”Swingin' Days”
−Lover's step−
『Many Rivers to Cross』
右手を見ている。
薬指に光る銀のリング。
飾り気のない、なんでもない、銀の指輪。
ホームルーム後のざわついた教室。
もう既に、夕方を連想させる弱々しい陽光が射し込む窓際の席。
手を裏返したり、表にしたりしながら、右手の薬指を見ている。
「おい、美坂、行くぞ」
そう呼びかけられて振り返る。
「邪魔して悪いけどな、幸せそうなところ」
そう言って、笑っている相沢君。
「えっと、何かあったっけ?今日」
「アルバム委員会だろ」
あ、そうか。
結局、クラスの仕事を引き受けたんだった。
卒業アルバムの製作委員。
今年は、クラス委員をしてなかったから、どこか、後ろめたい気持ちがあったんだと思う。
ふふっと、笑ってしまう。
やっぱり、委員体質なんだね。
自分のことをやろうって決めたのに、でも、やっぱり、こういう仕事を引き受けてしまう。
変われない自分が少しおかしかった。
教室を出るときに見ると、潤は名雪と何か話しているところだった。
−−−−−−−−−−−−−−−
「なあ、美坂、思い出し笑いは止めろよ」
「えっ、笑ってた?私」
「ああ」
クラスからふたりずつのアルバム委員、もうひとりは相沢君。
無理やり、決められたみたいだけど、でも、結構、真面目に仕事をしている。
この学校にいた時間の短さ、積み重ねた時間の軽さ、それを埋めようとしているのかもしれない。
「ま、幸せなのはいいことだけどな」
「相沢君は幸せじゃないの?」
会議室へ向かう廊下。
部活に急ぐ人、自宅に帰る人、友達を探して歩く人。
それぞれの目的に向かう人通りの多い廊下を並んで歩く。
私の問いかけに、一瞬、真顔になって、
「いや、これが幸せじゃないって言ったら罰が当たるだろうな」
そう答えた彼の声は、でも、すこし沈んでいた。
−−−−−−−−−−−−−−−
アルバム委員会といっても、そんなに忙しいものでもない。
去年の卒業アルバムを基本にして、どこを変えるのか、どこを変えないのか。
そういった退屈な議題が続く。
私の18回目の誕生日から四日が経って、期限は明日にせまっていた。
担任の石橋先生の言葉。
「美坂、この推薦受けてみないか?」
それは、私が受験しようと思っていた学校の、受験しようと思っていた学科。
「まあ、俺としては、美坂には東京の大学とか受けてみてもらいたいんだがな」
家から通える学校。
私の選んだ選択肢。
「でも、美坂が考えた結果だろうからな、なら、この推薦受けてみたらどうだ?」
その場では、少し考えさせてください、と言った。
ああ、一週間後に答えを聞かせてくれればいいから、と先生は言った。
もちろん、親との相談もある。
でも、もっと気にかかっていたこと。
まだ、聞いていない潤の志望校。
−−−−−−−−−−−−−−−
「まあ、いろいろ面倒くさいもんだなあ」
ため息混じりに相沢君がこぼす。
委員会が終わったときには、もう、部活も終わるような時間だった。
「そうね、でもこんなものよ」
美坂は、こういうの慣れてるんだよなあ、と言って、大きく伸びをしている。
昇降口へと向かう廊下。
昼間と違う、しんとした、校舎。
話す声が、不思議な響き方をする。
「相沢君は大学どうするか、もう決めたの?」
伸びの姿勢のままで、答えをくれる、声が少しくぐもっている。
「ああ、俺はたぶん美坂と同じ大学だ」
そう、東京には帰らないんだね。
よかったね、名雪。
相沢君が側にいる、それは素晴らしいことだよね。
あなたにとっては。
昇降口を出る。
遠くに見える山々、その境目だけに今日の最後の陽の光が残っている。
オレンジ色の、残り火。
闇に染まりはじめた空に白い月が浮かんでいる。
西の空に輝く星がある。
「一番星」
「えっ?」相沢君に問い返される。
「ほら、あそこ」
「ああ、一番星か」
ははっと、笑って。
「一番星なんて言葉、久しぶりに聞いたな」
その笑顔は子供のように屈託がなくて。
「こころに余裕があるのかもな、今の美坂は」
私を見て、相沢君が言う。
「えっ?」今度は私が問い返す。
「こころが満たされてないと、周りの風景っていうのは見えてこないもんだろ」
「そうかしら?」
「そう思うぞ」
「そうかもね」
そう言って、少し微笑む。
相沢君が目を細めて、私を見ていた。
−−−−−−−−−−−−−−−
机に頬杖をついて、右手で持ったリングを見ている。
裏返したり、表にしたり。
机のスタンドの灯りに鈍く光る銀のリング。
くるくると回しながら。
私の思考のように、私の手の中で、くるくると回る、銀の指輪。
”なあ、美坂”
校門のところで、別れのあいさつをした。
そのあと、呼び止められた。
”北川に何か聞いたか?”
街灯が背になって、相沢君の表情が見えなかった。
”何を?”
彼の顔は淡い闇に覆われていた。
”俺が言うのは、お節介かもしれないんだけどな、”
”あいつ、東京の大学受けるみたいだぞ”
黙っている私を確認するような間があって。
”はっきりと言ってたわけじゃないけどな、いろいろ東京のこと訊いてきたからさ”
また、少しの沈黙。
”わるい、俺の勘違いかもしれないな”
”ううん、自分で確かめてみるね”
それだけ言うのがやっとだった。
気がついたら、先送りにしていた質問。
訊くのがこわかった、逃げないつもりでも、できれば、訊きたくなかったから。
でも、そんな願いはかなうはずもなく。
私は、ちゃんと、確かめなければ。
彼が東京に行く。
遠い場所、すぐには会えない距離。
それが彼の選択だったとしたら、
私はどうすればいいだろう。
私に必要な時間、この街を、再び受け容れるために。
過去の自分を受け容れるために。
そのために、私はここに留まることを選んだはず。
その選択を変えるべきなのだろうか?
彼の近くにいるために。
回していた指輪を止める。
指に戻して、立ち上がる。
クローゼットからコートを取る。
ドアを開けて外に出る。
大切な選択をするために。
−−−−−−−−−−−−−−−
ホームルームが終わって、教室が喧噪に満たされる。
今までとは少し種類の異なる喧噪。
どことなく緊張を含んだ、どことなく名残りを惜しむような。
もうそんな時期。
あと二ヶ月弱の二学期を終えると、それぞれが、それぞれの選択で、それぞれの道を進みはじめなければならない。
あたりまえのように過ごしていた、この教室での時間が、ちっともあたりまえなものではなかったことに、みんなが気づきはじめる、そんな時期。
机の中に溢れかえる教科書やノートの中から、必要なものだけを選ぶ。
選び出したものを鞄の中に入れる。
その作業が終わって目をあげると、いつもの場所にあいつの姿がなかった。
探すともなく、教室の中に視線を泳がせる。
相沢と並んで教室を出ていく後ろ姿が目に入った。
ワインレッドの制服の背中、肩胛骨を少し越えるウェーブのかかった、光沢のある髪。
すらりと伸びた脚。
ふと、俺の腕の中にあった時の、あいつの体の感触が甦ってくる。
「顔、緩んでるよ、北川君」
そんな言葉に現実に引き戻される。
「緩んでたか?水瀬」
隣を向いて話しかける。
「うん、すっごく緩んでたよ」
顔一杯の笑みで言ってくれる。
「なあ、今日は何かあるのか?今、相沢と香里が一緒に出てったけど」
「うん、アルバム委員会があるって言ってたよ」
ああ、そうか、そんなことを聞いた気がする。
「アルバム委員会か...」
「そう、アルバム委員会」
何とはなしに、水瀬と見つめ合う。
沈黙で見つめ合った時間が妙におかしくて、ふたりで吹きだしてしまう
「じゃあ、帰るか、水瀬」
「うん」
鞄を手にとって立ち上がる。
−−−−−−−−−−−−−−−
「香里はともかく、相沢がアルバム委員っていうのも意外だよな」
放課後の生徒達で混み合う時間。
昇降口への廊下を並んで歩く。
「うん、でも祐一、結構、張り切ってたよ」
俺は、委員を選出したときの情景を思い浮かべる。
香里は、まあ、いつもの調子で、”仕方ないわね”という表情を浮かべて委員に決まったことを容認していた、けれど、相沢は、最後まで文句を言ってたように思う。
「なあ、水瀬、相沢って嫌がってなかったか?委員になるの」
俺は自分の疑問をぶつけてみる。
「ううん、あれは、そんなに嫌がってないんだよ」
あれでか?
「そうなのか?」
「うん、そうなんだよ」
笑顔を俺に向けてくれる。
靴を履き替えて校庭に出る。
午後遅い時間、もう夕方と言っても差し支えないような陽光の弱さ。
体に感じる風も、もう冬の訪れを告げるように冷たくて。
俺は、ふと、今までここで過ごしてきた冬に思いをはせる。
「ねえ、北川君は受ける学校決まったの?」
俺の隣、いつもの位置より少し下から聞こえる声。
香里の方が、水瀬より少しだけ背が高い。
「ああ、大体な」
「それって、家から通えないところ?」
俺はその質問にどう答えようかと戸惑う。
まだ、俺の中でも固まっていない答え。
けれど、確実に俺の心のある部分はそこに向かっていて。
香里と離れるかもしれない可能性を差し引いても、その選択肢の魅力は大きかった。
「それって、東京の学校なの?」
水瀬の方に向き合う。
真剣な表情。
その気持ちまでわかる気がする。
香里のこと、
俺と香里のことを案じているに違いない、その気持ち。
「いや、まだはっきりとはしてないんだけどな」
俺はつい、水瀬から目をそらせてしまう。
答える声も曖昧になってしまう。
「そう」
「そうなんだ」
顔を伏せる水瀬。
周りを通り過ぎる生徒達の話し声。
運動場の方から聞こえる部活のかけ声。
音楽室から聞こえてくる、練習の音。
「香里とは話したの?」
小さな声で投げかけられる質問。
俺が、無意識のうちに先送りにしていたこと。
「いや、まだだ」
「そう」
一瞬の沈黙。
「早く話した方がいいと思うよ」
北川君もわかってると思うけどね、とつけ加えて、
顔を上げて、笑顔をつくって。
「きっと、香里も気にしてると思うよ」
俺は返す言葉も見つからず、ただ頷くだけ。
寂しくなるね、北川君が東京に行っちゃったら、と校門のところで言われた。
まだ、受かるって決まったわけじゃないよ、と返した。
ダメだよ、受からなきゃ、と言われた。
きっと、香里もそう言うと思うよ、と言った水瀬の表情はすこし悲しそうだった。
−−−−−−−−−−−−−−−
予備校の教室。
講師が板書する音だけが響く。
先送りにしてきた決断。
俺の中に生まれていた、自分でも意外な感情。
自分の勉強したいことが見つかったことの喜び。
だけど、そのためにはこの街を出なければいけない。
それは、この思い出で満たされた街を出て、俺の大好きな女の子を置き去りにして、
それでも、選ぶほどの価値があることなのだろうか?
自分がしたいと思うこと。
自分が選んだ道。
はじめて見つかった、自分の答え。
何でも相談してくれと、あいつは言った。
たぶん、それはあいつの本心。
けれど、あいつがこの話題を避けていることもわかっていた。
そのことに甘えて、俺もこの話題を避けていた。
こわかった、幸せな日常が崩れてしまうことが。
やっと、手に入った、ふたりの毎日が壊れてしまうのではないかと。
少しの間、眼を閉じる。
あいつの姿が脳裏に浮かぶ。
いろんなあいつ。
澄みきった冬の夜の空気の中で立ちつくしていた姿、
雪解けの中庭で声もなく泣いていた姿、
春の太陽の下で、妹の隣でうれしそうに笑っていた顔、
台風の中で幻のように見た泣き出しそうな心配顔、
そして、ついこの前の雨の日に、俺の腕の中で泣いていたあいつ。
そう、答えは出ていた。
俺があいつと並んで歩きたいと望んだときに。
きっと、それは動かしようのない答え。
−−−−−−−−−−−−−−−
予備校の帰り道。
真っ二つに切られたような白い月が、中天への道をたどる時間。
吐く息は白く、剥き出しの手に夜気の冷たさがしみてくる。
俺は電話ボックスに入ってかけ慣れた番号を押す。
手にしたプラスティックの受話器にも夜気の冷たさが染み込んでいる。
三回...四回目のコール。
受話器を取る音。
はい美坂です、という声。
たぶん、栞ちゃんだな、そう思いながら名前を告げる。
「あ、北川さん、こんばんわ、お姉ちゃん、今、ちょっと出てるみたいですよ」
というライン越しの声。
香里とよく似た声、それは、電話越しに聞くと本当によく似ていて、でも、最近はその微妙な違いでさえ聞き分けられるようになっていた。
「そうか、じゃあ、電話あったこと伝えといてくれるかな」
「はい」
香里よりほんの少しだけ、甘い声。
受話器をそっとフックに戻す。
扉を開けて外に出る。
ひときわ明るい星が目につく。
月があるのとは逆の方角。
−−−−−−−−−−−−−−−
ドアを開いて家に入る。
「ただいま」
家の中のあたたかい空気に包まれる。
リビングのドアが開く。
「潤、おかえり、たった今、美坂さんから電話あったわよ」
母親がそう告げる。
「ああ、わかったよ」
香里が家に帰ってきたのかな、と思いながら答える。
靴を脱いで、家にあがる。
「晩ご飯は?」
「食べるよ」
俺の答えを確認して、母親がリビングの扉を閉める。
足下に鞄を置く、廊下にある電話の受話器を取る。
今日、二回目の番号を押す。
五回目の呼び出し音の途中で相手が出る。
「はい、美坂です」
また、栞ちゃんだな。
「あ、北川です」
「あれ、北川さん、まだお姉ちゃん帰ってないですよ」
少し怪訝そうな声色。
何かが、俺の頭の中のキーを叩いた気がした。
「さっきからずっとだよな?」
「さっきからずっとですよ」
もし、帰ってきたら電話をもらえるように伝言をして受話器を置く。
鞄をそのままに、もう一度靴を履く。
ドアを開けて、外に出る。
ドアが閉まるとき、母親の声が聞こえた気がした。
−−−−−−−−−−−−−−−
私の家から程近い公園。
初冬の澄んだ空気の中に噴水の色が透明感を増している。
月明かりさえ映し込みそうな透明感。
私は常夜灯の下のベンチに座ったまま、その噴水を見ている。
彼は、まだ予備校から帰ってなかった。
時間的にはそろそろ戻っていてもおかしくない頃。
まるで、私の躊躇いを反映しているかのように、うまく繋がらない、私と彼のライン。
でも、今日、話さなかったら、また、この話題を先送りにしてしまいそうな気がした。
だから、もう一度電話をしてみようと思っていた。
薄手のコートでは、長い時間外にいるのをつらく感じるほどの夜気のつめたさ。
角度を増す、半分の月。
その白さは、もう冬のもので、私はふと、ここで過ごしてきた、たくさんの冬の記憶に囚われそうになる。
つらい記憶も多いけれど、それさえも懐かしく思い出せるようになりかけているような、
そんな気がしている。
あの、冷たい雪に覆われた中庭の風景や、病室の窓から見た灰色の街の風景でさえ、
懐かしい思い出に変えてしまえそうな、そんな気がしている。
”こころに余裕があるのかもな、今の美坂は”
甦る相沢君の言葉。
そう、たぶんそう、彼がいてくれるから、今の私はしっかりと立っていられる。
でも、もし、彼が遠い場所に行ってしまって、ひとりになってしまったとしたら、
私はつらい記憶を思い出に還してゆくことができるだろうか。
ここに、ひとりで残ることに意味はあるのだろうか?
もう一度、月を見上げる。
白い月、その半身をどこかに置き忘れてきてしまったかのような半月。
そして、私は思い至る。
答えはずっと前に出ていたことに。
もう逃げださないと決めた、あの遠くて、暗い冬の夜に。
ベンチから立ち上がる、もう一度電話ボックスに向かう。
彼と話をするために。
冷たい手をコートのポケットに入れて。
−−−−−−−−−−−−−−−
全力で走って、たっぷり十分強。
俺の今の体力では、ほぼ限界の距離。
あいつの家に程近い公園。
夏に花火で驚かされた公園。
冬に向かってだんだん人影の少なくなる、噴水のある場所。
走ってきたおかげで、寒さはほとんど感じなかった。
ただ、顔や耳に痛さを感じていた。
右手で耳を押さえる、冷えきっていて、自分のものじゃないみたいだった。
派手に白い息をまき散らしながら、公園に入る。
目に入る限りでは、人影はなかった。
ところどころにあるベンチを見て回る。
東屋の下、噴水に面した場所、常夜灯の下。
どこにも人影はなかった。
ここだと思ったんだがな...。
俺の推測が失望に変わる頃、ふと、目をやった電話ボックスの中に人影があった。
見間違うはずもない後ろ姿。
電話ボックスの照明の中、その輪郭が少しだけ淡く見える。
俺は、駆け寄って、扉を叩く。
驚いた顔、
俺を見つめる瞳、
ゆっくりと変わる表情、
驚きが溶けて、淡い笑顔に変わってゆく。
俺の大好きな笑顔に変わってゆく。
−−−−−−−−−−−−−−−
さっきまで、座っていた常夜灯の下のベンチ。
そこに、ふたりで並んで座る。
空気がつめたさを増したような気がして、コートの前をかき合わせるようにする。
潤はじっと、地面を見つめている。
制服のポケットに手を入れて。
少し背を丸めるようにして。
「ねえ、潤」
私は、自分の思考を忠実に言葉にしようと努力する。
少し顔を上げた視線の先にある、白い半月を見つめながら。
「志望校は決まったの?」
ちょっと息を飲むのが聞こえた気がした。
潤が何も言わないのを確認して、言葉を続ける。
「東京の学校に行くの?」
視線を彼に移す。
彼も私を見ている。
私は普通の表情を保てているだろうか。
「香里」
ようやく彼が口を開く。
「俺、やりたいことが見えてきたんだよ」
静かな声、はじめて聞いたような気がする、力に満ちた声。
「はじめて、これを勉強したいっていう気持ちになった」
自分の言いたいことを確認しているような間。
「それを勉強できるのは東京の大学なんだよ」
迷いのない声。
私は一瞬、眼を閉じる。
涙を封じ込める。
揺れる気持ちを封じ込める。
ずっと前に、大切な人を拒絶するために使ったこころ、
それを、今度は、大切な人が前に進むための”ちから”に変えよう。
私が前に進むための”ちから”にしよう。
そう念じる。
「香里と離れるのは...」
「よかったね、潤」彼の言葉を遮る。
彼の瞳を見ながら言葉を続ける。
「勉強したいことがあるなら、それは素晴らしいことだと思うよ」
「それを勉強できる場所があるなら、そこに行かなきゃ」
彼は言葉を遮られた、そのままの姿勢で聞いている。
「英語もある?」
突然の質問に呆気にとられている彼。
「その大学って、受験科目に英語もあるの?」
ああ、英語と、数学と、物理で受験するつもりだ、と彼の答え。
「そう、じゃあ、英語は任せてね」
えっ、と疑問の表情を浮かべた彼に言う。
「英語は、私が全力で教えてあげるからね」
にっこりと笑う。
にっこりと笑ったつもり。
たぶん、ちゃんと笑えたと思う。
−−−−−−−−−−−−−−−
香里の笑顔。
たぶん、ぎりぎりの笑顔。
半分の月が放つ光に照らされた、全力の笑顔。
綺麗な、とても、綺麗な、限界の笑顔。
俺の背中を押してくれる...。
「でも、自分の勉強もあるだろ?」
俺の発した質問が、白く宵闇に漂う。
「ごめんね」
とつぜんの言葉、俺は香里に疑問の表情を向ける。
「ごめん、相談しようと思ってしそびれてた」
そう言って、香里が話し出す。
「私、推薦を貰えそうなんだ」
「受けようと思ってた大学、行きたかった学科」
「石橋がね、”美坂なら十分、推薦受ける資格あるぞ”って言ってくれた」
言葉を切って、小さく息を吐く。
「正直、ちょっと、迷ってた」
「もし、潤が東京の大学に行くなら、私もそうしようかと思った」
「でもね、」
「きっと、それは違うんだよ」
「私は、それを選べない」
俺を真っ直ぐに見つめる瞳。
常夜灯の明かりを映し込んで、少し潤んでいるように見える、濃紺の瞳。
「それを選んでしまったら、大切なものを置き去りにしてしまう」
「この街に、この街で積み重ねた大切な時間を、永遠に置き去りにしてしまう」
「そんな気がするんだ」
「だからね、」
「私は、推薦を受けて、最初に決めてた大学に行こうと思う」
ね、いいよね、潤。
そう言って、俺の手に自分の手を重ねる。
冷たい手、でも、大切なことを感じさせてくれる、柔らかい手。
「そうか」
一緒に東京に行けるかもしれない、頭のどこかでそう思っていた。
その淡い希望が消えてしまったことへの、かなしさと、
香里が自分自身を見失わないでいてくれた、ということへのうれしさと。
その両方がない交ぜになった、複雑な感情。
その感情のもつれを断ち切るように笑いながら、俺は言う。
「じゃあ、遠慮無く教えてもらっていいんだな」
「英語」
あいつが笑顔をくれるなら、俺は笑顔を返さなければ。
「うん、遠慮なく、教え込むからね」
もう一度あいつが笑う。
−−−−−−−−−−−−−−−
半身をどこかに置き忘れてきたかのように、
綺麗な半円を描く白い月。
その姿はあまりに自然で、そのかたちこそが真の姿であるような、
そんな印象さえ与えるほど。
その月も、もうすぐ中天に達しようかという頃。
「ねえ、潤、その格好じゃ寒いでしょ?」
見れば、彼は制服のままで。
「ああ、来るときは走ってきたからな、あまり気にならなかったけど、じっと座ってると寒いな。」
「じゃあ、今日はもう帰ろうか」
「そうだな」
ふたりで、同時にベンチを立つ。
彼に右手を差し出す。
「なんだ?」
「手、繋ごう」
「手?」
「そう、手、繋いで帰ろうよ」
彼が少し照れくさそうに私の手を握る。
冷えきった手、けれど、私の気持ちをやさしく包んでくれる、素敵な感触。
「がんばらなきゃね」
「何をだ?」
「なんだと思う?」
ふたり、手を繋いで歩き出す。
ふたりの会話が、宵闇の中に白く流れて消えてゆく。
「何だ、教えてくれよ」
「そうね、いつかね」
不満気な彼の顔。
きっと、これからも、私の心は揺れると思う。
揺れ続けて、ときには、涙を流すかもしれない。
潤と離れること、潤が遠い場所に行ってしまうこと、
それに直面したときに、泣かないでいられる自信はない。
でも、私は、私の気持ちも大事にしたい。
ここにいること、この場所で、時間を受け止めること。
それは、私がしなければいけないことだから。
それをしないと、私は私でなくなるかもしれないから。
「ね、潤」
繋いだ手をわざと大きく振って、子供のように大きく手を振って、
歩きながら、潤の顔を見る。
「落ちたら承知しないからね、大学」
そう言って、笑顔をつくる。
彼に見せたい、一番の笑顔をつくる。
【初出】1999/8/21 【修正】1999/8/24
すいません、かなり加筆修正しました。
その時点ではベストのつもりだったのですが...。
どうにも、悔いの残るSSだったりします。
いくらかは良くなったと思いますが...。
HID 1999/8/24
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