないこと。
 悲しみから、苦しみから逃げないこと、それだけが可能性を味方につける唯一の方法。
 それを教えてくれたのは、相沢君。
 そして、彼を助けることができたのは、私たち。
 
『美坂はさ、もっと自分のしたいようにしていいんじゃないか』
 
 私はもう一度考えなければ、私が本当に望むことを。
 手遅れになる前に。後悔だけしかない世界にたどり着く前に。
 こんなに弱い私を、気にかけてくれる人達がいるんだから。
 私は一人ぼっちではないんだから。
 
 静かに眼を開ける。
 冷えきった板張りの床に立つ。
 カーテンを開けて、星明かりに沈む街を見る。
 ずっと長い間見続けてきた風景。
 春の日も、夏の日も、秋の日も、今日と同じような、真冬の日にも。
 そして、隣の部屋には、同じ風景を見て、同じ時を重ねてきた大切な人がいる。
 私があらかじめ消してしまおうとした妹が。
 
 私の願い。
 それは妹を消してしまうこと?
 絶望のために絶望すること?
 悲しみから逃げ出すこと?
 
 あのちっぽけな天使の人形を手にしたときに感じたもの、心の奥底に見えたもの。
 自分の悲しい運命を小さな体で受け止めて、それでも、誰かを求めて、けして、涙を見せないで、精一杯に生きている妹。
 長い、長い時間を一緒に積み重ねてきた妹。
 その妹に私ができること。
 かけがえのない妹に、姉の私ができること。
 
 私は、ゆっくりとドアを開けて廊下に出る。
 天窓から差し込む星明かりが、わずかに廊下を照らしている。
 ドアの下から薄く灯りの漏れている部屋の前に立つ。
 一年以上、私が避けていた場所。夢にさえ見た扉。
 大きく息を吸う、ゆっくりと吐き出す。
 そして、目の前の扉を叩く、堅い木の手応えを感じながら。
 私は扉を叩く、もう一度はじめるために。
 私のこころの中にある固い氷に槌を打ち込むように。
 ゆっくりと、ゆっくりと。
 
 私は扉を叩く。
 もう一度栞を妹と呼ぶために。
 もう一度栞に姉と呼んでもらうために。
 
 
 
 
 
 
 
 
Chapter two
Reminiscence and knock in Friday night.    −回想と金曜日のノックの音
 
 
 
 
 今日もあの人に会えなかった。
 
 これで何日目だろう、あの人の笑顔を見ることができないのは。
 夕暮れの街で偶然出会った。
 学校の中庭で再び会えた。
 名前を知った。
 それからも何度か会って話をした。
 誰もいない真冬の中庭。
 昼休み、限られた時間の他愛ない話。
 あの人の笑顔、あたたかくわたしの心を満たしてくれるもの。
 
 あの人に会えないのは寂しかった。
 けれど、その寂しささえ嬉しかった。
『明日は会えるかもしれない』という思いがわたしの心を前に向けてくれる。
 それは、わたしにとって唯一の希望。
 すこしでも長くここにいたい。
 すこしでも多く、あの人と会いたい。
 たぶん、わたしは、あの人…、祐一さんのことが好きなんだろう。
 
 祐一さんに会うまでのわたしはからっぽだった。
 毎日毎日をただ、やり過ごしているだけだった。
 あらかじめ終わりを決められた時間。
 その中でどんな希望を持てというのだろう?
 何を願えというのだろう?
 
 家の鍵を開ける音がする。
 誰だろう?お母さん?お父さん?
 それとも…。
 そして、階段を上る足音。
 わたしは知らず知らずのうちに聞き耳を立てている。足音は、何かをためらうように、廊下で止まる。息を止めて、耳を澄ます。
 静寂の中に、隣の部屋の扉を開く音が響く。
『お姉ちゃん』こころの中で、もう長く口にしていない言葉を呟く。
 
『お姉ちゃん』。
 大好きだった人、わたしの誇りだった人。けれど、もう失われてしまった人、わたしの弱さのために。
 わたしが姉に望んだもの。
 救い、癒し、なぐさめ。
 けれど、何でもできると思っていた彼女にも、当然不可能なことはあって。
 わたしは、お姉ちゃんにつらい選択を強いてしまった。
 お姉ちゃんがわたしのことを見なくなったのは、そんなわたしの弱さのせい。だから、わたしには、お姉ちゃんを取り戻す資格はなかった。
 その勇気もなかった。
 
 平板な毎日だった、慣れてしまえば、つらくも悲しくもない。
 ただ、カレンダーを一日ずつ、消していくだけ。世界の終わりを待つだけ。
 ときどき、突然、涙が溢れた。そんな時は、ひとりでベッドに潜った。
 何も考えないようにした、何も感じないようにした、何も望まないようにした。
 どうせ、わたしはもうすぐ消えてしまうのだから。何かを望んでも仕方ないのだから。
 
 あの日、わたしは、選択をした。
 わたしに残された最後の可能性。
 わたしが唯一自由にできるもの、わたしの命。
 終わりを待つのではなく、自ら終わりを迎えること。
 
 悲しくはなかった。
 もう、いいよ、ただ、そんな気持ちだった…。
 
 けれども、その日、終わりになるはずだった日に、わたしはあの人達に出会ってしまった。
 出来の悪いドラマのようなシチュエーション。
 木から落ちてきた雪に直撃されるなんて…。
 今、思い出しても笑ってしまう。
 もし、神様がいたとして、すべてを知っていて、その場面を見ていたら、きっと、笑い転げていたに違いない。
 深刻な顔で歩く女の子、ふざけあう仲のいい二人、落ちてくる雪。何が起きたのかわからずに座り込む、自殺志願の女の子…間抜けだよね。
 おかしくて、涙が出てくるくらい、間抜けだ。
 
 紅い瞳が印象的な女の子、まるで子供みたいに無邪気な笑顔。
 やさしく笑っている男の人、屈託のないあたたかな笑顔。
 わたしたちは、出会ってしまった。
 
 もう、時間はないのかもしれない。
 どれだけの時間が残っているのかは、わたしにもわからない。
 でも、もう、終わりをおそれて、自分を殺すのはいやだ。
 いつか失うのをおそれて何も望まないのはいやだ。
 後悔は、いつでもできるから、今は、わたしにできることをしよう。
 あの人に会うために。
 あの人に会って、わたしの気持ちと向き合うために。
 
 明日は学校に行ってみようかな、そんな事を思う。
 
 隣の部屋のドアが開く音がする。
 お姉ちゃん、お風呂かな?、音を聞いて、ぼんやりと考える。
 廊下を歩く音が響く、けれどそれに続くはずの階段を降りる音は聞こえない。
 
 一瞬の静謐。
 
 そして、コンコンという堅い木を叩く音。
 
 わたしの扉がノックされている。
 最初は小さく、そして、次第にはっきりと。
 
 
 
 
 
 
  ★    ★    ★
 
 
 
 
 
 
 吹き抜けの天窓から星明かりが射している。
 しんと静まった廊下は、星明かりのせいで濃いブルーに染まっている。
 私は扉を叩く、ゆっくりと。
 ノックの音が、心に響く。空っぽの部屋に響く音のように。
 やがて、はい?という小さな声。
 私はゆっくりとノブを回して、扉を開ける。枕元の小さな灯り、ベッドの上、壁により掛かって本を開いている、小柄な女の子。
 柔らかい黄色の光で満たされた部屋の中で、彼女はひどくはかなげに見える。
 久しぶりに触れるその部屋の空気。部屋の入り口に立つ私を見つめる瞳、驚きと困惑の入り交じった視線。
「おねえちゃん」小さな声。そう呼びかけていいのかを逡巡しているような、消え入りそうな声。
「栞、あんまり夜更かししてたらダメだよ」
 私の口をついて出た言葉、それは、あまりに平凡で。ふたりの空白を埋めるには全然足りそうもなくて。
「お姉ちゃん」
 今度ははっきりと、その言葉を確かめるように、栞が言う。
「もう…、もう、いい加減で寝なよ」
 私の言葉は涙に溶ける。
 心を覆っていた氷が溶けだして、それが涙に変わってしまったかのように、涙が止まらない。
「うん」
 栞の声も震えている。
「…おやすみ」
 やっと、それだけ言って、部屋を出ようとする。
「お姉ちゃん」
 はっきりとした声で呼び止められる。
「なに?」
「私、明日は学校に行こうと思うんだ」
「そう、じゃあ、なおさら早く寝なきゃね」
「それで」少しの躊躇、「それで、お姉ちゃんと一緒に行ってもいいかな?」
 涙が止まらない、言葉が詰まりそうになる。
「わ、私は早く出るわよ、寝坊したらおいて行くからね」
「うん、大丈夫、お姉ちゃんを起こしてあげるよ」
 笑い顔で、目には涙をためて、栞が言う。うれしそうに。
「うん、じゃあ、おやすみ、栞」
「おやすみ、お姉ちゃん」
 
 自分の部屋に戻り、着替えを持って部屋を出る。
 温かいお風呂に入って、体をあたためる。冷えきった体はなかなか温まらない。
 けれど、心の奥には微かな灯がともっている。そして、その灯は凍てついた心を徐々に溶かしていく。
 果たされなかった約束。
 毎日一緒に登校するという、栞のささやかな願い。
 明日、私たちはその成就のために、歩き出す。
 これは、正しい一歩だろうか?
 私は正しい扉を開けたのだろうか?
 栞を、自分自身を、余計に傷つけるだけではないだろうか?
 そんな疑問が、湧きあがってくる。私はそれらを洗い流すようにシャワーを浴びる。
 
『美坂は、もっと、自分のしたいようにしていいんじゃないか』
 北川君の声が、また聞こえる。
 そう、これは私の望んだことだから。
 だから、悲しみも、つらさも、全部背負っていこう。
 どんな大きな悲しみが待っているかわからないけれど。
 きっと、逃げ出したあとで後悔するよりはいいはず。
 私を赦してくれた栞、 私のことをお姉ちゃんと呼んでくれる栞。
 栞が、あたたかい手でものに触れ、生きた言葉を紡ぐうちは、もう私は逃げ出さない。
 
 数多の後悔を乗りこえて、でも、もう一度私は歩き出すことができた。
 相沢君の、北川君の、名雪の、そして栞の助けをかりて。
 だから、その行きつく先にあるものをしっかりと受け止めなければ。
 
 シャワーの蛇口をキュッと締める。濡れた髪をかきあげ、バスルームの扉を開ける。
 
 
 
 

 
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