「夜は、やさし」
Night will calm, if you wish  
 
 
第六章
Through the past darkly
   














 止まれ――、そう思った。
 振り上げた左手を止めよう、と。だが、わたしの意志は筋肉に伝達されなかった。
 時間が妙にゆっくりと流れた。これならば、避けることができる。わたしはそう思った。
 左腕がコマ落しのようにゆるやかに振り下ろされる。こんなスピードならば、小さな子供でも避けることができるはずだ。
 けれど、眼の前に飛び出してきた、見知らぬ女は、もどかしいほど遅くしか動かなかった。
 ゆっくりと、ゆっくりと、まるで磁石に吸い寄せられる金属のように、抗いがたい力に引き寄せられるように、わたしの握った刀が彼女の体に近づいていった。
 ガツンという嫌な手応えがした。固いものが固いものに当たったときの感触。
 刃が骨にぶつかったときの感触。
 次の瞬間、光が弾けた。
 眼の前で大きな光球が爆ぜ、瞬時にわたしを包んだ。
 それは温かくもなく冷たくもない、不思議な光だった。
 ただ白いだけの、すべてを通り抜けてゆく、隠していたものでさえも照らしてしまうような、そんな光だった。
 光はわたしを貫き、そして、静かに消えていった。

 誰かの叫びを聞いた。
 どこかで聞いたことのある叫びだった。でも、どこで聞いたのかは思い出せなかった。

 余韻がいつまでも残っていた。波の音が聞こえたような気がした。
 たゆたいながら、わたしはすこしずつ、解れていった。






 母さんが少しだけ眉根を寄せて意識を集中すると、手にした刀が、ぼうっと赤い光りをまとう。
 板張りの古びた稽古場には、焚きこめられた香の匂いがかすかに残っていた。
 わたしはその匂いが好きだった。稽古場と、そこに立ったときに母さんが見せる表情が好きだった。そして、母さんの手にした『十六夜』が発するしなやかな光が好きだった。
 それはわたしの一番好きな人たちの、本当だったら見ることができないものが現れた結果だったから。
 縦に一振り。横に一振り。そして、刃を返して左上から右下へと斜めに一振り。
 母さんが赤い光りをまとった刀を、空間に何かの文字を描くかのように操る。
 光りの動きは滑らかで、わたしはそれから目を離すことができなかった。
 わたしの左手を握った大きな手に力が込められて、わたしは反射的にその手の主を見上げた。
 大きな笑顔がわたしの視線の先にはあった。
 その表情につられて笑いながら、わたしはぎゅっとその手を握り返した。
 それに応えて、大きな笑顔がさらに大きくなった。わたしのすべてを包むように、大きな右手にやさしく力が込められた。






―― いつのことだったろう?こんな時間を過ごしたのは。
 記憶の糸を手繰ろうとすると、疼痛が走った。
 柔らかなスポンジに包れた、鋭利な刃物を突きつけられているような疼痛に遮られて、記憶の糸はプツリと切れた。






… 違う。




… 思い出せないんじゃない。




… 思い出したくなかったんだ。






















 それは、九月の初めのとても暑い日のことだった。いつものように学校を終え、友だちと騒いで汗をかきながら帰ってきたわたしは、家の前に佇む小柄な女の人を見つけた。
 その人は大きな桜の木の作る影の中で、古風な佇まいの門をじっと見つめていた。季節のことなどまるで気にならないような表情で、暗い色のスーツをきちんと着こんで、背筋を伸ばして真っ直ぐに立っていた。彼女の発する雰囲気は、ときどき母さんを訪ねてくる灰色の服を着た男たちに似ていた。わたしは彼らがあまり好きではなかった。その人たちが来ると、母さんは必ず出かけていったから。そして、ときには一ヶ月も二ヶ月も帰ってこないこともあったから。
 だから、わたしはその女の人に気づかれないように裏口に回って、そっちから家に入ろうと思った。裏口とは言っても賑やかな通りに面していて、耕の店の入口も同じ側にあるから、わたしの友達や近所の人たちは、そっちを使うことの方が多いくらいだった。
 ただわたしは、この家に良く似合った、そして、いつも式服を着けているあの人の好きな、静かな構えの表口が好きだった。

 裏口に向かうために引き返そうとしたとき、女の人がわたしに気づいた。わたしの顔を見ると、真剣な表情を浮かべていた彼女の大きな瞳が、一瞬で緩んだ。そして、とてもやさしい声で言った。
『こんにちは』
 わたしは突然話しかけられて、引き返そうとした姿勢のままで固まってしまった。
『今日は暑いですね』
 全然暑くなさそうな表情、とても丁寧な口調で、微笑みながら女の人が言った。瞳は深い青で、肌はミルクのように白かった。
 さっきまでのわたしのキライな雰囲気はすっかり吹き飛んでいて、その微笑みには、わたしの警戒心をどこかに押しやってしまうような力があった。どこかで見たことのあるような、とても懐かしい感じのする笑い顔だった。
『この家の方ですよね』
 女の人はゆっくりと、とても丁寧な言葉づかいで話した。わたしは、暑くてたまらない日に、耕にホースでかけてもらう水のように気持ちがいい声だなと思いながら、頷いた。
 女の人はもう一度古びた門柱を見た。視線の先には神咲と書いた古くて大きな表札と、槙原と書いた小さくてまだ新しい表札が並んでいた。
『槙原さん?』
 女の人がちょっと首を傾げて訊いた。わたしは頷いて答えた。
『しぐれ。まきはらしぐれ』
 わたしの言葉を聞いて、その人が大きく笑ってくれた。その笑顔がなぜか、とてもうれしかった。
『そう、しぐれさんね。小学生かしら?』女の人が、わたしの被った黄色い帽子と、背負った真新しいリュックを見て言った。
『うん、一年生っ』
 またその人は笑ってくれた。でも、それはさっきまでの笑い顔とはどこかが違っていた。


『時雨?』
 そのとき、門が開いて、母さんが顔を出した。耕の店を手伝っていたのだろう、母さんは白いエプロンを着けていた。
『ただいまっ』
 わたしは母さんの腰に飛びつくように抱き着いた。母さんはしっかりと受け止めて、おかえりなさいと言いながら、帽子の上からわたしの頭を撫でてくれた。エプロンのパリッとした肌触りと太陽の匂いが気持ち良くて、わたしは母さんに頬を押しつけた。
 それに飽きて見上げると、母さんは小さく笑ってくれた。さっきわたしを呼びとめたときに、女の人が見せた笑い顔とどこか似ていた。


『神咲さん…でいらっしゃいますよね』
 話しかけられて、母さんがちょっと驚いた顔で女の人を振り向いた。
 女の人は、わたしたちから少し距離を置いて、壁のつくる淡い影の中に立っていた。
『神咲の家に御用ですか?』さっきと違う声で母さんが答えた。
 女の人が少し考えるように目を伏せた。そしてゆっくりと顔を上げて、口を開いた。
『綺堂…という名前を、憶えておられますか?』













『ただいまぁー』わたしは重い門を体全体で押し開けて、家に入りながら言った。
『おかえりなさい。時雨』庭に立つ、ひときわ大きな桜の木の影から、いつもの静かな声が迎えてくれた。その足元から、長い影が伸びていた。
『ただいま、十六夜。おなか空いた〜』
『あらあら、耕介様も薫も出かけていますよ』
『え〜、また出かけとうと?』
『ええ、もうそろそろ戻る頃だと思いますけど』十六夜が、顔を傾けて、風を味わうように目を閉じたまま言った。
 よく手入れされた庭を吹き抜けて行く涼しい風には、夕方の匂いがした。
『時雨、また喧嘩しましたね』
 十六夜が目を開いて、咎めるような口調で言った。
 いつもそうだった。わたしが母さんのことや十六夜のことでクラスの男の子たちとケンカをして帰ると、十六夜は必ずそれに気がついた。
『うー、だって、正太たちがうちの悪口言うんやもん』




 クラスのみんなではなかったけれど、わたしのことを黙って無視する女の子たちや、化けもの屋敷に住んでるとか言ってからかう男の子たちがいた。
 わたしはそれを言われるたびに、相手が誰でも構わずに掴みかかった。
 男の子たちを泣かせることはあっても、どんな痛い目にあっても、彼らの目の前で泣いたことがないのがわたしの自慢だった。
 そのことを耕に話すと、耕は笑ってわたしのことを誉めてくれた。
 そして、わたしを誉める耕を母さんは叱った。
 母さんが耕を叱るのが嫌で泣き出したわたしを、ひょいと抱え上げて耕が言った。
『時雨は、大事なもののためにケンカしたんだ。それは間違いじゃないよな』
『時雨は女の子なんですよ』母さんが泣き出したわたしを見て、困ったように言った。
『男でも女でも関係ない。なっ、時雨』
 耕の大きな手がわたしの頭に置かれた。わたしは耕の言う意味が良くわからなかったけれど、大きな手がうれしくてうなずいた。
 母さんがちょっと怖い顔で耕をにらんだ後で、ぱっと笑顔になって言った。
『知らんよ。そげんこと言って、男の子みたいなかわいげのない子になっても』
『薫みたいな?』
『うちは、男の子と喧嘩とかしません』
『ええ、薫はいっつも泣かされてばっかりでしたね』それまで黙っていた十六夜が微笑みながら言った。
『十六夜は黙っとかんね』母さんが照れくさそうに小さな声で言った。
 わたしは母さんがかわいく見えて、それがおかしくて、笑った。耕と十六夜も笑った。
 母さんも、ちょっと怒った顔でみんなを見たあとで、一緒に笑った。




『怪我はないのですか?』
『うん。今日も勝ったよ。正太、泣きよったもん』
『あらあら、仕方ないですね』十六夜が笑いながら言った。
『でも、おなかがへったー』
『薫たちが帰ってくるまで我慢できますか?時雨』
『ん〜、我慢できんかもしれん』
『じゃあ、台所を覗いてみましょう。何かあるかもしれませんから』十六夜がそう言って、ふわりと立ち上がった。
『うん』わたしは大きな声で返事をして、十六夜の手をぎゅっと握った。
 十六夜が微笑んで、わたしの方に顔を向けた。
 わたしはその手を引いて、薄暗い家の中に入っていった。






 あの女の人が家を訪ねてきた日から、母さんは家を空けることが多くなった。今まではほとんど家を空けることがなかった耕も、ときどき一緒に出かけるようになった。
 学校から帰ってきたときに二人がいないのが嫌で、わたしは何度か文句を言った。
 何回目だったろう、泣きながら母さんに文句を言っているときに、あの人がちょうど家にやってきた。
 あの人は、わたしと母さんの様子を見て、何が起こっているのかをすぐに理解したようだった。そして、すぐにわたしたちに頭をさげて言った。
『大変なご迷惑をおかけして、申し訳ありません』
 すごく固い声で、その人が今にも泣き出してしまいそうな気がしたから、わたしは泣くのを止めた。
『時雨ちゃん、本当にごめんなさいね。学校から帰ってきたときに、お父様とお母様がいないのは寂しいでしょう?』
 最初の頃よりは少し親しくなった、でも、十分に丁寧な口調で女の人が言った。わたしの頭をこわれものでも触るように、怖々と撫でながら。
『ごめんなさいね。おばさんの都合で時雨ちゃんに寂しい思いをさせて』
 その人は自分のことを“おばさん”と言った。見た目に全く似合ってない呼び方だったけれど、他に呼び方を知らなかったから、わたしは彼女のことを綺堂のおばさんと呼んでいた。
『耕と母さんが出かけるのは綺堂のおばさんが頼むけん?』わたしはその手の温もりを感じながら、訊ねた。
『いや…』
『ええ』
 答えようとする母さんを遮るように、はっきりと言って、おばさんが辛そうに頷いた。
『…なら、我慢する』
『え?』
『しぐれもおばさんのこと好きやけん、我慢する』
 おばさんはわたしの言葉に少し驚いた表情をして、そして、大きく笑った。
 それから、わたしの目元に溜まっていた涙をそっと拭ってくれた。
 わたしの好きだった、静かで大きな笑顔だった。






 長袖の服を着るようになってずいぶん経って、そろそろセーターを着てもおかしくない季節になった頃には、わたしが帰ったとき、家には誰もいないことが多くなっていた。
 耕はもう長い間、お店を閉めたままだった。母さんは出かけるときに『十六夜』を持っていくことが多くなっていた。
 ときどき綺堂のおばさんが家で迎えてくれることがあった。
 おばさんの肌は、最初に会ったときよりも、もっと色が白くなったような気がした。
 抜けるように白くて、明かりを点けない部屋の中に座っているおばさんが、目を離している隙にすっと消えてしまってもおかしくないと思える程だった。
 その白さはテレビやディスプレイの中でしか見たことのない、雪というものに似ている。
 わたしはそう思った。


『おばさん、雪って知っとう?』
『ええ、知ってますよ』
『見たことある?』
『ええ、何度も』
『よかー』
『時雨ちゃんは見たことないの?』
『うん、テレビとかでしか見たことなか』
『そう。そうですね。この辺りじゃ雪は滅多に降らないでしょうからね』
『綺堂のおばさんは雪のごとあるね』
 ふふふ、と小さく笑っておばさんは言った。
『そう?じゃあ、私は雪女かしら』
『雪女?』
『ええ』
『雪女って何?』
『心も体も冷たい雪でできていて、冷たい雪の中でしか生きていけない女の人のことですよ』
『じゃあ、おばさんは雪女じゃなか』
『どうして?』
『あったかいもん。あったかく光っとうもん』
『そう…。時雨ちゃんも見ることができるのね』
『うん。今はそげんでもないけど、綺堂のおばさんも母さんとか十六夜みたいにあったかく光っとうときがあるよ』
 おばさんが、わたしの頭にそっと手を置く。冷たい感触がした。でも、それは心地のいい冷たさだった。わたしはその感触を楽しむために目を閉じた。

『時雨ちゃん』
『何?』
『ありがとう』
 おばさんはそう言うと、そっと手を離した。


















 その年の十二月はとても寒かった。学校が冬休みに入ってからは、外に出て遊んでると、あっという間にほっぺたや手が赤くなってしまうほどだった。
 冬休みに入るとすぐに、わたしは母さんの弟の和真の家に預けられた。誰もわたしの世話をできない、というのが表向きの理由だったらしい。
 和真の家はわたしのうちよりもずっと大きくて、大きな稽古場と広い庭があった。
 わたしは和真の家が嫌いじゃなかった。北斗や那美やいとこの和斗と遊べたし、和真と剣術の稽古の真似事をするのも楽しかった。
 でも、やっぱり自分の家に帰りたかった。遊びや稽古でくたくたになって眠る夜には、寂しくてふとんの中で泣いてしまうこともあった。
 だから、大晦日の前の日に家に帰ることができると和真に聞かされたときには、わたしは文字通り飛び上がって喜んだ。

 家に帰る前の日、十二月二十九日の夜は、安心してぐっすりと眠れた。
 帰る日の朝、和真と和斗とわたしの三人で朝ご飯を食べているときにも、わたしはそわそわとしていて、熱いおみそ汁で口の中をやけどしてしまうほどだった。
 家までは電車で数時間の距離。和真が家までついてきてくれることになっていた。
 学校に通うときよりもちょっとおっきめのリュックの中に、着替えや北斗と那美からクリスマスプレゼントにもらったぬいぐるみを入れると、ぱんぱんになった。ちょっと重かったけれど、わたしは部屋の中でそれを背負って和真の準備ができるのを待っていた。
 和斗に見送られて家を出ようとしたときに、和真の電話が鳴った。わたしは待ちきれずに外に出た。
 重い灰色の雲が頭の上を覆っていた。とても重そうで、落ちてきそうな雲だった。
 はーっと吐いた息がすぐに白くなった。わたしはそれが面白くて何度も繰り返した。

『時雨』家の中から和真の声がした。
『何?』わたしは外に立ったままで応えた。息が白く固まった。
『すまん、急な仕事が入った』
『だから、姉さんの家に行くのは中止だ』ガラリと玄関の引き戸を開けながら和真が言った。













 人の少ない電車の中は、暖房が効きすぎていて、頭がボーッとなるほどだった。
 わたしはガラス窓にぴたりと額をつけて、どんどん後ろに消えてゆく景色を見ていた。
 ガラスは冷たくて気持ち良かった。わたしは、いつか暗い部屋の中で頭を撫でてくれた、綺堂のおばさんの手を、思い出していた。
 一人で電車に乗ったのは始めてだったけれど、寂しくも怖くもなかった。それどころか、だんだん家に近づいているんだと思うと、わくわくするくらいだった。




『いや、絶対帰るけんね』
『でも、一人じゃ無理やろう?』
 わたしの強い言葉に、和真が困ったような顔をして言った。
『無理やない。帰れるもん』
 しばらく、わたしの顔を見た後で、和真は答えた。
『仕様がなかね。ほら、家に入り』
『入らん。家に帰るもん』
『薫姉さんに電話するけん、入って待っとき』
『ここにおったら風邪ひくやろ』そう言って、和真がわたしの頭に手を置いた。




 電車が見憶えのある大きな橋を渡ると、和真に教えられた駅の名前が合成音で車内に流れた。わたしは、次の駅で降りなければいけないとわかっていながら、窓から目を離せずにいた。
 わたしの知っているはずの風景が、すっかり装いを変えていたから。
 白くやわらかそうな衣をまとい、はじめて見る表情でわたしを迎えてくれたから。


 その日の夜、わたしは、生れてはじめて雪が降るのを見た。重い雲から、まるでそれ自身がちぎれて落ちてきたように、白い欠片が次々に降りてきた。
 わたしは寒さも忘れて、母さんに部屋の中に入りなさいといわれても聞かずに、ずっと雪を見ていた。わたしが目を離したら、雪は降りてくるのを止めてしまうんじゃないかと思うと、いつまでも目を離すことができなかった。




 次の日、目覚めたときにも、わたしの心配など知らぬ顔で、雪は降りつづいていた。
 耕と母さんは普段はあまり使うことの無い板張りの稽古場の扉を開けて、朝からそこで何かをしているようだった。
 ときどき、ピンと張り詰めた波動が漏れてくるのを、わたしは感じた。
 十六夜は朝からあまり口を開かなかった。わたしが波動に気がついて十六夜の方を見ても、縁側に座って、じっと雪の方に顔を向けていた。
『十六夜』
 わたしは何か話しかけないと、十六夜がいなくなってしまいそうな気がして、声をかけた。
『なんですか?時雨』とても静かな、いつもと変わらない声で、十六夜が応えてくれた。
『雪、雪が降りようよ』
『ええ、そのようですね』十六夜がそっと手を伸ばして、手のひらで雪の欠片を受け止めた。それは、十六夜の手のひらに、一片二片と降りたった。
『白くて、冷たかよ。桜の木も、十六夜の好きな表門も、ぜーんぶ、白くなって、きれいかよ』
 十六夜が微笑みながら頷いた。
『雪ってこんなにきれいなんやね』
『こんなにきれいやったら、毎日でも降ればいいとに』
『時雨』十六夜がわたしの名前を呼んだ。
『何?』
『いつも見れないからきれいなもの、そういうものもあるんですよ』
『なんで?きれいやったら、毎日見れた方がいいやない』
 わたしが口を尖らせてそう言うと、その雰囲気を感じ取った十六夜が、微笑みながら応えた。
『そう。時雨はそう思うんですね』

『…それで、いいのかもしれませんね』





『十六夜、すまないがそろそろ頼む』稽古場の入口のところから、母さんが十六夜を呼んだ。十六夜は一瞬身を強ばらせると、すぐに前と同じ微笑みを浮かべてわたしに言った。
『新年もよろしくお願いしますね。時雨』
 わたしは笑いながら応えた。
『なんで?まだ新年じゃなかよ』
『私はこれから少し長く眠りますから』
『寝ると?』
『ええ』
『どれくらい?』
 顔をふっと空に向けて、十六夜が少しの間考えた。ちいさな雪の欠片がひとつ、十六夜の金色の髪の毛に舞い降りた。
『そうですね。正月、一月の終わり頃にはまた会えると思います』
『そんなに長く寝ると?』
『ええ』
 十六夜がそう言いながらわたしの頬に手を伸ばす。わたしは少しだけ顔を動かして、その手を受け止めた。
『待っていてくれますね。時雨』
『うん』
 わたしは十六夜の冷たくやわらかい手に触れながらうなずいた。

『十六夜』母さんがまた呼んだ。
 十六夜がわたしの頬から手を離して、ふわりと立ち上がった。そして、わたしに背を向けて、稽古場に向かっていった。
『十六夜』
 わたしは思わず呼び止めた。
『待っとうけんね。早く起きてね』
 十六夜はゆっくりと振り返って、淡く笑った。












 雪は降り続いていた。
 すべてを白く覆われた庭は、まるで知らない人の家の知らない庭のようだった。
 夜が夜じゃないくらいに明るく感じられた。
 今までに見たことのない、不思議な、とても不思議な夜だった。
 大晦日の夜だというのに、家の中にはわたし以外誰もいなかった。
 母さんも耕も十六夜も稽古場に入ったまま出てこなかった。
 わたしはこたつに入ってテレビを見ながら、さみしくなって、ちょっとだけ泣いた。
 そして、いつのまにか眠ってしまっていた。


 大きな物音を聞いて、わたしは目を醒ました。その音を追いかけるように、とても大きくて強い波動が押し寄せてきた。それは、はじめて感じる波動だった。母さんや耕や十六夜が発するのとは全く違うものだった。わたしは、窓を開けると縁側から庭に下りて、音のした方向、稽古場へと向かった。
 稽古場の扉は開かれて、庭に降り積もった雪の上に黄色い明かりがこぼれていた。稽古場に駆けつけたとき、そこには四人の大人とひとりの男の子がいた。
 稽古場の入口から見える正面に祭壇が作られ、その前には一振りの刀が置かれていて、その前に白い着物を身につけた耕が座っていた。耕は頭を垂れ目を瞑っていて、まるで、眠っているようだった。
 稽古場の入口のところに、黒い髪の背の高い男の人と、銀色の髪の同じくらい背の高い女の人が、やせた男の子を挟むようにして立っていた。男の子の髪の毛も女の人に良く似た銀色だった。
 三人は庭を駆けてきたわたしに気づいて、ゆっくりと振り向いた。三人とも初めて見る顔だった。とても不思議な色合いの瞳をしていた。輝く深い緑色。森に沈む湖の色。その視線を感じると、わたしは動けなくなってしまった。彼らの視線には何の感情も無かった。
 それが、かえって怖かった。
 三人と耕の間に、式服を着けた母さんが立っていた。母さんはわたしを見つけると、驚いた顔をした。母さんの式服の右袖は赤かった。そんな色の式服を着ている母さんを見るのは初めてだった。だらりと下げた母さんの右手には、赤いぼんやりとした光りをまとった抜き身の刀が握られていた。
 刀の先からぽたぽたと何かが滴っていた。
 床に溜まったその液体は、刀のまとう光よりも、もっと濃い赤色だった。
『時雨』母さんの静かな声が聞こえた。
『家に入ってなさい』そう言うと右手を上げ、左手を添えて三人に向かって刀を構えた。
 大きな男の人と女の人が母さんに向き直った。男の子はわたしをじっと見たままだった。

―― 逃げなきゃ。男の子を見てそう思った。心の奥底から震えが湧き上がってきて、わたしはそれを押さえることができなかった。
 クラスの男の子や、ときには体の大きな上級生の男の子たちに囲まれても、怖いと思ったことなんてなかったのに。
―― 逃げなきゃ。そう強く思った。でも、足は凍りついてしまったように、全く動かなかった。
 男の子がじっとわたしを見つめていた。わたしはその瞳を見た。
 深い、底の知れない緑色。男の子が微かに笑ったような気がした。

 突然、稽古場の奥から銀色の光が溢れた。
『天に在り 今 我が身中に在る魂よ 我が願いに応え長き眠りから目覚め給え 我が望みに応え その身を鉄の中に現し給え されば我 汝れの望むものを与えん』
 耕の声が聞こえた。見ると、耕が刀を捧げ持ち、祭壇の前に立っていた。耕は大きく眼を見開き、その体は銀のまばゆい光に包まれていた。両手の中の刀も同じ色の輝きを放っていた。
 男の子は耕を振り返って見た。そして、今度は口を歪めてはっきりと笑って、男の人と女の人に向かって言った。
『もう、いいよ』
 それは、ひどく冷たい声だった。一度耳にすると、けして忘れられない。けれど、二度と聞きたくない種類の声だった。
 男の子の声を合図に、男の人と女の人がすっと前に出る。
 母さんは刀を構えたままでじりじりと下がった。
 耕はぐったりと両手を下げ、今にも倒れてしまいそうな様子で、祭壇の前に立っていた。
 体を包んでいた光はすっかり消えていた。
『あんな鈍らにも移れるとはね。安っぽい魂だ』男の子がつぶやいた。
 耕の左手には紺色の鞘が、右手には、刀が握られていた。刀だけが、さっきの銀の光芒をすべてその身に集めたように、まばゆく輝いていた。
『か、薫』
 耕が弱々しい声で母さんの名前を呼ぶと、刀を手渡した。母さんはそれを左手で受け取った。
 耕は刀を手渡すと、その場に座り込んだ。
 受け取った瞬間に、母さんの体がぐらりと傾きかけた。一度、両手に持った刀が瞬くように輝きを止めた。 母さんがぎゅっと歯を食いしばるような表情をした。二本の刀は、また赤と銀の光をまとった。
 男の人と女の人は無表情にその様子を見ていた。ただ、男の子だけが、うれしそうな表情を浮かべていた。その顔は笑っていたけれど、わたしの見たことのないとても嫌な笑い顔だった。


『生あるもの すべからく死を逃れること能わず 現し世にあるもの すべからく滅する定めなり』
 母さんが目を閉じ詠唱を始めた。男の人と女の人の瞳に一瞬だけ戸惑いが表われ、男の子を振り返る。男の子はただ、歪んだ笑顔を浮かべていた。
『―――』声が小さくて、母さんの詠唱は最後まで聞き取れなかった。
 母さんが目を開いた。銀の光と赤い光が左手と右手から縒り合うように母さんの体を包んだ。
『神咲一灯流奥義、無尽戟』
 絡み合った光が離れて、再び右と左に広がった。母さんが男の子に向かって体を躍らせた。男の人と女の人が、両側から母さんの前に立ちふさがった。キーンという高い共鳴音が響き、一瞬、眼の前が見えなくなる程の光が爆ぜた。



 光が収まったとき、床にうずくまった母さんの両手に刀はなかった。
 一本の刀、母さんが左手に持っていた方の刀は、わたしの眼の前まで弾かれて、雪に突き刺さっていた。さっきまでの銀色の光が消えた刀身に、強ばった顔のわたしが映っていた。
 母さんの式服の右の袖は取れてしまっていた。それでもそこは真っ赤だった。
 わたしは、そのときはじめて、あの赤い色が、母さんの血の色だったことに気づいた。
 力なく顔を上げた母さんの額に右手を染めているのと同じ色が一筋流れた。母さんはそれを拭おうともせずに、何かを握ったままの右手を見つめていた。
 そこには、刀身の部分が無くなってしまった柄がしっかりと握られていた。それは、もう輝きを放ってはいなかった。
 母さんは今にも泣き出しそうな顔で、じっと自分の右手を見ていた。


『霊剣が二本あれば勝てると思った?』男の子が言った。
 そして、母さんの右手を見た後で冷たい声で続けた。
『衰えた霊剣にはふさわしい姿だ』
 母さんの表情が、その声で引き締まった。
『衰えたわけじゃなか。お前に何がわかる』
 そして、立ち上がろうと左手を床につき力をこめた。
『わかるさ、何でもね』
 男の子は、つまらなそうにそう言うと、無表情に母さんの姿を見つめた。
『一体、どれだけの時を越えてきたと思ってるんだ』
 両側に立つ男と女も黙って視線を母さんに向けていた。
 母さんの左手は虚しく崩れ、体はまた床に崩れ落ちた。そして、一瞬、目を閉じた。
 もう一度目を開いたときに、わたしに気づいて、驚きの表情を浮かべた。
『時雨、逃げんねっ』母さんが大きな声で言った。
 その声で、わたしの体は、それまでが嘘だったように自由になった。わたしは目の前の雪に突き刺さった刀を抜くと、真っ直ぐに男の子に向かって走った。
 もう、男の子を怖いとは思わなかった。頭の中はひとつの思いで満たされて、真っ白になっていた。

―― 消えてしまえ。
 わたしは思った。
―― 母さんを耕を十六夜を、わたしの大好きなこの場所をこわすものは、全部消えてしまえ。

 両腕で握った刀は強い銀色の光を放った。わたしは振り返った男の子の右肩から左の腰に刀を振り下ろした。
 刃が男の子の右肩に触れたと思った瞬間、刀は滑るように速度を増し、勢いよく板張りの床にぶち当たった。その反動に耐えきれず、刀はわたしの両手から零れ落ちた。男の子が刀を拾い上げて、面白そうに言った。
『へえ、霊剣が使えるんだね。まだ、ほんの子供なのに』
『でも、刃研ぎもできてない刀じゃ何も斬れないよ。こういう風に使えば別だけどね』
 そして、無造作に刀を振り上げると、素早く振り下ろした。刀はひゅんっという音とともに光を放ち、それは、わたしの右肩の辺りに触れて消えた。
『時雨っ』母さんが鋭く叫んだ。
 その声を聞いてはじめて、右肩に痛みを感じた。
 左手で触れてみた。そこは生暖かかった。手を見た。母さんの右手と同じ色に染まっていた。
『教えれば、貴方よりは上手く使えるようになるかもしれないね』男の子が床に倒れたままの母さんに言った。男の子が右手に持った刀は、降り積もった雪のように白く輝いていた。男の子が母さんに向かって、右手をすっと振り上げた。
『御方様』そのとき、黙って立っていた男が初めて口を開いた。低い声だった。
『ヘル、だ』女の人が男の人の方も見ずに言い直した。
 男の子は刀を振り上げたまま、止めた。そして、耳を澄ますような表情をした。
『ああ、来たようだな』
 そう言うと、つまらなそうに刀を投げ捨てた。


 わたしは遠くなる意識の中で聞いた。
『まだ、時は満たない』
 右の肩がとても熱かった。外に出て雪を当てれば気持ち良いだろうな、そう思った。
『三百年ぶりの甘露だ。ゆっくり楽しもう』
 かん…ろ?
 そして、わたしは冷たい床の感触だけを感じながら、眠りの淵に落ちていった。











 右肩に疼きを覚えて、わたしは目を醒ました。
 左手を右肩に当てた。そこは少し熱かったけれど、もう血は出ていないようだった。肩に当てた手の冷たさが気持ち良かった。
 暗く、静かな部屋だった。しんと冴えた空気は、しかし、ひとつの濁りもなく澄みきっていた。
 誰かがやさしくわたしの髪の毛を梳いてくれていた。
 わたしの頭は、やわらかくて暖かい枕の上にあった。部屋の中が暗すぎて、眼を開いても何も見えなかった。
 ぽとり、とあたたかいものがわたしの頬に落ちる。わたしは右手を伸ばして、それに蝕れようとした。肩がズキンッと痛んで動かせなかった。


『ごめん…なさい』静かな声が響いた。
『本当に…ごめんなさい』


 ふわりと体が浮かぶような感じがした。わたしの奥の方に泉のように湧き上がる感情があった。
―― 消えてしまえ。
 わたしの好きなもの、わたしの好きな時間、わたしの好きな人たちをこわすものすべて。
―― 消してやる。
 感情が白い光となって、わたしの中を満たした。
 そして、次の瞬間、光は弾けて、真っ暗になった。
 深く長い暗闇の中に、わたしはたったひとりで立っていた。


















 もう馴染みになった右肩の疼きを感じて、わたしは目を醒ました。
 暖かく、かすかに甘い匂いのする部屋だった。


… わたしは、森にいたはずだ。

 部屋の明かりは消えていた。カーテン越しに激しい雨の音が聞こえた。

… 何のために?


 混乱した頭を、いろんな断片が渦を巻くように過ぎていった。
 稽古場の床に残っていた、銀色の欠片。わたしたちを見たときの和真の表情。
 十年ぶりに帰った家の納屋の中に、じっと息を潜めていたバイクの姿。
 よく手入れされた古びたグローヴの皮の匂い。型遅れのフルフェイス。
 今では花を咲かせなくなってしまった、桜の老木。
 そして、固く扉を閉ざしたままの稽古場の佇まい。


 夢か?わたしは夢を見ていたのだろうか。
 未だわたしは夢に見てしまうのか。
 すべてを振り払うための十年間は全部無駄だったのか?


 暗闇に馴れた眼が部屋の様子を伝える。壁に掛けられたカレンダー。無邪気な表情の動物たちのポスター。整ったベッドに見たことのないパジャマを着せられて、横たわっているわたし。


「良かった。目が覚めたのね」ベッドの脇から声が聞こえた。わたしは、その気配すら感じ取れなかったことを悔いながら、素早く枕許に左手を伸ばす。
 わたしの右肩に忘れられない瞬間を刻みつけた、『御架月』の姿を求めて。
 しかし、左手は何も掴むことができなかった。

 ふわりと、暖かいものがわたしに覆い被さる。
 やさしく、甘い匂い。
 遠い昔に、どこかで嗅いだことのあるような匂い。
 眼の前の暗闇に、淡い色の花びらが舞ったような錯覚を覚えた。

… 愛、おばさん?
 わたしはその言葉を飲みこむ。
「久しぶりね」
 ベッドの空いている場所に腰かけた、おばさんが言った。
「大きくなったわね。時雨ちゃん」
 その口調もその声も、昔と、父さんと母さんに連れられてここを訪れた頃と何も変わっていなかった。

 わたしは固く目を閉じて、闇に慣れた目が何も見ないようにした。
 耳を塞いで、何も聞かないようにした。
 すべてを閉じて、部屋を満たす空気から伝わるものを遮ろうとした。
 積み上げた大切な時間を突き崩そうとするものたちを、わたしの奥底に届かせないために。


 おばさんの手が伸ばされて、わたしの髪の毛にそっと触れた。
 わたしはすっと身を引いて、さらに強く目を閉じる。
 右肩がまた疼いた。
 キンッという澄んだ音が、頭の中ではっきりと聞こえた。













 

   第七章に続く
  

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    (2000/11/10)