"Swingin' Days"  −prologue for Lover's step−


『September Excursion 〜九月の小旅行〜』

 
 
 
 
 ほんの少しの日にちが経っただけ。
 別に境界線が引いてあるわけでもないのに、でも、カレンダーが変わった途端に、空は高くなる。
 青の調子が変わる、雲のかたちが曖昧になる。
 そして、空気も変わってしまう。
 いつも思うよ、不思議だね。何があっても、誰も気にしていなくても、こうやってきちんと季節は変わってゆくんだね。

 ほんの少しの日にち。だけど、もう巻き戻せない時間。
 私たちが高校生でいられた夏は、もう終わってしまったんだね。








「香里、香里っ」
 名雪が、めずらしく慌てた様子で私を呼んだ。
 九月も半ばの頃、もうそろそろ日に焼けた肌の色もさめはじめる、そんな時期。
「どうしたの?名雪」
 授業と授業の合間。
 三年生の二学期は何となく中途半端だ。気持ちがここにないような、ずっと先の季節に行ってしまっているような、何となく、空虚な感じ。
「これ見て、香里っ」
 名雪の差し出したのは、旅行のガイドブック。その地方の、名所とか、美味しい店とか、そういったものを紹介しているようなやつ。
 そのグラビアページを示して言う。
「すっごく綺麗だよねえ。ここ」
 見ると、緑色の草原から、海を見下ろせるような場所。風の音と潮の匂いが写真からとどいてきそうな場所。
「そうね、で、これがどうしたの?」
「う、香里、反応がつめたいよ〜」
 ちょっと、名雪が口を尖らせる。
「ここ、行って見ようよ」
「えっ?」
「明日お休みでしょ。ここ行こうよ」
「行こうって…」
 名雪の手からガイドブックを取る。
 表紙を見ると、私たちの住む場所を含んだ地方のガイドブック。
“なんで、自分の住んでいるところのガイドブックなんて見てるの?”
 取りあえず、その疑問は置いておいて、名雪の示したページを見る。
 私たちの街から電車で2時間ぐらい。確かに行けない距離じゃないわね。


 気がつくと、チャイムが鳴って、名雪は自分の席に戻る。ガイドブックは私の手元に残されたまま。
 本を机に仕舞おうとして、気がつく。本の表紙、同じ写真が使われていたことに。
 風の匂いがとどいてきそうな、海を見下ろす、緑色の丘陵。








「じゃあ、北川君、明日、香里を借りるね」
「おうっ、いくらでも持ってってくれ」
「何言ってるのかしら、き・た・が・わ・く・ん」
 言葉に力を込めて彼をにらみながら言う。彼はただ笑っている。

 お互いの呼び方が変わってそろそろ一ヶ月。でも、わたしは、学校では、昔の呼び方のまま。まだ、彼を名前で呼べない。

「じゃ、相沢君、明日、名雪を借りるわね」
「ああ、返してくれなくてもいいけどな」
「う、ひどいよ、祐一〜」

 名雪が本気で涙目になっている。相沢君が慌てて何か言ってる。
“ばかっ、冗談だよ”とか、そういった類の言葉。




 相変わらずだね。
 私たちは相変わらずだ。
 ずっと、いつまでも、こうだといいね……。
















 九月の真ん中の祝日。
 週の真ん中のお休み。
 私は名雪と駅で待ち合わせる。
 私がおかずを準備して、名雪がサンドウィッチを作ってきて。
 ふたりだけの小さな旅行。初めてのちょっとした遠出。


「ねえ、名雪、どうしたのその格好?」
 綺麗な柄の淡いベージュのワンピース。手には、大きな白い帽子を持って、バスケットを提げている姿は、避暑に来ているどこかのお嬢さんみたいだった。
「えへへっ、香里とデートだからね。一番のお気に入りだよ」
 そう言って、笑う。私でも眩しく感じるような笑顔。
「ずるいわよ、ちゃんと言ってくれれば良かったのに」
 私は、デニムの普通のスカートに洗い晒しの白いBDシャツ。足元は普通のデッキシューズ。これじゃあ、差がありすぎるよね。
「ううん、香里それ似合ってるよ」
 名雪がそのままの眩しい笑顔で言う。
「そう?ならいいわ」
 名雪の笑顔を見てるとホントにそんなことはどうでもいいように思えて。
 私たちはふたりで笑いながら改札を通る。








 五つ先の駅で電車を乗り換える。
 ボックスシートに向かい合って座る。
 窓の外の風景はだんだんと郊外のものに変わっていって、ふたりとも、妙にはしゃいだ気持ちになる。


「名雪って、入学した頃、髪、短かったよね」
「うん」
 一年生の時から同じクラス。でも、最初の頃、私はあまり名雪にいい印象を持ってなかった。
 陸上で有名な女の子。中学時代の実績の噂で、入学式以来、毎日のようにクラスまで、陸上部の人が勧誘に来ていた。

“どうして、はっきりしないんだろう”

 陸上部の先輩に囲まれて、曖昧な笑顔を浮かべているショートカットの女の子を見て、私はいつも思っていた。その子の対応が気に入らなかった。




「香里は髪の毛、真っ直ぐだったよねえ」
「うん」
 入学したての頃の私は優等生を絵に描いたようで、真面目に授業を受けて、真面目にクラス委員をやって、本当に真面目に学校生活を送っていた。


「わたし、最初の頃こわかったんだよ。香里のこと」
「えっ?」
「いっつも張りつめてて、何か話しかけると、怒られそうだったよ。」


 そう、名雪はいつもそうだ。
 見ていないようで、きちんと大事なところは見ている。
 けれど、それを押しつけたりしないんだ。


「そうそう、一年の夏休みが終わったとき、面白かったよねえ」
 名雪が本当に楽しそうに言う。


 一年生の夏休み。
 その頃の私にとっては、とても大きな出来事があった。大事なものを失くしてしまった。


 ううん、“大事に見えていたもの”を、かな?
 今、考えると本当に空っぽな人だったように思えるけれど、でも、その頃は彼が私のすべてだったから。彼がいたから私は優等生でいられた。やさしいお姉ちゃんでいられた。彼は私の支えだった。
 でも、あっさりとその人は去って、私は途方に暮れることしかできなかった。
 今までの自分が全部崩れ去ったようだった。
 月並みでイヤになるけれど、その時に初めて、今の髪型にした。
 そして、それ以来ずっとこの髪型だ。


「先生とか、すっごい慌ててたよねえ」


 そう、実際、それは自分が思っていた以上の反響で、クラスの一部の人たちや幾人かの先生たちは露骨に私を避けるようになった。
 彼らのイメージ「優等生」という枠からはみ出してしまった私。その私にみんなは戸惑うばかりで、私自身も戸惑っていて、周囲との距離感がうまく掴めない、そんな感じだった。

 正確に言うと、その時クラスで私に話しかけてくれる人はいなかった。
 今、目の前でうれしそうに笑っている、この人を除いて。


「ねえ、名雪、あの時、私になんて言ったか憶えてる?」
「うーん」
 人差し指をこめかみにあてて、考える仕草。
 本当に忘れているのか、わざと忘れているフリをしているのか。
「わ、美坂さん似合うねえ。その髪型」
 私はその時の名雪の口調を真似て言う。そして、ふたりで笑う。
 人が必死の思いで学校に来ているのに、気の抜けるようなのんびりした調子でそう言われて、力が抜けるような笑顔でそう言われて、私は、気を張りっぱなしだった自分がバカらしくなった。
 そして、私たちは友達になっていった。
 名雪が髪を伸ばしはじめたのはその頃からだ。


「あ、香里、海が見えたよ、今」
「えっ、どこどこ」


 ふたりで列車の窓に張り付く。
 開け放した車窓からは、ほんの少しの潮の香りをのせて、涼しい風が吹き込んで来た。







「本当に綺麗なところねえ」
「来て良かったねえ」


 駅から歩いてたっぷり30分ぐらい。
 秋の高い空の下でも、少し汗をかく位の距離。
 でも、目の前に開けたこの風景を見たらそんな距離なんて気にならなくて、何も言葉はなくなってしまう。
 見える限り続く緑色の丘陵。その一端は切り落とされたようになっていて、黒い岩肌を覗かせている。岩肌の落ち込む先には、青い海。
 風が吹いて、草がざわめく。緑色の波のように。
 高い空に鳥が飛んでいる。翼を広げて、高いところを滑るように。
 海には白い波。波は黒い岩肌にあたって、白い飛沫を立てる。
 夢みたいな風景。夢で見るような風景。


 名雪が駆け出す。長いスカートを風になびかせて、長い髪を風になびかせて。
 緑色の波の中で、踊るように舞うように。
 ひとつ強い風が吹いて、名雪の手から帽子を奪う。帽子は空高く舞い上がって、まるで、翼を広げた鳥のように高く高く舞い上がって、どこか、遠い先へと運ばれてゆく。






「お気に入りの帽子だったのに…」
 ふたりでシートの上に座って、私たちはお弁当を広げた。
 名雪のサンドウィッチはとても美味しくて。でも、名雪はさっきから少し沈んだまま。
「ねえ、名雪、私の作ってきたのも食べてよ」
 小さく頷く、子供のような悲しげな表情。
「朝早く起きて作ったんだからね」
 ゆっくりと名雪が手を伸ばし、私の作ったおかずを口に入れてにっこりと笑う。
「美味しいよ〜、香里ぃ」
「でしょ」
「うん」
 大きな笑顔。




「あの帽子、祐一と一緒に買いに行ったんだよ」
「部活のこととか、あゆちゃんのこととかいろいろあって、なかなか祐一とは出かけられないんだよ」
「ホントに久しぶりにふたりで買い物に行ったときに、あの帽子を見つけたんだよ」
 ふたりで、シートに並んで座って、季節はずれだからだろうか、人影はほとんど無くて。
 遠くの方で、家族連れが犬と遊んでいるのが見える。大きな茶色い犬。じゃれあうように犬にまとわりつく子供たち。

 やさしく吹き抜ける風。
 風に運ばれる草の匂い。
 ほんの少し混じる潮の香り。

「すっごく気に入ったんだけど、お小遣いが足りなくて、ずっと見てたら、祐一が言ってくれたんだ」
「俺も協力してやるよ、って」
 膝を抱えるようにして、そう言う名雪。
 その姿は、子供のようで、真剣な顔は妙にかわいくて。
「ねえ、名雪、相沢君は怒るかな?」
「えっ?」
「帽子が風に飛ばされた、って知ったら……」
「…相沢君は怒るかな?」
 名雪の悲しそうな顔がゆっくりと笑顔に変わって。
「ううん、怒らないと思うよ」
「私もそう思うわ」
 わたしは微笑みながらそう応える。

「ね、香里」
 しばらくの静寂の後、名雪がやさしい声で私の名前を呼ぶ。
 私は名雪の顔を見る。
「香里はいっつもやさしいね」
 そう言って笑ってくれる。
「そうかな?」
「そうだよ」

 もし、そうだとしたら、それはあなた達のおかげだね。
 私がこうしていられるのは、名雪があのとき話しかけてくれたから、相沢君があのとき私の背中を押してくれたから、栞が、ずっとそばにいてくれるから、そして、彼が、私を好きだと言ってくれるから。
 私がやさしくなれるのは、あなた達のおかげだね。


 たぶん、そうだよ。


 きっと、そうだよ。


 間違いなく、そうだよ。

















 電車の心地よい揺れ。
 どうしてかな、こういうときの電車の揺れは、妙に眠気を誘う。
 ふたり、ボックスシートに並んで座って。
 ふと気づいたら眠っていたみたい。
 ふたりで頭を寄せ合うようにして、ちょっとの間、眠っていたみたい。
 私はゆっくり体を起こして、窓の外へと視線を移す。右の肩には、名雪の重み。名雪の髪の毛から、ほんの少し、風の匂いがする。
 草の匂いと潮の香りをふくんだ、あの場所の風の匂いがする。


『名雪は、なんで髪伸ばすことにしたの?』
 仲良くなってからしばらくたった頃、名雪の髪の毛が私と同じくらいになった頃。
 私は、そう訊いたことがある。
 名雪は少し寂しそうな、悲しそうな色を瞳に浮かべて。
『わたしも前に進まなきゃなって、思ったからだよ』
『香里と友達になれたからね、前に進めるなって思ったんだよ』
 そう言って、笑った。


『長い髪だと子供の頃を思い出しちゃうから。祐一と一緒の時間にいた頃を思い出しちゃうから』
『だから、髪を短くしてたんだよ』
 名雪がそれを話してくれたのはつい最近のこと。
 それを聞いて私は思ったよ。
 もし、相沢君がこの街に帰って来なかったとしても、きっと、名雪は自分で決着をつけたんじゃないかなって。
 かなしい思い出を受けとめることができたんじゃないのかなって。
 そういう強さを名雪は持っているから。持っていると思うから。
 もちろん、本当はどうだったのかは永遠にわからないけれど。
 だって、相沢君は帰ってきてくれたからね。

 今も名雪の隣にいるからね。


 それは、きっと、素晴らしいことなんだよね。


 そうだよね?名雪。




 窓の外は夕暮れ。
 オレンジ色の空。
 空一杯に広がる、まるで翼を広げたような白い雲。
 その雲の色がオレンジ色から、紅へと変わってゆく。
 ゆっくりとゆっくりと。けれど、確実に。
 その色の変化は厳かさすら漂わせて、なぜだか、私の胸の深いところへと響いてくる。 私は、目の端に涙が浮かんでるのに気がつく。


「きれい、だね」
 私の顔のすぐ近くから声が聞こえた。
 名雪が目を開けて、窓の外を見て、そう言った。
 名雪の瞳も、紅の空を映して、表現のしようがないような色に染まっている。
 深い青に、透明感のある紅色が混ざったような色。とても、人為的にはつくり出せないような色。
「ね、香里」
「なに?」
「わたしは、香里が好きだよ」
「香里と友達になれてよかったよ」
「香里が遠いとこに行っちゃわなくてよかったと思うよ」
 静かな声、こころにしみいるような、やさしい声。
「もし、あのとき、あの冬に、香里が遠くに行っちゃってたとしたら」
「わたしは二度と笑えなくなってたかもしれない」
「…そう思うよ」


 私はどうすればいいだろう?
 何に感謝すればいいのだろう?
 こんなにもやさしい人と親友になれたことを。
 こんなにもあたたかい人がそばにいてくれることを。


 私はそれを伝えなければ。この人にそれを伝えなければ
 私はうまく伝えられるだろうか?私の気持ちは通じるのだろうか?


「ねえ、名雪」
 私の肩に軽く頭をあずけたままで、名雪がそっと顔を上げて私を見る。
 夕焼けは列車の中までも紅に染めて、その色はすっかり濃さを増している。
 もうすぐ、夕焼けが夜にとってかわられる時刻。
「これからどこか遠くに離れてしまうことがあっても」
「もし、二度と会えなくなってしまったとしても」
「私は絶対に名雪を忘れないわ」
「名雪は、ずっと、私の友達」
「名雪はずっと、私を支えてくれると思う」


「……本当にありがとう」
 
「……名雪」


 見ると、また、名雪は目を閉じいて。
 …でも、たぶん、寝たふりだね。
 たぶん、恥ずかしくなってしまっただけ。
 …それ位はわかるわ。
 だって、私たちは友だちだから。


















「よう、香里、栞ちゃん、おはよう」
「どなたですか?」


 九月の高い空。
 不思議だね、ほんの2週間で、こんなにも空の高さが変わるんだね。


「あはは、おはようございます。北川さん」
「おうっ、おはよう、栞ちゃん」
「栞、知らない人と話したらダメよ」


 何度も同じ繰り返し。
 春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、また春が来て。


「栞ちゃん、お姉ちゃんは怒ってるみたいだな?」
「ええ、怒ってるみたいですよ。北川さん」


 でも、けして同じ時間は巡ってこない。
 それは、かなしいことかもしれないけれど、それを、さみしいと思うこともあるかもしれないけれど。
 でも、私たちにはわかっているわ。


「えっと、取りあえず謝った方がいいと思いますよ。北川さん」
「俺も、そう思ってたところだ。栞ちゃん」


 それは、一度きりだから大切なこと。一度きりだからこそ価値があるもの。
 ずっとずっと、終わらない旅のように。


「香里、ごめん」
「あら、潤、いたの?」


 ずっとずっと、続いてゆく旅のように、同じときが再び巡り来なくても、きっと、さみしくはないわね。
 だって、思い出は、いつも私の中にあるから。
 ずっとずっと、私と一緒だから。


 あははっと、栞が笑って、彼が少し苦笑をして、私も顔を綻ばせる。


「いくらでも持ってっていいって言ったわよね」
「いや、あれは、言葉の綾ってやつでな」
「ふーん、そう、潤は私がいなくなってもいいんだね」
「ばか、いいわけないだろ」
 彼が真顔で言って、ふたり少し見つめ合って。


「えっと、わたし先に学校行ってようか?お姉ちゃん」
 栞が困ったような口調で言う。
 私たち、ふたりで顔を紅くして、妙に照れくさくなってしまって。
「いや、一緒に行くぞ、栞ちゃん」
 なんだか不自然な彼の言葉で、とにかく学校へと歩き出す。






 そうだね、思い出だけじゃないよね。
 これからも、あなた達がそばにいて、いくらでも思い出を作っていけるから、一緒に旅を続けられるから。






「よ、おはよう、おふたりさん。プラス、栞」
「祐一さん、プラスって、何となくイヤなんですけど」
「ははっ、まあ気にするな」
 校門を入ってすぐ、名雪と相沢君に会う。
「おはよ〜、栞ちゃん、香里ぃ、北川君」
「おはよう、ふたりとも」
「相沢は怒られなかったのか?」
 彼があいさつもせずにそんなことを言う。
「何がだ?」
 相沢君が問い返す。
「ねえ、相沢君」
 私は笑顔で呼びかける。
「なんだ?美坂」


「名雪に帽子を買ってあげてね」








 ひとつ強い風が吹く。私たちの間を吹き抜ける。
 帽子をさらったのと同じ風。
 遙か彼方へと旅をする風。


―――風のたどり着くところには、いったい何が待っているのだろうか。








【初出】1999/8/9 Key SS掲示板
【修正】1999/8/10、2000/12/17
【Inspired by】
 「休まない翼」−Zabadak。  
 それと、1999年8月9日の夕焼け。

 HID


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