"Swingin' Days" −Lover's step−
『dissonance』
ほんの小さなできごと、それがきっかけになってすべてが変ってしまうことがある。
たったひとつのコマ。それが配置されることでガラッと様相を変えてしまう、オセロゲームの盤面のように。
パタ、パタ、パタ、パタ。
コマは裏返されて、今まで白だったものが黒になってしまう。
大切だったものがあっさりと失われてしまう。
「じゅん、ねえ、じゅんっ」
誰かが俺を呼んでいる。
体が揺れる感じがする。船に乗っているような感じ。電車の中で立っているときのような感じ。
「潤、起きて」
あれ、母親か?
そう言えば、母親に起こされるのも久しぶりだな。
あれ、俺は何で、母親に起こされないで起きるようになったんだ?
そう言えば、大事な何かがあった気がする。
意識の中に何かがゆっくりと像を結ぶ。それはとても大切な何か。
……ゆっくりとぞうをむすんでゆく……。
「潤っ」
“ぱしんっ”という小気味のいい音と一緒に、俺は現実の痛みを感じる。
眼を開けると、静寂と本の匂いに囲まれた場所。
少し湿った、少しかび臭いような、本が吸い込んだ時間の匂いのする場所。
そして、眼の前には、丸めた問題集を持って俺を睨んでる女の子。
「…香里、痛い…」
「痛いように叩いたからね」
ちょっと拗ねているような口調で、口を尖らせるようにして香里が言う。
「わるい、また、寝てたか、俺?」
「寝てたか?じゃないわよ、今日会ってから起きてる時間の方が圧倒的に短いわよ」
「わるい、昨日も遅くてな」
「ねえ、潤」
途端に声音を変えて香里が言う。静かな声、やさしい声。
「あまり無理すると、体こわすよ」
本当に心配そうな表情。
つきあい出してからわかったことがある。香里には本当に“お姉ちゃん”が染み付いているということ。いつも相手を気遣い、いつも相手の心配をして、そして、いつも相手の気持ちを優先してしまう。
たぶん、そんな自分を知っていて、それを他人に押しつけるのが嫌で、普段はクールさを装っているんだと思う。
いつか栞ちゃんが言ってた。
『お姉ちゃん、ときどき言うんですよ、私ってホントにおせっかい焼きだわって。そして、すごく深いため息つくんですよ。わたしはそういうお姉ちゃんが好きだよって言っても、栞に言われてもねえ…って言って、また、ため息つくんですよ』
学校からの帰り道、たまたま、栞ちゃんとふたりになったとき。
『失礼ですよねえ。わたしに言われてもとか言うの』
そう思いませんか?と言って、俺の方を見た栞ちゃんの顔には、けれど、とびきりの笑顔が浮かんでいた。
俺はうらやましくなった。深いところでお互いを理解しているふたりが、とても自然にお互いを認め合っているふたりが、きっと、それは積み重ねた時間の重み。
ふたりが長い長い時間を共有してきたことの証明。
だから、俺はとてもうらやましかった。
「それにねえ、失礼でしょ。せっかくふたりで…」
言い出したときの勢いが嘘のように、語尾が消える。
「ふたりで?」
俺はわざと問い返す。
「何でもないわ。もう閉館の時間よ」
怒ったふりをしてみせて、香里は勉強道具を自分のバッグに乱暴にしまう。
―――もうひとつわかったこと。
香里は照れ屋だ。
それも、かなりの。
☆
私と潤は、並んで図書館を出る。そろそろ街灯に灯が点る、街はそれぐらいの明るさ。空気にはほんの少し甘い匂いが混ざって。
「おっ、いい匂いがするなあ」
「ええ、金木犀ね」
「私、この匂い好きよ」
閉館の時間。ちょっと前まではこの時間でも蝉が鳴いていたのに、そのことが嘘のように、辺りは薄暗い。
空の端から中空へと繋がるグラデュエーション。紅の混じった紺色から、濃い紺色へと徐々に変わっていく空。
やがて、すべてが、濃い色に支配されて、この街は夜へと沈んでいく。
吹く風に、少し冬の冷たささえ感じるような、そんな季節。そろそろ、秋の真ん中の時期。
ふたり並んで信号を待つ間。
「潤、これ」
私はカバンから取り出して、予備校のパンフレットを潤に渡す。
「お、ありがと」
受け取ったその場で、潤がパンフレットを開く。
もうすぐ中間試験。
だから、今日はふたりで図書館に来た。
ふたりで勉強をするために。
最近の潤は以前と違う。
一緒に勉強していても、集中しているのがよくわかる。ときには、今日のように寝てしまったりするんだけど。でも、それも、前日の勉強のせい。
なにか、目標が見えているような、そんな感じ。真っ直ぐに前を見ているような、そんな感じ。
私はときどき不安になる。私だけ置いていかれてしまうんじゃないかと不安になる。
だから、まだ彼の志望校も聞いていない。
理系の学科っていうのは聞いてるけど、具体的になにをしたいのか、どこで勉強したいのかを聞いていない。
信号が青に変る。私たちは、並んで歩き出す。
「何の講習受けるつもりなの?」
歩きながら、でも、パンフレットから目を離さない、潤。彼の手元のパンフレットを覗き込むようにして、私は訊ねる。
「ああ、数学と物理だな」
真剣な声、さっき図書館で寝ぼけていたのが嘘のよう。
「ふーん」
「英語は?」
「ああ、英語はいいよ、いい先生がいるから」
そう言って、私に笑顔を見せてくれる。
―――私は複雑だよ。
もし、私があなたに英語を教えて、あなたが大学に受かって、そして、私を置いてどっかに行ってしまった、私はどうすればいいんだろう。
すごく寂しくて、すごく不安で、でも、それをあなたに言えない。
こわいから、訊けない。
訊くとすべてが崩れてしまいそう。
だから訊けない……。
☆
大きく息を吐いて、俺は伸びをする。
机には広げた問題集。図書館から帰ってきて、晩飯を食べて、風呂に入って、机に向かった。
ふと時計を見る。そろそろ日付が変ろうとする時間。
伸びをした姿勢のまま、手を頭の後ろに組む。壁のカレンダーに眼を移す。赤い矢印を引かれたところまでもう一週間もない。 二学期の中間試験。
試験の最終日の少し後、青いペンで丸をつけられた日。
大切な日。
大切なあいつの誕生日。ふたりで迎える初めての誕生日。
ずいぶん身近に感じるようになった、あいつ。
ずいぶん小さく感じるようになった、香里。
それは魔法がとけた結果なのだろうか?
それとも、新しい魔法のせいなのだろうか?
あいつの虚勢、あいつの真実。
ときには、わざと騙されたり、ときには、本当に気づかなかったり。
あとになって思い出して、そこに込められた思いに気づいたり。
ひとつひとつ壁を越えて、ひとつひとつヴェールを剥がして、あいつのホントに近づけているのだろうか?
俺は香里をきちんと見ているだろうか。
“さて”
俺は姿勢を戻して、心の中でつぶやく。
もう少し頑張るかな。
最近の俺は、自分でも不思議なほど勉強に身が入る。
香里はきっと大学に受かるだろうからな。
俺だけが浪人だと立場無いしな。
そう思って、勉強をはじめた。やってるうちに勉強自体が面白くなってきた。本当に意外なことだった。
そして、なんとなく、自分のやりたいことが見えてくる気がした。
―――いずれにしても、すべてはあいつのおかげだけどな。
☆
家に戻るとちょうど夕食の時間だった。
玄関の扉を開けると、居間の方からいい匂いがした。懐かしい記憶を喚び起こすような 夕餉の匂い。こころを包んでくれる団欒の匂い。
お姉ちゃんお帰り、と栞が笑顔で迎えてくれて、それが合図のように母さんが料理を運んできた。
わたしも手伝ったんだよ、と少し誇らしげな栞の表情。一瞬、目を細めて、栞を見た母さんの表情。
不思議だね。
あんなにも望んでいたものが、当然のようにここにある。
「ね、お姉ちゃん、美味しくなかったかな?」
栞が心配そうに言ってくれる。
私はさっきからあまり箸がすすんでいない。
「ううん、そんなことないわよ、うまくできてると思うわ」
そう言って、私は料理に手をのばす。
「香里、具合悪いんじゃないの?顔色良くないわよ」
母さんの少し心配そうな声音。
「うん、ごめん。ちょっと、部屋で横になってくる」
栞が心配そうな視線を私に向ける。
「大丈夫、ちょっと、疲れただけだから」
どちらへともなくそう言って、私は階段を上った。
ベッドの上に横になる。手を伸ばして、枕元のステレオのスイッチを入れる。デッキに入れっぱなしにしているテープが回り出す。
しんとした空気で満たされた部屋。
ほんの少し金木犀の匂いがする。それは気のせいだろうか?
やがて、アコースティックギターのやさしいカッティングが始まる。
少しかすれた声が流れだす。かすれていて、でもやさしい男の人の声。こころの奥底から発しているような声。静かに世界を満たしてゆくような、力を湛えた声。
『香里、これ聴いてみろよ』
あの人がくれたテープ。
『すごく、いいからさ、これ』
今では空っぽだったように思うけれど。
『俺、もう何十回聴いたかわかんないくらいだよ』
でも、あの頃の私には彼がすべてだったから。
だから、宝物のように彼がくれたテープを持ち帰って、なにかの儀式のように毎朝、毎晩、聴き続けた。
最初の頃は、全く良さがわからなかった。
からみつくようなリズムと、裏打ちのビート。なんだか、しまりのない歌声。
全然趣味ではない音楽だったけれど。
でも、彼に話を合わせたくて、一生懸命聴いた。その音楽の良さがわかれば、彼の気持ちが少しでも理解できるかと思って。
―――そうだね。
そう、今考えたら笑ってしまう。
―――空っぽだったのは私の方だ。
『お、香里、何かあったのか?』
高校受験のために通っていた学習塾。そこで私は、彼と知り合った。彼はそのとき大学生になったばかりで、塾の講師のアルバイトをしていた。
『ここ、よくわかんなかったんですけど』
細い銀の縁の眼鏡、背の高いやせた人。少し、自信なさそうに、でも、とてもやさしく話す人だった。
『ちゃんと聞いてたのか?授業』
なぜか、私はその人に惹かれて、本当はわかっているのに、授業が終わってからわざわざ質問をしにいったりした。
彼は、いつもやさしく笑っていた。授業中よりも、やさしく話してくれた。
私はいろんな話をした。
栞のこと、自分のこと、クラスのこと、勉強のこと。
彼は、笑って聞いてくれた。
そう、私はただ誰かに話をしたかっただけ。正直な村人がその重さに耐えかねて、木のうろに秘密を吹き込むように。
ただ、自分のことを聞いてほしかっただけ。
彼のことをきちんと見ていなかった。
ねえ、先生、聞いて、今日、栞がね…。
ねえ、先生、今日、学校でね…。
ねえ、先生、私、高校生になったらね…。
いつも、話しかけるだけ。彼は、そんな私の言葉たちに、きちんと答えを返してくれた。
そう、まるで行儀のいい、壁のように。
私は、ただ彼を相手に、テニスの壁うちをしてただけなんだね。
言葉をボールにして、気持ちをラケットにして。
高校生になって、私がその塾をやめると、私たちは外で会うようになった。
彼は、塾で見るのよりは、リラックスしているように見えた。でも、私は相変わらず。
彼が何か言いたそうにしているときにも、待っていることができなかった。
私は誰かに支えてもらいたかったんだと思う。
誰かに褒めてもらいたかったんだと思う。
『ああ、香里はよくやってるね』と。
そう言ってもらわないと、自分の役割を果たせなくなっていたんだと思う。
よい、お姉ちゃん。
先生のお気に入りの優等生。
人当たりのいい、明るい性格。
そういうものに疲れていたんだと、今では思う。
彼のくれたテープをそれこそ伸びてしまうくらいに聴いて。ようやくその音楽にも馴染んできた頃、彼は、この街を去ってしまった。
別れの言葉もなく、別れの手紙もなく、ただ、ふっといなくなってしまった。
彼がアルバイトをしていた塾の人に訊いてみた。
家の事情とか何とか、煮えきらない答えが返ってきた。
そして、私は髪型を変えた。
そして、私は名雪と友達になった。
そして、私は少しずつ、今の私になっていった。
最近、潤とつき合うようになってから、ときどき彼のことを思い出すことがある。
そして、彼に謝りたい気持ちになる。
きっと、彼も私に伝えたいことがあったはずなのに、もっともっと、いろいろ話をすればよかった。
もっともっと、ゆっくりと時間を過ごせばよかった。
もっと、もっと、あなたを見なきゃいけなかったんだね……。
コンコンとノックの音がして。
「お姉ちゃん、大丈夫?」という、栞のやさしい声。
私はベッドから体を起こして答える。
「ありがとう、大丈夫よ」
ステレオのスイッチを切る。
彼にこころの中で語りかける。
『ごめんね、また同じ間違いをするところだったよ』
ベランダへ出るための窓を開け放つ。
気持ちのいい風。冷たい手の感触のような風。
そして、はっきりと金木犀の香り。
☆
「潤、学校でしょ、さっさと起きなさい」
母親に乱暴に起こされる。
見ると、時計はもう余裕のない時間を指している。
俺は大急ぎで、制服に着替える。
手早く、顔を洗い歯を磨いて、家を出る。
「朝ご飯くらい食べて行きなさい」とか、なんとか母親が言ってたけれど、俺には朝飯よりも大事なことがあった。
いつもより早く歩く。腕時計を見ると、微妙な時間だった。
いつもの曲がり角を曲がる。
真っ直ぐにのびる道。俺と同じ制服が目立つ道を、遠くの方までチェックする。
今日は間に合わなかったか。
いつもの背中、ふたつ並ぶ背中は視界に入らなかった。
「おはようございます」背後から、元気よく声をかけられる。
ビクッと反応して振り返ると、ばかでかい一年が立っていた。
「なに、朝から、肩落としてるんすか?北川先輩」
屈託なく笑ってそう言ってくる、背の高い一年生。
「なんだ、藤井かよ」
「北川先輩、朝はおはよう、ですよ」
相変わらず屈託がない。なにを考えているのか、なにも考えてないのか。
「ああ、ああ。おはよう」俺は半ばやけ気味にそう応える。
「なに、拗ねてるんすか?」
そして、俺たちは、並んで歩き出す。
なんで、朝飯抜いてまで、野郎と学校行かなきゃいけないんだろうな。
そんなことを考えていると、“ぱしん”っと小気味のいい音とともに、頭に痛みを感じる。
振り返ると、香里が笑ってる。隣で、栞ちゃんも口を押さえて笑ってる。
「おはよっ、潤」
呆気にとられてる俺に、香里がにっこりと笑って言う。
「おはようございます。凶悪な登場の仕方っすねえ」藤井が笑いながら言う。
「おはようございます、北川さん」
栞ちゃんも笑いながら言う。
「はい、これ、昨日忘れたパンフレット」
香里が、丸めて持っていたものを差し出す。俺は、まだ言葉を発することができずに、ただそれを受け取るだけ。見ると、英語のカリキュラムがのった予備校のパンフレット。
「なんだ、これ?」
やっと、それだけ言う。
「見ての通りよ」
相変わらずの笑顔で香里が答える。
「いや、俺、英語は香里に…」
言いかける俺を遮って。
「いい、潤。志望校も決まってないような人には勉強なんか教えないからね」
俺の前に人差し指をつきだして、香里が言う。
俺は、少しの間考えて、あいつの言葉を頭の中で何度か繰り返して。
そして、こう応える。
「じゃあ、相談にのってくれるか」
「うん、もちろん」
すぐに返ってくる笑顔。
少しの間そうやって見つめ合っていると。
「えっと、そろそろ、走らないと間に合わないけど、私たち、先に行ってようか?お姉ちゃん」
栞ちゃんが言う。
俺たちは照れながら、学校に向かって駆け出す。
秋の高い高い空の下。
やわらかさを増した太陽の下。
俺たちは学校に向かって走りだす。
私たちはいろんなものをなくしてゆくよね。
大切なもの。
大切でないもの。
なくしてから大切だと気づくもの。
それは、ホントにつらいことで、ときには何もかもイヤになってしまう。
でも、そんなときでも、顔をあげてちょっと周りを見てみよう。
きっと、私たちの周りには、たくさんのものがあるはずだから。
新しい何かが、きっと私たちを待ってるはずだから。
ほんのひとつのきっかけですべてが変わってしまう。
そういうことは確かにあるけど。
でも、それで、すべてが終わりじゃないよ。
たぶん、それは、はじまりなんだよ。
失敗しても、何度でも何度でも、はじめればいいんだよ。
ね、そうだよね、潤。
【初出】1999/8/11 Key SS掲示板
【修正】1999/8/12、2000/12/21
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