Swingin' Days
Lover's step

 
 
Last Christmas
  〜2〜
 
 
 
 
 
 
 
 
お風呂上がり、パジャマの上にグレイのスウェットを羽織って、栞の部屋の扉を叩く。
「はい」
「開けるよ」
「うん」
カチャリと扉を開く。
 
ベッドの上に俯せになって、何かの雑誌を広げている栞。
「お風呂、空いた?」
顔だけを私に向けて訊いてくる。
「うん」
 
じゃ、入ろうかな、そう言って、ベッドの上に体を起こす。
そして、手を組んで伸びをひとつ。
 
「ね、栞」
24日の話を切りだそうと思う。けれど、今さら、何と言えばいいのかな、と口ごもってしまう。
“一緒にクリスマスイヴを過ごそう”
そんな言葉が馬鹿らしく思える。それ程に、日常の力は強くて。
潤にはああ言ったものの、ここ何日か、栞にそのことを切りだせない私がいた。
 
「どうかしたの?」栞が不思議そうな顔で私を見ている。
「あ、何の雑誌見てたの?」そんなどうでもいい言葉を返す。
「え、これ?」栞が私の方に雑誌を差し出す。見ると、映画とかの情報誌。
「映画でも行くの?」
「え、別にそういう訳じゃないよ」訝しげに栞が答える。
きっと、私が何かを言い出しかねてるのに気づいているんだろう。
 
「ね、お姉ちゃん」
ちょっとの間、何かを考えるように視線を泳がせて、そして栞が言う。
「クリスマスはみんなでパーティーするんだよね?」
「うん、そのつもり、藤井君にも声かけてね」
うっ、藤井も呼ぶの?とちょっと顔をしかめてみせる。
でも、わかるよ、少しうれしそうな色が声に滲むのが。
 
「あ、それとね」照れ隠しのように栞が続ける。
「わたしイヴは終業式の後、出かけるから」
「そう」落胆がちょっと表情に出てしまったかもしれない。
少しの沈黙。
目を上げると、栞がにこにことして私を見ている。
「訊かないの?」笑いを噛み殺すような声。
「え?」
「誰とどこに行くのかって」
「訊いてほしいの?」
「うん」
 
「誰とどこに行くの?」
「秘密だよ」笑いながら言う。
私は呆気にとられる。
 
「じゃ、お風呂入るから」
そう言って、着替えを持って部屋を出てゆく。
その背中を目で追う。肩を越した髪がさらりと揺れる。
そして、ドアの閉まるカチャリという音。
 
 
 
 
――――――――――――――
 
 
 
 
――驚いた。
想像もつかないことが起きるもんだな。
あたたかな湯舟の中で足を投げ出して、天井を見上げる。
湯気で満たされたバスルーム。
 
今日の自習室での情景を思い浮かべる。
理恵と香里が並んでいるのを見ることになるとは思いもしなかった。
もしも何かが変わっていたら、例えば、あの雪の日に理恵が俺のことを受け容れてくれていたら、
あるいは、あの台風の日に香里と約束をしてなかったとしたら、今はどういう現在だったのだろう。
そんなことを考える。
湯舟の湯を両手ですくい、顔を洗う。その手で髪をかき上げる。
 
無意味だ、もちろん、そんな想像に意味はない。
でも、発せずにいられない問い。
 もし、あのとき―――――
 もし、戻れるのならば―――――
俺も今までに何度も同じ問いを発してきた。
“もし、もっと早く自分の思いの深さに気づいていれば”
“もし、理恵と同じ高校に行っていれば”
不毛な問いは、心に深く刻まれて。そして、その問いへの答えはあまりにも遅すぎて。
確かに俺は理恵のことが好きだった、香里の言う通り。
けれどそれは歩み去る誰かの後ろ姿のようなもので、もう二度とこの手が届くことはないのだろう。
その姿を思うときに去来するのは郷愁に似た乾いたかなしみ。
 
ただ、そんな思いとは別に、理恵の笑う顔を見て安心している俺がいることも事実だった。
あいつが、笑って話しかけてくるとうれしい、そう思うのもまた事実だった。
 
 
 
 
――――――――――――――
 
 
 
 
この日常は本当にあのクリスマスの続きなのかな。
そんなことを考える。
 
あの日、雪の降る中、冷えきった頬と凍えた心を抱えて学校から帰った。
しんと静まり返った家。“団欒”なんて言葉の対局に位置していたあの頃の私たちの家。
それでも、私は料理を作った。少しでも気分を変えることができないかと思って。
いつもより少しだけ凝った料理。
 
『チキン焼くの?』学校で料理の本を開いていて、名雪に言われた。
『うん』
『クリスマス・チキンだね、美味しそう』
そして、香里、料理上手だもんね、と笑顔。
あのとき、私は何と答えたんだろう。
憶えていない。
特別な料理なんて、結局何の役にも立たなかった。
むしろ、虚しさが増しただけ。
 
薄暗い部屋、冷えてしまった料理、二人だけのダイニング。
ただ暦の上での出来事に過ぎなかった去年のクリスマス。
家の中の誰も、その日を取り立てて特別なものにしようなどとは思わず、
むしろ、世界が何の根拠もなく浮かれる様を憎んでさえいた。
 
薄暗い部屋、明かりを点けようともせずに栞が言った。とてもつめたい声で。
――――――お姉ちゃん、教えてほしいことがあるの。
はじまりはその言葉。
ううん、違うね、いつがはじまりでいつが終わりなんていうのはないんだね、きっと。
ただそれは流れてゆくだけ。
 
どこに流されていただろう?
想像してみる。
もし私たちが、何も望まずに、何もせずに、何も願わずに、ただ流れに身をまかせていたとしたら。
今、私たちはどこに流れ着いていただろう。
 
 
 
 
「香里、お昼行ってきていいわよ」
開け放しになったドアから、顔だけ出して母さんが言う。
白衣姿で、首には聴診器をかけたまま。
「うん」
私は答えてゆっくりと立ち上がる。
「あ、そう言えば」
母さんが行きかけて、なにかに気づいたように言う。
「イヴは私たち出かけるからね」
「私たち?」
「そう、父さんと私」
にっこりと笑って言う。栞の笑顔に似てるな、そんなことをぼんやりと考える。
「そう、どうぞ行ってきてください」
私も笑って答える。
 
 
特別な言葉なんて要らないのかもしれない。
私たちは、ただ、この日常を日常のままにたどっていけばいいのかもしれない。
どこまでも、どこまでもたどっていけばいいのかもしれない。
それがつまりは時間を受け止めるということなのかもしれない。
...ね、栞。
もう言葉は要らないのかもしれないね。
 
 
 
 
――――――――――――――
 
 
 
 
次の日、香里に会えない一日。
 
『やることがないと、私、ダメみたいだからね』
 
バイトすることを決めた、と俺に伝えたときの言葉。
そう言ってやさしく笑った。
 
『会える日が減るのは残念だけど、
でもずっと潤のこと待って過ごすっていうのも嫌だから』
 
会いたいときに会えないことへの寂しさはあった。
でも、それはいいことなのかもしれない、そうも思った。
香里の言う通り、やることが無くてぼーっとしてるのも、俺のことをただ待っているのも、
俺の中の香里のイメージとは違う気がしたから。
 
講義中にそんなことを考えてる自分に気づく。
小さく苦笑を漏らして、頭を切り替える。
講師の言葉に耳を傾ける。
 
 
 
 
相変わらず混雑した自習室。
俺は空席を探すために入り口のところで立ち止まる。
 
「潤、」
 
俺を呼ぶ声がする。
声のした方を向くと、理恵が小さく手を挙げていた。
「席、あるよ」そう言って微笑む。
俺は笑みを浮かべて理恵の方に向かう。
 
 
 
 
「香里ってさ、」
俺の左隣で、右手でシャープペンシルをくるくると器用に回しながら、理恵が言う。
「ちょっと、大人っぽい感じだよね」
「よく人に言われてるみたいだぞ、それ」
俺はテキストに目を落としたまま答える。
「へえー」
「何が、へえー、だよ」
「ホントは違うんだぞ、って言いたそうな感じ」
視線を上げて理恵を見る。からかうような表情が浮かんでいる。
 
「北川君も大人になったねえ」そう言って、微笑む。
「お前なあ」
 
笑顔のままで、ま、冗談だよ。そう言って、手を止める。シャープペンシルを持ち直す。
前に向き直って、テキストに目を落とす。それっきり、勉強に没頭している。
相変わらずマイペースなヤツだな、そんなことを考えながら、あらためて俺も自分のテキストに向かう。
 
 
ざわざわとした自習室の雰囲気。
けれど、それは街の雑踏なんかとは違う感じで、緊張感を孕んで、同じ方向性を持った、
そんな感じのざわめき。
俺は、こういう緊張感が嫌いじゃなかった。ときどき暖房と人いきれで頭がボーっとするのには閉口したが。
 
「何か冷たいものでも飲むか?」シャープペンシルを置いて、隣の理恵に言う。
「うん、そうだね」
理恵が顔を上げて答える。
「買ってきてくれるの?」
「ああ」
「じゃ、わたしアイスティー」
はいっ、と言って、財布から取りだしたコインを差し出す。
「おう」俺は答えてそれを受け取る。
軽く手が触れる。右手の中指に見覚えのあるリング。
理恵が、俺の視線に気づいて、すっと手を引っ込める。
一瞬、何かを言おうとして、でも、すぐにあきらめて、視線をテキストに戻した。
 
 
 
 
そういえば――――。
俺は自動販売機がカップに紅茶を注ぐのを待ちながら考える。
あいつはずっとあのリングをしていた。
俺がふられたあの雪の日にも。
 
 
 『仕方ないからもらってあげるよ』
 暑い陽射しの下のあいつの誕生日。
 今よりもっと短かった髪の毛、よく焼けた肌。
 『お前なあ、こわい顔してこれ探してたのは誰だよ』
 『これは嬉しいんだよ、でも、潤からだからねえ』
 そう言って、えへへっと笑う。
 『お、そういうこと言うか、じゃ、これは俺が使うことにする』
 『あ、嘘々、ごめん』
 『今さら遅いな』そう言って、理恵の手が届かないように紙袋を持った手をあげる。
 『ね、好きだよ、潤』
 そう言って、その言葉にひるんだ俺の手から紙袋を取った。
 『へへ、似合う?』
 さっそく取りだして、指にはめている。
 二頭のイルカが向かい合ったデザインの銀色の指輪、サイズも自由に調節できるような安物のリング。
 それを指にはめて、大きく広げた手を表にしたり裏にしたりして、うれしそうな顔で眺めている。
 
 『ね、似合うかって訊いてるの』
 俺の返事がないのに気づいて、訝しげに俺の顔を覗き込んで。
 『なに、ぼけっとしてるの?』
 『理恵、お前、今...』
 うん?と不思議そうな顔。
 『好きだよ、って言ったよな?』
 『そんなこと言わないよ』
 『言った』
 『言わない』
 
 結局、そんな不毛なやりとりの中で俺の疑問はうやむやにされてしまった。
 少し不機嫌になった俺に、にっこりと笑って。
 
 『ありがとう、潤、大切にするよ』
 
そう言った。
そう言ったのを憶えている。
 
 
 
 
そういえば―――――。
この前、久しぶりに会ったときにも理恵はあの指輪をしていただろうか?
 
 
 
 
もうとっくに紅茶は注がれていて、俺は慌ててカップを取り出す。
 
「ほら」少し乱暴に理恵に差し出す。
「遅かったね」と理恵。
「ああ、混んでたからな」
俺の言葉に自動販売機の方を見て、
「誰もいないよ、今」そう言った。
そして、俺の顔に視線を戻して、
「さっきも潤しかいなかったよ」と面白そうに笑った。
 
 
 
 
――――――――――――――
 
 
 
 
『本当にふられたよ』
ライン越しの声。実際に聞くよりも、少しだけ甘く響く声。
 
『え、彼氏できたのか?栞ちゃん』
 
『どうだろう、それはわかんないけどね』
 
『にくたらしいんだよ、“24日、誰とどこに行くか訊かないの?”とか言うから、訊いたら、“秘密だよ”だって』
ちょっと拗ねたような口調。
 
『それ、言い方が香里に似てるな』
 
『えっ?』
 
『いや、別に』と、誤魔化す。
 
『じゃ、24日に買いに行くか?栞ちゃんへのクリスマスプレゼント』
香里が話を蒸し返す前に話題を変える。
『え、予備校は?』
素直に話題転換についてきてくれたようだ。
『午後遅くからだから、午前中なら大丈夫だ』
『そう、じゃあ、そうしようか』
 
『じゃあ、時間とかは明日決めようよ』
明日は予備校行けると思うから、と香里が言う。
そして、間もなく電話は終わる。
 
『ね、潤』
 
『ん?』
 
『おやすみ、また明日』
 
『ああ、おやすみ』
 
甘い余韻と発信音を俺の耳に残して。
 
 
 
 
――――――――――――――
 
 
 
 
次の日は朝からよく晴れていた。
どこまでも透明な青が天空を覆って、重量感のない白い雲がまばらに浮かぶ。
空気は冴え渡って、時折吹く風が微かな痛覚を伴って頬を撫でる。
 
「おはよ、早いね」
予備校へ向かう道の途中、まばらな人の流れの中で声をかけられる。
白い吐息を浮かべて、笑顔で話しかけてくる女の子。
「おはよう、理恵、朝一から講義?」
「ううん、ちょっと自習室で勉強しようと思ってさ」
「香里は?」
何て答えようかな、と考えてしまう。まさか、“潤と早く会いたかったから”とも言えないし。
返答に詰まってる私をあっさりと置き去りにして、「そういえば、香里って講習取ってないよね?」と理恵が話を先に進める。
「うん、実はもう推薦決まってるんだ」
「えっ、ホントに」
「うん、ホント」
「どこ?」
私は大学の名前を告げる。それ程大きくはないけど、わりと評判の良い地元の大学。
「う、それ、わたしの第一志望」眉間にしわを寄せて理恵が言う。
 
予備校が近づく。人が増える。隣を歩く小柄な女の子を見る。
瞳の光の強い人だな、と思う。真っ直ぐに物事を見据えるような眼。
ああ、そうか、何となくこの人に親しみを持っていた理由に気がつく。
その瞳のせいだね。
すべてをしっかりと見ようとする。その瞳のせいだったんだ。
 
 
 
 
「ね、訊いてもいい?」
向かい側の席に座った理恵が言う。
私たちは自習室の奥の壁際の席に座っていた。
私の隣にはコートや鞄を載せて、もう一人のための席を確保して。
 
「何?」
「潤ってやさしいよね?」
からかってるのかなと思って、顔を上げて表情を見る。そこには真剣な表情が浮かんでいた。だから私も真剣に答える。
「うん、やさしいと思う。それを表現するのはかなり下手だけど」
そう言って、ちょっと考えて。
「違うね、外に出てこないやさしさ、があるのかな」
「うーん」理恵が小さく唸る。
「どうかした?」
「いや、うまく表現するなあと思って」
 
そして、沈黙。
さすがに朝一の自習室はまだ空いていて、昼間の喧噪とは違った雰囲気を作り出している。
それは、まだ何も描かれていない真っ白な画用紙のようで、私はそんな雰囲気が好きだった。
 
「ねえ」私は本から顔を上げて理恵を見る。
「うん?」彼女も手を休めて顔を上げる。
「中学の頃の潤ってどんな感じだった?」
「えーっとねえ」そう言って右手で頬杖をつく。右手の中指にかわいい指輪をしているのが目に入る。
 
「うーん」顎を引いて、目をつぶって、考えている、真剣な表情。
しばらくの静謐。その頭の中に中学生の頃の二人の姿が浮かんでいるのが見えるような気がする。
もちろん、実際に見えるわけはないのだけれど。
 
「ね、ちょっと長い話してもいい?」
私の想像は理恵の言葉で打ち切られる。私は彼女の問いに頷く。
「じゃ、食堂でも行こうか、ここじゃ、マズイだろうから」そう言って立ち上がる。
私も広げた本と辞書をそのままに彼女の後に続いた。
 
 
 
 
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「で、お前は今日もいるのか」
「あ、ひどい言い方」
ねえ、と理恵が香里の方を見る。
香里は笑って聞いている。穏やかな笑顔。
朝一の講義を終えて自習室に入ると、それ程混んでいない中に、香里と理恵が向かい合わせに座っていた。
香里がコートや鞄をどけて俺の席を空けてくれる。
「理恵、」俺は座りながら言う。
「本当の目的は何だ?」
「二人があまりに幸せそうだから、いっそ邪魔してやろうという...」
「お前なあ」
理恵が笑う。俺も笑う。香里も笑っている。
 
 
 
 
三人、それぞれの時間に入り込む。
香里が辞書を繰るしなやかな音が耳に心地いい。理恵も真剣な表情でテキストに没頭している。
ほんの一週間くらい前には想像もできなかったような位置関係。
思いもしなかった場所にいる俺たち三人。
安定したものなんて何ひとつなくて、だから、きっと俺たちの関係だって変わり続けてゆくんだろう。
それを悲しいことだと思うヤツもいるだろう。
それを寂しいことだと思うヤツもいるだろう。
けれど、俺にはそれは素晴らしいことのように思える。
はっきりとした理由はわからないけれど、そうやって変わり続けてゆくからこそ、人は他人を求め続けるんじゃないかな、
そんな風に思う。
 
 
香里がそっと顔を上げる。ゆっくりと視線を俺に向ける。
俺の顔を見て口元が綻ぶ。
 
 
 
 
 
 
Continue to next story of Christmas days.
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