「夜は、やさし」
Night will calm, if you wish


第五章
Raindrops keep fallin' on
 









  きっと僕たちには何も要らないんだと思う。
  言葉とか涙とか体の繋がりとか、そういった約束は何ひとつ要らないんだと思う。
  風の吹きぬける広い場所があって、暖かい太陽があって、そして、君が隣で笑っていてくれれば。
  僕はきっと何でもできると思う。
  君が望むのなら、もしかしたら、空くらいは飛べるかもしれない。
  一度も口にしたことはないけれど、僕はそういう風に思うんだ。


  そういう風に思っていたんだ。




















 雨が降っていた。
 街を灰色に染めて、木々を灰色に染めて、空気さえも灰色に染めて、雨が降っていた。
 二つの傘が並んでいた。
 深い緑色の大きな傘を右手に持って、左手で僕の手を引いて父さんが歩いている。
 その少し前を鮮やかな赤い色の傘を持った女の人が歩いていた。
 僕の原初の記憶のひとつ。
 赤い傘をさして前を歩くのは母さんだということはわかっていた。僕は彼女のことが大好きだった。父さんの傘を出て、彼女の赤い傘に一緒に入れてほしかった。
 体の芯に残る記憶。今でも思い出せるその手の感触。そのやさしい手で、僕の手を包んでほしかった。
 朝早い時間。時折通り過ぎる車のタイヤが道路を薄く覆った水を弾くシャーッという軽い音だけが、その世界の空気を震わせていた。
 僕は動くことができなかった。母さんを呼ぶこともできなかった。彼女は駅に着くまで一度も振り向かなかった。

 駅も同じように薄い灰色に染まっていた。それは、いつもの駅とは違うように見えた。どこか全く違う世界へ向う列車のために新たに建てられた、この世界には関係のない建物のようだった。
 駅には全く人気がなかった。父さんが僕を屋根の下に入れると、左手を離して傘を閉じる。並ぶようにして、母さんが赤い傘を閉じる。父さんがその様子をじっと見ている。僕はそんな父さんの様子を見てから、母さんに目を移す、その場所に彼女の姿はなかった。
辺りを見回す。彼女は既に改札の向こう側にいた。

 ずっと、遠く。雨に霞む景色のさらに向こう側から、深い緑色とオレンジ色に塗り分けられた列車が走ってくるのが見える。父さんが何か言おうとして、母さんの顔を見る。僕は父さんの顔をじっと見ていた。彼は結局、何も言わなかった。
 やがて、細かい雨滴を纏って、列車がプラットフォームに滑り込んでくる。朝早いせいだろうか、それとも、本当に別の世界に向う列車だからなのだろうか、中には一人の乗客もいなかった。
―― なんて寂しいんだろう。僕はそう感じたことを憶えている。どうして、母さんはこんな列車に乗っていってしまうんだろう。僕と父さんと一緒にいればいいのに。
 母さんがすっと背を屈めて、僕の頬に手を添える。僕は思わず目を伏せてしまう。母さんの顔を見ると泣き出してしまいそうだったから、そして、僕が泣き出すと、母さんと父さんが困ると思ったから。

 発車を告げるベルがフォームに鳴り響く。母さんはあっさりと僕の頬から手を放して、立ち上がる。そして、列車に乗りこむ。
 彼女はデッキで立ち止まって、一度だけ父さんに向かって口を開いた。
『お願い、しますね』




















 ざあざあという音が聞こえた。
 それは僕の内側から聞こえる音のようだった。
 僕の耳からするりと入り込んで、その中に居ついてしまったような音だった。

 雨かな、そう思って目を開く。目の前には幼い女の子がいた。女の子の後ろには明るい緑色の草に覆われた丘が緩やかに広がっていた。
 どこかで見たことのある風景だった。けれど、どこにでもありそうな風景でもあった。
 丘を越えてきた風が草を揺らし、ざあざあという音をたてていた。
 ああ、この音だったのか、と僕は思う。そして、あらためて眼前の少女を見つめる。
 見憶えのあるさみしげな表情。でも、よく見るとそれは彼女の造作のせいだと気づく。
 長すぎる睫毛が表情に翳を落とし、必要以上に彼女をさみしげに見せていた。
 遠くから子供たちの声が聞こえた。どこか危うさを感じさせる、ちょっとしたことですぐに壊れてしまいそうな、はしゃいだ声。架空の世界で遊ぶ者たちの架空の声。


『みんなと遊ばないの?』女の子がおずおずと口を開く。
 そういえば遠足に来てたんだ、僕は唐突に認識する。
『ひとりで遊んでるから』どこかで聞いた懐かしい声で、僕は答える。それは、既に失われた子供の頃の自分の声。
『えっと…』女の子の名前を呼ぼうと思って口を開いてから、それが浮かんでこないことに気がつく。
 黙り込んだ僕を覗き込むようにして、女の子がにっこりと笑う。長い睫毛が落とす翳が、一瞬で綺麗に吹き飛ばされる。
『あたしは、きよのだよ。とおの、きよの』
 うん、潔乃だよね。どうして、僕は君の名前を忘れていたんだろう。不思議に思いながら、にこにこと笑ったままの潔乃に問いかける。
『とおのさんは、みんなと遊ばないの?』
 ちょっとだけ困ったような顔をして、でも、もう一度笑顔に戻って彼女が言う。
『あたし、行ってみたいところがあるの』
『誰も一緒に行ってくれないの』
『もしかしたらもしかして、あいかわくんなら一緒に行ってくれるかな、と思ったの』


 ざわざわと草原が話しかけてくる。そう、これは春の遠足なんだ。小学校に入ってすぐ、上級生に手を引かれて訪れた、丘のある公園。
 ちょっとした山を登って、そこに切り拓かれた公園で、僕たちはお弁当を食べたんだ。
 僕の手を引いてくれた上級生の女の人は、お弁当を食べると、僕を置いてどこかに行ってしまった。同じクラスの子達とは、あまり喋ったことが無かった。みんなが話すゲームや、テレビや、マンガのことを僕は何にも知らなかった。だから、自然とひとりになっちゃったんだ。
 でも、それはそんなに嫌なことじゃなかった。クラスの友達と大声で騒ぐよりも、周りにいる“みんな”の静かな声を聞いている方が、僕は好きだったから。
 木が風に吹かれて歌うやさしいうた、朝、花が嬉しそうにあげる目覚めの声、そして、僕の家やみんなの家の屋根を濡らしてゆく雨の、ちょっと気取ったハミング、そういったものを聞くことが、僕は大好きだったから。
 クラスの人たちにそう言ってみたんだ。僕は、みんなが歌う、そういううたが好きなんだよって。そしたら、たくさん笑われた。たくさん笑って、それからみんなは、昨日見たテレビの話を始めた。


『あいかわくん』潔乃の声が、僕を呼んでいた。
『うん』
『一緒に行ってくれるかな?』少し心配そうに潔乃が言う。長い睫毛が翳を落とす。
 僕は、その表情がなんだか嫌だったから、頷きながらこう答えた。
『うん、行こう』
 潔乃はそれを聞いて笑った。僕は誰かがそんなに大きく笑うのを初めて見たんだ。


 公園の裏の方、僕たちの背より少し高いフェンスの向こうには、静かな林が残っていた。
 フェンスの向こう側の木々は、居心地が悪そうな様子で立ち並んでいた。耳を澄ましても彼らの声は聞こえなかった。
 潔乃はフェンスの前で立ち止まって、自分のはいている膝くらいまでの長さのデニムのスカートと、僕のことを交互に見つめた。でも、すぐに思いきったようにフェンスに手をかけて、するすると登っていった。あたしが、向こうに下りるまでは、あいかわくんは登っちゃだめだよ、って言いながら。
 僕は、彼女が身軽にフェンスを登るのをじっと見てた。長い髪の毛をまとめた黄色いリボンがとてもきれいだった。彼女の髪の毛が揺れると、果物のような甘い匂いがしてきた。
 その匂いに包まれると、なんだかうれしい気持ちになった。
 彼女よりちょっと時間をかけて、僕がフェンスを乗り越えるのを待って、潔乃は薄暗い林の中に入っていった。
 少しも怖がったりしないで。そうすることが当然というように。
 僕よりちょっとだけ背の高い潔乃が、スニーカーの足元をときどき滑らせながら、木の根っこが絡まった斜面を登って行く。僕は黙って潔乃の後について行く。
 林の中は薄暗かったけど、全然怖くはなかった。子供たちの大きな声が、だんだん小さくなってゆくのが、面白かった。空気が冷たくて気持ちよかった。
 二人だけでどこか知らない世界に入って行くような気がしていた。

『あいかわくん、エッチなんだね』潔乃が、前を向いたままで言った。
『えっ?』僕は驚いて訊き返した。
『さっき、あたしがフェンスを登るの、じっと見てたもん』
『ちっ、違うよ、僕はリボンがきれいだなって…』
 ふふっと、うれしそうに笑って潔乃が振り返る。
『ほ、ほんとだよ、僕、見てないって』
 ううんと、潔乃が首を横に振る。そんなことを言ってるんじゃないんだ、というように。
『あいかわくんとしゃべれて、よかった』
『え?』
『あいかわくんって、ぜんぜん、他の人としゃべらないから』
『あたし、ずっとしゃべってみたかったんだよ』
 それだけ言ってにっこりと笑うと、潔乃はまた歩き出す。




  そう、手を差し伸べてくれたのは君だけだった。
  僕と喋ってみたかったって言ってくれたんだ。
  僕がそこにいることにきちんと気づいていてくれたんだ。
  だから、僕は君の手を取った。
  ただそれだけのことだったんだ。




『ね、ずっと向こうまで見えるでしょ?』荒い息をつきながら、それでもうれしそうに潔乃が言う。
 林に入って10分ぐらい歩いたあとに、子供二人がやっと並んで座れるくらいの開けた場所にたどりついた。
『ずっと前にお父さんに連れてきてもらったんだ』
『ねえ、あいかわくんのうちも見えるんだよ』
『えっ?』
『ほら、あそこの赤い屋根』一点を示す潔乃の小さな指を見つめて、その延長線を空間にたどる。その先には確かに見憶えのある家があった。確かに見憶えがあるんだけれど、高い所から見下ろすそれは、初めて見る家のようでもあった。
『あれ?うちを知ってるの?』
『あの青い屋根』僕の問いに直接答えずに、潔乃がその指を少しだけ右にずらす。
 僕は彼女の顔を見て、そしてもう一度その指先をたどる。僕の家のすぐ近くにその青い屋根の家はあった。
『あれ、あたしの家だよ』
『へえー、近いんだね』
『うん、近いんだよ』

 春の強い風が吹いて、後ろでまとめた潔乃の長い髪を揺らす。
 風に乗った子供たちの声が、一瞬聞こえて、すぐに消えた。
 同じ風が潔乃の黄色いリボンを揺らして、花のような匂いを僕に運ぶ。
 みんなのいる場所を離れてから、ずいぶん時間が経っているような気がした。
『帰ろっか?』僕は潔乃の顔を見ながら言う。
 潔乃は何も言わずに、ちょっと怒ったような顔で街並みを見つめている。
『とおのさん』
 僕の声も聞こえない様子で、何かを堪えるように、何かに抗うように、潔乃はじっと景色を見つめていた。仕方がないので、僕も彼女の隣に座って街を見下ろしていた。
 高い所から見る街はとても小さくて、ずっと遠くにも簡単に行けそうな気がした。
『ずっと―――』彼女がポツリとつぶやいた。
『えっ?』僕は訊き返しながら彼女の顔を見た。
 言葉と一緒に涙がぽとりと緑の草の上に落ちた。
 でも、それは幻だったかもしれない。
 潔乃は着ていた黒い長袖のTシャツの袖で、一度だけ顔を拭った。
 そして、あいかわくん、もう戻ろっか、と言って笑った。




 その遠足がきっかけで僕と潔乃はしゃべるようになった。
 ときには一緒に学校に行ったりもした。朝、たまに潔乃が僕を迎えに来てくれることがあった。その頃はまだ泊まり込みの仕事が少なかった父さんが家にいる時は、僕の用意ができるのを待つ潔乃の相手をしてくれた。
 そんなときの潔乃は、僕としゃべるときとは違う、ちょっと緊張した、でも、とてもうれしそうな顔で父さんと話していた。
 そして、父さんのつくってくれるフルーツジュースが潔乃のお気に入りだった。
『あんなおいしいジュース、飲んだことないよ』と潔乃は言った。家を出て学校に向かう途中で、うれしそうに笑いながら。
『あいかわくん、いいなあ、いつでもあんなおいしいジュースをつくってもらえて』
 でも、彼女が直接それを父さんに言うのを聞いたことはなかった。
 父さんの前では、潔乃は神妙な顔つきをして、両手で大事そうにグラスを抱えて、ゆっくりとジュースを飲んでいるだけだった。

 僕たちは少しずつ仲良くなって、たまに周りのみんなに冷やかされたりするようになった。そして、お互いの呼び方も変わっていった。
 木や花や雨の声を聞くことよりも、潔乃の声を聞いてることの方が多くなっていった。
 そして、それは僕にとって、とてもうれしくて楽しいことだった。
 ときどき僕は考えることがあった。
 どうして、僕と潔乃は仲良くなったんだろうって。
 潔乃は、どうしてあの日僕に話しかけてくれたんだろう。
 僕がどうすれば、潔乃は喜んでくれるんだろう。そんな風に考えるたびに、あの日、黙りこんでいた潔乃の表情が頭に浮かんだ。
 怒ったように黙りこんで、じっと景色を見ていた潔乃。
 あのとき彼女は何を考えていたんだろう。
 あのとき彼女は本当に泣いていたんだろうか。
 僕はそれがずっと気になっていた。けれど、ずっと訊ねることができなかった。
 そしていつのまにか、その疑問の上には時間が降り積もっていた。静かに時が積もって、その疑問を深いところに押しやっていった。




  あの頃、僕はよく夢を見た。その内容まで思い出したよ。
  君の揺れる髪の毛をぼんやりと見つめている自分。
  やさしく揺れる黄色いリボンがゆっくりと遠ざかってゆく。
  “早く追いかけないと、見失ってしまう”
  突然、そんな焦燥にかられる。強い焦燥にかられて、僕は走り出そうとする。
  けれど、僕の小さな体はもどかしい程ゆっくりとしか前に進まない。僕は精一杯、手を伸ばす。君の手を掴むために。
  ―― 僕の手は君に届いたんだろうか。
  ―― 夢の中で僕は君の手を掴めたんだったかな?




















 ざあざあという音が聞こえた。耳のすぐ側で、いやそれは耳の内側から聞こえてくるようにも思えた。
 それは大きな音ではなかった。けれど、手に取れそうなくらいはっきりとした音だった。
 そうだ、これは草が風に吹かれている音だったな、そう思った。
 目を開くと、僕は急な石段を登っていた。
 石段の両側に並んでいるたくさんの木々の葉が、風に吹かれてざあざあといっていた。
 ここは草原ではなかったのか、そういえば、この音は何度も聞いたな、と僕は思った。


『まさな、遅いよ〜』石段を登りきったところで、小さな女の子が手を振っていた。
 ぶんぶんっという音が聞こえてきそうな程、大きく、勢いよく。
 彼女は夏の強い太陽を背負うようにして立っていた。だから、その姿は黒いシルエットになっていた。僕は小さな手をかざして、太陽の光を遮る。
『先に行くからね〜』大きな声でそう言うと、女の子はくるりと背を向けて駆け出す。
 リボンのシルエットが揺れて、すぐに石段の向こう側に消えてしまう。






 急な石段を登ったところにある神社。小学校に上がってすぐ、僕は週に二回、この神社に通うようになった。
 入学式の前の日、父さんがめずらしく会社を休んだ。そして、お昼に、僕が大好きだったいなりずしときつねそばを作ってくれた。
 昼ご飯を食べたあとで、僕たちは出かけた。父さんと出かけるのは本当に久しぶりだったから、僕はすごくうれしかった。
 でも、父さんは少し難しい顔をして、黙ったままで僕の手をひいて歩いた。
 僕は父さんのそんな顔を見ると何も話しかけられなくなった。
 僕たちは、桜の花びらがじゅうたんのように積もった道を歩いた。
 強い風が吹くと、花びらが舞いあがって、踊るように、僕たちをからかうように、くるくると回った。
 それが面白くて、そう言おうと思って父さんの顔を見上げた。父さんは相変らずこわい顔をしたままだった。
 だから僕は何も言えなかった。

 桜の並木が途切れると、空に向うような急な石段が目の前にあった。
 それは、本当に急で、どこまでもどこまでも続いているようで、子供だった僕には、本当に空まで続いているんじゃないかと思えるほどだった。
 途中で登るのが嫌になるくらいの長い石段。でも、父さんが僕の手を握ってどんどん登っていくから、僕はついていくしかなかった。
 登っていくうちに、石段の両側の木々が話しかけてくるような感じがした。木々は僕のことを知ってるみたいだった。僕がここに来たことを喜んでくれているようだった。
 僕は苦しいのも忘れて、彼らの声を聞いた。そして、彼らの声を聞いてるうちに、いつのまにか石段は終っていた。

 石段を登りきったところは、神社の境内になっていた。かなり広い境内の一番奥に、古びた神社の建物があった。そのすぐ裏には山の斜面が迫っていた。
 そこはとても不思議な場所だった。たくさんの冷たいものとあたたかいものが、そこにはあった。お日様のようにあたたかい気配があった。けれど、そのあたたかさでもけして融けることのない、氷よりももっと冷たい気配もあった。
 たくさんの気配が、息を潜めて僕と父さんの事を見守っていた。
 僕はぐるりと体をひとまわりさせて、そこに広がる気配を感じとろうとした。
 最初の位置に体が戻ってきたとき、目の前に神主さんの格好をしたおじいさんが立っていた。
 お父さんが、『お願いします』と言った。
 僕はそのおじいさんが怖かった。なぜだか、とても怖かった。
 おじいさんは、お父さんに向かってひとつ頷くと、ひょいと体を屈めて、僕の顔を覗きこんだ。
『怖がることはないよ、真名』おじいさんはそう言った。
『皆、お前の味方だ、お前がそれを信じていれば』






『ホントに先に行っちゃうんだからね〜』
 潔乃の声だけが、頭上から降ってくる。彼女の姿は急な石段に隠れて見えない。
『待ってよ、きよの』僕は大きな声でそう言って、彼女の後を追う。
 強い陽射しで熱くなった空気が僕に纏わりつく。僕はそれを振り払うように石段を駆け登る。

『うわあ、本当にかわいいんだね』
 僕たちは神社の裏手の森の中にいた。潔乃は子犬ほどの大きさの動物を両手で抱えるようにして抱いていた。
 犬のような、きつねのような顔。銀白色の柔らかい毛に包まれた体。目が、火のように赤かった。その表情はあどけなくて、初めて会う潔乃に抱かれてることを一向に気にしている様子もなかった。
『ね、ね、名前は?』
『ぎんが』
『ぎんが?』
『そう、ぎんが』
 潔乃が、名前を呼びながら、頭をゆっくりと撫でると、ぎんがは気持ち良さそうに目を細めて、ひとつ、鼻を鳴らした。
 僕が、最初にぎんがたちを見つけたのは、先生とのけい古の後だった。
 それは、夕方だった。もうほとんど日が暮れてしまった薄暗い境内のすみっこに、銀色の光があった。
 僕は不思議に思って、その光に近づいた。そこには、二頭の動物がいた。
 大きな方の一頭は横たわって、苦しそうに息をしていた。その傍らで、小さな方の一頭が、悲しそうに鼻を鳴らしていた。その二頭は親子のようにも見えた。
 僕が、初めて見るその二頭の動物に驚いているうちに、横たわっている大きな方の呼吸の間隔が長くなっていった。やがて、波打っていた腹が動かなくなり、淡い銀色の光を放っていた体の輝きも消えてしまった。
 小さな方の動物はしばらく、横たわっている動物の顔を舐めていた。ゆっくりと、ゆっくりと、とても丁寧に舐めていた。
 やがて、大きな方の体が放つ光が完全に消えてしまうと、小さな方の動物は一声だけ鳴いた。僕が初めて聞く、とても悲しい、とてもさみしげな声だった。
 僕は、そっと、手を伸ばして、その動物に触れようとした。
 それは、初めて僕に気がついた、というように、一瞬体を震わせると、避ける余裕も与えないほどの早さで、僕の手に噛みついた。
 鋭い痛みが、走った。けれど、僕は手を引っ込めなかった。
『こわくないんだよ』僕は話しかけた。
『だいじょうぶ、こわくない』
 それは、何かに気がついたように僕の手を放すと、自分が噛みついた場所を舐めだした。
 僕の手からは、血が出ていなかった。それどころか、傷跡さえも残っていなかった。
 僕は、少し不思議に思いながら、その動物を両手で抱き上げた。
 すっと、頭を撫でてあげると、気持ち良さそうに、目を細めてみせた。

 僕は先生に内緒で、その動物に食べ物をあげたり、一緒に遊んだりするようになった。
 そして、僕はそれに「ぎんが」と名前をつけた。最初に見たときの銀色の光が、まるで夜の空に広がる星たちのようだったから。
 神社に通うのが苦にならなくなったのは、ぎんがのおかげだと思う。ぎんがは、僕が石段を登ってゆくと、一番上の段にちょこんと座って、いつも待っていてくれた。
 そして、『けい古が終るまで、山で遊んでるんだよ』と言うと、素直に山に入っていった。ときどき、ぎんがは何という動物なのかな、と思うことがあった。小学校の図書館にある図鑑や、データベースでは、ぎんがのような動物は見つからなかった。
 だから、僕はそれきり、調べるのを止めた。
 ぎんががそこにいて、僕のことを待っていてくれる。僕と遊ぶのを楽しみにしてくれる。
 それだけで、十分だったから。


『ぎんが、すごくかわいいねえ』
 ちょっと興奮した様子で、潔乃が言った。夕焼けのせいだろうか、潔乃の頬がいつもよりも紅く見えるのが気になった。神社からの帰り道。まともに真正面から夕陽を受けているせいだろうか。
『ずるいよね、まさな、独り占めしててさ』潔乃がちょっと口を尖らせながら言った。
 僕が言い返そうと口を開くと、『うそうそ、今日会わせてくれたからいいんだよ』そう言って、とてもうれしそうに笑った。
 潔乃は、家に着くまで、ぎんががいかにかわいくて、いかにおとなしくて、いかに素直か、ずっと話しつづけた。
 潔乃の家に着く頃には、すっかり夕焼けが消えてしまって、辺りは薄暗くなっていた。
『ね、明日はぎんがにおやつ持っていってあげようね』門のところで潔乃が言った。
『うん、きっとよろこぶよ』
『うん、楽しみ』大きく笑って、潔乃が門を開けた。
『じゃあ、また明日』ひらひらと手を振ったあとで、潔乃が玄関のドアを開いた。
 ドアから漏れる灯かりに照らされた頬は、まだ紅いように見えた。

 次の日も、その次の日も、潔乃は学校に来なかった。
 三日目、学校から帰ってくると、家には父さんと先生がいた。僕は家のドアを開けた瞬間に、そのまま家に入らずにどこかに行ってしまいたいような気持ちになった。
『おかえり、真名』父さんが静かな声で言った。
『ただいま』僕はそれだけ言って、リビングを出ようとした。
『真名』父さんに呼びとめられた。ますます、その場から逃げ出したい気持ちが強くなった。
『潔乃ちゃん、熱を出してるそうだ』
『えっ』
『学校、休んでただろ?』父さんの問いに、僕は頷いた。
『風邪、引いたの?』なぜだろう、違うことはわかっていた。それでも、僕はそうであってくれればいいと願った。
 父さんは、静かに首を振った。
『じゃ、じゃあ、なんの病気なの?』
 父さんが何か言いかけて、ちょっとの間、ためらった。先生が、静かに口を開いた。
『真名、あの子を神社に連れてきたね?』
 僕は頷いた。背中の辺りが、だんだんつめたくなってくる。すごく気持ち悪くなってくる。本当に逃げ出したい。僕は強くそう思った。
『そこで、何かに会ったかい?』
 僕は頷くしかなかった。気がつくと、僕の頬には涙が流れていた。
『何に会ったか教えてくれるね』
 先生がやさしく言った。僕は話をするしかなかった。

『見鬼・・・・・・か』僕の話を聞いたあとで、先生が言った。
『見鬼?』父さんが訊いた。
 先生が頷いて答えた。『真名が世話をしてるのは、おそらく、普通の人には見えないような“もの”。聞いた限りでは、“くだ”のようだが…』
 父さんはじっと先生を見つめていた。
『どういうわけか、この世のものでないものを見てしまう人たち、見えてしまう人たち、そういう人たちのことを古い言葉で見鬼と言うんだよ。ただ、そういう人たちに、必ずしもそれに抗う力があるわけじゃない』
 今度は父さんが頷いた。
『鬼っていうのは、本来この世界にあるべきではないもの全体の呼び名。力の無い者がそれに出会ってしまうと、拒否反応を起こすことがある。ちょうどある種のアレルギーのようにね』先生が続けた。
『悪くすると、その影響で、命を落としてしまうことさえある。体に別状がなくても、心が壊れてしまうことがある』
『潔乃が死んじゃうの?』僕は大きな声で問いかけた。
“絶対にいやだ”そう心の中で叫びながら。
『そうは言ってないよ』先生がやさしく答えた。
『けれど、熱の原因が病気でない以上、ぎんがと会ったことが関係してるんだろうね』
 嫌な汗が、ぐっしょりと背中を濡らした。
――誰かこの汗を拭いてくれないの?
 僕は思った。
『熱を下げるためには…』
 僕は、またこの場所から逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。けれど、逃げ出すわけにはいかない、と自分のずっと奥の方で誰かが言っていた。
 すごく長い時間が流れたような気がした。とても静かだった。そして、先生が口を開いた。
『じゃあ、真名、行こうか』そう言って、腰を上げた。
 僕の手を握って、ドアへと向う。先生の手の温もりを、とても居心地悪く感じた。
『真名』父さんが僕の名前を呼んだ。
 先生が、それを聞いて立ち止った。僕はじっと、床を見ていた。振り返ることもできずに。ちょっとの間、ドアの前で立ち止まって、父さんが何も言わないのを確認してから、先生が音もたてずにドアを開いた。




 その次の、次の日、潔乃が学校に来た。ちょっとだけ、やせてしまったように見えた。
 潔乃とたいした話もしないうちに授業が終り、二人はごく自然に並んで教室を出た。
 僕たちは黙ったまま学校からの帰り道をたどった。
『ぎんがにおやつあげられなかったね』いつものように潔乃の家の前で別れるときに、潔乃がぽつりと言った。
 僕はそれを聞いて、こみ上げてくるものを我慢することができなかった。






『私がやろうか?』先生は言った。
 僕は黙って首を横に振った。先生は頷いて言った。
『じゃあ、教える通りにやってみなさい』
 ぎんがは僕の腕の中でおとなしくしていた。時折、何をやっているんだろう、とでも言うように、僕と先生の顔を交互に見た。
『ぎんがの頭に右手を当てて』
 僕は先生の言う通りに右手を当てた。ぎんががくすぐったそうに、ちょっと首を動かして、すぐに大人しく目を閉じた。
『あとについて唱えて』
『瓊矛鏡 笑賜 祓賜 清賜…』
『トホカミ エミタメ ハライタマエ キヨメタマエ…』
 途中で一度だけ、ぎんがが目を開けた。そして、僕の顔を見て、一声鳴いた。甘えるような声で一声鳴いた。
 その声が消えたときには、僕の腕の中には何も残っていなかった。

『真名』
 先生が僕のことをそっと引き寄せて、軽く抱いてくれた。
 僕はそこにまるで何かを抱いているかのように、腕を強く組んだままだった。
 腕をほどくことができなかった。体がその形で固まってしまったようだった。
『ぎんがはここにいるべきものではなかった。だから、それを還したことは間違いじゃない』先生が言った。
『でもね、ぎんがと別れるのをかなしいと思う真名の気持ち、それも間違いじゃないんだよ』
 先生の着ている服からは、微かに木と香の匂いがした。それが、僕の気持ちを落ち着けてくれた。僕は、先生の服が湿るくらい泣いた。どこかで、ぎんがが僕のことを見ているような、いつものように目を細めて僕のことを見ているような、そんな気がずっとしていた。






 僕が泣いている間、潔乃はずっと僕の手を握っていてくれた。その手は温かかった。
『あたしが、もっと元気になったら、またぎんがに会いに連れていってくれる?』
 長い時間が経って、僕が泣き止んだあとで潔乃がそう訊いた。
『ぎんがは…、ぎんがは、遠いところに行っちゃったんだ』僕は途切れ途切れにそう答えた。
『もう会えないくらい遠く?』小さな声で潔乃が訊ねた。僕は頷いた。
 潔乃が僕の顔をちょっと覗き見たあとで言った。
『でも、真名なら連れて行ってくれる。そう思う』
『いつか、ふたりで会いに行ける。そう思う』
 そう言って、潔乃が笑った。涙のせいで、その笑顔は歪んで見えた。
 知らないうちに僕も笑っていることに気づいた。
 僕は思った。いつまでも、いつまでも、潔乃の笑顔を見ていたい。そう思った。








  僕は君の笑顔が好きだった。
  君が笑ってくれれば、他には何も要らない、そんなことさえ思った。
  だから、君が見る必要の無いものを見ることがないように、君にそれらを近づけないように、僕は、あまり好きでもない、けい古を休まなかった。
  方術を覚え、体術を覚え、式神をうてるようになった。
  年月が過ぎて、体が大きくなって、僕たちが男の子と女の子じゃなくなっても、僕が大切なのは、君の笑顔だけだったんだ。
  僕の力は君の笑顔を守るために、ただそのためだけに、あるんだ。
  僕は、君の笑顔を守るために、ただそのためだけに、いるんだ。




  ―― そのはずだったんだ。




















 ざあざあという音が聞こえた。聞こえたような気がした。
 僕はもっとはっきりとそれを聞こうと耳を澄ます。神経を集中する。
 けれど、耳を澄ますと、その音はすっと消えてしまう。錯覚だったのか、とふっと神経を緩めるとまた聞こえ出す。

“うるさいな”
 僕は思う。
“もう、この音は聞きたくないんだよ”
 僕は目を開いた。思いっきり大きな声で叫んだつもりだった。けれど、声は出ていなかった。
 ざあざあという音がまだ聞こえた。今度はさっきまでとは比べものにならないくらいに、はっきりと。
 さっきまでと違うのは、僕の視界に色がないことだった。
 その世界は灰色に溶け出し、どこまでが空間で、どこからが僕の体かさえ、区別がつかないほどだった。
 音が次第に質感を増す。
 それに呼応するように、世界が次第に輪郭を取り戻してゆく。
 僕の目には見慣れた天井が映る。
 僕は、すぐ近くに何かの気配を感じて、その方を見る。
 横たわっていた僕のすぐ側に座っていた影が、僕が目覚めたことに気がついて、ゆっくりと動く。灰色に溶けて、その顔は見えなかった。
 左手が伸びて、僕の頬に触れる。少し遅れて、右手が僕の頭のすぐ横に置かれる。
 覆い被さるようにして、人影が近づく。
 やさしい香り。やさしすぎて、なぜか不安になる香り。

「潔…乃?」
「そう、わたし」
 頭の中の靄は晴れなかった。部屋の中にも灰色の靄が渦巻いているように思えた。
 その中で、潔乃のやさしい香りだけが変にはっきりと感じられた。
「夢を…見たよ」僕は考えるともなしに話しかけた。
 潔乃が僕の言葉に頷いた。見えなかったけれど、空気の流れでそれとわかった。
――― 雨の夢。
「ずっと前の夢…、僕と潔乃が小さかった頃の夢」
「遠足の夢、学校に行くときの夢」
――― そして、あの悲しい日の夢。
「ねえ、潔乃」
「…ぎんが、憶えてる?」
 潔乃の吐息がかかる程に顔が近づいた。僕の表情を覗き込もうとしたようだった。
 でも、僕には潔乃の表情は見えなかった。
 そして、ゆっくりと潔乃は首を横に振った。
 その拍子に潔乃の髪の毛が揺れて、また彼女の香りが強くなった。
 僕はもう一度目を閉じた。
 やさしい香りに包まれながら。
 僕が一番守りたかった人の香りに包まれながら。
 僕は再び眠りに落ちていった。
 頬には確かに柔らかい手の感触を感じた。
 指が僕の髪の毛をやさしく梳いてくれるのを感じた。
 でも、潔乃の顔は見えなかった。
 声も聞こえなかった。
 僕は落ちていった。
 深い場所へ。
 とても、とても深い場所へと。
 僕はゆっくりと落ちていった。

 波に揺れているような感覚。
 からっぽの世界。
 ずっと先に、ほんの小さな光が見えた。
 それは、小さな点のようなもので、そこから漏れるのが本当に光りなのか、それとも、視神経がなにものかに惑わされた結果なのかさえ区別がつかなかった。
 ぼんやりとした闇。
 それは、誰かによって意識的にかけられたヴェールのようにも思えた。ちょっとその気になりさえすれば、そのヴェールに覆われたものを見ることができる。
 そんな気もした。
 そして僕は、自分が空っぽになった自分の中に沈んでいく途中であることを悟った。
―― 再びここが何かに満たされることはあるんだろうか?
 他人事のように考えながら、僕はただ下りていった。
 心地よいほどの無力感と、根拠の無い幸福感を抱えながら。



 僕は静かに沈んでいった。
















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(2000/10/13)