Swingin' Days
Lover's step

 
 
Last Christmas
  〜1〜
 
 
 
 
 
クリスマスの頃。
赤と緑の季節、教会の扉のリース。
木々を飾るイルミネーション、ショーウィンドウの中のクリスマスツリー。
街はすっかり雪に覆われて、街を歩く人々も、それぞれのスピーチバルーンを離さず連れ歩くような季節。
本来なら、心が落ち着かなくなるような時期。
何かを期待して、そわそわして。
期待と違うことが起きて、少しがっかりしたりして。
 
 
でも、今はそんなこと言ってられないのかな。
高校三年生の12月。
受験の追い込みの時期。
本当ならね。
でもね。
私は少しわがままを言おうと思う。
クリスマスにはいい思い出がないから。
ここで、みんなで過ごすことができる最後のクリスマスかもしれないから。
名雪や、相沢君や、栞や、藤井君。
そして、もちろん、潤と、みんなで共有できる最後のクリスマスになるのかもしれないから。
 
 
 
 
――――――――――――――
 
 
 
 
『心配したんだよ、香里』
『うん、ごめんね、本当に大丈夫だから』
 
終業式の次の日、私が学校を休んだ次の日の名雪からの電話。
もう少しで大丈夫じゃなかったのかもしれないけど、でも、私はまた何とか踏みとどまれたよ。
たぶん、それはあなたのおかげでもあるんだね。
そんな感謝の言葉を心に浮かべながら、でも、口には出さずに。
 
『人の心配より、自分の勉強のこと心配した方がいいんじゃないの?』
『う、』
 
絶句。
受話器の向こうの表情まで見える気がする。
きっと、眉間に少ししわを寄せて、困ったような顔で。
 
『何かあったら、遠慮なく言ってね、私が教えられることだったら』
『うん、遠慮なくお願いするよ』
きっと、今は笑顔だね。
 
『じゃあ、そろそろ切るね』
『うん、ありがとう、名雪』
 
 
結局のところ、あんなに危うかった気持ちが嘘のように、今の私の心は凪いでいた。
生活には少しの変化があった。
私は、両親の勤める病院でアルバイトを始めた。
簡単な事務とか、お使いとか、そういった仕事。
空いてる時間には相変わらず予備校に行った。
潤が講義に出ている時間には、ひとりで自習室にいた。
英語の原書を辞書を片手に読み進む。
 
集中して、勉強や仕事をする。
そして、ふっと精神を弛緩させる。
そんなときに、潤のことが自然に思い浮かぶのがうれしかった。
 
そう、思わず笑顔をこぼしてしまうほどに。
 
 
 
 
――――――――――――――
 
 
 
 
講義の終わりを告げるベルが鳴る。
それを合図に、ふっと、教室の空気が緩む。
さすがに、この時期になると、講義中の教室の空気は緊張感に支配されている。
机の上のテキストやペン・ケースを鞄に放り込む。
席を立ってひとつ伸びをする。
腕時計を見る。次の講義まではひとコマ、空きがある。
自習室へと向かう。
その場所に行けば、きっと、真剣な表情で辞書を繰る香里の姿を見ることができるはずだ。
 
あの日から、冷えきった教室で香里を抱きしめたあの日から、一週間以上が経っていた。
クリスマスが近づいていた。
 
 
 
『ねえ、潤』
少し前の香里との会話を思い出す。
『クリスマスの日、講義あるよね?』
『ああ、いつも通りだな』
『終わってから、時間ある?』
『夜なら大丈夫だと思う』
『そう、じゃあ予約ね』
『予約?』
『そう、予約』
 
他の予定入れたら怒るよ、と言って、まあ、そんなことないと思うけど、と笑った。
その笑顔には陰がなくて、俺の心を落ち着かせてくれた。
 
 
 
混雑した自習室の入り口に立って、中をぐるっと見回す。
壁際の席に香里の姿を見つける。
けれど、その姿は思い描いていたのとは違って。
隣の女の子と何かを話しているところだった。
見覚えのある女の子。
どうしてだ?という思いのまま、入り口に立ちつくす俺を呼ぶ声がする。
 
 
「あ、北川君」
 
小柄な女の子。
きりっとした、気の強そうな眉。
強い光を放つ瞳。
ずっと前から知っている表情。
理恵が、香里の隣に座って、俺を呼んでいた。
香里も、小さく手を挙げている。
顔には中途半端な笑顔が浮かんでいた。
俺はゆっくりと二人に近づく。
 
「講義終わったの?」
香里が中途半端な笑顔のまま問いかけてくる。
まだ事情が飲み込めないまま、俺は香里の言葉に頷く。
「久しぶり、北川君」
理恵が屈託なく笑って、聞き慣れた声で、聞き慣れない呼び方で俺を呼ぶ。
「なんで、理恵と香里が一緒にいるんだ?」
俺は、ようやく口を開く。
「友達だから」
理恵がすぐに言葉を返してくる。
「友達って、お前、香里のこと知らないだろ?」
「知ってるよ、北川君の彼女でしょ」
香里は曖昧に笑っている。
そういえば、こういう香里を見ることってあまりないな、と、その表情を見ながら思う。
「さっき、友達になったんだよね?」
理恵が俺の視線の先を追うようにして、香里を見て言う。
「うん」
仕方なくといった感じで、答える。
「理恵、お前なあ....」
「いいでしょ、昔馴染みの友達の彼女と話したいと思ったって」
俺の言葉を遮るようにして理恵が言う。
「それとも、なにか聞かれるとマズイこととかあるの?」
いたずらっぽい瞳。
 
理恵と顔を合わせるのは、あの日以来だった。
最後に涙をこらえていた表情がどこかに引っかかっていた。
予備校の自習室や食堂で何とはなしに、その姿を探してみたりした。
けれど、あれから一度も会わなかった。
今、あのときとはまるで違う、昔の、中学生の頃そのままの表情の、目の前の理恵を見て。
そして、俺は、思い至る。
「なにも、マズイことなんてないさ」
「それにな」
理恵の瞳を見つめ返して、言う。
「その“北川君”っていうの止めろ、気持ち悪いから」
一瞬、虚をつかれたような色がその瞳を過ぎって、
理恵がにっこりと笑う。
そして、言う。
「わかったよ、潤」
 
 
 
 
「元気なやつだろ?」
「うん、とっても」
理恵は、次の講義に出るために教室に向かった後。
香里と並んで座る自習室の喧噪の中。
頬が火照るくらいの人いきれ。
俺は紙コップのコーラに手を伸ばす。
 
「でも、知らなかったよ、潤に昔、彼女がいたなんて」
口の中のコーラを吹きだしそうになる。
驚いた顔で香里を見つめる。
「いや、そんなんじゃないぞ」
慌てた口調になってしまう。
「ふーん」と言って、頬杖をついたまま俺を見ている。
瞳にさっき理恵の瞳の中に見たのと同じ種類の光がある。
「なんだよ、ふーんって」
「別に、言葉通りよ」
そう言って、さて、勉強でもしよう、と原書に目を移す。
 
俺はしばらく香里の姿を眺めた後で、仕方なく、自分もテキストを開く。
タイミングを見計らったように香里が言う。
 
「でも、少なくとも、潤はあの子好きだったでしょ?」
そして、俺の表情を見てくすくすと笑う。
 
 
 
 
――――――――――――――
 
 
 
 
――面白かった。
 
彼が講義に行ってしまった後、自習室の混雑に身を置いて私はさっきのやり取りを反芻する。
潤がああいう風に慌てるのを久しぶりに見た気がする。
ちょっと前までは、当たり前のようなやり取り。
私が彼をからかって、彼が少し慌ててみせて。
いつでも私は余裕がある態度で。
そんなやり取りを、いつのまにか忘れてしまっていた。
 
 
それは二人の関係が変わったせい?
私に余裕がなくなったから?
ううん、違うね、余裕なんて最初から無かったもの。
ただ、少しの距離があっただけ、私と彼との間に。そして、他のみんなとの間にも。
 
 
距離、結局はそれが大事なんだと思う。
人にも縄張りの意識があって、自分の周囲何十センチかに、他人が入ると落着かなくなる。
そんな話を聞いたことがある。
だから、満員電車なんかは、見知らぬ他者と否応も無く密着しなくてはいけない、ああいう混雑は、人の本能のバランスを破壊してしまう。
 
逆に、長い間そばにいると、たとえば、教室で席を並べていたりすると、知らず知らずのうちに、その人に好意を持つことがある。
好意、という言葉が適当じゃないなら、こう言い換えることもできると思う。
『その人を受け容れることができる』と。
 
人の好意なんていうのは、そういうあやふやな根拠に基づいているものに過ぎない。
そういう言い方もできるかもしれない。
人を好きになる理由なんていうのは、後からついてくるもので、
結局のところ、動物としての本能を超えることなんてできない。
それが正しい答えかもしれない。
 
でも、やっぱりあなたと私が、こうやってそばにいることは特別なことで。
やっぱり、そこには、本能を越えた形而上的な繋がりがあるはずで。
それを信じたいと思う人たちが、あるいは、それが何かを見つけることができた人たちが、
その繋がりに名前をつけたのかもしれない。
「縁」と。
 
 
 
 
「ね、邪魔かな?」
 
突然の言葉に思考を中断される。
見るとさっきの女の子が立っている。
何冊かのテキストと淡いグリーンのプラスティックの書類入れを抱えて。手には濃いブルーの傘を提げて。
身長は栞と同じくらいだろうか。
思考に沈んでいた私は反応が遅れてしまう。
 
「考え事?」
 
返事を待たずに私の隣に座って、屈託の無い明るい声で問いかけてくる。
 
「ええっと、うん、そんなようなもの」
 
私は曖昧に答える。
ふーん、と言って、机の上の書類入れの上にテキストを置いて。
そして、少しの間。
これから口にすることの内容を確認しているような間。
 
「ね、さっきの話だけどね、」一度言葉を切って、「ホントに友達になれないかな?」
 
唐突な申し出に、私の顔には疑問符が浮かんでいることだろう。
ちらっと私の顔を見て。
 
「まるっきり、変なヤツだね、これじゃ、わたし」
 
ね、と言って、もう一度私の表情をうかがう。
「そうね」と曖昧な笑顔を返す。
また少しの間。
 
「事情があるんだよ」
 
「あなたのこと知りたいんだ」
 
机の上で組んだ自分の細い指を見ながら、さらっと言う。
けれど、声は真剣な色を帯びていて。
だから、私は答える。
 
「香里、」
 
「えっ?」
 
「香里って呼んで、私のこと」
 
言葉の意味を噛み締めるような間があって、そして、表情がゆっくりと笑顔に変わる。
 
「理恵」
 
「ん?」
 
「わたしのことは理恵って呼んで」
 
どうやら、名雪とは違う種類の新しい友達ができたらしかった。
 
 
 
 
――――――――――――――
 
 
 
 
「なあ、香里、24日はどうする?」
 
予備校の帰り道。
最後のコマの講義を終えて外に出ると、夜はすっかり街を覆っている。
そんな季節。
 
「ごめん、24日は予定があるんだ」
 
「そうか」
 
夕方まで降っていた雪は止んで、けれど、ダークグレイの雲はその質感を持って、
何かきっかけさえあれば、いつでも白い欠片を地上へともたらす準備があることを誇示している。
 
歩道に積もった雪が、屋根に積もった雪が、それ自体が光源であるかのように淡い輝きを放つ。
雪明かりの中の横顔が綺麗だ。
隣を歩く女の子を見て思う。
ともすれば酷薄な印象を与えていた両の瞳の怜悧な輝きも姿を消して、
今、そこには俺の隣が地上で一番居心地のいい場所だと言わんばかりの安息の色が見える。
それは、本当にうれしいことで。
そんな種類の喜びがあるなんて、今まで思いつきもしなかった。
 
 
「訊かないの?」
 
穏やかな声に、現実に引き戻される。
 
「ん?」
 
「24日、何をするか訊かないの?」
 
俺は黙って香里の顔を見る、その言葉の真意を測るように。
 
香里が、口元に微笑みを浮かべて、でも、はっきりとした口調でこう言う。
 
「私は理由を訊いてほしいよ」
 
俺はその口調に圧されるようにして訊ねる。
 
「24日どうするんだ?」
 
うん、と頷いて、「栞と家で過ごそうと思うんだ」そう言う。
 
今度は俺が頷く。
 
「何で栞と過ごすか訊かないの?」
 
相変わらず口元には微笑みが浮かんでいる。
気がつくと、商店街を抜けて、街灯がまばらになる住宅街へとさしかかる。
香里の表情を照らすのは、ただ淡い雪明りのみ。
 
「何でだ?」
 
問いかけを催促したにも拘らず、香里は沈黙に落ちる。
俺は、そっと、香里の右手を取る。
バックスキンの手袋をした手をぎゅっと握る。
ふと、香里が足を止める。
何でもない道の、何でもない場所。
街灯と街灯の合間の、誰かの家の塀の横。
うすぼんやりとした、黒ともグレイともつかない色の中。
こういう透明感のある暗色をなんと表現すればいいのだろうか。
 
 
「去年のクリスマスは雪が降ってた」
足を止めたままで、ゆっくりと口を開く。
「ねえ、まだ一年しか経ってないんだね」
 
そっと、瞼を閉じる。
伏せられた長い睫毛が微かに震える。
 
「ねえ、はっきり憶えてるよ、栞の顔」
 
「去年のクリスマス、」
 
「栞はこう言ったんだよ“わたしには、知る権利があると思うよ”って」
 
「“何も知らないままで消えていくのは嫌だよ”って」
 
「ぞっとするぐらい暗い瞳だった。部屋の空気が重くなったみたいだった。本当に息苦しくなった。
呪ったよ。なんで、私たちにはこんなクリスマスしか与えられないのかって」
 
気がつくと、香里の頬に涙の粒が見えた。
俺は手袋を外して、す、と、その涙を拭う。
冷たい頬、つるりとした肌。
奥底の官能中枢に訴えかけてくるような感触。
 
「でも、」
 
「でも、今はあのクリスマスでさえ大事に思えるよ」
 
香里が自分の頬に触れている俺の腕をそっと掴む。
目を開けて微笑む。
瞳は潤んでいた。
けれど、そこには悲しみの表情はなかった。
 
「ちょうど一年だから」
 
「だから、栞と過ごそうと思う」
もしかしたら、栞に断られるかもしれないけどね、と言って笑う。
 
「ああ、“わたし、彼と約束してるから”とか言われるかもな」
俺も笑って言う。
「それは、少し悲しいな」
香里が答える。
そして、はは、シスコンかもね、そうつけ加えて、楽しそうに笑った。
 
ひとしきり笑ったあとで、真顔になって。
「どうなんだろう、彼、いるのかな?」
「いや、俺に訊かれてもな」
「そうだよね」
「そうだろ」
 
そんな言葉を交わして、ふたり、不自然な姿勢のままで、もう一度、笑いあう。
俺は手袋を外した右手を香里の頬に当てて、香里はその腕を左手で軽く掴んで。
冷たい空気が二人を包む。
でも、その空気でさえ、俺たちの間には入ってこれないような気がしていた。
自分の中の暗闇を俺に話してくれる香里がいれば、それを受け止めることができる俺でいられれば、
俺たちが冷たい闇に囚われることは無いと思えた。
 
「それとね」
「うん?」
「25日はみんなでパーティーしようよ」
「みんなで?」
「うん、名雪でしょ、相沢君でしょ、栞でしょ、あと、藤井君かな」
 
「いい?」
俺の瞳を見て訊ねる。
 
「ああ、それも楽しそうだからな」
「でしょ?」
「二人きりっていうのも捨て難いけどな」
 
ふふっと、笑って。
「それは、これから何回でも――」
そう言いかけて、語尾が消えた。
 
 
 
 
 
 
「そういえばね」
別れ際、街灯の明かりの下で香里が笑う。
「理恵、と友達になったよ」
 
俺は、不意打ちに言葉を失う。
俺の驚く顔を嬉しそうに見て、「明日は、バイトだから、夜、電話する」
そう言って、手を二、三回振ってくるりと背を向ける。
 
少し行って、振り返って、「おやすみ、潤、いい夢を」そう言って、にっこりと笑った。
 
 
俺はその場で香里の背中が消えるまで見送る。
頭の中には、香里の微笑みがいつまでも残っていた。
 
 
 
 
 
 
 
Continue to next story of Christmas days.
――――――――――――――

戻る