「夜は、やさし」
Night will calm, if you wish  
 
 
第三章
I.D(Identification)−2.
   









『いじゃよいは、さくらが好きと?』
『ええ、好きですよ』
 
 小さな女の子と、落ち着いた佇まいの女の人。
 大きな木の太い幹に、二人は体をあずけている。
 ここでは、わたしはいつも傍観者だ。
 春の風が、肩の辺りで切り揃えられた女の子の黒髪と女の人の黄金色の長い髪をやさしく撫でる。
 同じ風が、庭に植えられた桜の木々から、その花びらを奪い去ってゆく。
 ときは四月。その街では、もう桜の花の盛りは終わり。
 
『じゃあ、さくらが散ると、かなしかろう?』
『ええ、すこしかなしいですね』
『じゃあ、じゃあ、いっつもさくらが咲いとったらうれしい?』
『…あまりうれしくはないですね』
『なんで?いつも、さくらが咲いとったら、好きなときにみれるよ?』
『そうですね。だけど、いつでもみれるのが素敵なことではないのですよ』
『なんで?しぐれにはわからん』
 女の人がやさしく微笑む。
『一年に一回、ほんの短い間だけめぐり会える。だからこそ、うれしいんですよ』
『うー』
女の子が、頭を抱えるような仕草で考えこむ。
 
『時雨、また十六夜さんとお話ししてたのか〜』
 大きな体の男の人が、エプロンで手を拭きながら庭に現れる。
『あ、耕っ』 
 そして女の子を軽々と抱き上げる。
『耕、今日の晩ごはんはなに?』
 さっきまで、何ごとかを考えこんでいたのが嘘のように、明るい声で女の子が訊ねる。
『今日は時雨の好きなカレーだ』
『カレー、カレー』
 男の人の腕の中で、女の子が嬉しそうな声をあげる。
『耕、薫母様は〜?』
『ああ、母さんも今日は帰ってくるよ』
『ははさま、ははさま〜』
 女の人が、すっと、立ち上がる。そして、その顔を男の人がいるのとは、少しだけずれた方に向ける。
『耕介様、薫は今日帰ってくるのですね?』
『ええ、その筈です。昨日電話がありましたから』
『仕事の方はつつがなく終わったのでしょうか?』
 女の人が心配そうに呟く。
『大丈夫なようですよ』
 男の人が、その体によく似合う、大きな笑顔で答える。
『ははさま〜』
『時雨は母さんが好きか?』
『うん、好き〜』
『でも、お父様も好きなんですよね?』
『うん、耕も好いとう』
『十六夜さんも好きなんだよな』
『いじゃよいも好き〜』
 男の人の腕に抱かれて、安心しきった様子の女の子が言う。
 男の人と女の人が、まるで視線をあわせるようにして笑う。
 ひとつ強い風が吹く。女の人が、風にあおられた髪の毛をそっと押さえる。
 男の人が、腕に抱いた女の子を風から庇うように、体の向きを変える。
『そういえば、今年はまだ花見に行ってませんでしたね』
『ええ、薫も耕介様もここのところ、お忙しかったから』
『薫が戻ったら花見に行きましょう』
『よろしいのですか?』女の人が微笑む。やさしく地に降り注ぎ、生命の目覚めを誘う春の陽光のように。
『ちょっと遅くて、申し訳ないですけど』
『いいえ、楽しみです』  
『よし、時雨、母さんが帰ってきたらお花見に行くぞ』
 男の人が腕の中の女の子の顔を自分の前に来るように抱き上げて言う。

『しぐれ、お花見好き〜』
『時雨は好きなものばっかりでいいな』
『うん』
 大きな笑顔で女の子が頷く。
 
 
 
 繰り返される情景。もう、けして手を触れることのできない時間。
 わたしには、それが我慢できない。
 もう変えられない過去ならば、何度も反芻する意味は一体どこにあるんだろう?
 それは、いくらわたしが消そうとしても、消えてくれない。自分の意識のすべてを自分の行動のすべてを、自らの力で支配したい。
 わたしはそう思う。
 けれど、見る夢を選ぶことはできないし、記憶を消し去ることも容易ではない。どうしてだろう?
 統御できない意志。既に過ぎ去った時間。そんなものに、どんな価値があるというのだろう。
 あるいは―――。
 あるいは、過去さえも変えられる力、そんなものがこの世にはあるのだろうか。望めば、それは手に入るのだろうか。
 
 
 
 
『薫母様はねえ、きれいな赤いいろ〜』
『いじゃよいはね、お月さまみたいな白いいろ〜』
『お、じゃあ、お父さんはどうだ?』
『耕はね…耕はね、お日さまのごとあるよ』
『お日様?』
『そう、お日さま〜』女の子が笑う。男の人も笑う。ふたつの笑顔は良く似ている。
 
 桜並木は確かに時が流れていることの証明のように、ほんの一週間前とはがらりと装いを変えていた。
 そこかしこに吹き溜まった、ピンクの花びらが、その華やかな姿の名残を伝える。
 陽射しはやわらかく、風はやさしく、空気はあたたかい。
 緑色を増した芝生の上にシートを広げて、その上に座った二人の女の人とひとりの男の人、そして、ひとりの女の子が幸せそうに笑っている。
 
『時雨には見えるのね』
 肩を越えた黒髪。意志の強そうな眉。女の子と良く似た漆黒の瞳。
 落ち着いた雰囲気を湛えた女の人がつぶやく。
 女の子を抱きかかえ、膝の上に座らせる。そして、その小さな手を取る。
『薫母様の手、気持ちよか〜』女の子が、小さな両手で、女の人の手を握りながら言う。
『そう?』女の人が静かに問う。
『うん』女の子は笑顔で頷く。
 
『今年はちょっと遅くなっちゃったな』男の人が桜の木々を仰ぎ見て言う。
『ええ、ちょうど忙しい時期と花の盛りが重なってしまいましたから』
 黒髪の女の人が答える。少し寂しそうな様子で。
 そして、『十六夜、毎年楽しみにしてるのに、すまなかった』吹き抜ける風を慈しむかのように目を閉じていた、黄金色の髪の女性に向かって言う。
『いいえ、いいんですよ、薫』
『私は、こうやってあなたや耕介様や時雨と春を迎えられれば、それだけで十分なんですから』
 そっと、目を開いて、その人が答える。
『いじゃよいは、さくらが好きなんやろ?』
 女の子が、手を伸ばして、その女の人の手に触れながら言う。
『ええ、好きですよ』やさしい笑みを浮かべて女の人が答える。
『じゃあ、しぐれは、大きくなったらさくらになる』
『あらあら』女の人がおかしそうに表情を綻ばせる。
『そしたら、いじゃよいもうれしかろう?』
『時雨は、十六夜のためにさくらになってくれるのですか?』
『うん』
『そうですか』
 男の人と黒髪の女の人が、顔を見合わせて微笑む。風が吹いて、路傍の花びらが一瞬だけ宙に舞う。
『ありがとう。やさしい子ですね。時雨は』
 女の人の瞳は女の子を映してはいなかった。
 けれども二人はお互いのことを確かに感じながら、笑いあっていた。
 
 
 
 
  もし、わたしが桜になれるのならば、枯れない桜になりたいと思う。
  あるいは、自分が望むときにだけ咲く花。
  そういうものになりたい、とわたしは思う。






 
 
 






 
 
 
 緩やかに意識が覚醒する。
 ひとつの世界が開いてゆく感覚。そして、もうひとつの世界が閉じてゆく感覚。霊力のオーバー・ロードは、いつもわたしに見たくないものを見せる。
 失われた情景。崩れ去った時間。今はもう手を触れること、能わないもの。
 
 ゆっくりと目を開く。森。暗い森。
 薄闇の中に朧に浮かぶ、白い人影。その人影がゆっくりと振り返る。
「目覚めたか」
「…御架月、わたしは、どれくらい寝てた?」
「一昼夜」静かな声が答える。
 わたしは、すっと空を仰ぎ見る。月は見えない。けれど、暗緑色の天蓋の隙間を貫く針のように、銀色の光が射し込んでいる。
 体を起こす。革のジャケットに付いた木の葉を落とす。そっと目を瞑る。体の奥底の波が揺れる。放出した霊力が、戻ってきているのを感じる。
 
「時雨」いつの間に、隣に立っていた御架月が、わたしを見下ろして言う。その両足は、地にはついていない。
「大丈夫か?」
「ああ、もう大丈夫。しかし、ちょっとサービスしすぎたな」
 御架月が、その視線でわたしの言葉の意味を問う。
「あんな雑魚相手に無尽戟は割が合わん」
「お前は力を無駄に使いすぎだ」戒めるように彼が言う。
 言われなくてもわかっていた。
 しかし、あのときは自分を抑えることができなかった。
 昨日の夜、この歪んだ森に足を踏み入れたときに、わたしは波動を感じた。
 それは、わたしの冷静な判断力を奪うほどに強烈で、気がつけば、わたしは駆け出していた。
――見つけた。そう思った。そう思うと、頭の中は真っ白になっていた。
 けれど、そこにいた“念”は、あまりに脆弱で、あまりに不完全で、そのことがわたしのスイッチを押した。
――止めよう。そう思った。しかし、既にわたしの体はわたしの意志の統御下にはなく、両の手は、巨大な霊力の放出装置と化していた。
 
 
 不意に虫の音に気づく。耳がやっと、この世界に慣れてきたのだろう。
 淡い闇に融ける森は、昨日の夜とは様子が違っていた。
 母親然とした顔で、わたしをやさしく包んでいる、と言わんばかりだった。
 だから、わたしは拒絶する。
 軽く眉を寄せ、その中心に意識を集中する。少しの力を解き放つ。
 馴れ合いなどしたくはないのだ。
 
 
「おおかた、見つけたとでも思ったんだろう?」
 皮肉な口調でかけられた言葉が、わたしの儀式を妨げる。わたしは、きっ、と彼を睨めつける。彼はわたしの視線を気にも留めずに続ける。
「まあ、全くの間違いではなかったようだがな」
「え?」
「あのときの祓い師、憶えているか?」
「祓い師?」
「念に追われていたヤツがいただろう?」
 御架月の言葉に、ぼやけた記憶を辿る。
「ああ、負の場で必死に正の呪を唱えよう間抜けがおったね」
 わたしの言葉に苦笑しながら、御架月が言う。
「あれはおそらく、“呼びよせるもの”だぞ」
 虫の音が遠のく。銀の光が凍りつく。
「…本当?」声が震えるのがわかる。急に水が飲みたくなる。
「俺には“おそらく”としか言えん、確かめることができるのは…」
「ああ、わかっとう。あいつだけだな」
「いや」御架月が私の言葉を否定する。そして、言う。
「あいつと、お前、のみだ」
 
 体の奥底で波が揺らぐ。波は渦となって、わたしを取り込もうとする。
 それは暗い衝動。けれども、わたしの体の隅々にまで力をくれる、激しい衝動。
 それにふさわしい言葉はひとつしか思いつかない。
――憎しみ。
 わたしは、内側の衝動を感じ取られないように、できるだけ静かな声で言う。
「そうか、それでこそ和真の目を盗んで、こんなとこまできた甲斐があるってもんやな」
 
 
 キンッと、胸の辺りで音がする。まるで、わたしに話しかけるかのように。
 心を鎮めるのですよ――そう言われたような気がする。
 わたしは反射的に、傍らに立てかけたビロードの袋を見る。わたしの腕よりも少し長い、棒状の袋。
 そのあとで、首から提げた小さな袋をそっと触る。同じビロードでできた、お守りくらいの大きさの袋。
 音が聞こえたのは、棒状の袋からではなく、その小さな袋からだった。
 
「御架月」
「ん?」
「どんなヤツやった?」
「呼びよせるもの、か?」
 わたしは頷く。
「そうだな、お前の父親、俺を現世に引き留めてくれたあいつ、に似ていたな・・・。あの光は……」
「御架月」
 わたしは軽い頭痛を感じて、彼に短く呼びかける。
 渦が収束するのを感じる。衝動が急速に萎んでゆく。 
 彼がわたしの咎めるような調子に驚いて、言葉を止める。
「…もういい」
 
 
 また、虫の音が聞こえだす。わたしはビロードの袋を手に取り、木に寄りかかる。
 それは見た目に反してとても軽い。その軽さがわたしは悔しい。
 
 
「時雨、やはり、止めないか?」御架月が言う。わたしは驚いて、彼を見る。
「どうも、俺は、気に入らん。“歪んだ場所”、“呼びよせるもの”、そして長い時を経たその使い。話が聞いていた通りに動くのが、余計に気に食わん」
「使い?」
「ああ、あの祓い師が連れていた使いだ。おそろしく長い時を経たものだったぞ」
「たかが使いだろう?御架月、臆したとか?」
 わたしは言い放つ。気に入らなかった。彼が弱気なことを言うのが。
 そして、彼にそれを言わせている理由がわかっていることが、余計にわたしを苛立たせた。
 わたしだって思わないわけではないのだ。
 わたしの力はあいつに通じるのだろうか――、そう考えないわけではないのだ。
「いまさら本家に戻るとか?和真のところでくだらん稽古に明け暮れたいとか?」
「和真殿のところにいれば、お前は確実に強くなれるぞ」
「それで時を逃すとか?一生、あれに背を向けて生きるとか?」
「それじゃあ強くなる意味などなかっ」 
 わたしは、自分が大きな声を出していたことに気づく。
 少しの静謐。わたしは御架月を見つめる。ぼうっと白い光に包まれ、何ごとかを考えるように、目を伏せている。
 銀の髪、白い肌、濃紫の瞳、耳には、三日月を象った金の飾り。
 長い時を経て、思いを純化させたものだけが持つ強さ、そして、脆さ。
 彼を包む光は、わたしにそういうことを伝える。
 わたしは、彼を見ていると、意味もなく叫びだしたくなる。
 自分の無力さを突きつけられているような気がするのだ。
 わたしは、こう言われているような気がする。
“お前に、時を越えることが出来るか?”と。
 誰から?
 誰からだろう。わたしにもわからない。
 
 
「時雨」
 御架月の言葉がわたしを思索の海から掬いあげる。
 彼と目を合わせる。
「お前が望むのなら、俺はそれに従う」
「お前が必要とするならば、俺は惜しみなく与える」
「・・・・・・だがな」
「自分のために振るう刃は脆いぞ」
 紫色の冷たい瞳の中に、底の見えないやさしさを湛えて、御架月が言う。
 
「御架月」
「わたしは、わたし以外の者のために刀を振るうことはできん」
 
 
 キンッともう一度、透み通った音が響く。
 心に沁み入る音。迷いを誘う音。
 わたしは堅く目を閉じる。惑わされぬために。
 わたしは耳を塞ぐ。わたしの決めた道を、迷いなく進んでゆくために。











 

   第四章に続く
  

  Indexへ