―― 忘れて、しまったかな?
 
忘れるわけがないさ
 
―― じゃあ、思い出させてしまったかな?
 
……………………
 
 
 







 
 
 
青い車
blue automobile
 
 






 
 
 
 
「朝ですよ」遠くから聞こえてくる声。
「祐一さん、朝です」ゆらゆらと体が揺れる感覚。
 緩慢に覚醒へと向かう意識。
「朝、ですっ」がばっとはぎ取られる掛け布団。冷たい空気が一瞬で俺を包み、意識は覚醒への階段を転げ落ちる。
 恨めしげに目を開いた俺の視界には、腰に手を当てて、少し得意げな表情をつくった俺の大好きな女の子。
「栞、お前〜」俺は、そう言ってためを作ると一気に起きあがって、少し伸びた髪を後ろに纏めて無防備になっている栞の首筋を掴む。
「きゃっ、つめたいよ」栞が、首を掴まれたことよりも、掴んだ俺の手の冷たさに驚いて、短い叫びをあげながら俺の方に倒れかかってくる。
 俺は、しっかりとその細い体を受け止める。そして、ゆっくりと栞の唇に自分の唇を重ねる。
 やわらかさを味わうだけの、軽いキス。
 ちょっとの間俺に体を預けていた栞が、何かに気がついたように、ぱっと体を離す。
 そして、ベッドの脇に立って、エプロンを直したりしている。少しだけ、頬が紅いのがかわいくて俺は言った。
「な、栞」
 栞が、何ですか、という表情で俺を見る。
「また、起きてすぐ牛乳飲んだだろ?」
 ちょっとだけの考える間のあとで、栞が傍らにあった、俺のシャツを投げつけてくる。
「ば、ばかなこと言ってないで、さっさとご飯食べちゃってください」
 そう言うと、ドアを乱暴に開けて、部屋を出ていってしまった。すぐに続く、階段を降りる足音。
 からかい甲斐のあるやつだな、俺はひとり微笑みながら、栞の投げつけてきたシャツを手に取る。寝間着替わりのスウェットシャツを脱いで、そのシャツに着替える。
 3月も終わりとはいえ、この街の夜気はつめたい。その夜気の名残りのようなシャツのつめたさを心地よく感じながら、俺は部屋のドアを開けた。
 
 




「へえ、一見まともな料理が並んでるじゃないか」
 俺は、リビングに入るなり、コーヒーの香ばしい香りに食欲を刺激されながら、憎まれ口を叩いた。
 何というか、こういう言葉は知らず知らずのうちに口をついて出てくる。
「朝ご飯抜きがいいんですか?祐一さん」多少のことでは動じなくなってしまった俺の彼女が、コーヒーポットを提げてキッチンから出てくる。
 いつもとは違う風景。いつもは、ここには別のふたりの女性がいる。
 けれど、そのふたりは、昨日から家を空けていて、そのおかげで、俺と栞は、こうして、ふたりきりの朝を過ごすことができている。
「あ、嘘です、栞さん。お腹空いてるんです、俺」俺は、ふざけた調子でそう言いながら、 栞の手のコーヒーポットを受け取ってテーブルへと運ぶ。
 栞はにっこりと微笑むと、再びキッチンの中に姿を消す。
 暫くすると、何かを炒める音と、美味しそうな匂いが、キッチンから流れ出してきた。
 
 
 

「えっと、今日はどこに行きましょうか」
「商店街」
「近すぎます」
「じゃあ、噴水の公園」
「歩いて行ける距離です」
「思いきって、高校にでも行ってみるか」
 美味い朝食のお陰で、すっかり覚醒した頭をフル稼働させて、俺は俺の彼女をからかう。
 
 

 
『祐一さん、祐一さん、わたし、免許取れたんですよ』
 それは、一昨日の夜更けの電話。
『そうか、俺は金輪際外を出歩かないことにするよ』
『えっ、どうして?』
『いつ、見知らぬ車に突っ込まれるかわからないからな』
『大丈夫ですよ、ちゃんと相手を選んで突っ込みますから』
 からかい甲斐のない、冷静な調子で、そんな言葉を返してくる。
 ひとしきり二人で笑った後、ラインには一瞬、静寂が流れる。
『それでね、祐一さん』ちょっとだけあらたまった口調。
『ドライヴにつき合ってくれませんか?』
 
 

 
「じゃ、着替えてきますから、お皿、洗っといてくださいね」
 栞が、そう言って、椅子から立ち上がる。
「おい、まだ朝のミーティングが終了してないぞ、目的地も決まってないじゃないか」
「祐一さん、時間稼ぎしてませんか?」
「そ、そんなこと全然ないぞ」
「何で噛んでるんですか?」
「とにかく」
 栞が、腰に両手をあてて言った。どこかで見たような姿だな、俺はぼんやりと思いながら、勇ましい自分の彼女の姿を見つめる。
「15分後に玄関に集合です」
 ああ、そうか。俺は、温かいお湯で、皿の洗剤を流しながら、つい笑ってしまう。
 さっきの腰に手をあてた姿、美坂に似てたんだな。
 俺の元クラスメートで、栞の姉、万年クラス委員の美坂香里。
 そのホームルームのときの姿を懐かしく思い出しながら、俺は皿洗いに勤しむ。
 
 
 予想に反して、以外と手慣れた様子で、普段は使われてない水瀬家の車庫から、リッタークラスのハッチバックが出て来た。
 俺は、一応、車道に出て誘導の真似事をしてみる。しかし、お世辞にも広いとは言えな い水瀬家の車庫に、昨日の夜、たいして戸惑いもせずに、車庫入れを済ませた栞の腕前を考えると、そんな必要もないのかもしれなかった。
 きれいな青色の車が、俺の目の前で止まり、ウィンドウがするすると降りる。
 黒いバンダナをリボン替わりにして、髪の毛をきれいに纏めた栞が、今日の太陽のような笑い顔で言った。
「さ、出発ですよ、祐一さん」
 
 


 空はきれいに晴れ上がり、太陽は、春を思わせるほどの陽光を地に降り注いでいた。
 実際、車の中にいると、長袖のTシャツ一枚でも暑く感じるくらいの陽の強さだった。
 おそらく、これほどのドライヴ日和はそうないだろう。
 けれど、俺たちの乗った車には音楽さえ流れてなかった。
 楽しく弾む会話もなかった。
 住宅街の細い道を抜けて、片側二車線の幹線道路に出た途端に、栞の表情が変わった。
 栞は、硬い表情で俺を見て、「祐一さん、信号のとき以外は、絶対に話しかけないでください、音楽も不可」とだけ言うと、すぐに視線を前に戻した。
 確かに、免許取り立てにしては、栞の運転は悪くなかった。
 けれど、それは、彼女が全身全霊を運転に捧げた賜物だった。
 結果、俺には、黙りこくってウィンドウから外を見ることしかできることはなかった。
 いつもであれば、栞の言葉など気にも留めず話しかけるところだろうが、隣で真っ直ぐに前を凝視している栞の表情がそれをさせなかった。
 心地の良い揺れと、暖かな車内は、昨日の夜、遅くまで起きていた俺の、睡眠欲求をやさしく喚び醒ました。
 俺は、ヘッドレストに頭を預けるといつのまにか、眠りの淵に落ちていった。
 
 
 




 
――― 忘れて、しまったかな?
――― 忘れるわけがないさ
 
 くり返し見る夢。たいして深い関わり合いがあったわけでもない女の子の夢。
 確かに、その出会いは強烈なものだったけれど、でも、そのあと特に深い関係になったわけでもない。
 そう、あれは、栞に出会う少し前だったな。俺がこの街に帰ってきてすぐ、信じられないような状況で、あいつと出会ったっけ。
 あゆ、という変わった名前の女の子。いっつも商店街を走り回っていた印象がある。
 たいして深い関係があったわけじゃない。けれど、あいつの姿を見てると、自然と笑いが零れてきたのも事実だった。
 あるいは―――。
 あるいは、この街でなければ、あゆと出会ったあとでなければ、俺は栞のことを、その重い荷物と一緒に受けとめることなんてできなかったかもしれない。
 そんなことを考えることもあった。あいつの何が、俺に作用したのかなんてわからない、 そして、今ではそれを知る術もない。
 あの冬が終わる前に、夕焼けの紅の中に帰って行くように、あいつはどこかに行ってしまったから。
 それ以来、その姿を見せることはなかったから。
 けれど、あいつのことを忘れることは不思議となかった。ときどき、思い出してはどこで何をやっているんだろうな、と考えたりもした。
 ときには、栞とふたりで話すこともあった。
『きっと、どっかの街で元気にやってるんだろうな』と。




 
 
 
 
「祐一さん」声とともに何か冷たいものを頬に感じて、俺は飛び起きようとする。
 けれど、しっかりと締められたシートベルトが、俺をシートから起きあがらせてはくれなかった。
 俺のそんな様子を見て、くすくすと笑いながら、栞がシートベルトのストッパーを外してくれる。そして、はいっと言って缶のコーラを渡してくれる。
 窓から入ってくる風に懐かしい香りが混じっている。
 それは、子供の頃に嗅いだ香り。強い陽射しと、熱い空気と、いい知れない期待感を連想させる潮の香り。
「海、なのか?」
「ええ、もうすぐ海です」
 栞が、自分の缶の紅茶を飲みながら、答えてくれる。
 耳に、こぼれ落ちそうなくらいの大きな真珠のイアリング。俺はそっと手を伸ばしてそれに触れた。
 栞が俺の方にそっと首を傾げて、触れやすいようにしてくれる。
「よく似合ってるな」
「ありがとう」
「いつか、本物の真珠買ってやるからな」
 くすくすと、俺の言葉に栞が笑う。
「祐一さんらしくない発言ですね」
「俺らしくないか?」
「ええ、何か普通の男の人みたいでしたよ」栞が笑いながら、でも、うれしそうに言った。
「そう言うこというヤツはな」俺はそう言うと、コーラの缶を持ち替え、すっかり冷えた方の手を栞の首筋に伸ばす。
 栞は避けることもせず、ただ、首をすくめる。
「こうだぞ」
 つるりとした栞の首筋の感触を感じる。首をすくめたせいで、栞の耳がすぐ目の前にある。形の良い、小さな耳。薄い耳たぶには、俺が卒業祝いに贈った、人工真珠のイアリング。




 
 
「で、結局、心理学をやるんだよな」
 車通りの少ない道でなら、話しかけても良いという許可が出て、俺は心おきなく栞に話しかけていた。
「うん、ホントは病理の方をやりたかったんだけど、わたし、理系ダメだから」
「文学部の心理学科も理系に近いものがあるらしいぞ」
「わ、どうしよう」
 青い車は、軽い風切り音をさせながら、海沿いの曲がりくねった道を静かに辿っている。
 しっかりと道の先を見つめる栞の横顔は、普段では見られない緊張感を孕んでいて、俺の知らない表情を、まだまだたくさんこの女の子が持っていることを、教えてくれていた。
「祐一さん、すごいですよね、理系だもん」
「ま、理系って言っても、人間工学なんて肉体系だからな」
「えっ?」
「フィールドワークに、実験、企業実習、体力が勝負って感じだ」
「うちの教授なんか、65過ぎのくせに、ジム通いしてて、すっごい体してるんだぜ」
 俺の言葉に、あははと栞が笑う。
「でも、面白いんですよね」
「ああ、面白いことは面白いな、なんていうんだろ、人間を今までとは違う角度から見られるっていうのかな」
 ふーんと感心した様子で言った後で、肉体系の祐一さんっていうのも、なんかミスマッチですけどねと、憎まれ口を叩くのも忘れなかった。
 
 


 ときどき怖くなることがあるんだよ。俺の中でそんな声が聞こえる。
 しっかりと体を動かしていないと、何かにしっかりと触れていないと、ときどき怖くなってしまうんだ。
 俺は、本当に俺なんだろうかって。何か大切なものを忘れてしまってるんじゃないだろうかって。


 
 
「祐一さん」
 物思いに囚われていた俺は、栞の呼びかけへの反応が遅れてしまう。
「祐一さん」
 栞が、ちょっとだけ前から視線を逸らして俺の様子を横目でうかがう。 
「んっ?」
「寝てました?」
「寝てないよ」
「そう」
「ああ」
 両手をハンドルに軽く乗せて、栞はリラックスした様子で車を走らせていた。
「街中とはえらい違いだな」
 俺の言葉に、苦笑しながら栞が答える。
「わたし、二車線以上の道路は苦手なんですよ」
 栞の言葉に俺も笑う。
 
 




 ここでこうしているときにも、大好きな女の子とふたりきりで、気持ちのいい景色の中を走り抜けているときにも、俺の中には、いつも言いしれぬ不安感がある。
 それは、まだ数は少ないけれど、ふたりで過ごす夜にさえも感じる気持ちで。
 俺はある夜中に、隣で穏やかに寝息をたてる栞の背中にずっと手を置いていたことがある。規則的に上下するその背中だけが、俺を確かな現実に繋ぎ止めてくれるような気がして、それだけが、俺の中にぽっかりと口を開けた穴をひとときでも忘れさせてくれるような、そんな気がして。
 冬の夜、俺がそうやって栞の背中に手を置いたまま、暗闇を見つめていると、不意に声が聞こえた。
『ねえ、祐一さん』俯せで、目を閉じたままで栞が言った。
『ずっと、一緒に探していこうね』
『今、わたしたちがこうしていられる理由を』
『ずっと、ふたりで探していこうね』
 俺は、黙って栞を抱きしめた。




 
 
 春のような陽射しとは言っても車の中だけのことで、海岸に出るとそれをうち消すようなつめたい風が、海から吹きつけていた。
 俺たちは、少しの間、砂浜を歩いたあとで、つめたい風から逃れるように松林に逃げこんだ。
 
「祐一さん、知ってましたか?」
 俺の腕に腕を絡めて、松の根を用心深く避けて歩きながら、栞が言う。
「何を?」
「わたし、自分の運転する車で、大好きな人と海に来る、なんてことが自分の身に起こるなんて思ったこともなかったんですよ」
 あまり見たことのない種類の曖昧な微笑みが、栞の顔には浮かんでいた。
「ときどき、怖くなったりするんです」
「どうして、わたしには、こんな、思いもしなかったような幸せがゆるされてるんだろうって」
 ひときわ大きな松の木の下で、俺たちは立ち止まる。俺はゆっくりと栞の耳に手を伸ばす。つめたい真珠の感触と、やわらかい栞の耳たぶの感触を指で味わう。
「な、栞」
 栞がすっ、と顔をあげて俺の瞳を見つめる。
「どうして、ゆるされたのか、なんて俺にもわかりはしない。でもな…」
「…ひとつだけ忘れちゃいけないことがあると思うんだ」
 栞が視線で問いかけてくる。
「栞が幸せになってるときには、少なくとも、もう一人は幸せになってるヤツがいるんだってこと」
 栞の顔にゆっくりと笑顔が広がった。
 まるで、背中から聞こえるいそしぎに合わせるように。
 その笑顔は、ゆっくりとゆっくりと広がって、俺の中を満たしていった。
 
 
 
 
 
 
 
 
―― 忘れて、しまったかな?
 
…… 忘れるわけがないさ
 
―― じゃあ、思い出させてしまったかな?
 
…… 思い出すことはできない

…… 思い出すことはできないかもしれないけれど、俺はもうそれを怖れはしないよ。

   俺の中に空いた穴に、無闇に何もかもを放り込んだりはしない。

   ただ、それはそれとして、抱きしめていこうと思う。

   それでいいんだって言ってくれる人が、少なくともひとりはいるんだから。
 
   だから、いつかまた会える日まで、俺のことは心配しなくていいんだよ。

   きっと会える、その日まで、俺はしっかり歩いて行くから。

   君のいるどこかにたどり着くまで、俺はしっかり歩いて行くから。
 
 
 
 
 
 









青い車
blue automobile
−END−





 連作「青い車」祐一視点です。栞Ver.も是非お読みください。
 当社比3倍楽しめます(ネット値)

 栞Ver.はこちらから。

2000/04/05 HID
2001/2/15 改訂


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