「夜は、やさし」
Night will calm, if you wish
 
 
第一章
I.D.(Identification) −1.  
 











 森は激しく息づいていた。 走り抜ける僕の後ろから、からかうようにその吐息を吹きかけてくる。
 僕は走っていた。最早それしか術はなかったから。
 ひとつの過ち、それはこの森を見誤ったこと。ひとつの不運。最初にこの森に足を踏み入れた、その日にあいつと出会ってしまったこと。
 たったふたつの理由だけで崩れ去ろうとする脆弱な生。所詮はそれが人の定めなのだろうか。
 僕は萎えそうになる心を奮い立たせる。諦めることだけはすまいと。
 
「あいつ」。今、僕に追い縋って、その闇の顎で、僕を飲み込もうとする異形のもの。
 胸が熱かった。激しい鼓動は、とうに息苦しさを通り過ぎて、熱さだけを伝えてくる。
 ぬるりとした、嫌な感触が背中に迫る。それは、人の生理に直接訴えてくる嫌悪感。
 あいつがうれしそうに舌なめずりしている表情さえ見える気がする。
 どうやらこの森は、あいつの味方をすることに決めたらしい。僕の足は複雑に絡み 合った木々の根に絡めとられる。
 前のめりに倒れる。そのまま転がり、素早くあいつに対峙する。
 無駄なことと知りながら、それでも、自分の運命をしっかりと見据えるために。
 
 あいつがにやりと笑う。はっきりとした形を持たない、けれど、妙に質感のある靄のようなもの。
 その向こう側では、夜の森が素知らぬふりで、沈黙を決め込んでいる。
「前に朱雀、後ろに玄武……」
 印を結び、呪を唱える。心の波が静まる。体のうちに光が漲る。
 しかし、それは僕の体を出た瞬間、拡散してしまう。あいつはそんな僕のあがきをうれしそうに見ている。
 何回かの瞬き分の、かりそめの静謐。
 もう十分に無力感を味あわせたと思ったのだろうか、ゆっくりと靄が揺らぐ。
 顎が開く。それは、闇への扉。
 閉じようとする瞼を意志の力で支える。
――自分の進む道から目を逸らさないこと。
 それは約束だったから。遠い日にたいせつな人と交わした、たったひとつの約束だったから。
 だから、終わりさえも見届けなければ。
 頭の中は真っ白だった。走馬灯なんて回らないんだな、ぼんやりとそんなことを考える。
 こんな瞬間に、意外と冷静な自分がおかしかった。
 
「――――流、無尽戟」。静寂を破って、声が響く。木々が、不意打ちを食ったかのようにざわめく。
 刹那、赤い光と白い光が「あいつ」を切り裂く。ふたつの光は両肩から袈裟懸けに走り、十字に交差する。
 永遠とも思える瞬間が過ぎ去って、靄が消え去る。僕は、自分がこちら側の世界に留まっていることを知る。
 目の前には、抜き身の刀を両の手に持った少女が立っている。
 ひとつの刀身は白銀に輝き、もうひとつの刀身はぼんやりとした赤い光に包まれていた。
 小柄な体を、肌の白さを強調するような、黒一色の服に包んだ少女。
 額にかかる黒髪。森の闇に溶け出しそうな漆黒の瞳。無表情なまま僕を凝視している瞳。
 
 その体は、今まで見たことの無い色合いの光りを纏っている。
 あたたかさと冷たさが捻じり合わされたような、慈悲と冷酷が縒り合わされたような、けして混じり合わないものでつくられた、
複雑な模様。

 ふっと、体の力が抜けていく。
 僕が最後に見たのは、不思議な色合いの少女・・・・・・。
 森の闇に佇む、光りの少女…。
 







 








 

 僕は誰かに手を引かれて、宵闇を歩いていた。今よりもずっと低い視点。
 小さく切り取られ、限定された世界。
 辺りには人家は無く、明かりといえば、空に浮かぶ頼りなげな三日月ばかり。
 幾度となく繰り返された、かりそめの情景。現実に起こったことが、現実にあった風景が、人の心の中に静かに入り込んで
繰り返し繰り返し、その姿を見せること。
 それには、どんな意味があるのだろうか?
 あるいは意味なんて何も無くて、それはただの生理的なメカニズムがもたらすフラッシュバックに過ぎないのだろうか。
 
 いつもと同じ場所で、僕の手を握るあたたかな手が立ち止まる。
 僕はその人を見上げる。そして、その視線を追うように彼女の見ているものを見つめる。
 視線の先には、闇に沈む濃緑の固まり。どこか、人を拒絶しているような印象を与える冷たい森。
 
『まさな、森は好き?』やさしい声で問われる。
 僕は黙ったまま彼女を見つめる。
『わかんない』小さく答える。
『そう』やわらかく微笑んだ彼女の表情を壊すことが嫌で、僕は慌てて言葉を続ける。
『でも、木は好きだよ。いつでも、やさしく光っているから』
『そう』もう一度、彼女が微笑する。
 そして、まさなには見えるのね、と呟く。
 
 森の中には、光が無かった。三日月の細い光は、濃緑の天蓋に遮られて、森の底には届かなかった。
 僕は、自分の手さえも見えない闇の中を、あたたかい手に導かれて歩いた。
 ときどき、聞いたこともないような獣の声がした。虫が絶え間なく、鳴いていた。
 
『まさな、怖い?』
 頭の上の方から、変わらないやさしい声が聞こえた。
『うん、ちょっとだけ』僕は、最大限に控えめな答えを返した。本当は、今すぐに叫び声を あげてこの場所から駆け出したかった。
 暖かい光に照らされた、生きた人間が歩く街に戻りたかった。
 それ程に、夜の森は圧倒的な質感を持っていた。目に見える闇が実体を持って、体を押し包んでくるようだった。
 けれど、彼女と一緒に居ることができる時間は本当に限られていたから、僕は、自分の中の恐怖を押え込むことを選んだ。
『でも、平気だよ』
 彼女が少し笑ったような気がした。
 
『目を閉じて』静かな声がそう告げた。僕は言われるままに目を閉じた。
『耳を澄まして』耳を澄ました。虫の声が変わらず聞こえた。それは、森の息吹のようにも思えた。
『大きく息を吸って、そして、吐いて』息を吸った。そして、ゆっくりと吐いた。『さあ、目を開けて』僕は目を開いた。
『もう、怖くないでしょ?』彼女が言った。
 僕は反射的に彼女を見上げた。微かに笑う彼女の表情が見えた。確かにもう怖くなかった。
 森はやさしい闇に沈んでいた。先程までの圧迫感が嘘のように消えていた。
 ――まさな
 ――忘れないでね
 ――あなたはいろんなものの声を聞くことができる
 ――いろんなものを見ることができる
 ――それは・・・・・・



 
 そして、いつものように終焉は訪れる。その言葉を遮るように、森は灰色に溶け出す。
 僕はその言葉を終わりまで聞くことができない。三日月が地に降り、天空はその扉を開く。
 それらがひとつに混ざり合いながら僕の中に入り込んでくる。僕のいちばん奥。
 そここそが、自分たちの居場所であると、定められし場所であると言わんばかりに。
 ゆるやかに、ごく自然に。
 



 
   
       








「ま…な…」
「…まさな」
「ほら、真名、起きなよ」
 誰かが僕の名を呼びながら、体を揺り動かす。その動きに呼応して、体中の筋肉が悲鳴を上げる。
「ぐあっ」僕は体を起こすこともできずに、呻き声とともに、瞼だけを開ける。
 声の主はわかっていた。小学校からのつき合い。小さな頃から、いつも、隣にいて、ちょこちょこと僕の世話を焼いてくれる女の子。
「き、潔乃、頼むから触んないで」僕は情けない声で頼む。
「ねえ、もうお昼だよ」唇を尖らせて潔乃が言う。
「今日は、“サンクス・デイ”でしょ?」物心ついたときには母親がいなくて、男手ひとつで育てられた僕。
 父親は料理の上手い人だったけれど、彼の仕事がそれに費やす時間を与えてくれなかった。だから、もうずいぶん長い間、
近所に住む潔乃が我が家のメイン・ シェフを務めてくれている。
 そんな潔乃への、感謝を込めて、月に一回、僕がお昼をおごる日。それが、“サンクス・ デイ”。
 僕の申し出を聞いて、うれしそうに潔乃が名づけた、ふたりだけの取り決め。
「きょ、今日だけは、勘弁してくれないかな?」潔乃を見上げながら懇願する。
 もう、まったくと、ぶつぶつ文句を言いながら、それでも、僕の分の昼食まで買いに食堂へ向かう潔乃。
 僕は、すらりとして、けれど、明らかに僕とは違う種類の線で描かれている彼女の後ろ姿を見送る。情けなく、机の上に突っ伏した姿勢のままで。
 
「なんだ、真名、どうした?」
 高校に入ってからの一番の友達、和己が話しかけてくる。
 僕は、姿勢を変えずに声を潜めて説明をする。昨夜の依頼のこと。氷川の森に行ったこと。九死に一生を得たこと。そして最後に見た“光りの少女”。
 
「そういや、あの森、昔っからおかしな話し多いもんな」
「そ。で、最近、あの森の近くで立て続けに三人、行方不明になったんだよね」
「そっか、それで、真名せんせいのお出ましってわけか」
「はは、その筈だったんだけどね」
 全く、迂闊だった。ずっと言い伝えられてきた忌み場所。それには、必ず意味がある はずなのに。
 僕は、慢心していたのかもしれない。式神も連れずに、自分の持つ呪だけで問題を解決できると、たかを括っていた。
「で、何があった?」
「いたよ、見事なくらい凝り固まったやつが」
 ふーん、と声にもならない声を和己が漏らす。
 そう、“あいつ”だけなら、呪で十分だった。けれど、あの森は特殊場だった。呪の力を無効化する空間。
 いや、大地や空気や木々や、すべてのものから何らかの助けを借り、力を得るのが呪の本質だとすれば、その要請を一切受けつけない空間。
 人を徹底的に拒絶して、その手を差し伸べない場所。
「なんで、『夜は氷川の森に入っちゃいけない』って言われてるのか、身にしみてわかったよ」
「でも、お前の力が通じなくて、どうやってそいつを還したんだ?」
 和己の当然の問いに僕は口篭もる。
――あれは、幻だったのだろうか?
 いや、映像は確かに脳裏に残っている。目の前に迫ったあいつの、中心で交わる赤 い光と白い光。そして、闇に佇む漆黒の瞳の少女。
 けれど、あの瞳は・・・・・・。
 
「うーん、自信ないんだけどさ、別の祓い師が助けてくれたんだよ」
「ほー」
 かわいい女の子だったよって言ったら、和己はどんな反応をするだろうか?
「でも、何で自信ないんだ?気でも失ってたか?」
「いや、誰かを見た気はするんだけどさ、気がついたら、放り出されたままだったから」
 僕の言葉を聞いて、和己が笑う。
「なんだ、お前、森に置いてきぼりにされたのか」
「いや、森の中じゃないんだけどね」
 和己が僕の口元をじっと見つめている。
「朝、気がついたら、森の近くの道端で寝てた」
「ふーん」笑い出しそうな、不安そうな、曖昧な表情で和己が言う。
「ま、無事で何よりだ」バンッと思い切り、僕の背中を叩く。
 僕は、呻き声を漏らすだけ。でも、痛みも悪くないなと思った。
 何にせよ、僕はもう少しで痛みさえ感じることの無い世界へと、足を踏み入れるところだったのだから。
 
「あ、また、バカずきが、真名いじめてる」
 両手にパンと飲物を抱えた潔乃が、和己を責める。和己は、軽くいなして、廊下へと出ていく。その背中に舌を出してみせる潔乃の表情をぼんやりと見つめる。
 そのとき唐突に、なにかが僕の頭のキーを叩く。
―――そうか、あれは。
 でも、あれは失われたはず。自らの霊気をそそぎ込み、自在に剣撃を加えることができるという、伝説の式具。“霊剣”。
 永遠に力を失わない、伝説の霊剣。それには、生きながらに捧げられた魂が宿るという。
 そして、その霊剣を代々伝える裏の神咲。
 退魔の世界に隠然たる力を持つ、表の神咲、“神咲一刀流”に比して、裏の神咲、“神咲一灯流”はあまりに謎に包まれていた。
 ただひとつだけはっきりとしているのは、いつの頃か、その伝説の霊剣とともに神咲 一灯流が、退魔の世界からぷっつりと姿を消したこと、それだけだった。
 
「ほら、真名、ボーッとしてないで、食べなよ」前の席に後ろ向きに座った潔乃の言葉が、僕を現実に引き戻す。
 小さく千切ったパンを差し出してくれる。
 僕は、黙って口を開く。そして、その形の良い手からパンを食べる。
 見ようによっては、かなり恥ずかしい光景だけど、僕も、潔乃も、クラスのみんなも、もう慣れてしまっていた。
 仕事で霊気を使い果たしたあと、体の自由が効かなくなるのは、これが初めてではなかったから。
 一部の例外を除いて、僕の仕事を知るものはいなかったけれど、僕が何らかの理由で体の自由がきかない程の疲労に襲われることがあること。
 その事実だけは、クラスメートに受け容れられてるようだった。
 このクラスは、何というか、わりと他人のことについては無関心な人間の集まりなのかもしれない。
 
 潔乃の差し出す紙パックのジュースのストローをくわえる。
―――でも、あれは、確かに。
 霊剣使いはそう数が多くない。
 刀という媒体に霊が憑いた、“憑き物”と言われる霊剣でさえ、現存するものは僅かだろう。
 僕が一度だけ会ったことのある霊剣使い。彼が使っていた“飛燕”という名の霊剣とは 桁違いの力が、彼女の持つふた振りの霊剣からは感じられた。
 しかも、ひと振りの霊剣、飛燕のような憑き物の霊剣でさえ、使いこなすのは至難の技と言われているのに、二刀を、同時に振るってみせたその霊力。
 すいぶん、幼い感じだったけどな…。僕は、少女の面影を思う。そして、その瞳を思う。
――― どうして、彼女はあんなに冷たい目をしていたのだろう?
 
「ほら、真名、さっさと食べるっ」言いながら、潔乃が、僕の口にパンを押し込む。
 無理矢理、押し込まれたパンに、軽く咽る。潔乃が慌てて僕の背中を叩く。僕は、また呻き声をあげる。
「なんだ、お前も、同じことしてんじゃん」
 いつの間に戻ってきたのか、和己が笑いながら潔乃に言う。
「ち、違うよ、これは真名が…」言い返す潔乃の言葉を遮るように、チャイムが鳴る。
 潔乃が慌ててパンの空き袋や紙パックを片づける。そして、僕の隣の自分の席に戻る。
 ガラリと扉が開いて、午後、最初の授業の担当教師が入ってくる。
「起立、礼」
 僕は、号令に従って、重い体を動かす。











 第二章に続く


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