"Swingin' Days" interlude
『だいじょうぶ、と彼女は言った』

 
 
 
 
 
 かすかにエアコンディショナーの音が聞こえる。
 カリカリカリという、シャープペンシルの音。
 ページを繰る紙擦れの音。
 そして、方々で漏れる小さな溜息。
 
 
 つくられた不自然な静寂。
 居心地が悪かったこの空間にもいつの間にか慣れてしまって、ここにいる時間に安息さえ感じている自分に気づく。
 
 
 それは、それだけの時間をここで過ごしたということ。
 そう、だけど、それはほんの一部分。
 ここが安息の地である理由のほんのひとつの側面に過ぎない。
 
 ふと、問題集から目をあげる。
 視界の片隅に感じた違和感。
 聴覚に訴えてきた微かな音。
 
 窓の外を見る。
 さっきまでの晴れ上がった夏の空が嘘のように分厚い雲に覆われて、大粒の雨がゆっくりと落ちだしてきたところ。
 まるでなにかの序曲のように、雨粒のひとつひとつに荘厳さすら漂わせて。
 
 道路を叩く雨音がかすかに耳にとどく。
 雨の匂いまでとどく気がする。
 それは、暑い空気を鎮めるような、夏の日々を洗い流すような秋の到来を予感させるような、少し寂しげな匂い。
 昔どこかで嗅いだことのある、雨の匂い。
 
「香里、雨だぞ」 
 俺は窓の外に視線を向けたまま呼びかける。
 返事がない。
「香里、雨降ってきたぞ」
 もう一度繰り返しながら、隣に視線を移す。
 シャープペンシルを持ったままの右手で頬杖をついて纏めた髪から小さな耳を覗かせて長い睫毛を伏せて眠る表情。
 思わず息をのんでしまうほどに小さな耳は頼りなく少し傾けられた鼻梁と、伏せられた長い睫毛ははかなくて手を触れることがはばかられるようなそんなあやうい美しさ。
 
 
『ねえ、じゃあ、私がお昼のお弁当作っていくよ』
 もう何日になるのだろうかふたりでこの図書館に通うようになってから。
『ずっと、外食だとお金が続かないでしょ?』
 にっこりと笑って、あいつがそう言った。
 それで、ふたりでお金を出しあってそれを弁当の材料代にしてあいつが弁当を作ってくれてそして、ふたりで、弁当を食べる。
 あいつの手作りの弁当。
 それを作るための時間とたぶん、それと同じくらいの気持ちの重みが詰まった弁当。
 
『なあ、香里、毎日こんな弁当作るの大変だろ?』
 開館前の席取りの行列その行列の中で並んで立つ俺たち。
 あいつの肩には大きなトートバッグその中には、勉強道具とふたり分の弁当と。
『ううん、だいじょうぶよ』
 やわらかく微笑んで。
『私、こう見えても料理得意だから、それに、わりと手際もいいしね』
 そう言った。
 
 
 どこまでが冗談で、どこからがホントなのか。
 どこまでが強がりで、どこからがホンネなのか。
 
 いつでも、俺たちの会話はそんな風でいつでも、俺たちの『ホント』はふわふわとしていて頼りなくて。
 でも、なんだかそれが心地よくてふたりでそんな曖昧な世界にいるそれがなんだか幸せで。
 
 
 
 俺は左手で頬杖をついて静かな寝息をたてて眠る小さな女の子を見ている。
 こんなに小さくて頼りないそんな感じを香里から受けることをそういう風に香里を見ることを想像もしていなかった季節に思いを沈めながら。
 
『美坂はさ、もっと自分のしたいようにしていいんじゃないか。 本当に自分のしたいことをして、自分の言いたいことを言って』
 心まで凍りついてしまいそうだった、あの季節。
 時間さえ凍りついていたかもしれない、あの季節。
 どうしても、あいつに近づけなかった、俺が言った言葉。
 どうしても、あいつの壁を越えられなかった、俺が言わざるを得なかった言葉。
 それくらいにあいつは張りつめてピンッと張られた細い糸のようでいつ切れてしまうのかと心配だった。
『いや、よくわかんないけど、最近の美坂、あまり笑わないし、無理してるように見えるからさ』
 俺の言葉を聞いてあいつがどんな表情をしたのか、俺の位置からは見えなかった。
 ただ、そのあと目をあげたときのあいつの瞳が印象的だった。
 冬の星々のように鋭い光を映してとても悲しげではかない光を映してそれでも、なにか先にあるものを見ようとするような。
 抱きしめていないと消えてしまいそうなそんな、あやうげな、この上なく美しい表情。
 美しくてかなしい表情。
 
 つめたい空気の中に、白く浮かび上がったあいつの言葉。
『ありがとう、でも大丈夫だから』
 何でも自分で抱え込んで何でも自分で解決しようとして、涙さえ流せずに冬の星のように、かなしいくらいの光を放つあの頃のあいつは ほんとうに綺麗だった。
 綺麗だったけれど、二度と見たくはない。 
 俺はそう思う。
 あいつのために何も出来ずにあいつの壁を越えようともせずにこの手を差しのべることさえ出来なかった、あの頃の俺。
 だから、今こうして隣にいれるのならばもしその必要があるならば俺は今度こそは手を伸ばそうと思う。
 しっかりとその手をつかんで、 けして離さないようにしよう。
 俺はそう思う。
 
 
 
 
 小さな吐息をもらしてあいつの長い睫毛がゆっくりと動く。
「おはよう、香里」
 子供のような表情。無防備な表情。
 ここがどこかはかりかねているような、 頼りなげな表情。
 その表情のままっくり俺を見てゆっくりと口を開く。
「おはよう、潤」
 
「寝てた?私」
 
 俺はただゆっくりと頷くだけ。
 小さな微笑みを浮かべて。
 
 
 
 



 やがて、閉館時間が来てふたり並んで図書館を出る。
 外に出ると、既視感のような雨上がりの匂い。
 秋の予感を微かにはらんだ雨上がりの空気の匂い。
 
 
「全然、進まなかったわ、勉強」
 あいつが大きく伸びをしながらそんなことを言う。
 黒い半袖のポロシャツデニム地の長いスカート、茶色の編み込みの太いベルト。
「ま、あれだけ気持ちよさそうに寝てればな」
「潤、ずっと見てたの?」
「ああ、寝てるときは起きてるときよりかわいいなあ、と思ってな」
「あ、そう、そういうこと言うの」
 あいつが少し怒ったような声音をつくって。
「じゃあ、明日からはお弁当無しね」
 そう続ける。
「ああ、いいよ」
「えっ?」
「弁当抜きでいいよ」
「えっ、でも」
 なにかを心配するような表情、真剣な表情。
「美味しくない?私のお弁当」
「ばか、そんな訳ないだろ」
「でも、お弁当いらないって…」
 少し小さな声。
「俺のために香里に負担はかけたくないって事だよ」
 俺はできるだけやさしい口調でそう言う。
「せっかく図書館に来て、寝てたらもったいないだろ?」
「だから、弁当にかける時間を減らしてくれよ」
「私は、だいじょうぶ…」
 そう言いかけた香里を遮って。
「大丈夫じゃないだろ」
 そう言って、微笑みかける。
 少し考える間があって。 
「うん、大丈夫じゃないね。じゃあ、2日に一回にするわ、お弁当」
 そう言って、笑ってくれる。
 俺のためだけに笑顔をくれる。
 
 
 
 どこまでがホントで、どこからが冗談なのか。
 どこまでがホンネで、どこからが強がりなのか。
 
 何が甘えで、何が献身なのか。
 何が愛情で、何が恋なのか。
 
 全然はっきりとはしないけれど俺たちはこれでいいんだと思う。
 あいつが”だいじょうぶ”と言ってくれるうちは俺があいつの”だいじょうぶ”を受けとめていられるうちは。
 たぶん、俺たちはこんな感じでいいんだな。 
 そういう風に俺は思うよ。
 
 
 
 

 
 
【初出】1999/8/7 Key SS掲示板
【修正】1999/8/8、2000/12/17


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