「ね、青がいいな、車の色」
「まあ、万が一栞が免許を取れたとしたら、運転することもあるだろうし、参考までに聞いておくわ」
 どうしてこんなに意地悪なんだろう。お姉ちゃんが“万が一”に力を込めて言った。
「だって、お姉ちゃんだけの車じゃないんだよ。お父さんも言ってたじゃない、“ふたりで使うんだから、ふたりで決めるんだぞ”って」
 わたしは少し向きになって言い返した。
 さらに憎らしいことに、わたしの言葉をさらりと受け流して、お姉ちゃんはカタログをじっと見つめていた。
 しばらく、黙り込んでカタログを見た後で、「うん、じゃあ青い車にしようか」
 そう言って、顔を上げて、わたしの方を見て微笑んだ。
 わたしはその笑顔にあっさりとつられて、お姉ちゃんを睨んでいた表情を崩して、大きく頷いてしまった。














 
 
 
 
(Lovers in the) blue automobile
青い車


 
 
 
 
 
1.



 
 窓から射しこむ太陽の光が眩しくて、目が覚めた。
 馴れないベッドで寝たせいだろうか、少し体が痛い。
 わたしは掛け布団から静かに抜け出すと、足をそっと床に下ろした。
 ウールの靴下越しに床のつめたさが伝わってくる。けれど、それはけして嫌なつめたさではなかった。
 むしろ、あたたかい布団の中で火照った体には気持ちいいくらいだった。
 カーテンの隙間から射しこむ朝の光は、ベッドで眠る祐一さんの腰の辺りに日溜まりを作っていた。
 日溜まりが顔まで移動して祐一さんを目覚めさせるのと、わたしが、朝ご飯の用意を済ませて彼を起こすのと、どっちが早いかな。
 起き抜けのぼんやりとした頭でそんなことを考えて、太陽なんかに負けてられないと思いついて、慌てて立ち上がった。




『うーん、仕方がない、そこまで言うなら、朝飯と交換条件で泊めてやろう』
 昨日の夜の彼の電話。
 わたしは、『まだ何も言ってませんよ』という言葉を呑み込んで、電話口で笑った。
 明日は、家に一人きりなんだ、と自分から電話をかけてきておいて、わたしが何も言わないうちに、恩着せがましく言った祐一さんを思い出して、昨日と同じように小さく笑ってしまう。
『素直じゃないよね』
 心の中で呟いて、せめてもの仕返しに、とわたしは祐一さんの頬を軽くつねってから、部屋を出た。
 




 
 
 
『ねえ、お姉ちゃん、さっきから周りの車に怒られてるような気がするんだけど』
 免許取りたてのお姉ちゃんが、カタログとか、見馴れない車の雑誌とかで研究した末に決めた新しい車。車を受け取った帰り道、混んだ国道。
 お宅までお届けしますよ、という車屋さんの申し出を、自分で受け取りに行くからと断ったお姉ちゃんは、わたし以上に、新しい車とのファースト・コンタクトを楽しみにしているようだった。

 前の日の夜遅く、半袖のパジャマ姿のお姉ちゃんがわたしの部屋のドアを叩いて言った。
『ね、栞、明日用事がなかったら、付き合わない?』
 特にこれといった予定もなかったわたしは頷いた。
『車の調子が良かったら、ちょっとドライヴするのもいいわね』
『あ、じゃあ海がいいな、海に行こうよ』
 お姉ちゃんは頷いて、ドアを閉じた。カチャリという、いつもと同じドアの音さえ、いつもと違って聞こえた。
 
 それは天気のいい八月の月曜日で、わたしは、お姉ちゃんと一緒に車屋さんに向かった。
 お姉ちゃんの言葉にしたがって、軽いドライヴ用に、取りあえずアイスティーを詰めたステンレスの水筒を鞄に入れて。
 車の調子は申し分ないように思えた。もっとも、新車なんだから、当り前と言えば、当り前なんだけど。問題なのはドライヴァーの調子だった。
『熱意と技量は比例しないんだね』
 わたしは、素人目にもぎこちない動きでハンドルを握るお姉ちゃんの隣で呟く。
 普段なら、そんなわたしの言葉を聞き逃すはずないお姉ちゃんは、取りあえず右折への挑戦で手一杯の様子だった。
 その緊張した横顔を見ていると、海のことなんて切り出せるはずもなかった。
『結構、楽しみだったんだけどな』心の中でそう呟く。
 
 そんなお姉ちゃんにとって、車庫入れという障害は乗り越えるにはあまりにも高すぎたようで、結局、真新しい青い車は、うちの前の道路でお父さんの帰りを待つことになった。
 お父さんが帰ってくるまでの間、お姉ちゃんが30分と置かず車を見に行くのがおかしかった。
 何度目かの見回りのためにお姉ちゃんがドアを開けた後を、わたしは紅茶を入れたままの水筒を持って追いかけた。
『ね、お姉ちゃん、ドライヴ気分だけでも味わおうよ』
 突然背中から声をかけられて、驚いてるお姉ちゃんにわたしは言った。
 しばらく、丸く開けた目でわたしを見つめたあとで、わたしの手の中の水筒に気づいた様子で、お姉ちゃんが言った。
『仕方ない。つきあうわ』
 
 夏の陽射しを、しっかりと熱エネルギーに換えて蓄えた車の中はとても暑かった。
『ま、飲んでよ、お姉ちゃん』
 わたしは、紅茶を注いだカップを差し出した。少し顎をそらせて、お姉ちゃんが紅茶を飲む。
『夏が終わるまでに、海行けるかな?』
 自分のカップに紅茶を注ぎながら、訊ねる。
『道のりは遠いと言わざるを得ないわね』
 お姉ちゃんが、真面目な口調で答える。そして、空になったカップを差し出す。
『喉が渇いてるのも忘れてたわ』そう言って、笑った。
 紅茶はまだ冷たかった。わたしは、お姉ちゃんにカップを渡しながら、空を見上げる。
 お姉ちゃんもわたしの視線を追って、夏の空を見た。
 質感のある積乱雲、ためらいのない夏の陽射し。
『この天気じゃ、きっと海も混んでるね』
『そう思ったから、今日は止めたのよ』
 わたしとお姉ちゃんは顔を見合わせて笑った。
 
 
 
 
 


 
 人は変わることができる。それは本当だ。わたしは、次第に整っていく朝食のテーブルを見ながら、そんなことを考える。その間にも体が動いていること、これこそが、わたしが変わったことの証明。もちろん、それはわたしのたゆまぬ努力と、周りの人たちの(主にお姉ちゃんの)指導の賜物なのだけれど。
 翌日のお昼のお弁当を作るために、前日の夜の数時間を費やしていた頃を懐かしく思い出しながら、わたしは手際よく朝食の準備を進める。
 慣れてくると、食事の準備という作業は、楽しかった。まず頭の中にボードを用意して、 縦に一本の線を引く。そして、たどりつくべき姿−食卓のビジュアル−をその右側に貼りつける。その為に必要な作業を左側に箇条書きする。あとは作業の順番を決めるだけだった。並行してできる作業と、単独でやるべき作業、遠回りにならない手順。何回もの試行錯誤は、それぞれの作業に必要な時間と行動を体験的に学習させてくれた。
 そんな訳で、今のわたしはほとんどお姉ちゃんと遜色のない手際で食事の用意をすることができる。
 それは、何と言うか、少し前には想像もできないようなことだった。
 
 あとはパンと卵を焼くだけ、というところまでこぎ着けて、コーヒーの香ばしい匂いに包まれはじめたキッチンで、グラスに注いだ冷たい牛乳を飲む。

 さて。

 グラスを手早く洗って、乾燥機に入れながら、わたしは思う。
 さて、一仕事。朝食を作るのよりずっと大変な、でも、ずっとずっと楽しみな朝の仕事。
 祐一さんを起こさなくては。
 
 
 


 
「最近、秋子さんと名雪さんのふたりで出かけること多いですよね」
 わたしは、トーストにたっぷりと塗った、秋子さん手製のアップル・ジャムの匂いを楽し みながら、祐一さんに話しかける。それは、市販のものでは味わえない、瑞々しい香りを放っていた。
 起きたばかりの祐一さんは面白い。すごい勢いで、つまらないことを喋ってるかと思ったら、急に、黙って考え込んだりする。
 つまりは、まだ目が覚めてないってことなんだろうけれど、そんな祐一さんの姿はわたしには新鮮だった。そして何度かの朝を二人で過ごした今でも、その新鮮さは消えずに残っていた。
 わたしの言葉が届いているのか、いないのか、黙ったままでもそもそとトーストを食べている祐一さんにちょっと意地悪をしてみたくなる。
「祐一さん、仲間はずれにされてるんじゃないですか?」
「な、栞」
 わたしの仕掛けには乗ってこずに、拍子抜けするくらい静かな声で、彼がわたしの名前を呼ぶ。
「はい?」
「昨日、出かけるときに秋子さんが何て言ったかわかるか?」
「えっと、わかりません」
「“私は何も心配してませんから、楽しく過ごしてくださいね、にこり”だ」
「にこり、ですか?」「ああ、にこり、だ」
「あの人の前では何も隠しごとできないような気がして、俺はときどき怖くなるよ」
 真面目な口調で祐一さんが言う。
「今、ここでこうしていることも、すべて秋子さんに仕組まれたことのような、そんな気が…」
「そんな訳ないじゃないですか」
「まあ、そんな訳ないんだけどな」
「俺も、栞とのことを隠してるわけじゃないしな、ただ、秋子さんにああ言われると、ナーヴァスな俺は気になるんだよ」
「ナーヴァスな誰、ですか?」
「俺、だ」
「えっと、いいです。続けてください」
「こんないたいけな子供を外泊させていいのだろうか?ってな」
 祐一さんが、わたしの方を見て、そう言ってにやりと笑った。
 なんて手が込んだ言い返し方をするんだろう、わたしは半ば呆れながら、でも、負けずに言い返した。
「そうですよ。責任は全部、祐一さんが取ってくださいね」
 彼は聞こえない振りで、コーヒーカップを傾けていた。
 

 わたしたちのためにわざわざ家を空けてくれる、というわけではないだろうけれど、わたしは秋子さん達に感謝せずにはいられなかった。
 祐一さんと過ごすことのできる夜は、やはり、わたしにとって貴重なものだったから。
 近頃はずいぶん少なくなったけれど、ひとりの夜には、よくない考えが浮かぶことがあった。
 それは、ひどく疲れてるときとか、体の調子が良くないときとか、そういうときにやって来た。
 夜中に、ふと目が醒める。自分がどこにいるのかわからなくなる。手を動かそうとしても、動かない。誰かを呼ぼうとしても、声が出ない。
 もしかしたら、これが本当のわたしなのではないか。誰かに触れる手も持たず、誰かを振り向かせる声も無い、これこそが、真実のわたしの姿じゃないだろうか。
 日常を、当たり前だと思って、みんなと笑ったり、祐一さんとふざけ合ったり、お姉ちゃんと言い合いをしたりしてる自分は、本当はただの幻なんじゃないか、そんな考えに囚われる。
 ぎゅっと目を閉じて、意識してゆっくりと呼吸をしているうちに、世界は色を取り戻してくれる。時間にすれば、ほんの数分。けれど、とてつもなく長く感じる嫌な時間。
 それが、ただの錯覚に過ぎないとわかっていても、実際に暗い思いに襲われると、そんな理屈は何の力も持たなかった。
 あるいは、それは澱(おり)みたいなものなのかもしれない。そう考えることがあった。
 わたしは、まだどこかで、普通に暮らしてる自分に、“幸せだ”と大きな声で言うことができるような境遇にいる自分に、馴染んでいないのかもしれない。
 自分でそれを信じることができていないのかもしれない。
 日々に感じるのは、ほんの小さな不安、不信。けれど、それは確実に、わたしの中に溜まってゆく。そして、ある線を越えると、わたしを支配しようとする。 暗い夜にはそんなことを考える。けれど、朝が来るとそれは光に溶けてゆく。ううん、本当は溶けたりしない。溶けたフリをするだけだ。
 こんなこと、誰かに言えるはずもない。誰かに言って何とかしてもらえるとも思えない。
 それに、そのことを口にすることで、自分の不安がはっきりとした形を取るのが怖かった。はっきりとした形を持ったそれに、抗うことができる自信が無かった。
 けれど、祐一さんと過ごす夜にはそれを忘れられた。
 祐一さんの胸に耳を当てて、その鼓動を聞いているときには、何も余計なことを考えずにいられる。祐一さんと抱き合っていれば、わたしはそれ以外のものに目を奪われることはなかったから。
 だから、その機会をこういった形で与えてもらえるのは、幸せなことだった。秋子さんの真意がどこにあるにしても、あるいはそこに深い意味はないにしても。




 まだ完全に目が覚めていないのだろうか、また自分の世界に引き篭ったように黙り込んで朝食を口に運んでいる祐一さんに、 わたしは話しかけた。
「ね、祐一さん」
 何だ、という感じで彼が目線をわたしにくれた。
「責任といえば、うちの方もお願いしますね」
「うちの方って、親にあいさつとか、そういうことか?」
 本気なのだろうか、寝ぼけているのだろうか、普通の口調でそんなことを言う。
「ち、違いますよ。お姉ちゃんです」思いがけない祐一さんの言葉に反応して、どもってしまった自分にちょっと腹を立てながら、わたしは言う。
 面白いことに、なんて言ったら怒られてしまいそうだけど、わたしが外泊することに一番神経質になっているのは、お父さんでもお母さんでもなく、お姉ちゃんだった。あるいは、わたしの体のことを心配してくれているのかもしれないけれど、わたしが祐一さんの家に泊まりに出かけるときには、必ず不機嫌になった。
「み、美坂か」祐一さんをして、香里と名前で呼ばせないところに、お姉ちゃんの実力が 現れているようで、わたしは少し笑ってしまう。
「まさか、嫉妬してる…とかじゃないよな?」真面目な声で祐一さんが言う。
「誰が誰に、ですか?」わたしも真剣な声で言葉を返す。
「美坂が栞に、だ」
「ということは、お姉ちゃんが祐一さんを好き、ってことになりますよ」
「それはないか?」
「ええ、それはないです」
「はっきり言われると、意外に傷つくもんだな」
 ふたりで、淡々とそんな会話を交わす。既に初めの問いかけから話しの大筋がずれてしまっていることに、ふと気づく。
 ひとしきりの沈黙のあとで、祐一さんが言う。
「ま、いずれにしても、美坂がいるときには家に近づかないようにするよ」
「それって、全然、責任とってないですよ」
「それは、それ、また別の話だ」
「そういうものですか?」
「そういうもんだ」
 
 


 
 
 春の朝のような捉えどころのない会話とともに朝食を済ませて、わたしはいつも通り 片づけを祐一さんに任せて、出かける支度をするために階段を上る。
 二階の普段使っていない部屋には、わたし用の布団がきちんと畳まれたまま置いてあった。
 その布団を見て、ちょっとだけ秋子さんに悪いことをしたような気持ちになる。
 化粧品とか、細々としたものが入った小さなポーチを手にして、階段を降りる。洗面台の前で、手早く用意を済ませる。
 モスグリーンの長袖Tシャツの上に色の落ちたデニム地のシャツを羽織る。
 厚手のチノパン。シャツの裾はしっかりとパンツの中に入れて、太めのベルトをきゅっ と締める。
 薄くリップを塗って、細長く折った黒いバンダナをリボン替わりに、肩を少し越えた髪の毛をうしろで纏める。
 そして、今日のお楽しみ。ポーチの中から、小さな袋を取り出して、中味をそっと手のひらにのせる。とても大きな、きらきらと輝く白い粒。高校の卒業のお祝いに祐一さんに無理を言って買ってもらった、真珠のイアリング。
 わたしは、鏡を覗き込みながら、丁寧にそれを耳につける。
 
 うん。
 
 仕上がり具合を点検して、一人で頷く。
 鏡の中の女の子は、ふたりの初めてのドライヴに相応しい格好をしているように、わたしには思えた。
 


 
 


 
 ほんの十日ほど前、わたしは高校を卒業した。
 結果的に他人より一年遅れることになったけれど、“高校を卒業できた”という事実自体が、数年前には想像もできないようなことだった。
 幸いにも、希望する大学の推薦を貰えたおかげで、わたしは年が明けるとすぐに、自動車教習所に通いはじめた。
 お姉ちゃんが免許を取ってすぐに買った青い車は、たまにお母さんが買い物に使うくらいで、この一年あまり、車庫にうずくまっていることの方が多かった。
『人には向き、不向きってものがあるのよ』ある時、お姉ちゃんは言った。
『私には、車の運転は向いていないみたい』
 どんなことでも、平気な顔で人並み以上にこなして見せるお姉ちゃんにも苦手なものがあることが、わたしには、とてもおかしかった。考えてみれば、そんなのは当たり前のことなんだけど、今まではそんな当たり前のことさえも、 気がつかない程の距離にわたしたちはいた。
 
 自分でも意外なほど教習は順調に進んで、高校の卒業前にすべての課程を終えることができた。そして、卒業を待って、試験場に行った。
 免許を取って、真っ先に乗せてあげたい人が二人いた。
 ひとりは、もちろん、祐一さん。そして、もう一人は、お姉ちゃん。
 本当は、祐一さんの前にお姉ちゃんを誘ったんだ。
『お待ちかねの海に行こうよ』って。
 でも、こう言って、断られた。
『いやよ、父さんと母さんを悲しませたくないから』
『お姉ちゃんに言われたくないよ。わたし、絶対、お姉ちゃんより運転上手い自信あるもん』
『だから、私は車の運転しないでしょ』
 確かに一理あった。
 黙り込んでしまったわたしを見て、お姉ちゃんが言った。
『試乗に相応しい人は他にいるでしょ』やさしく笑って、こう続けた。
『もし、ふたりが無事に帰ってきたら、そのときには喜んでお誘いを受けるわ』
 
 




 
 
 太陽の光は、時間とともに確実に強さを増して、地上に降り注いでいた。
 車の中は春を思わせるような暖かさだった。
 けれど、残念ながら、その陽光を楽しんでいる暇はわたしにはなかった。
 とにかく車を走らせること、それで手一杯だったから。
 最初のうち、心配そうな視線をわたしに投げかけていた祐一さんは、いつのまにか眠ってしまったようだった。信号待ちのときに、横を見ると、体をシートに預けて気持ちよさそうに寝息をたてていた。
 わたしはその寝顔を見て、思わず微笑んでしまう。
 そして、また、不思議な気持ちになる。
 好きな人。青い車。暖かい光。海へのドライヴ。
 どれも、あの冬の自分には想像もできないようなことだった。
 現実にそういったものが存在するのは理解できる。でも、自分の手がそこに届くことはない。それらが、わたしに手を伸ばしてくれることもない。永遠にない。
 簡単に決めつけて。簡単に信じ込んで。
 なのに、どうして、今、わたしはここにいるのだろう?
 あるいは、これは夢なのだろうか?
 
 後ろの車のクラクションが、わたしが確かにこの世界にいることの証。
 わたしは、軽く手を挙げて後ろの車のドライヴァーに謝ってから、ゆっくりとアクセルを踏み込む。
 前をしっかりと見つめる。左右のドアミラーと、ルームミラーに目を配る。車の流れに合わせて加速する。
 余計なことは考えない。
 そう、今はあの場所に行くことだけを考えるんだ。
 わたしが、ずっと行きたかった場所。きっと、つめたい風が吹いていて、きっと、祐一さんは文句を言うんだ。
『なんで、この季節に海なんだ』って。
 だから、わたしはこう答えるんだ。
『この季節なら、わたしたちだけの海ですよ』って。
 ひとつ先の交差点にある行き先案内板を確認する。わたしは、ウィンカーを出して、車を右の車線に乗せる。
 
 
 
 
 



2.



 海沿いの二車線道路。黄色いセンター・ラインが、所々消えてしまった荒れた路面を車は滑らかにたどっていく。
 海に向って張り出した丘をぐるりと回る大きなカーヴ。運転者の注意を促すために引かれた白線を踏む毎に、四つのタイヤが不規則な振動を伝えてくる。
 祐一さん、目を覚ましちゃうんじゃないかな、いつのまにか運転にも馴れて、そんなことを考える余裕のある自分に気づく。
 見通しの良い直線。右側に、ドライヴ・インの建物。
 わたしは、その手前でアクセルを緩める。対向車が来ないことを確認して、右にウィンカーを出す。対向車線を横切り、ドライヴ・インの駐車場に車を止めた。
 夏になれば賑わうはずのその場所も、今は隅の方にナンバープレートの無い車が一台駐まっているだけ。
 ふーっと、ひとつ長い息をつく。助手席を見ると、祐一さんはまだ眠っていた。
 祐一さんを車内に残して、外に出る。店先に並べられた自動販売機はどうやら生きているようだった。
 後ろのシートに置いてある、シープスキンのハーフコートを手に取る。海からの風は、まだ冷たかった。
 風がかすかな海の匂いを運んで来る。白い海鳥が一羽だけ、高い空に舞っていた。
 白い羽を広げて、風に乗って、舞っていた。いつのまにか、空には薄く白い雲が広がっていた。
 わたしは両手をコートのポケットに入れたままでその海鳥を見上げる。短い瞬き。再び目を開けたときには、その姿は視界から消えていた。
 



 白い羽は、わたしにある女の人を思い出させる。
 つくり物の白い羽がついた変わったリュックを背負った、不思議な雰囲気の女の人。
 わたしが初めて祐一さんに会ったときに、彼と一緒にいた女の人。
 ほんの数回会っただけなのに、その屈託のない笑顔を今でも思い出すことができる。
 ごく希に、祐一さんが彼女のことを話すことがある。
『あいつは、どこで、何やってるんだろうな』と。
 そんなときの祐一さんは、掴み所のない表情をしている。どこか、ずっと遠いところ、 けしてわたしがついて行くことができない場所を見ているような気がする。
 その瞳は寂しさを映しているわけでもなく、悲しみを映しているのでもなく、ただ、澄みきった湖のようで。そこに本当に水があるのか、と思わせるくらいに澄みきった湖のようで。でも、その湖の底に何があるのかわたしには見ることができない。
 わたしはそんな祐一さんを見ると、どうしてか、居心地の悪い気持ちになる。
 そして、訊いてみたいことをいつも訊くことができなくなる。
―――二人の関係。それをはっきりと訊いたことがなかった。
 あるいは、わたしは祐一さんの瞳を通して、その表情の向こう側に、あの頃の自分を見ているのかもしれない。
 彼の向こう側に、暗い世界に独りで閉じ籠もることを望んでいた、あの頃のわたしを見つけてしまうのかもしれない。
 本当はわたしは、失われるべきもの、だった。
 今でもはっきりとはわからない作用。その結果としての危ういバランス。わたしは、そのおかげでここにいる。
 何に感謝すればいいのかもわからないままで。
 わたしが、もし失われていたのなら、祐一さんは同じような表情で、わたしのことを誰かに話したんではないだろうか。
 そんなつまらないことを考えることがあった。
 そして、きっといつか、そんな女の子のことなんて忘れてしまったんではないだろうか。
 幸せと言うことのできる生活の中で、そんなことを考えるとき、自分のことが少し嫌いになった。
 
 いつか見た、あの人の表情を思い出す。
 二人で商店街を歩いているときに偶然会って、彼の言葉に目を丸くして驚いていた。
『ふたりはホントの兄妹みたいに仲がいいんだね』
 彼女の言葉に、祐一さんはこう答えてくれた。『俺たちは恋人だ』って。
 彼女は目を丸くして驚いたあとで、やさしく笑って言ってくれた。
『うん、ふたりは、とってもお似合いだと思うよ』
 その笑顔はそれまでに見た彼女のどの笑顔とも違っていた。
 包むようで、慈しむようで、そして、少しだけ寂しそうで。
 




 
 強い潮の香りを運んできた冷たい風に、わたしは身を震わせた。
 急いで、車に戻ろう。そう思う。急いで車に戻って、早く祐一さんの顔を見よう。そして、 そっとその頬に触れよう。手のひらに祐一さんの肌の感触が甦る。わたしは車に向かって駆け出す。
 





 
 
「そういえば、祐一さん免許持ってないんですよね」
 季節外れの海沿いの道は、車通りも少なくて、わたしに運転しながら会話を楽しむ余裕を与えてくれた。海岸の所々に寒々しい松林が見える。その向こうに覗く海は、綺麗な青というわけにはいかず、曇り空を映しこんだような、重い灰色をしている。
「ああ」外の景色に目をやりながら祐一さんが答える。
「取らないんですか?」
「まあ、特に必要でもないしな」どこか茫漠とした口調で祐一さんが答える。
 わたしは、意識をフロント・ウィンドウ越しの道路に向ける。緩やかなカーヴが現れる。
 視線をカーヴの出口に向けると、自然に車もそっちに向かっていく。
 そんな些細なことが、面白かった。
「祐一さん」
 それを伝えようと、彼の名前を呼ぶ。けれど、何も答えはない。
「祐一さん」聞こえなかったかな、と思いながら、さっきよりも大きな声で彼を呼ぶ。
 そして、彼に視線を向ける。彼は、あの掴み所のない表情で、窓の外を見ていた。
「んっ?」少し遅れて、驚いたように祐一さんが答える。
「寝てましたか?」わたしは、そうではないということを知りつつ訊ねる。
「寝てないよ」ひどくやさしい声で彼が答える。
 わたしはわけもなく泣きたいような気持ちになる。
 大丈夫だ。そんなことを思う。わたしの言葉に彼が応えてくれるうちは、きっと大丈夫なはずだ。
「そう」
「ああ」
 ふっとハンドルを握る手の力を緩める。車はわたしの意志を汲み取るように、視線の先へと向かってくれる。
「街中とはえらい違いだな」わたしの緩んだ雰囲気を感じ取ったのだろう、彼が笑いながら言った。
「わたし、片側二車線以上の道路は苦手なんですよ」
 わたしも笑って答えた。
 
 



 
 わたしが不安でどうしようもないときには、いつも誰かが手を伸ばしてくれた。お姉ちゃん、お父さん、お母さん。
 いや、違うかな。わたしは、無意識のうちに強要していたんだと思う。わたしはただ消えていくしかないんだと、 わたしだけが不幸なんだと、そう思いこんで、そんなところに自分の存在の価値を見出して、だから、周りのみんなが手を差し伸べてくれるのを、当然だと思っていたのではないだろうか。
 自分のことだけを考えて、大好きな人を暗い暗い場所へと追いたてて。そのことを罪とさえ思わずに。
 ひとりの夜にはそんなことを考える。
 もしかしたら、わたしは何も変わっていないんではないだろうか。自分の不安を打ち消すためだけに祐一さんと一緒に居るのではないだろうか。
 そんな思いに押し潰されそうにもなる。
 だから、わたしは見つけたいと思う。理由を。わたしが、祐一さんの隣で笑っていられる理由を。
 彼が底の見えない瞳で何かに思いを馳せなければ行けない理由を。そして、受け止めてくれるやさしい腕が、わたしに与えられた理由を。
 そのためには何が必要だろう。どうすれば、答えは見つかるのだろう?
 わたしは、ボードを頭の中に引っ張り出す。
 右側には、辿り着くべき場所を貼りつける。そこはどこだろう?
 食卓ほど上手にはイメージできない自分に気づく。
 右側は保留して、左側に取りかかる。無理は承知で。目標の明確化もなしに、その手段だけを考えることなんて何の意味も無いことはわかっているんだけれど。
 
 
 さっきまで海を灰色に見せていた薄い雲が晴れて、再び陽光が射しこむ。
 わたしは、その光の温かさをウィンドウ越しにしっかりと受け止める。その眩しさに目を細める。
 光を反射した水面が、きらきらと輝く。海は、深い緑色に見える。
「疲れたか?」
 頭の中の板書に集中していたわたしは、祐一さんの言葉にひどく驚いてしまう。反射的に彼を見て、すぐに視線を前に戻す。
「俺もそのうち免許取るかな」
 祐一さんが自分の側のウィンドウを開きながら言った。
「どうしてですか?」
 開いた窓から入る風が運んできた潮の香りに、遠い郷愁のようなものを感じる。子供の頃、海に行ったことなんてほんの数えるほどしかないのにな、自分の郷愁が何に起因するのかを考えながら、わたしは祐一さんに訊ねる。
「ふたりで、遠くに行ってみたいしな」
「え?」
「何でもないよ」
 彼は繰り返してはくれなかった。
 けれど、わたしはうれしかった。ボードの右側に、彼が目標を貼りつけてくれたから。
『どこか遠く』、それぐらいがわたしたち二人にはちょうどいいのかもしれない。
 そう、大切なのは『どこに行くか』ではないんだね。『誰と行くか』、『何をしに行くか』、 その方が大切なことも、きっとこの世界にはあるんだね。
 わたしは、知らず知らず、先を急いでいた自分がおかしくなって、くすりと笑う。めずらしく零してしまった素直な発言を笑われたと思ったのだろうか、祐一さんが不機嫌そうな声で言った。
「余裕があるのはいいけど、車ごと泳ぐのは嫌だぞ」
 彼が不機嫌を装うのは照れ臭さの裏返しだということを、今のわたしは知っていた。
「残念。わたし、泳ぎは得意なんですけどね」
 彼の思い描く『遠く』に辿り着いたとき、わたしはどんな表情をしているのだろう。
 そこで二人は、どんな風に笑うんだろう。
 





 
 
 
 
3.



 春を思わせた陽射しも、街に戻る頃にはすっかり翳ってしまっていた。
 陽が落ちると、昼間の暖かさが嘘のようで、車の中でも肌寒さを感じるほどだった。
 まばらだった街明かりが、フロント・ウィンドウ一杯に散らばるほどに増えている。空の端には細い三日月が引っ掛っている。 気がつけば車は、夕方のラッシュのために行きよりも混んでいる片側二車線の道路を走っていた。
 何を見つめているのだろうか、じっと前を見たままの祐一さんに、わたしは話しかける。
「いいところでしたね」
「寒かった」海から吹く風を思い出しているかのような凍えた声で、間髪入れずに祐一さんが答える。
 わたしはその凍えた声で、祐一さんのあたたかい腕を思い出す。松林の中でやさしく受け止めてくれた胸を思い出す。そして、彼の言葉を思い出す。

『ひとつだけ忘れちゃいけないことがあると思うんだ』
『栞が幸せになってるときには、少なくとも、もう一人は幸せになってるヤツがいるんだってこと』

 あなたはわたしの不安を受け止めてくれる。それは簡単に消えてしまうものではないだろうけれど、それでもあなたの言葉を信じることができる。いつでもわたしのことを受け止めてくれる人がいることを忘れなければ、きっと、わたしは進んで行ける、そう思うことができる。
 あなたの灯に導かれながら。ときには、甘えたり、できれば、甘えられたりしながら。
 だから、忘れないように今日のあなたの言葉を何度も繰り返そう。何度も何度も思い出そう。
 これはわたしのボードのどこに書いておけばいいだろう。右側だろうか、左側だろうか?
 そんなことを考えながら、わたしは祐一さんに話しかける。
「今度はお姉ちゃんを連れて行きます」
「お、三人でドライヴか?」
「いえ、お姉ちゃんと二人で」
「ってことは、今日は下見か?」
「ええ、そんなところです」
「そうか、栞は俺よりもお姉ちゃんの方が大事なんだな」拗ねたような様子で祐一さんが言う。
「祐一さんが、お姉ちゃんに嫉妬してどうするんですか」わたしは笑いながら応える。
「そりゃそうなんだけどな、なんか悔しくてな」祐一さんも笑う。
 
 
「ねえ、祐一さん」
 信号待ちの合間に彼の方を見て、わたしは話しかける。
「もし、このまま車から出られなくなったとしたら、どうします?」
「窓を割ってでも出る」
「え?」
「だから、ドアが壊れたなら、窓でも割るしかないだろ」
 その横顔は真剣で、どうも真面目に答えてくれているらしかった。
「いえ、そういう現実的な問題じゃなくて、もし、二人がこの車に閉じ込められちゃったらっていう、どちらかというと、スウィート系のifの話なんですけど」
「スウィート系か?」
「ええ、スウィート系です」
 変わった信号を確認して、アクセルを踏みこみながらわたしは言う。
「栞はどうする?」
 同じ加速度を二人で感じる。
「何もしません」
「は?」
「強いて言えば、祐一さんに寄り添います」
 彼の視線を横顔に感じる。信号が黄色に変わるぎりぎりのタイミングで交差点を抜ける。
「もしも、二人が息絶えて発見されたときに、誰が見ても恋人だってわかるように」
 他の何ものにも見えないように。
「しっかりと祐一さんに寄り添います」
 祐一さんのつく軽いため息が聞こえる。その表情を覗き見たいという欲求に耐えて、意識を車の運転に集中する。
 頭を掻きながら、祐一さんが言う。
「なかなか素敵な答えだな」
「でしょう?」
 わたしは満足の笑みを浮かべて答える。彼が、わたしの顔を見ていてくれればいいな、と思いながら。
 
 
 
 



 
 水瀬家の前の細い道路に車を止めたとき、街にはすっかり夜の帳が降りていた。
 既に二人が帰っているのだろう、玄関に温かい色合いの明かりが灯っていた。
「無事着いたな」シートベルトのロックを外しながら祐一さんが言う。
「ええ、意外にも」
 何も言わずに笑って、祐一さんがわたしに近づく。
 ほんの短い口づけ。頭の芯に残った初めてのロング・ドライヴの疲れを和らげてくれるやさしい感触。
 キスにはいろんな効用があるんだな、そんなことをぼんやりと考える。
 何十秒かの時間が過ぎて、祐一さんがすっと体を離した。ドアを開いて、車の外に出る。
 わたしも、急いでシートベルトを外して、ドアを開いて外に出る。
 車の青いボディを三日月の冴えた光が照らしていた。
 祐一さんが車のルーフ越しにわたしを見て言う。
「また、いつか行きたいな、海」
「うん、きっと行きましょう」
 わたしはゆっくりと答える。微笑みながら。
「そのときには…」言いかけて祐一さんが口篭もる。
「そのときには、何ですか?」
「車の中で音楽が聴けるといいな」
 大きな笑顔で祐一さんが言う。わたしも声をあわせて笑う。
「じゃ、気をつけてな」
 軽く手を挙げて、祐一さんが門に手をかける。わたしは、車の横に立ったままでその背中を見つめる。
 大きな背中だったんだな、そんなことを考えながら。
 祐一さんが門にかけた手を止めて、振り返る。彼の視線が正確にわたしの瞳を捉えていた。
「な、栞」
「ドアが壊れても、車の中にずっといるのは却下だ」
 わたしは頷いた。
「車の中で息絶えるのも却下」
「冗談ですよ」
 軽く笑って、わたしは答える。
「俺たちはまだ、息絶えてる場合じゃないからな。まだまだ、俺たちはいろんなところに行って、いろんなものを見なきゃいけないと思うんだ」
 わたしはもう一度頷く。
「でも、ずっと先」
 祐一さんが静かな声で続ける。
「ずっと、ずっと先に、俺たちがもう動けないくらいになったときに」
「車のドアを壊してしまって、その中でしっかりと寄り添うっていうのもいいな」
 わたしは、思わず目を伏せる。小さく笑って、眼の端に滲んだ涙を誤魔化す。
 顔を上げて、声が震えないようにゆっくりと口を開く
「な、なかなか素敵な答えですね」
 そうだろ、というような表情で祐一さんが口元だけで笑った。
 






 
 一度、切り返しをしたものの、車はどこにも接触することなく、無事車庫に収まった。
 わたしは、イグニッションを切って、ハンドルに軽く両手を添える。車内にはまだ潮の香りが残っているような気がした。ひとつ小さなため息をついて、助手席に視線を移す。
 さっきまで、祐一さんがいた場所。今は誰もいない場所。
 ドアのロックを開ける。ドアを開く前にもう一度空っぽの助手席を見て、わたしは話しかける。
 そこにはいない誰かに向かって。


「うん、なかなか素敵な答えでしたよ」
 
 
 
 
 
 
 
 













(Lovers in the) blue automobile
青い車
‐END‐


 
同名タイトルSSの栞視点です。祐一Ver.とあわせて読んでみてください。 当社比5倍の楽しさです(グロス値)
タイトルは、スピッツの同名曲からですが、内容とはあまり関係ないですね。
ちなみに香里Ver.も併せるとさらに吉です。

祐一Ver.はこちら。 当初予定のなかった香里Ver.はこちらで。



2000/05/11 HID
2001/2/15 改訂


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