「夜は、やさし」
Night will calm, if you wish  
 
第二章
Silverly moon
 









 一日の授業が終わる頃には、全身の痛みは、軽い筋肉痛程度まで回復していた。
 霊力を使い果たしたときのキック・バックは、不思議なことに精神にではなく、筋肉に訪れる。
 本物の祓い師であれば、動けない程までに霊力を使うことなどしない。
 なぜなら、それは自分が限りなく無防備に近い状態に置かれることを意味するからだ。その意味で、僕はまだまだ半人前の祓い師と言われても仕方なかった。
「じゃあ、ホームルーム終わり、当番は掃除よろしく」
 担任の教師の言葉を合図に、教室がざわめきだす。部活に向かうもの、友達と寄り道の相談を開始するもの、30数人の人間が集まったクラスには30数通りの事情があり、それぞれの事情が糸のように複雑に絡み合って、模様を作っている。
 僕の糸はどんな糸で、どんな風にみんなと絡み合っているんだろう。
 ぼんやりと、そんなことを考える。
 机に突っ伏して窓の方に向けた顔に、何ごともなく、一日の仕事の終わりへと向かう太陽の、柔らかい光が降りかかる。
 
「ね、真名、大丈夫?」席を立った潔乃が、僕の顔を心配そうに覗き込む。
「うん、もう大丈夫」実際のところ、いつもよりきついキック・バックだったけれど、それでも、朝に較べれば確実に回復していた。
「そう、じゃあ、いつもの時間に行くよ?いい?」潔乃が、ペン・ケースや、携帯端末を 自分のネイビー・ブルーのリュック・サックに詰め込みながら、どこか嬉しそうに言う。
 部活が終ってから、晩ご飯を作りに行くよ、というわけだ。
「うん、ごめんね、サンクス・デイもすっぽかしたっていうのに」
「ま、いいよ、埋め合せはちゃーんとしてもらうからさ」
 にっこりと、口元だけで笑う。
 
「お前らさあ、そういうのって、家だけにしてくれよ」
 いつのまに来ていたのか、潔乃の後ろに立った和己が、僕と潔乃の間に流れるほわりとした雰囲気を振り払うように、右手を大きく動かしながら言う。
 女の子の中では背の高い方の潔乃の後ろに立っていても、和己の顔はずいぶん上の方にある。こんなところで、和己の背の高さを再確認してしまう。
「あ、和己、うらやましいんでしょ?」潔乃が大きく笑う。
「ばーか、誰がうらやましいか。聞いてて痒くなるからやめろって言ってんだよ」
 僕はふたりのやりとりを笑って聞きながら、ゆっくりと体を起こす。
 そのとき、制服の内ポケットに入れた端末が振動を伝えてくる。端末を取り出し、メッセージを確認する。
 学校で使われる携帯端末よりもひとまわり小さいボディに、比べものにならないくらいの機能を詰め込んだ端末。そのボディ一杯の幅を使った液晶画面に、メッセージの到着を告げるアイコンがゆっくりと点滅している。
 念のために内容を確認する。その瞬間、潔乃の作った晩ご飯は煙のように掻き消える。
「ごめん、用事が入っちゃったよ」
 なぜだか、息を詰めるような表情で僕を見ていた潔乃に謝る。
 潔乃がこくりと頷く。和己が少しだけ表情を曇らせる。
「お前、大丈夫か?」どことなく遠慮がちに言う。
「うん、今日は連れもいるし、大丈夫だよ」
 僕は、制服の襟元を開いて、首からさげた紫色のお守り袋のようなものを示す。
「葛葉さん?」潔乃が小さな声で訊ねる。透き通った声。いつもよりも遠い感じがする声。
 彼女の問いに頷きながら、席を立つ。
 小さな袋の中には、銀のペンダントヘッドが入っている。コインくらいの大きさの古びた銀のプレートに刻まれた五芒星。その中心には、深みのある青色の石。
 式神の依り代には、およそふさわしくないようなものだったけれど、僕がひと通りの修行を終えたときに先生がくれた。
 それ以来ずっと、その式神、葛葉とは、一緒だ。
 
 夕暮れを予感させる弱い光が窓から射し込む。教室の片隅は、薄い影に沈んでいる。
 影の領域に立つ和己が口を開く。
「なあ、真名」
 彼にふさわしくない神妙な声色が僕を緊張させる。
「ん?」
「あんまり、奥さんを心配させるんじゃないぞ」
 さっきの神妙な声とは対極にあるようなふざけた調子で言って、僕の背中をバンッと叩く。
 それがもたらす衝撃の余波に耐える僕を笑顔で置去りにして、和己が教室を出ていく。
「また、明日な」そんな当たり前の言葉を残して。
 いつもなら和己の揶揄に素早く反応するはずの潔乃は、中途半端な笑みを顔に貼りつけたまま、固まったように動かない。
「潔乃、下まで一緒に行く?部活、グラウンドだよね?」僕の言葉に無言で頷いて、リュックを背負う。
 
 廊下はすっかり影に飲み込まれていた。そこではすでに、秋の透明な空気が放課後の喧騒に取って替りつつあった。
 ふたり無言のままで廊下を歩いてゆく。
 僕より少し低い位置の潔乃の横顔を覗き見る。黙っていると少し冷たい印象を与える、シャープな顔立ち。
 長い睫毛が落とす翳が、表情にさみしげな色合いを加えている。
「ねえ、どうして……」潔乃が口を開く。
「おーい、潔乃〜」廊下の向こう側からかけられた大きな声で、潔乃の言葉は遮られる。
 ぶんぶんっとラケットを振っている女の子。
「どうして?」
「ん、何でもない。じゃ、わたし行くね」
 ひらひらと手を振って、声をかけてきた女の子の方に駆け出す。
 二、三歩行って、立ち止まる。振り向いて言う。
「真名、気をつけてね」
 僕は頷く。笑みを浮かべて。
 潔乃も頷いて、もう一度、駆け出す。潔乃の残した風が、一瞬、彼女の香りを伝える。
 やわらかく僕を包む香り。やわらかすぎて、包まれているのが不安になるような、そんな香り。
 
 
 











 
   
「ぐっ」車の僅かな揺れが、全身の細胞に作用し、各細胞が痛みのシグナルを発する。
 不思議なほどリアルな感覚。僕という存在は、こんなに細かいピースの寄せ集めなんだと実感できる瞬間。
「ほら、体の力を抜いて」透き通るように白い肌。艶やかな黒髪。藍色の瞳。冷たい水のような心地の良い声。
 僕の式神である葛葉が、僕の両の手を握りながら言う。
 よく見ると彼女の両手とそれに握られた僕の両手は微かな光りを纏っている。白くあたたかそうな光。
 
「それで、今日はどうしたんですか?まさか、家まで送るために来てくれたわけじゃないですよね」
 僕は、体の痛みが潮のように引いていくのを感じながら、ステアリングを握る男の人に話しかける。
「ああ、昨日の今日で悪いんだが、ちょっと気になる話しがあってな」
 社会的な身分で言えば、国家公務員。けれど、普通の人とはほとんど縁の無い“認識外現象対策室付”の肩書きを持つ、
秋津島さんが、言葉とは裏腹な悪びれない調子で言う。
 一見何の変哲もないダーク・スーツ。細いフレームの縁無しの眼鏡。
 けれど、ルームミラーで僕の視線を確める目つきは研ぎ澄まされた刃のようで。
 どんなに普通を装っても、その目つきで、全て台無しですよ。僕は、心の中で彼に話しかける。
 彼は僕の表情をしばらく見つめた後で言葉を続ける。
「神咲一灯流…、“あかり”の方の灯だが…知ってるな」
「はい、耳にしたことはあります」
 昼間の自分の思考とのシンクロを感じて、少し驚きながら、でも、その驚きを表情には出さずに答える。
「でも、噂では絶えて久しいとか…」
 秋津島さんが、うむ、という否定とも肯定ともつかない言葉を漏らす。
 そして、考えをまとめようとするように、眼前の赤信号を凝視している。信号が緑色の光りを灯す。車がゆっくりと動き出す。彼が口を開く。
「どうやら、また動き出したらしい」
 ふーむと、今度は僕が曖昧な相槌を打つ。
「表の一刀流との関連が今ひとつ掴めんのだが、何かを追って関東に入ったらしいな、裏の使い手が」
――それを訊ねることを政府機関に許さないほどの力。表の神咲はそれを持っている、 ということか。
「伝承者が絶えてると聞きましたけど」
「いや、正確には、時期待ちだったんだ」
「時期待ち?」
「ああ、先代の子供がいてな……、すごい霊力の持ち主らしい」
「ただ――」
「ただ?」
 僕の問いを遮るように、車が静かに止まる。見ると氷川の森に続く細い道の入口。
「さて、悪いんだが、捜し物だ」
「はい?」
「うちの遠読みによると、昨日この森で、とてつもない霊的な力が発現したらしい。しかもそれは夜中に発動して、遠読みが出勤してきた昼前にも尚桁違いの光跡を感じるほどだったそうだ」
「それで?」葛葉が口を挟む。
「何か残ってないか、捜してみてくれ。何か感じないか」
 ふんっと鼻を鳴らして、不満気に顔を背ける葛葉。
「空っぽに近い状態で、どこまでできるかわかりませんが・・・・・・」
「ああ、承知している」
 ほんの少しの沈黙が流れる。
「じゃあ、行きます」僕は、葛葉の癒しのおかげで、ずいぶんと軽くなった体をドアの外へ運ぼうとする。
「相川くん」
「はい?」
「頼まれてたもの、トランクの中だ」
 彼が、トランクのロックを外す操作をする。乾いた音をたてて、セダンのトランクが開かれる。
「じゃあ、行きます」
 
「相川くん」
「はい?」
 半身を車の外に出した姿勢のままで、ルームミラーに映る秋津島さんの目を見る。
「昨日、何か見たって事はないよな?」
「見ましたよ」
 一瞬、彼が息を呑む。彼のこんな表情ははじめて見た。
「とびきり凝り固まったやつを」
 彼がほっとしたように息を吐く。そして、にやりと、口元を歪めて言う。
「それだけ軽口が叩けりゃ、心配ないな」
 結果は端末で連絡してくれ、と一言残して車が走り去る。
 高校の制服のままの僕と一見すると普通の人と変わらないような、ジーンズにブルーのパーカー姿の葛葉が取り残される。
 知らない人が見たら、おそらく、姉と弟のように見えることだろう。
「・・・・・・いつ会ってもやな奴だよ」葛葉がつぶやく。
「そうかな?」
「あんたは甘すぎるの」
 式神にあんた呼ばわりされるのもどうかという気もするな、そんなことを思いながら、僕は苦笑をこぼす。
「ほら、笑ってないでさっさと片づけようよ」
「ああ、じゃあ、行こうか、葛葉」
「うん」
 
 
 
 暮れかけの細い道。向かい側から歩いてくる人の顔がはっきりとは見えないくらいの薄暮。
 古来、『逢魔が刻』と呼びならされた時間の道を、ふたつの人の姿とひとつの影が辿ってゆく。
 その胎内を薄闇に沈めている森へと、ふたりが道を辿ってゆく。






 
 
 






 

 
「ひどい所だね」下生えの湿った草に足を取られ、顔をしかめて、葛葉が言う。
「それに、何だろう?ひどく歪んでる」
「うん」僕は、行く手を塞ぐ枝を、右手に持った錫杖で避けながら答える。
 秋津島さんが用意してくれたそれは、重さも手触りもしっくりときた。
 枝に触れる度に杖の先についた金具のたてる、シャリンッという音がどこか不自然に辺りに響く。
 森の中には黄昏が色濃く漂い、そこかしこに澱んだ陰の中に何かが蠢動しているような錯覚を覚える。
 昨日の夜、初めて足を踏み入れたときには、気がつかなかったこと、空気の歪み、風の淀み。肌がチリチリとするような、人に否応無しに緊張を強いる、そんな雰囲気。
 僕は、いつのまにか握り締めていたこぶしに気づいて、力を緩める。ふーっと、息を吐く。
「なに?」僕のことをじっと見つめている葛葉に気づいて、短く問いかける。
「久しぶりに見たよ、あんたのそんな真剣な瞳」小さく笑いながら葛葉が言う。
 そういえば、仕事に葛葉を連れてきたのは久し振りだった。 修行の意味も含めて、最近の仕事には式神ではなく自分の呪を主に使っていたから。
 
「本当は昨日何か見たんだろ?」
「わかる?」
「わからない訳ないだろ」
 昼間、和己に聞かせた話しを手短かに繰り返す。
「へー、霊剣二刀使いか」
「うん、ちょっとすごかったよ」
「例の神咲だと思う?」
「どうかな?」
「ん?」
 ふたりの会話を遮るように、強烈な霊気の波動が押しよせる。ふたり同時に足を止めて、辺りをうかがう。しかし、一陣の風のように霊波が通り過ぎたあとには、また不愉快な森が広がるばかり。
 こっち?僕は葛葉に波の来た方向を目で訊ねる。
 葛葉が無言で頷く。心なしか顔が青ざめて見える。
 鬱蒼と茂った葉の向こうに、ぼんやりとした光が見える。僕は右手の錫杖を握りなおし、彼女に目配せをしてゆっくりと前に進む。
 鼓動が高まる。さっきまで森から感じていた圧迫感が薄れ、鼓動の高まりさえ心地よく感じる。
 いつもの緊張感、この世に思いを残したもの。凝り固まった念。あるいは霊と呼ばれるもの。そういったものに対峙する直前に感じる、本能的な注意信号とは違った種類の緊張。
 言うなれば、待ちわびた人と、とても懐かしい人と会う直前のような、胸の高鳴り。
 遠目にも光がはっきりとわかる。それは、一本の朽ちかけた大木の根元にあった。
 呪を唱えるときに感じるのに似た、けれど、僕が初めて目にする類の光。
 白く、赤く、暖かく、冷たい、不思議な光。僕は頬を伝うあたたかいものに気づく。
 それをぐいっと袖で拭う。周囲への警戒さえ忘れて朽ちかけの木に駆け寄る。
 洞と化した、大木の幹の中に横たわり、体を丸めた女の子がいる。黒い革のライダース・ジャケット、黒のジーンズ。そっと、耳を近づけると、確かな息吹。
「これは…」僕の後ろに立つ葛葉が狼狽した様子でつぶやく。
 綺麗な紫色のビロードで作られた棒状の袋を抱えて、すうすうと寝息を立てる少女。寝ながらにして、何メートルも先からそれとわかる光を放つ少女。この森、すべてのものを拒否するかのようなこの森の中で、平然として、まるで母の胎内にいるかのような安息を得ることができる少女。
 そして、その少女は、まぎれもなく昨日の“光りの少女”だった。
 気がつくと僕は手を伸ばし、彼女に触れようとしていた。
 まさに、その指先が彼女の頬に触れようとしたとき、「真名、後ろっ」葛葉の声が僕の動きを止めた。その声に反応して素早く振り返る。
 シャンッと音をたてて、錫杖を構える。
 銀色に輝く髪、白い肌、紫と黒の古風な式服を身につけ、ぼんやりとした白光を纏った若い男が、冷徹な視線で僕を見据えている。
 僕はすぐに理解する。 男の姿をしていても、それは、この世ならざるもの。圧倒的な霊力を持つ異形のもの。
「ふんっ、いきなり攻撃してこないだけの知恵はあるか」男の姿をしたものが言い放つ。
「あなたは?」
「俺か?お前に訊ねる資格はあるのか?」
 彼が、深い紫色の瞳で僕の瞳を捉える。僕のすべてを見透かすような瞳。
「ほう、混ざってるな」
 何事かを考えているような時間が流れる。
「ふん、あながち嘘でもなかったということか」ポツリとつぶやく。
 そして、唇の端を歪めながら言う。
「今日は去るがよい」
「この子は?」
 僕は変わらずに寝息をたてる少女を示す。彼は僕の言葉に耳を貸す様子もない。ん?と、僕の後ろに立つ葛葉に初めて気づいた様子で、訝しげな表情をつくる。僕は彼の視線を辿って葛葉を見る。彼女は、今までに見たことも無いような、青ざめた顔をしている。
「名前は?」葛葉から視線を離さずに彼が言う。
「え?」
「お前の名だ」
「相川真名」
 彼は相変らず葛葉を見つめづけている。しかし、今、その瞳にはさっきの冷徹さとは違った種類の色が浮かんでいる。
 それは慈しみ?あるいは、哀れみ?そのどちらともつかない、けれど、どちらでもあるような、やさしい視線。
「あれは、お前の使いか?」
 彼が僕の方を見て、葛葉を示して訊ねる。僕は、無言で頷く。彼はまた葛葉に視線を移す。
 
「御架月」
「え?」
「俺の名だ。憶えておけ」
 
 彼の声が消えた後、森には虫達の声が溢れる。木々の葉の隙間から、細い銀の糸のような月の光が射し込む。
 昨日は、静寂と憎悪に満たされていたこの森。しかし、それは今、様相を一変させていた。
 彼女の波動。彼女の光。それが、まるで寄せる波のように森を洗い、そこに溜まっていた澱を流し去っていた。
 今は祝福に溢れている森。僕の体にも力が漲る。洞に眠る少女の輝きが増す。
 青ざめたままの葛葉を促して、森の出口へと歩き出す。今日するべき事はすべてやった、不思議とそんな確信があった。
 
「どれほどの時を過ごした?」
 彼がつぶやく。静かな声で、夜を照らす月のような声で。
「・・・・・・思い出せぬ程」
 僕の前を歩く葛葉が振り返りもせずにささやく。僕は振り返る。しかし、そこには最早、その姿はなかった。
 そこには虫の音が広がっているのみ。
 銀の月に照らされた森に、ただ虫の音が響くのみ。













 第三章に続く



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