「夜は、やさし」
Night will calm, if you wish

第四章
Waiting for you
 








「ずいぶん、待たせてしまいましたね」
「・・・・・・何を待っていたのかも忘れてしまったよ」
「嘘でしょう?」
「・・・・・・ああ、嘘だな」













 

 森を出るとすぐに、葛葉は依り代に戻った。
 顔色は青ざめたままだった。森を出るまでに何度か、僕に話しかけようとする仕草が見て取れた。
 けれど彼女は結局、何も言わなかった。彼女が消えてしまうと、僕は一人だった。
 当たり前のことなのに、当たり前じゃない程の孤独を感じた。
 空には月が浮かんでいた。森の底に届いていた銀の光りからは想像できないような、赤く濁った月だった。
 あるいは、僕は幻を見ていたのだろうか。そんなことを思った。あの銀色の世界は幻だったのだろうか。僕はそれを確かめてみたかった。
 森に戻って、もう一度彼女を見たかった。彼女の光りに触れ、その手触りを味わい、この身に刻みつけたかった。
 初めて感じる気持ちだった。僕は、彼女に触れたかった。そう強く思った。
 けれど、そうすべきではない、と告げる声も僕の内には在った。
 その手を伸ばすとともに、失われるものが在る。その声はそう告げていた。
 
 赤く大きい月に向かって、僕は家路をたどる。
 携帯端末を取り出し、秋津島さんへの連絡をする。
 ちょっと迷ったあとに僕はこう入力した。
「A.G」―――異常無し、と。
 
 
 
 
 
 
 目が覚めたときには前日の筋肉痛が嘘のように、体には力が漲っていた。
 手早く着替えを済ませる。葛葉の依り代を首にかけようとして、少し躊躇する。昨日見た彼女の表情が脳裏を過ぎる。
 どうして僕の方から問いかけなかったんだろう?
 どうしたの?葛葉、と問いかけるだけで良かったのに。
 昨日はそんなこと頭に浮かびもしなかったことに気づく。それ程に、彼女との邂逅は、僕の冷静さを奪っていたということだろうか。あるいは、僕は単に冷たいだけなのだろうか。
 玄関に父親の靴は無かった。“また、泊まりだったのかな”ぼんやりと考えながら、扉を開く。朝の真新しい空気が、僕の呼吸器を潤す。
 朝早い街並みは、まだ半分眠っているかのように、静かに佇んでいた。
 父親の仕事、雑誌の編集は時間的な面でいえば、良いことの無い仕事のように僕には思えた。
 同時性という点ではネットワーク上の情報発信に敵うべくもなく、その普及とともに姿を消すと思われていた紙メディア。けれど、それは確かな需要とともに生き残っていた。
「全てがデジタルになることは無いよ」たまに、父親が僕に向かって言うことがあった。
「手に取れるリアルさ、それを人が大切に思う限りはね」
 彼の思いは別として、それは規則的な帰宅時間とは最も縁遠い仕事だった。そのおかげで僕は、小学校の頃から、授業参観というもので自分の親の姿を見たことが無かった。
 街の中心、学校があるのとは逆の方向へ歩いてゆく。秋の朝の空気は澄み渡りすぎるくらいに澄み渡っていて、僕の肺を心地よく満たしてくれる。
 家がまばらになり、黄色く色づいた広葉樹の目立つ道をたどってゆく。やがて、緩やかな坂道を経て、目の前に急角度の石段が現れる。
 石段を登る足取りが、知らず知らず早足になる。穏やかな朝陽が僕を照らす。
 目覚めのときに感じた力の漲りが、朝陽や、澄んだ空気や、色づく木々によって増幅されていく。
 何かが始まる、そんな気がした。予感が僕を包み、そぞろな気持ちが僕に力をくれる。
 叫びだしたくなるような、大きな声で笑いたくなるような、そんな不思議な気持ち。
 石段を登りきると、朱色に塗られた鳥居がある。それをくぐり抜けると、広い境内、正面には古びた社殿。もう目を閉じていても自由に動き回れるほど慣れ親しんだ場所。小学校に入った頃から、僕はこの神社に通うようになった。そう、修行のために。
 でも、もっと昔、もっと小さな頃にも、ここに来たような気がする。誰かのやさしい手に引かれて、この境内を歩いたこと、そのときの風景、それがやわらかい記憶の砂に埋もれている。
 けれど、その手が誰の手で、その曖昧な記憶がどこに繋がっているのか僕は思い出せない。
 
 
「真名、久しぶりだね」
 突然かけられた言葉に、僕は驚きながら振り返る。そこには、竹のほうきを持った老人が立っていた。
 祓い師としての僕の先生、そして、丘の上にあるこの時経た神社の宮司。
「先生、おはようございます」
「おはよう」柔和な微笑みを浮かべて挨拶を返してくれる。
「いい天気ですね」「ああ、いい日になりそうな朝だね」
 深い皺が幾重にも刻まれた顔をさらに綻ばせて先生が言う、そして僕の顔を少し眩しそうに見る。
「何かあったかね?」
 僕の答えを待たずに、「朝ご飯でも食べながら聞かせてもらおうかね」すぐにそう続けた。
 
 僕は温かいご飯とみそ汁、そして焼き魚の朝食を食べながら、森での出来事を先生に話した。先生にだけは伝えておいたほうが良いような気がしたから。
 彼はゆっくりと箸を動かしながら、静かに僕の話を聞いてくれた。
 ただ、昨日会った異形のものの名前を聞いたときに少しだけ表情が動いた。
 そして、僕の話を聞いたあとでひとつだけ問いを発した。
 その子の名前を聞いたかね?と。僕が、いいえと答えると、少しの間考えてから言った。
「せっかく来たんだから、ひと汗流していきなさい」
 僕の方術の師であると同時に、古式武術の流れを汲む体術と棒術の師でもある先生。
 久しぶりに式服に袖を通す。社殿の裏手にある庭で彼と向かい合う。
「さて、始めようか」微笑みを浮かべながら先生が言う。
 言葉の柔らかさと裏腹に、その瞳に鋭い光が宿る。
 
 
 先生の年齢を感じさせない動きに翻弄されつつ、ひと通りの稽古を終えたときには、朝とは呼べない時間になっていた。
「真名と手合わせすると時を忘れてしまうな」うれしそうな様子で先生が言った。
 荒い息をつく僕と対象的に、先生の息はほとんど乱れていなかった。
「式神に風呂を用意させてるから、汗を流していきなさい」
 庭から、自宅の縁側に上がりながら先生が言う。
「学校、始まってしまったね」
「はい」僕は少し笑いながら答える。思慮深げに見える先生が、僕との手合わせに時間を忘れる程没頭してくれたのがうれしかった。
 縁側に上がった先生が僕を振り返る。
「真名、」
「はい」
「大きくなったね」
 先生の表情は影になって見えなかった。ただ、その声はひどくやさしかった。
 
 
 太陽は自ら選んだ道をたどって、その日一番の高みへと近づきつつあった。
 石段を駆け降りながら腕の時計を見る。時計は、午前中の授業には間に合わないことを告げていた。






 
 
   
 






 
 
 
 
 結局、学校に着いたのは、昼休みに入って少し経った頃だった。
「お、来たのか?」
 教室に入ってすぐに和己に声をかけられた。
「あ、和己、おはよう」
「おはよう、じゃないだろ。潔乃が心配してたぞ」そう言って、僕を見た。その瞳に、一瞬、咎めるような色が過ぎって、すぐに消えた。
「飯行くか?」いつもと変わらない声で言う。
「そういえば、お腹空いたよ」僕もいつものように答える。
 
 
 混みあった学食で、僕はきつねうどんといなりの載ったトレーに向かい合う。
 和己はカツカレーの皿と格闘していた。すごい勢いで、皿の中身を片づけ、傍らのお茶を飲んでひと息つく。そして、言った。
「な、真名、いつから力が使えるようになったんだ?」
 それは唐突な問いだった。和己はそれまで、自分から僕の力や仕事に触れることはしなかったから。
「どうしたの?急に」
「いや、何となくだけどな」それだけ言うと、カレーの皿に残された福神漬けをスプーンの先でつつく。
 短い沈黙が流れた。和己が、それを振り払うように立ち上がる。
「おし、午後一の体育は燃えるぜ」
「あ、サッカーだっけ?」「おうっ」そう言って笑う。
 僕も立ち上がって、トレーを持つ。
 和己の問いを無視したわけではなかった。ただ、すぐに答えることができなかっただけだ。
 
 
“いつから力が使えるようになったんだ?”
 いつからだろう?正確に思い出すのは難しかった。
 小学校に入った頃から先生について修行を始めた。
 じゃあ、その前は。
 修行したから力を使えるようになった?違う。力が在ったから、修行を始めたんだ。
 じゃあ、いつから、いつから僕は力を持っていた?
―――いつから人には見えないものを見ていた?
 
 
「おい、真名行こうぜ」
 和己の呼ぶ声が、僕を現実に連れ戻す。彼は食堂の出入り口のところで僕を呼んでいた。
 僕は、取りあえず疑問を保留することにする。
 午後の授業の予鈴が鳴る。聞き慣れた音で、当たり前の音階で。






 
 
 
 





 
 
 
 
 朝とはまるで違う弱々しい光を放ちながら、太陽が今日の仕事を終えようとしていた。
 僕は吹きぬける風の冷たさに思わず肩をすくめる。
 裏門近くの部室が並んでる場所。校舎の陰になっていることが寒さを増長している。
 
 
『ね、真名、今日はわたし、部活無いんだけどな』
 体育が終わった後の教室で、僕の顔を見るなり潔乃が言った。
 それだけ言って、僕の顔をにこにことして見ている。
『ええっと、よかったらどっか寄ってく?おごるよ、サンクス・デイの埋め合わせに』
 謎かけに答えた僕に、うんうんと頷いて、満足気に笑いながら潔乃が言った。
『仕方ない、そこまで言うなら付き合ってあげるよ』
 僕はそのときの潔乃の笑顔を思い出して、少し笑ってしまう。行き過ぎるふたりの男子生徒が、一人で笑う僕のことを訝しげな顔で見る。
 
 
「すげえ、バイクだったな」
「バカ、どこ見てたんだよ、女の子の方見るのが、男ってもんだろ」
「そうか?」
「おお、すっげえ、かわいかったぞ」
「ちぇっ、顔見なかったよ。でも、あのバイクも今時見かけないガソリン・エンジンのバイクだったんだぜ」
「これだから、マニアはよぉ」
 
 
 彼らの会話が聞こえてくる。“確かに、ガソリン・エンジンだけのバイクは珍しいよな”僕は頭の中で相槌を打つ。
 最近のバイクは、バッテリー駆動のモーター車が中心になっていた。たまにモーターの補助用として、双方を備えたものを見かける程度で、ガソリン・エンジンだけを動力源としたバイクというと、10年以上前に生産が中止されてるはずだった。
 ちょっと見に行こうかな、そんなことを考えて、体重をあずけていた校舎の壁から体を起こしかけたときに、名前を呼ばれた。
「真名、お待たせ」
 ラケットを抱えて、髪を後ろでまとめた潔乃が笑顔で現れる。
「どうしたの?」
 背中を浮かしかけの中途半端な姿勢の僕を見て、潔乃が笑いながら問いかける。
「うん、そろそろ潔乃が来る予感がしてね」
 よく言うよ、と言って僕の背中を軽く叩いて、でも、うれしそうな笑顔は崩さずに。
「うーし、今日は真名のおごりだー」右手でラケットを高く掲げて言う。
「潔乃、“うーし”は止めようよ」笑いながら僕は言う。
「いいの、かわいい子は何しても許されるんだから」とびきりの笑顔で潔乃が答える。
 やっぱり、笑ってる顔が一番だな。僕は思う。潔乃の笑顔は、僕の心を解してくれる。
 何かを考えているときの潔乃の表情は、その造作も手伝って、実際以上に沈んで感じられる。
 僕は、彼女のそんな表情が嫌いだった。ずっと前、そう、初めて出会ったときからそう思っていた。
 だから、僕は彼女の笑顔を守ろうと思ったんだ。
 
 
――そうだったかな?
 初めて出会ったときの潔乃は、僕の記憶の中の潔乃は、いつも笑っていたかな?
 僕たちは最初から笑い合えていたのかな?
 
 何かが、何かがあった気がする。
 僕に決心をさせる出来事。
 潔乃の笑顔を大事に思える出来事。そういうことがあった気がする。
 微妙な違和感。
 僕の手は確かにそれを掴んでるのに、目は確かにそれを見ているのに、それが何かがわからない。もどかしさだけが募る。
 
 
「それでね、真名」
「え?」
 彼女の言葉を聞き漏らした僕は、慌てて潔乃の顔を見る。目を伏せて、黙り込んでいる潔乃。
 昨日の別れ際、『どうして・・・・・・』と、何かを言いかけて止めたときの表情が、目の前の潔乃に重なる。
「ご、ごめん、何?」僕は、その表情の重さに負けて慌てて謝ってしまう。
「こんなかわいい子が隣を歩いてるのに、」潔乃が、がっしと僕の頭を腕で捕らえる。
「ぼーっとするなー」そして、そのまま小脇に抱えるようにして、腕にぎゅっと力をこめる。
「き、潔乃、胸が当たってるよ」
「減るもんじゃないからいいの」
「そういう問題じゃないと思うけど」
 ひとしきり、そうやって二人でふざけあう。
 人影のほとんどない裏門への道。誰にも遠慮しなくていい、僕たちだけの時間。
 つまりは、そう、つまりは、僕も潔乃もこういう時間が大好きなんだ。
 こういう時間を大切に思えるからこそ、僕は真っ直ぐに歩いて来れたんだ。凝り固まった思いや、彷徨い続ける救われぬ魂たちの近くにこの身を置いて、人の暗い面ばかりを目にしながら、それでも、迷わずに歩いて来れたんだ。
 だから、僕と潔乃は今のままでいいんだと思う。
 言い知れぬ形のない不安や、失くしたものを蘇らせようとするような、無いものねだりのもどかしさなんて、きっと僕たちには必要ないんだ。
 
 
 
 
 潔乃の腕の力がふっと緩む。緩んだ腕から抜け出して、僕は潔乃の顔を見る。その視線を追う。裏門を出たところに、バイクが一台、傾いで止まっている。
 さっきの男子生徒たちが話してたバイクかな、と思う。
 夕陽を背負い、黒く塗りつぶされた影。今のバイクとは異質の武骨なシルエット。
 バイクのシートに横向きに座った小柄な人影。何か棒のような長いものを両手で抱えている。
 人影がゆらりと動く。逆光で顔は見えない。地面に立つと、バイクの大きさのせいで、その小柄さが際立つ。
 人影が纏う弱い光が伝わってくる。どこかで知ってるような光。
 
 
「相川、真名か?」女の声が問う。静かで、少し低い声。何かを抑えつけているような声。
 潔乃は凍りついたようにその人影を見ている。
「相川真名か、と訊いている」
 もう一度、彼女が問う。僕は頷く。そして、潔乃の手を強く引いて、その体を僕の方に引き寄せる。
「…そうか、確かに変わった色の光だな」ぼそりとつぶやく。
「お前、人か?」
 彼女の足元から伸びた影が、ゆっくりと動く。棒状のものを捧げ持つようにした両腕が、頭の上で一瞬、止まる。
 両の手が棒の両端に滑る。棒がゆっくりと伸びてゆく。
 僕は、影から彼女のシルエットへと視線を移す。こめかみが、ちりちりとする感覚。
 彼女が右手に持った棒の片割れをバイクの方に放る。僕はそれを目で追う。
 鞘?
 
「じゃあ」
 すっと、彼女が体を開く。夕陽が一瞬、その身を照らす。白く抜けるような肌、漆黒の髪。そして、冷たい瞳。
“光りの少女”が、そこにいた。あの夜とはまるで違う表情を、まるで違う光りを纏って。
「試させてもらう」言葉と同時に、3mはあった間合いを一気に詰めてくる。
 手にした銀色の刃が、きらりと夕陽を反射する。
「潔乃、逃げてっ」僕はさっきから掴んだままの潔乃の腕を強く引いて、自分の左側、校舎の方向へと導く。潔乃が息を呑む気配が伝わる。駆け出す潔乃の足音を背中で聞く。
 小さな体を前に屈めて、刀の切っ先と一体になったかのように、彼女が突っ込んでくる。
 ぐんっと、その手が伸ばされる。僕は、渾身の力で、後ろに跳躍する。
 ふたりの距離が開く。
 その距離を保って向かい合ったまま、円を描くようにゆっくりと歩を運ぶ。
 なぜ、彼女が僕に刃を向けるのだろう。あの時、僕を助けてくれたはずの彼女が。
 そんな根本的な疑問とともに、何とかしなければ、無事に済まないぞ、と僕の中の何かが教えていた。それは祓い師としての、戦いの場に身を置くものとしての、僕の本能。
 彼女の振るう刀から殺気は感じられなかった。ただ、ひどく冷たい波動。それが伝わってくるだけだった。
 
 今、ふたりの位置は入れ替わって、彼女は夕陽を正面から受けている。
 黒い髪がゆっくりと揺れる。黒い瞳が茜を映す。目にかかる前髪を、ふっ、と彼女が息で払う。
 僕は印を結び、心のざわめきを鎮める。
「四天王に帰命する。鬼神を縛せよ」すばやく呪を唱え、彼女へ向って放つ。
「ぐっ」彼女が短く唸る。僕の放った縛鎖の呪が彼女の自由を奪う。
 僕は印を結んだ手を彼女に向けて、呪を繰り返す。
「鬼神を縛せよ。縛せよ」
 彼女の左手の刀が輝く。それは反射ではなく、内からの輝き。彼女が注ぎこむ、彼女の力の輝き。
「小賢しかっ」彼女が叫ぶ、瞬間、光りが放たれる。僕の呪はあっさりと破られる。
「人を鬼神扱いするなっ」さらに叫びながら、一足飛びに間合いを詰めてくる。
 鋭く短い突き。僕は半身になって、切っ先を避ける。最初の突きとは段違いの早さ。
 二撃、三撃。何とか刀を避けながら、間合いを取ろうと左に回る。
 剣のキレ、間合いの詰め、彼女の膂力に余りそうな長い刀を得物にしているとは思えないスピード。
 僕は悔いていた。錫杖があれば彼女の刀を受けることも可能なのに、受けることさえできれば、呪を唱えるだけの間を稼げるのに。
 背中が、校舎の壁に当たる。彼女が口元に笑いを浮かべる。冷たい瞳、紅潮した頬。それは、獲物を追いつめた狩る者の表情。
 先程までの突きとは違う、ゆっくりとした動作で刀を下段に構える。刀身がぼうっと白銀の光りを放つ。昨日、森で見た月の光りのようだな、僕は思う。
「円清斬っ」
 短い気合とともに彼女の刀が僕に襲いかかる。下から上への振り上げとは思えない剣速。
 僕はすばやく身を翻す。ぶおんっという、重い音が鼻先をかすめる。彼女がほんの少しバランスを崩す。
 僕は体を回転させながら、視界の片隅で、彼女の振り上げられた腕の下、懐ががら空きになるのを捉える。校舎に向き合った姿勢から、その壁を蹴り、体を反転させて彼女の懐に飛び込む。
 その横腹に折りたたんだ肘を打ち込む。肘を打ち込む瞬間、つい力を緩めてしまう。
 僕は自分の甘さに心の中で舌打ちする。彼女が着ている革のジャケットの匂いが微かに鼻につく。
 それでも、僕の肘は確実に人の急所を捉えていた。普通の人なら気絶するぐらいの痛みを感じてる筈だった。
 顔を上げて、彼女の表情を見る。さっきよりも、もっとはっきりとした笑み。
「雷槌」
 気合の言葉とともに、振り上げられた刀の柄が僕の肩口を狙って真っ直ぐに振り下ろされる。
 身を捻って、かろうじて直撃を避ける。肩から胸へと柄が流れる。けれど、肩の感覚が無くなるほどの衝撃。
 
「ただの拝み屋かと思って、手加減しとったけど」
 僕が肘を打ち込んだ左の横腹に軽く手を添えながら、彼女が言う。
「結構、やるやない」
 彼女の笑みが冷たさを増す。左手の刀が輝きを増す。キンッと高い音が聞こえた気がした。
 ふたりの間の空気が重たく沈む。さっき一撃を受けた右の肩は痺れたままだった。
 この間合いで次の攻撃を避けられるだろうか。それを避けることができたとして、この局面を打開する術が僕にあるだろうか。妙に冴えた頭を思考が巡る。まるで僕じゃない誰かが考えているようだった。
 
「君と戦わなきゃいけない理由が、僕には無いんだけどな」
 今更の問いを投げかける。それは彼女の注意を逸らすための方便。
 静かに体を捻って、彼女に見えないよう、持ち上がらない右手に左手を添えて印を結ぶ。
“四方に座し、須弥山を守護する四天王に帰命する。鬼神を縛せよ”
 口には出さずに呪を唱える。さっき破られた縛鎖の呪。僕が使える呪の中で相手を傷つけずに済むものはそう多くない。
「そっちに無くても、こっちにはある。それで十分やろう?」
 じり、と彼女が歩を運ぶ。ゆっくりと剣先が揺れる。僕はそっと眼を閉じ、呪を唱え終わる。そして静かに瞼を開く。
「神咲一灯流――」揺れる剣先にあわせるような、ゆっくりとした口調で彼女が言う。
 周りの気が、彼女に収束していく気配。それはあまりに見事で、僕はその様に目を奪われそうになる。それと同時に、危険を知らせる信号が、僕の中に響き渡る。
「時雨、いい加減にしろっ」突然の言葉に彼女の気が揺らぐ。森で会った御架月が、彼女の手にする刀から、ぼんやりとした姿を現していた。
「縛せよっ」一瞬の彼女の隙を突いて、呪を放つ。
「小賢しいと言っているっ」彼女が素早く身を沈める、僕の呪より早く、間合いに飛び込んでくる。
 さらに増したそのスピード。
「楓陣刃」
 振り下ろされる切っ先。
「時雨っ」
 御架月が叫ぶ。
「真名っ」
 突然、彼女と僕の間に人影が躍り込む。
 ガシンッという鈍い音が、目の前から聞こえる。僕を庇おうとした潔乃の肩に銀色に煌く刀身が見える。
 
 
「うぉぉぉぉ」僕の奥底からの叫び。頭の中が、自分の中が、白い光で満たされる。それが僕の両腕から放出される。恍惚感を伴った、リミットの無い放出。
 ゆっくりと崩れる潔乃。その向こう側に姿を現す彼女。夕暮れの空に、まだ白い月が見えた。
 
 
 僕の光が彼女に向かっていく。
 
 
 そして、世界は暗く閉ざされる。
 フィルムの切れた、古い映画かなにかのように。突然のブラック・アウト。意識の途絶。
















   第五章に続く


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