Second Line

 
 Chapter 3.
 
with or without you







 私は彼の言葉をちゃんと聞いていたのだろうか。
 何度もそう考えた。
 彼は、この町を出たい、と言った。それを私に話してくれた。でも、私はその理由を訊ねもしなかった。すぐに会えなくなる場所に彼が行ってしまうことがどんなことなのか、私はちゃんと考えただろうか。
 私はどこか遠いところで彼の言葉を聞いていたのかもしれない。自分の気持ちだけをどこかに切り離しておこうとしていたのかもしれない。
 私の気持ち、彼を好きだという気持ち。心の容器から溢れてしまうように無意識のうちに態度に表れるそれに、自分では気づかないフリをしながら、でも、彼には気づいてほしくて。彼だけに私と向かい合うことを強要していたのかもしれない。


 もしかしたら――、一人で眠れない夜にはこんな考えが浮んだ。
――もしかしたら、私が言うべきことを言わなかったから、こんなことになったのではないか、と。
 私は、いつまでもそれを先送りにするべきじゃなかったんだ。きっと、言うべき瞬間はいくつもあったんだ。
 リズムラインに差し挟むクラッシュ・シンバルが、タイミングを外してしまったら、ひどく間抜けに聞こえるように、私の大切な言葉も、今では全く意味のないものになってしまった。
















 カレンダーが七月に変わった途端に、長くつづいた雨が幻だったかのように、青空が連続して訪れた。
 それはまるで、彼らの間であらかじめそう決めてあったかのようだった。

―――六月までは雨の取り分、七月からは晴れの取り分。


 良太の曲は少し典型的すぎるきらいはあったけれど、たしかに良い曲だった。
 七月に入って二回目、試験の直前の月曜日に久しぶりにスタジオに入った。Infiniではなく、学校に近い、最近できたスタジオ。今年に入ってから、月に一度は、練習にそこを使うようになっていた。

 音の出るドラムを叩くのは、気持ち良かった。
 良太のベースは最近シャープさを増したように思う。去年の今頃は、ただ厚みのある音を出すこととリズムをキープすることだけにこだわっていたのに、今ではそこに切れ味が加わっていて、私は聴いていてたまに驚くほどだった。
 広紀のギターは相変わらず上手かった。もともと入部したての頃から、テクニックには不安がなかった。でも、最初のうちは、私と良太がリズムをあわせてあげないと、一人きりでどこかに行ってしまいそうな感じがあった。
 けれど、最近ではそういった面が消えて、自分で流れを掴むことができるようになっていた。プレイ中に私たちの表情を確かめて、次の展開を読む余裕さえあるようだった。


 やはり、みんなで音楽を作ることは楽しかった。ひとつの音を重ねる。音を繋げてメロディーを作る。それはうねりになって、私たち自身を飲み込んでゆく。最初に思ったような演奏ができることもあれば、プレイし終わったときには、最初に考えもしなかったようなものができてることもあった。そして、それは毎回毎回、確実に変化していくものだった。
 今の演奏と、ひとつ前の演奏は似ているようで、でも、決定的に違うものだった。広紀のギターソロの音の伸ばし方だとか、エフェクトのかけ方だとか、良太のベースのチョップの仕方だとか、そういう細かいところが違うだけで、演奏全体が全く違ったものになった。

 それは、定着することのないものだった。いつまでも変わり続けていくものだった。


「うん。大体こんな感じじゃないか」今日最後のバスドラムの余韻が残るスタジオで、私は汗を拭いながら、二人に言った。
 二時間のスタジオ練習で、良太の書いてきた曲の大体のイメージを固めることができたように思えた。
 二人からは私の言葉になんの反応もなかった。広紀から反応がないのはいつものこととしても、良太からなにも反応がないのはめずらしい。私はちょっと不安になって、良太の顔を見た。
「な、良太、悪くないだろ?」
 良太はベースから外したシールドを巻き取りながら答えた。
「ああ、悪くはないな」
 その声には、不満の響きが含まれているように感じた。
「悪くはないって、良くもないってことか?」
「お前にはいいと思えたか?」良太がそう問い返してきた。
「えっ?」私は不意の質問に答えられなかった。
「美香は今のプレイ、いいと思ったかって訊いてるんだ」
 良太が言いたいことがわからなかった。広紀はギターをバッグにしまって、私たちのやり取りをじっと聞いていた。
「…いいと思ったかって、悪いところなんてなかっただろ?音だって、リズムだってバッチリ合ってたじゃないか」
 良太が小さくため息をついた。そして言った。
「上手く言えないけどよ」
「ただ、音が合ってるだけの音楽っていい音楽なのか?」
























『よし、じゃあ今日はここまでにしようか』
 学園祭用の曲に何とか目途がついたところで、純が言った。その額には、うっすらと汗が滲んでいた。窓を開け放してあるとはいえ、狭い部室の中はクラクラするくらいに暑かった。
 みんな汗をかいていた。綾菜がすごくほっとした表情をして、手にしたタオルで汗を拭った。最近の綾菜は練習のとき、特に音合わせのときには、前にも増して神経を集中しているように感じる。それは、練習が終わった後に、そのまま倒れてしまうのではないだろうかと心配なほどだった。
 私は見てられなくて、一度声をかけたことがあった。
『もう少し力抜かないと、リズムがずれちゃうよ』と。綾菜は曖昧に笑って、なにも答えなかった。少し困っているような笑顔だった。そんな綾菜の表情を見たのは初めてだった。
 私はその表情を見て、それ以上なにも言えなくなってしまった。

 視線を移すと、洋平が綾菜をじっと見つめていた。自分の汗を拭おうともせずに、ただ、じっと。
 洋平の視線はひどく真剣で、私はなぜか微かな不安を感じた。洋平と綾菜がつき合っているのは知っていた。それは、あの無人島での合宿を境に、暗黙の了解から衆知の事実へと変わっていたから。
 けれど今、綾菜を見つめる洋平の視線からは恋人を見るときの、甘さとか浮かれた気持ちはまったく感じ取れなかった。
 そこにあったのはどんな種類の感情だったのだろう。洋平の視線の中に感じたものを、今でも私は上手く表現することができない。
 それはとても真っ直ぐな視線だった。真っ直ぐすぎて綾菜を通り越して別のものを見据えているような視線だった。
 洋平は一体、何を見ていたんだろう?
 きっと、私には一生わからないと思う。


『それにしても、そろそろ歌詞入りでやりてえよなあ』良太が大きな声で言って、同意を求めるように私を見た。
『そうだな。私もラララ〜って、ハミングばっかするのは疲れたよ』私はそう言って、純を見た。
 純は少し困ったような顔で笑った。
 私は、純が、私が歌うということを前提に歌詞を考えると言ってくれたことを思い出して、なぜか、妙に恥ずかしくなった。
『いい加減、パッド叩くのにも飽きたよ。純、今度はいつだっけ?スタジオ』
 頬が赤くなっているような気がした。それを誰かに気取られそうで、私は話題を変えた。
 でも、このところ部室に持ち込んだ練習用のパッドを叩くだけで、欲求不満気味だったのは嘘ではなかった。
『ああ、それなんだけどな…』純も私たちの追求がひとまず終わったことにほっとしたような声音で、私の質問に答えてくれた。
『あ、俺もそろそろでかい音出したいと思ってたんだよな』良太もあっさりと話題転換についてきた。
『それに、この欲求不満女にスティックで頭叩かれるのイヤだし』
『あら、誰のことかしらね』私は手にしたスティックをくるくると回しながら、良太に言った。
『回すな。それに、俺の方に向き直るな。距離を詰めてくるな』良太が、ベースを盾にするようにして言った。
『Infiniも結構ふさがってるからな。隣町にスタジオができたって話だから、近いうちに見に行ってみるよ』純が、私と良太の悪ふざけをまるっきり無視して言った。
『大丈夫か?受験勉強もあるんじゃないか、何だったら私と良太で…』
『いや、これも部長の仕事だからね』純が笑って言った。
『じゃあ、次は夏休み明けですね』洋平が言った。
『ああ、そうだな。取りあえず、夏休み中の練習は今日で終わりだ。みんなちゃんと宿題を…』
 純の言葉が終わるのを待たずに、良太が部室の扉を勢いよく開けた。綾菜と洋平が今日はどこに行こうか、とか、冷たいものが欲しいなとか言いながら、ギターバッグを肩にかけて部室を出て行った。
『…やるんだぞ』純の語尾が小さく消えた。
 私は小さく笑いながら、その横顔を見つめた。私の視線に気づいて、純が私を見た。
『ん、どうした?美香』
『どうもしないよ』開け放した窓から強い風が入ってきた。純は目を細めて、その風を味わうような表情をした。

『綾菜も調子を取り戻したみたいだな』
『うん』
『洋平もよく練習してるみたいだし』
『そうだね』
『良太も上手くなった』
『琴平最強のリズム隊だよ』
 純が私の言葉にひとしきり笑って、言った。
『ああ、美香には何の心配もしてないよ』
 私はくすぐったいような気持ちを感じた。
『あとは…』
『あとは、私を泣かせる歌詞だけだね』
『そ、そうだな』
『できそう?』
『できるさ』純が、私の思っていたよりも、ずっと力強く答えてくれた。私はなぜかとてもうれしくなった。
 ありがとう。そう言おうと思った。でも、言わなかった。
『ま、もしできなかったら、純が歌えばいいんだし』
『や、だから、俺は歌わないぞ。だいたい、歌詞はどうするんだ?』
『良太にでも書かせればいいじゃない。あいつ、喜んで書くと思うよ。内容は保証しないけど』
『…やっぱり、寺かな?』
『どうだろう?そうじゃないかな』
『…それは、すごくイヤじゃないか?』
『うん、すごくヤだね』
 私たちは声を合わせて笑った。もう一度、風が吹いた。
 カーテンが揺れて、純の姿が一瞬隠れた。でも、風が止んでカーテンが元の位置に戻ったときには、純はちゃんとそこにいた。
 いつもの笑顔でそこにいた。








『じゃあ、またな』
『うん、次は夏休み明けだね』
 商店街を抜けたいつもの場所で、純と別れた。夏の午後。物心ついたときから、どの夏にも聞いているせいで、意識の中に刷り込まれてしまったセミの啼く声。真っ直ぐに降り注ぐ陽射し。遠くに見える濃い緑色の山々。そのどれもが、目を瞑るとすぐに思い浮かべることができる、私たちの夏の風景。
『休みのうちに、スタジオ見に行っとくよ』
『うん、よろしく』
 純が一瞬下を向いた。私も彼の視線を追って、地面を見た。どこまでも続いていくように、どこで見ても変わらないアスファルトが見えた。
『なあ、美香』
『な、なんだ?』突然の真剣な声に、戸惑いながら、純の顔に視線を戻した。
 純がじっと私を見つめていた。私は息を詰めたままで次の言葉を待った。
『いや、何でもない。宿題、ちゃんとやれよ』
 私は力が抜けるのを感じながら、でも、言い返すことだけは忘れなかった。
『なんだそれ?小学生じゃないんだぞ…』
 純が笑いながら、何も言わずに手を振った。
 私は割り切れない気持ちで、その後ろ姿を見送った。一体、純は何を言いかけたんだろう。そう思いながら。






 セミの声が聞こえた。聞こえたはずだと思う。
 夏の午後だったから。何度も繰り返したのと同じはずの、夏の午後だったから。
























 部室の窓を開け放して、私はぼんやりと外を見ていた。
 七月の惜しみなく降り注ぐ陽射しを全身に受けて、試験直前の放課後の学校は静まりかえっていた。
 この強い陽射しの下では、旧校舎と継ぎ足された新校舎の違いが強調されるようだった。
――そういえば、綾菜はこの校舎が大好きだと言ってたっけ。終業式の日、帰り際に、名残り惜しそうに校舎を振り返っていた横顔を思い出す。
 脈略なく浮かんでくる思い出に半身を任せる。残りの半分で、私は考えつづける。
 この前のスタジオで良太が言った言葉の意味を。

『ただ、音が合ってるだけの音楽っていい音楽なのか?』

 良太はそう言った。
 確かに、何かが足りない気はする。去年の私たち、純、綾菜、良太、洋平、そして私の五人で演っていた頃に比べると。
 でも、それは仕方がない。そんな気もする。だって、私たちはあの頃の私たちではないんだから。人数だけじゃなく、メンバーだけじゃなく。もっと別の何かが、あの頃の私たちとは違うんだから。


 急に髪の毛を揺らした風に驚いて顔を上げると、部室のドアに手をかけて広紀が立っていた。ドアが開く音に全然気がつかなかったな、そう思いながら、私は反射的に声をかけた。
「広紀、今日は部活、休みだよ」
 広紀が頷いて、部室に入ってくる。今日はギターバッグを持っていなかった。
 左肩にきれいなブルーのリュックを提げていた。
 広紀が真っ直ぐに歩いて、片づけられた方の棚の前で立ち止まった。
 そして何も言わずに、そこに置かれたアコースティックギターをじっと見つめた。
 私には広紀が何を考えているのか、全くわからなかった。
 しばらくの間、ぼんやりとその姿を見つめた。私より少し高い身長。良く日に焼けた肌。話しかけることをためらわせるような、鋭い瞳。だけど顎の線はどこか少年っぽくて、ギターバッグを持っていないことが、彼をいつもより幼く見せていた。
 私の視線に気づいていないのか、広紀はじっとギターを見据えたままだった。

 私は何かを話しかけようと思って口を開いた。だけど、どんな言葉も浮かんでこなかった。仕方なく、小さなため息をついて、窓の外に視線を移した。グラウンドに伏せるような姿勢で置かれたハンドボール用のゴールが日に晒されているのが目に入った。
ゴールに塗られた赤と白がくっきりと見えた。それは、あまりに鮮明すぎて、かえって造りモノのようだった。陽光が、少しずつ色素を奪ってゆき、最後には色がなくなってしまうのではないか、なぜか、私はそんなことを考えた。

「部長」
――色のない世界っていうのはどんな世界だろう。
「部長」
 広紀の声に我に返ると、彼は部室のドアの所に立っていた。右手に棚に置いてあったはずのギターを持っていた。
「な、何?」
「俺、帰ります」
「あ、ああ。え、ギターどうするんだ?」
 私に言われて初めて気づいた、というように広紀が右手のギターを見た。
「弦、緩んでるから」
「え?」
「弦、張りなおしときます」
「い、いいんだよ。それは、弾くわけじゃないから…」
「でも、張りなおしときます。その方が良いと思うから」
「そ、そうか」ここに、あのギターの姿がないのは寂しかった。でも、それ以上何と言って広紀の申し出を断わればいいのか、わからなかった。
 私は為す術もなく、広紀の背中を見送った。ほっそりとした後ろ姿。大き目の白い半袖シャツ。細身の黒いズボン。
「部長」広紀が背を向けたままで言った。
「なに?」
「良太先輩の曲、キライですか?」
「え、なんで?」
 広紀が振り返って私を見た。私は彼の視線を避けた。問い返した私には答えずに、広紀が別の質問を口にした。
「これ、誰のギターですか?」
「そ、それは…」


 広紀の背中がしばらくの間、私の言葉の続きを待っていた。
 そして、あきらめたように、ドアの向こう側に消えた。





















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(2000/09/05)

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