いろんな段落に分かれていますので段落ごとに色分けしてあります。下記の段落の色とお経の色が同じ部分がその段落を表しています。

勧請
序説
初段
二段

三段

四段

五段

六段

七段
八段

九段

十段

十一段

十二段

十三段

十四段

十五段

十六段

十七段

流通

合殺

回向

般若心経や観音経は呉音で唱えるがこの理趣経は漢音で唱えるのです。従って大樂金剛不空眞實三摩耶經を呉音では「だいらくこんごうふくうしんじつさんまやきょう」と読むが漢音では「たいらきんこうふこうしんじさんまやけい」と読みます。 金剛薩の漢字がフォントに無く間違っています。本来は手へんで無く土へんです。お経が書いてあるが、ふりがなの無いところは読経しない部分です。







弘法大師・空海

御宝号
     南無大師遍照金剛
               


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高野山真言宗は平安時代の806年に弘法大師空海によって開かれたのが、始まりである。 真言密教の教えは我々人間が修行によって生きているあいだにその身はそのままで仏になれる、つまり即身成仏と言うことです。

高野山真言宗総本山
金剛峯寺は和歌山県伊都郡高野町高野山に在り、修行道場として四国88ヵ所めぐりの遍路修行は昔から有名である。真言宗は信者でなくても動物でも全ての生きとし生けるものに救いの手を差し伸べてくださるである。



般若理趣経
正しくは
(大楽金剛不空真実三摩耶経 般若波羅蜜多理趣品)と言います。

(この経は真言宗の真髄とも言うべきとても大事な経典です。天台宗の最澄が空海から灌頂を受け色々な経典を借り受けたが
この経典だけは改宗しなければ貸せないと断り、仲違いになってしまつた程、大切な経典なのです。)


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下記のお経を見ながら聴いてください。その方が理解し易いと思います。



般若理趣経


    みょう び る しゃ な       む ぜん  
 歸命毘盧遮那佛 無染無着眞理趣

しょうじょう          せ せ 
    
 生生値遇無相ヘ 世世持誦不忘念
  こうぼうだいしぞうほうらく
 弘法大師摶@樂
   たいらきんこうふこうしんじ さんま やけい
 大樂金剛不空眞實三摩耶經
 般若波羅蜜多理趣品
 大興善寺三藏沙門大廣智不空奉詔譯

じょ し が ぶん いっしふぁきゃふぁん せいしゅしゅしょういっせいじょらい
如是我聞 一時薄伽梵 成就殊勝一切如來 
 きんこうかち さんまやち  いとくいっせいじょらいかんでいほうかんいさんかいしゅ  
金剛加持三摩耶智 已得一切如來灌頂寶冠爲三界主 
いしょういっせいじょらい いっせいちちゆきゃしさい  のうさくいっせいじょらい
已證一切如來 一切智智瑜伽自在 能作一切如來
いっせいいんぺいとうしょうじょうしぎょう よぶしんぶよいっせいしゅうせいかい いっせいいげんさくぎょう
一切印平等種種事業   於無盡無餘一切衆生界 一切意願作業
かいしってんまん  しょうこうさんせい いっせいししんぎょいぎょう  きんこうたいひろしゃだじょらい
皆悉圓滿  常恆三世  一切時身語意業 金剛大毘盧遮那如來
さいよよっかいたかしさいてんのうきゅうちゅう  いっせいじょらいしょうそゆうしょきっしょうしょうたん  だいまじてん
在於欲界他化自在天王宮中  一切如來常所遊處吉稱歎   大摩尼殿
しょうじょうかんさく  れいたくそうばんびふうようげき  しゅまんえいらくはんまんげっとうじいそうげん
 種種闕  鈴鐸諸ヲ微風搖撃  珠鬘瓔珞半滿月等而爲莊嚴
よはっしゅうくちほさっしゅうく    そい   きんこうしゅほさんばかさ    かんしさいほさんばかさ
與八十倶胝菩薩衆倶 所謂 金剛手菩薩摩訶薩 觀自在菩薩摩訶薩
きょこうそうほさんばかさ    きんこうけんほさんばかさ     ぶんじゅしりほさんばかさ  
虚空藏菩薩摩訶薩 金剛拳菩薩摩訶薩 文殊師利菩薩摩訶薩
さいはっしんてんぽうりんほさんばかさ    きょこうこほさんばかさ     さいいっせいまほさんばかさ
纔發心轉法輪菩薩摩訶薩 虚空庫菩薩摩訶薩 摧一切魔菩薩摩訶薩
よじょしとうたいほさっしゅう  きょうけいいじょうじいせっぽう  そちゅうこうせんぶんぎこうびょう  しゅんにちえんまんせいせいけっぱく
與如是等大菩薩衆 恭敬圍繞而爲説法  初中後善文義巧妙  純一圓滿C淨潔白



せいっせいほうせいせいくもん   そい   びょうてきせいせいくしほさい    よくせんせいせいくしほさい
説一切法C淨句門 所謂 妙適C淨句是菩薩位 慾箭C淨句是菩薩位
そくせいせいくしほさい      あいはくせいせいくしほさい    いっせいしさいしゅせいせいくしほさい
觸C淨句是菩薩位 愛縛C淨句是菩薩位 一切自在主C淨句是菩薩位
 けんせいせいくしほさい    てきえっせいせいくしほさい      あいせいせいくしほさい     まんせいせいくしほさい
見C淨句是菩薩位 適スC淨句是菩薩位 愛C淨句是菩薩位 慢C淨句是菩薩位
そうげんせいせいくしほさい      いしたくせいせいくしほさい      こうべいせいせいくしほさい
莊嚴C淨句是菩薩位 意滋澤C淨句是菩薩位 光明C淨句是菩薩位
しんらくせいせいくしほさい     しょくせいせいくしほさい    せいせいせいくしほさい     きょうせいせいくしほさい
身樂C淨句是菩薩位 色C淨句是菩薩位 聲C淨句是菩薩位 香C淨句是菩薩位
 びせいせいくしほさい      かいこ   いっせいほうしせいせいせいこ   はんじゃはらびたせいせい  きんこうしゅ
味C淨句是菩薩位 何以故 一切法自性C淨故 般若波羅蜜多C淨 金剛手
じゃくゆうぶんしせいせいしゅつせいくはんじゃりしゅ だいしほていとうちょう  いっせいかいしょう  きゅうはんだっしょうはっしょうげっしょうせっこうせきしゅう
若有聞此C淨出生句般若理趣  乃至菩提道場 一切蓋障   及煩惱障法障業障設廣積習
ひっぷたよちぎょくとうしゅ  せつさくちょうさいしょうべつぷなん   じゃくのうしゅちじつじつ とくしょうさくいしい   そくよけんせいしょう
必不墮於地獄等趣 設作重罪消滅不難   若能受持日日 讀誦作意思惟 即於現生證
いっせいほうへいとうきんこうさんまち  よいっせいほうかいとくしさい   しゅよぶりょうてきえっかんぎ  いしゅうりくたいほさっせい
一切法平等金剛三摩地 於一切法皆得自在  受於無量適ス歡喜 以十六大菩薩生
かきとくじょらいしゅうきんこうい  しふぁきゃふぁん  いっせいじょらいたいしょうけんしょうさんまや   いっせいまんたらちきんこうしょうさった
獲得如來執金剛位  時薄伽梵  一切如來大乘現證三摩耶   一切曼荼羅持金剛勝薩捶 
よさんかいちゅうちょうふくぶよ   いっせいぎせいしゅきんこうしゅほさんばかさ     いよちょうおんびしいこ  
於三界中調伏無餘  一切義成就金剛手菩薩摩訶薩 爲欲重顯明此義故 
きいびしょうさしゅさきんこうまんにん   ゆうしゅちゅうてきほんそたいきんこうさくゆうしんせい  せつたいらきんこうふこうさんまやしん
熙怡微咲左手作金剛慢印 右手抽擲本初大金剛作勇進勢   説大樂金剛不空三摩耶心

「うーん(金剛薩捶)」



しふぁきゃふぁんひろしゃだじょらい  ふっせいっせいじょらい  せきせいはっせいけんとうかくしゅつせいはんじゃりしゅ   そい
時薄伽梵毘盧遮那如來 復説一切如來 寂靜法性現等覺出生般若理趣   所謂 
きんこうへいとう けんとうかくいたいほていきんこうけんここ   ぎへいとう   けんとうかくいたいほていいちぎりこ
金剛平等 現等覺以大菩提金剛堅固故 義平等 現等覺以大菩提一義利故 
ほうへいとう けんとうかくいたいほていしせいせいせいこ  いっせいげっぺいとう  けんとうかくいたいほていいっせいふんべつ
法平等 現等覺以大菩提自性C淨故 一切業平等 現等覺以大菩提一切分別
ぶふんべつせいこ  きんこうしゅ  じゃくゆうぶんしししゅつせいほうとくしょうしゅち  せっしけんこうぶりょうちょうさい
無分別性故 金剛手 若有聞此四出生法讀誦受持   設使現行無量重罪
ひっのうちょうえついっせいあくしゅ  だいしとうさほていとうちょう  そくのうこくしょうぶしょうせいかく
必能超越一切惡趣   乃至當坐菩提道場 速能剋證無上正覺 
しふぁきゃふぁんじょしせつち   よちょうおんびしいこ     きいびしょうちちけんにん    せいっせいほうしせいへいとうしん
時薄伽梵如是説已  欲重顯明此義故  熙怡微咲持智拳印  説一切法自性平等心

「あーく(大日如来)」



しちょうふくなんじょうせいきゃぼうちじょらい   ふっせいっせいほうへいとう  さいしょうしゅつせいはんじゃりしゅ    そい
時調伏難調釋迦牟尼如來   復説一切法平等  最勝出生般若理趣   所謂
よくぶきろんせいこしんぶきろんせい    しんぶきろんせいこちぶきろんせい      ちぶきろんせいこいっせいほうぶきろんせい    いっせいほうぶきろんせいこ  
欲無戲論性故瞋無戲論性 瞋無戲論性故癡無戲論性 癡無戲論性故一切法無戲論性 一切法無戲論性故
ようちはんじゃはらびたぶきろんせいきんこうしゅ     じゃくゆうぶんしりしゅしゅち  とくしょう  せっかいさんかいいっせいゆうせい   ふだあくしゅ  
應知般若波羅蜜多無戲論性金剛手 若有聞此理趣受持 讀誦  設害三皆一切有情  不墮惡趣
いちょうふっこ  しっしょうぶしょうせいとうほてい  しきんこうしゅたいほき   よちょうおんびしいこ    ちこうさんせいん
爲調伏故 疾證無上正等菩提  時金剛手大菩薩 欲重顯明此義故 持降三世印 
にれんかめん    びしょうじとひんびもうし   りかしゅつげんちゅうこうふくりっしょう  せっしきんこううんきゃらしん
以蓮華面 微咲而恕頻眉猛視 利牙出現住降伏立相   説此金剛吽迦羅心

「うん(降三世)」


ふぁきゃふぁんとくしせいせいせいはっせいじょらい  ふっせいっせいほうへいとう   かんしさいちいんしゅつせいはんじゃりしゅ  そい   せかんにっせいよくせいせいこ
時薄伽梵得自性C淨法性如來  復説一切法平等  觀自在智印出生般若理趣 所謂 世闊齔リ欲C淨故
そくいっせいしんせいせい せかんいっせいこう せいせいこそくいっせいさいせいせい せかんいっせいほうせいせいこ そくいっせいゆうせいせいせい せかんいっせいちちせいせいこ
即一切瞋C淨 世闊齔リ垢 C淨故即一切罪C淨 世闊齔リ法C淨故 即一切有情C淨 世闊齔リ智智C淨故
そくはんじゃはらびたせいせい   きんこうしゅ  じゃくゆうぶんしりしゅしゅちとくしょうさくいしい  せっちゅうしょよくゆうじょれんか  ふいかくちんしょこうそぜん
即般若波羅蜜多C淨 金剛手 若有聞此理趣受持讀誦作意思惟 設住ゥ慾猶如蓮華  不爲客塵ゥ垢所染 
しっしょうぶしょうせいとうほてい しふぁきゃふぁん   かんしさいたいほさよちょうおんびしいこ      きいびしょう   さっかいふれんかせいかんにょくふぜん  
疾證無上正等菩提  時薄伽梵  觀自在大菩薩欲重顯明此義故 熙怡微咲 作開敷蓮華勢觀慾不染 
せいっせいきんせい  しょうじょうしょくしん
説一切群生  種種色心

「きりーく(観音)」



ふぁきゃふぁんいっせいさんかいしゅじょらい  ふっせいっせいじょらいかんでいちそうはんじゃりしゅ  そい   いかんでいしこのうとくさんかいはおうい
時薄伽梵一切三界主如來  復説一切如來灌頂智藏般若理趣 所謂 以灌頂施故能得三界法王位 
 ぎりしことくいっせいいげんまんそく    いはっしことくえんまん  いっせいほう しせいしことくしんこういいっせいあんらく   しきょこうそうたいほさ
義利施故得一切意願滿足 以法施故得圓滿 一切法 資生施故得身口意一切安樂 時虚空藏大菩薩
よちょうおんびしいこ    きいびしょういきんこうほうまんしげきしゅ     せいっせいかんでい  さんまやほうしん
欲重顯明此義故 熙怡微咲以金剛實鬘自繋其首 説一切灌頂 三摩耶寶心

「たらーん(虚空蔵)」



ふぁきゃふぁんとくいっせいじょらいちいんじょらい   ふっせいっせいじょらいちいんかちはんじゃりしゅ    そい   ちいっせいじょらいしんにんそくいいっせいじょらいしん
時薄伽梵得一切如來智印如來  復説一切如來智印加持般若理趣 所謂 持一切如來身印即爲一切如來身
ちいっせいじょらいぎょいん そくとくいっせいじょらいはっ  ちいっせいじょらいしんにん   そくしょういっせいじょらいさんまち ちいっせいじょらいきんこういん
持一切如來語印 即得一切如來法  持一切如來心印  即證一切如來三摩地 持一切如來金剛印
そくせいしゅいっせいじょらいしんこういぎょうさいしょうしっち  きんこうしゅ  じゃくゆうぶんしりしゅしゅち  とくしょうさくいしい  とくいっせいしさい
即成就一切如來身口意業最勝悉地   金剛手  若有聞此理趣受持 讀誦作意思惟 得一切自在 
いっせいちち   いっせいしぎょう いっせいせいしゅ  とくいっせいしんこうい きんこうせいいっせいしっち  しっしょうぶしょう   せいとうほてい しふぁきゃふぁん  
一切智智 一切事業 一切成就  得一切身口意 金剛性一切悉地  疾證無上  正等菩提 時薄伽梵
 いよちょうおんびしいこ    きいびしょう   ちきんこうけんたいさんまやいん  せっしいっせいけんこきんこういん  しっちさんまやししんじっしん
爲欲重顯明此義故 熙怡微咲 持金剛拳大三摩耶印 説此一切堅固金剛印 悉地三摩耶自眞實心

「あく(拳菩薩)」



ふぁきゃふぁんいっせいぶきろんじょらい  ふっせてんしりんはんじゃりしゅ   そい   しょほうこうよぶしせいしょうようこ  しょほうぶしょうよぶしょうせいしょうようこ  
時薄伽梵一切無戲論如來 復説轉字輪般若理趣 所謂 ゥ法空與無自性相應故 ゥ法無相與無相性相應故 
しょほうぶげんよぶげんせいしょうようこ  しょほうこうべい  はんじゃはらびたせいせいこ    しぶんじゅしりとうしん   よちょうおんびしいこ    きいびしょう
ゥ法無願與無願性相應故 ゥ法光明 般若波羅蜜多C淨故 時文殊師利童眞 欲重顯明此義故 熙怡微咲 
いしけんきしゃくいっせいじょらい  いせっし   はんじゃはらびた    さいしょうしん
以自劍揮斫一切如來 以説此 般若波羅蜜多 最勝心

「あん(文殊)」



ふぁきゃふぁんいっせいじょらいじゅうたいりんじょらい  ふっせじゅうたいりんはんじゃりしゅ そい   じゅうきんこうへいとう  そくじゅういっせいじょらいほうりん  
時薄伽梵一切如來入大輪如來   復説入大輪般若理趣 所謂 入金剛平等   則入一切如來法輪
じゅうぎへいとうそくじゅうたいほうさりん  じゅういっせいほうへいとう  そくじゅうびょうほうりん  じゅういっせいげっぺいとう  そくじゅういっせいしぎょうりん 
入義平等則入大菩薩輪   入一切法平等  則入妙法輪   入一切業平等   則入一切事業輪   
しさいはっしんてんぼうりんたいほさ    よちょうおんびしいこ    きいびしょう  てんきんこうりん   せいっせいきんこうさんまやしん
時纔發心轉法輪大菩薩  欲重顯明此義故 熙怡微咲 轉金剛輪  説一切金剛三摩耶心

「うーん(転法輪)」



ふぁきゃふぁんいっせいじょらいしょうじょうきょうようそう  こうたいぎしょくじょらい  ふっせいっせいきょうよう  さいしょうしゅつせいはんじゃりしゅ    そい  
時薄伽梵一切如來種種供養藏    廣大儀式如來  復説一切供養  最勝出生般若理趣   所謂 
 はっぽていしん     そくいよしょじょらいこうたいきょうよう         きゅうせいいっせいしゅうせいそくいよしょじょらいこうたいきょうよう         しゅちびょうてんそくいよしょじょらいこうこうたいきょうよう
發菩提心 則爲於ゥ如來廣大供養 救濟一切衆生則爲於ゥ如來廣大供養 受持妙典則爲於ゥ如來廣大供養 
よはんじゃはらびた     しゅちとくしょうししょこうた  しょしいしゅうじゅうしょうじょうきょうよう  そくいよしょじょらいこうたいきょうよう  
於般若波羅蜜多 受持讀誦自書ヘ他 書思惟修習種種供養    則爲於ゥ如來廣大供養 
しきょこうこたいほさ   よちょうおんびしいこ   きいびしょう  せっしいっせいしぎょう  ふこうさんまやいっせいきんこうしん
時虚空庫大菩薩 欲重顯明此義故 熙怡微咲 説此一切事業  不空三摩耶一切金剛心

「おん(虚空庫)」


ふぁきゃふぁんのうちょうちちけんじょらい ふっせいっせいちょうふくちそうはんじゃりしゅ  そい  いっせいゆうせい へいとうこふんどへいとう
時薄伽梵能調持智拳如來 復説一切調伏智藏般若理趣 所謂 一切有情 平等故忿怒平等 
いっせいゆうせいちょうふっこふんどちょうふく  いっせいゆうせいはっせいこふんどはっせい  いっせいゆうせいきんこうせいこふんどきんこうせい   かいこ  
一切有情調伏故忿怒調伏   一切有情法性故忿怒法性 一切有情金剛性故忿怒金剛性 何以故
いっせいゆうせいちょうふくそくいほてい  しさいいっせいまたいほさ    よちょうおんびしいこ    きいびしょう   いきんこうやきしゃけいちきんこうか
一切有情調伏則爲菩提  時摧一切魔大菩薩 欲重顯明此義故 熙怡微咲 以金剛藥叉形持金剛牙
きょうふいっせいじょらいい   せきんこうふんどたいしょうしん
恐怖一切如來已  説金剛忿怒大咲心

「かく(摧一切魔)」



ふぁきゃふぁんいっせいへいとうけんりゅうじょらい   ふっせいっせいほうさんまや   さいしょうしゅつせいはんじゃりしゅ   そい   いっせいへいとうせいこ
時薄伽梵一切平等建立如來   復説一切法三摩耶 最勝出生般若理趣   所謂 一切平等性故 
はんじゃはらびたへいとうせい    いっせいぎりせいこ    はんじゃはらびたぎりせい    いっせいはっせいこ   はんじゃはらびたはっせい
般若波羅蜜多平等性 一切義利性故 般若波羅蜜多義利性 一切法性故 般若波羅蜜多法性 
いっせいしぎょうせいこ  はんじゃはらびたしぎょうせいようち   しきんこうしゅ  じゅういっせいじょらいほさ  さんまやかちさんまち
一切事業性故 般若波羅蜜多事業性應知 時金剛手 入一切如來菩薩 三摩耶加持三摩地
せいっせいふこうさんまやしん
説一切不空三摩耶心

「うん(普賢)」



ふぁきゃふぁんじょらい  ふっせいっせいゆうせいかち  はんじゃりしゅ   そい  いっせいゆうせいじょらいそう    いほけんほきいっせいがこ
時薄伽梵如來 復説一切有情加持 般若理趣 所謂 一切有情如來藏  以普賢菩薩一切我故
いっせいゆうせいきんこうそう  いきんこうそうかんでいこ  いっせいゆうせいびょうはっそう のうてんいっせいぎょげんこ  いっせいゆうせいきゃらまそう  
一切有情金剛藏  以金剛藏灌頂故 一切有情妙法藏  能轉一切語言故  一切有情羯磨藏
のうさくそさくせいしょうようこ   しがいきんこうほう  よくちょうけんべいしいこ  さっかんぎせい  せきんこうしさいししんじっしん
能作所作性相應故  時外金剛部 欲重顯明此義故 作歡喜聲 説金剛自在自眞實心

「ちり(外金剛部)」



じししちぼじょてんていれいふっそっ  けんこうちょうしょうじゅうのうさつのうせい  さんまやしんじつしん
爾時七母女天頂禮佛足 獻鉤召攝入能殺能成    三摩耶眞實心

「びゅ(七母女天)」



じしまときゃらてんさんけいていとう    しんれいふっそっけんししんしんげん
爾時末度迦羅天三兄弟等 親禮佛足獻自心眞言

「そは(三兄弟)」



 じしししまい    じょてん  けんししんしんげん
爾時四姉妹 女天  獻自心眞言

「かん(四姉妹)」




しふぁきゃふぁんふりょうぶへんきゅうけいじょらい   いよっかちしこうれいきゅうけいえんまんこ  ふっせへいとうきんこうしゅつせいはんじゃりしゅ そいはんじゅはらびた
時薄伽梵無量無邊究竟如來   爲欲加持此ヘ令究竟圓滿故 復説平等金剛出生般若理趣 所謂般若波羅蜜多
ぶりょうこいっせいじょらいぶりょう はんじゃはらびた    ぶへんこいっせいじょらいぶへん  いっせいほういっせいこ  はんじゃはらびたいっせい  
無量故一切如來無量 般若波羅蜜多 無邊故一切如來無邊 一切法一性故 般若波羅蜜多一性 
いっせいほうきゅうけいこ はんじゃはらびたきゅうけい  きんこうしゅ  じゃくゆうぶんしりしゅ しゅちとくしょう  しいきぎ    ひよふほさっこう    かいとくきゅうけい
一切法究竟故 般若波羅蜜多究竟 金剛手 若有聞此理趣 受持讀誦 思惟其義 彼於佛菩薩行 皆得究竟

「ばん うん うん うん うん(無量無辺究竟如来)」



しふぁきゃふぁんひろしゃだ   とくいっせいひびつはっせいぶきろんじょらい  ふっせさいしょうぶそちゅうこう  たいらきんこうふこうさんまや  きんこうはっせいはんじゃりしゅ
時薄伽梵毘盧遮那 得一切祕密法性無戲論如來 復説最勝無初中後 大樂金剛不空三摩耶 金剛法性般若理趣
 そい   ほさんばかさ   たいよくさいしょうせいしゅこ とくたいらくさいしょうせいしゅ  ほさんばかさ    とくたいらくさいしょうせいしゅこ
所謂 菩薩摩訶薩 大慾最勝成就故 得大樂最勝成就  菩薩摩訶薩 得大樂最勝成就故 
そくとくいっせいじょらいたいほていさいしょうせいしゅ ほさんばかさ    とくいっせいじょらいたいほていさいしょうせいしゅこ そくとくいっせいじょらい  
則得一切如來大菩提最勝成就  菩薩摩訶薩 得一切如來大菩提最勝成就故  則得一切如來
さいたいりょくまさいしょうせいしゅ  ほさんばかさ    とくいっせいじょらいさいたいりょくまさいしょうせいしゅこ そくとくへんさんかいしさいしゅせいしゅ  ほさんばかさ
摧大力魔最勝成就  菩薩摩訶薩 得一切如來摧大力魔最勝成就故  則得遍三界自在主成就菩 薩摩訶薩
とくへんさんかいしさいしゅせいしゅこ そくとくせいちょぶよかいいっせいゆうせい ちゅうちゃくりゅうてん  いたいせいしんしょうそせいし
得遍三界自在主成就故 則得淨除無餘界一切有情 住著流轉   以大艶i常處生死 
きゅうしょういっせいりえきあんらくさいしょうきゅうけいかいしっせいしゅ  かいこ
救攝一切利u安樂最勝究竟皆悉成就    何以故
ほさっしょうけいしゃ だいししんせいし  こうさくしゅうせいり  じふしゅでっぱん  はんじゃきゅうほうべん
菩薩勝慧者 乃至盡生死 恆作衆生利  而不趣涅槃 般若及方便
ちとしっかち    しょほうきゅうしょゆう  いっせいかいせいせい  よくとうちょうせかん れいとくせいちょこ
智度悉加持 ゥ法及ゥ有  一切皆C淨  慾等調世閨@令得淨除故
ゆうていきゅうあくしゅ ちょうふくしんしょゆう じょれんていほんぜん  ふいこうそぜん  しょよくせいえきぜん
有頂及惡趣  調伏盡ゥ有  如蓮體本染 不爲垢所染 ゥ慾性亦然
ふぜんりきんせい  たいよくとくせいせい たいあんらくふじょう  さんかいとくしさい  のうさけんこり
不染利群生 大慾得C淨 大安樂富饒  三界得自在 能作堅固利
きんこうしゅ じゃくゆうぶんしほんそはんじゃりしゅ じつじつしんちょうこくしょうこくてい  ひかきいっせいあんらくえっち  たいらきんこうふこうさんまいきゅうけいしっち
金剛手 若有聞此本初般若理趣 日日晨朝或誦或聽   彼獲一切安樂ス意 大樂金剛不空三昧究竟悉地
けんせ  かきとくいっせいほうしさいえっらく いしゅうりくたいほさっせい とくよじょらいしゅうきんこうい
現世 獲得一切法自在ス樂 以十六大菩薩生 得於如來執金剛位

「うーん(五秘密)」




じしいっせいじょらいきゅうちきんこうほさんばかさっ  とうかいらいしゅかい  よくれいしほうふこうぶかいそくせいしゅこ  かんきょうしょうさんきんこうしゅげん
爾時一切如來及持金剛菩薩摩訶薩 等皆來集會 欲令此法不空無礙速成就故 咸共稱讚金剛手言
せんざいせんざいたいさった せんざいせんざいたいあんらく
善哉善哉大薩捶 善哉善哉大安樂
せんざいせんざいまかえん  せんざいせんざいたいちけい
善哉善哉摩訶衍 善哉善哉大智慧
せんのうえんぜしはっこう   きんこうしゅたらかち
善能演説此法ヘ 金剛修多羅加持
ちしさいしょうこうおうしゃ  いっせいしょまふのうかい
持此最勝ヘ王者 一切ゥ魔不能壞
とくふほささいしょうい   よしょしっちとうふきゅう
得佛菩薩最勝位 於ゥ悉地當不久
いっせいじょらいきゅうほさ きょうさくじょししょうせっち
一切如來及菩薩 共作如是勝説已
いれいちしゃしせいしゅ   かいたいかんぎしんしゅこう
爲令持者悉成就 皆大歡喜信受行



ひろしゃだふ     ひろしゃだふ     ひろしゃだふ    ひろしゃだふ
毘盧遮那佛 毘盧遮那佛 毘盧遮那佛 毘盧遮那佛
ひろしゃだふ     ひろしゃだふ     ひろしゃだふ    ひろしゃだふ
毘盧遮那佛 毘盧遮那佛 毘盧遮那佛 毘盧遮那佛
ひろしゃだふ     ひろしゃだふ     ひろしゃだふ    
毘盧遮那佛 毘盧遮那佛 毘盧遮那佛      




がとうしょしゅ           えこう
我等所修 三昧善  廻向 最上大悉地
あいみん             しょうじょ
哀愍 攝受願海中  消除 業障證三昧
てんじゅ              とうしょ
天衆 ~祇揶ミ光  當所 權現摶@樂
こうぼう              いっせい
弘法 大師摶@樂  貴賤 靈等成佛道
かこ                はんにゃ
過去 聖霊成仏道  般若 理趣能引導
しょうちょう            てんげ
聖朝 安穩撥恕諱@ 天下 安樂興正法
ごじ                めっざい
護持 大衆除不  滅罪 生善成大願
ぼだい               いんどう
菩提 行願不退轉  引導 三有及法界
どういっしょうこにゅうあじ
同一性故入阿字

以上が般若理趣経の内容です。当時、日本の仏教界を二分する程の最澄と空海はこの内容を見せろ、見せないで仲違いし疎遠になるほど拘った真言密教の真髄なのです。


この理趣経を少しでも理解し易いように、あらましを表形式で掲載致しますのでご覧下さい。


理趣経のあらまし

勧請 読経する者が大日如来をお迎えして挨拶。
序説 大日如来の説法を聞こうと、他化自在天の王宮に八十億の仏たちが集まってきた。
段数 主役 あらまし
初段 金剛サッタ
全ては清く、美しいものである。欲・触・愛・慢の小楽を
大楽に変えることこそ、仏の道である。
二段 大日如来 大楽の境地に至ったとき、全ては平等であるという智恵を得る。
三段 降三世明王 知恵の内容
自分の心に住む三毒(貧・瞋・痴)をコントロールする智恵。
四段 観世音菩薩 ものごとを清らかな目で見る智恵。
五段 虚空蔵菩薩 宇宙に遍満する無限の宝を発見する智恵。
六段 金剛拳菩薩 仏の活動(身・口・意)を身につける智恵。
七段 文殊菩薩 修行の方法 小さな自分を大宇宙の阿字に広げる観想修行を行なう。
八段 転法輪菩薩 大宇宙の全てを小さな自分の阿字におさめる観想修行を行なう。
九段 虚空庫菩薩 人の為に供養の実践活動を行なう。
十段 摧一切魔菩薩 自我の小さな怒りを大きな怒りに変える修行を行なう。
十一段 普賢菩薩 四段から十段までの八大菩薩の智恵と修行法をひとつに集めると、
普賢菩薩になる。
十二段 外金剛部 われわれの体には仏が宿っているのだ。
十三段 七母天 同じく外金剛部の七母天たちにも、仏性はそなわっているのだ。
十四段 三兄弟 同じく外金剛部の三兄弟たちにも、仏性はそなわっているのだ。
十五段 四姉妹 同じく外金剛部の四姉妹たちにも、仏性はそなわっているのだ。
十六段 宇宙は五部各々がそれぞれに五部をそなえて無限大に広がっている。
十七段 煩悩の根本である欲・触・愛・慢を避けるのではなく、大欲に変える修行を続ければ、必ず大楽の世界に往けるであろう。
流通 八十億の仏たちが金剛サッタに称賛の声を送る。
合殺 読経する者が大日如来を称える。
回向 読経する者が諸仏に回向の祈願をする。




更に、理解し易い様に次に理趣経の現代語訳を掲載いたします。


般若理趣経(完全なる悟りへの道を述べた経)の現代語訳


勧請


毘盧遮那仏と清浄にして
けがれなき真実なる教えに帰依いたします。この生のうちに理趣経に出会わんことを。日々に読誦して忘れざらんことを。そして本尊曼荼羅世界に法楽をいやがうえ増大したてまつらん。大楽が金剛であり空しくないといわれる真実を悟らんとする誓いのおしえ。完全なる悟りへの道を述べた章。大興善寺の沙門不空が皇帝の教勅を受けて訳す。


序説

 このように私は聞いた。ある時、お釈迦様は、すべての如来が持っている金剛のように不変不壊な力によって、極めて勝れた境地に到達された。そして、すべての如来の智慧を象徴する宝冠によって、頭を浄められ、三界の主となられたのである。このように、お釈迦様は、すべての如来の一切のものを知る最上の智慧を得られ、心と体の完全な自由を得られた。その上、お釈迦様は、すべての如来の一切の行為が平等な慈愛によることを示す種々様々な事業を遂行された。

 かくて、お釈迦様は、あますかたなく、すべての人々の世界における、すべての人々の願いを、みなことごとく完成させて、過去と現在と未来との三世のすべての時において、御自分の身(からだ)と口(ことば)と意(おもい)との三つの働きは、いささかも停滞するところがなくなった。こうして、お釈迦様は「あまねくすべてを照らすもの(大日如来)」と一体になられたのである。

 この大日如来は、この世界の果てにある他化自在天(他を救うことが自在な所)の王宮に居られる。ここはすべての如来が常にゆきかい、その優れた様が褒め賛えられている大宝殿である。くさぐさの宝が錯綜し、吊りおろされた鈴や鐸そして絹旗が微風に揺れ動き、宝珠のついた髪飾りや装身具、半月や満月の形をした宝石などが、いとも美しく飾られている。

 この美しい宮殿の中に、大日如来は八十億もの多くの菩薩と共に居られた。その菩薩の中でも、金剛手菩薩大士(金剛のように堅固な菩提心の体現者)、観自在菩薩大士(大いなる慈悲の実現者)、虚空蔵菩薩大士(一切の事物を包容してあらゆる存在をさまげない福徳者)、金剛拳菩薩大士(大いなる三密の行者)、文珠師利菩薩大士(最上なる智慧の完成者)、纔発心転法輪菩薩大士(素早くそして巧妙な説法者)、虚空庫菩薩大士(無尽にして無余なる供養者)、摧一切魔菩薩大士(外に憤怒を内に悲憂を懷いて悪を摧く奉仕者)の八大菩薩は座の中心であり、これらの大菩薩たちに尊敬されて、取り囲まれて、大日如来は正しい法(おしえ)を説かれたのである。

 その法は、始めに善く、中に善く、終りに善く、表現の内容も巧妙で、いささかの誤りもなく円満であり、清らかで澄みわたったものである。


初段 (大楽の法門) 金剛サッタの巻

 その最初の教えは「一切の存在(法)は清浄である」という教えである。このことについて、大日如来は十七の清浄なる菩薩の境地をあげて次のように説かれた。

男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である。
欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である。
男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である。
異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である。
男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である。
欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である。
男女交合して、悦なる快感を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である。
男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である。
自慢の心も、清浄なる菩薩の境地である。
ものを飾って喜ぶのも、清浄なる菩薩の境地である。
思うにまかせて、心が喜ぶことも、清浄なる菩薩の境地である。
満ち足りて、心が輝くことも、清浄なる菩薩の境地である。
身体の楽も、清浄なる菩薩の境地である。
目の当たりにする色も、清浄なる菩薩の境地である。
耳にするもの音も、清浄なる菩薩の境地である。
この世の香りも、清浄なる菩薩の境地である。
口にする味も、清浄なる菩薩の境地である。
 なにがゆえに、これらの欲望のすべてが清浄なる菩薩の境地となるのであろうか。これらの欲望をはじめ、世のすべてのものは、その本性は清浄なものだからである。ゆえに、もし真実を見る智慧の眼である般若を開いて、これら一切をあるがままに眺めるならば、あなたたちは真実の智慧の境地に到達し、すべてみな清浄でないものがないという境地になるであろう。

 金剛手菩薩よ。この清浄なる境地を生み出す真実なる知慧の理趣(みち)を聞かされたならば、すべての障りは速やかに消え去り、光り輝く菩提(さとり)の道場(にわ)に入ることであろう。すべての障りとは、貧りや瞋りなどの煩悩の障り、法(教え)を聞きえない障り、悪業のみをなす障り等で、これらすべての障りを積み重ねても、地獄の境涯に落ち入るようなこともなく、重い罪を作ったとしても、それを消滅することは難しいことではない。

 この正しい法門をただ聞くだけでなく、よく身に受持し、日に日に読誦し、よく心に思惟すれば、この世において、父母によって生まれたこの身体のままで、すべてのものの片寄らぬ本質を見極め、金剛のごとく不壊で安らかな境地になるであろう。こうして、あなたたちは、なにものにおいても、拘束を受けることなく自由となり、はかり知れぬ快楽と歓喜に満ち満ちることになるであろう。そして、十六の大菩薩によって象徴される十六の生の段階(禅定)を進んで、金剛のごとく不壊なるもの(金剛サッタ)を本質とする私「あまねくすべてを照らすもの(大日如来)」の境地を獲得することであろう。

 このような大日如来の説法を拝聴した金剛手菩薩は、すべての如来の大乗(こよなき)現証(さとり)の三摩耶(思い)を示し表わす曼荼羅に住している持金剛者の中にあって、殊に勝れた者となり、この世の悪を調伏して余すところがない一切義成就菩薩となられた(一切の道理にかなったことを成し遂げた)。

 かくて、金剛手菩薩は、この「欲望はすべて浄らかなり」という教えを表わすために、顔を和らげ、微笑まれ、左手に教えを象徴する金剛慢の印を結び、右手で菩提心(自分をよく知ろうとする心)を象徴する五股の金剛杵(五股杵)を揺り動かして、勇み進みゆく勢いを示された。そして、大いなる楽が金剛のごとく不壊で空しからずという境地を示すために、この教えを一字で表わす聖音「ウーン」を唱えたのであった。


二段 (覚証の法門) 大日如来の巻

 続いて、大日如来は、すべての如来の現等覚(さとり)を生み出す教えを説かれた。それはすなわち、あらゆるものの本性は、悩みを離れ、寂静であるという教えである。これこそが真実なる智慧の理趣(みち)である。

 一つには、金剛のような現等覚である。これは、すべてに普遍で平等なることを知る悟りであり、金剛のように堅固で不壊な大菩提である。これは金剛平等(大円鏡智:澄んだ水の表面に喩えられる阿しゅく如来の智慧)と言われる。

 二つには、すべての利益が等しいことを知る現等覚である。この大いなる菩提は、すべての利益に基づき、慈悲によるがゆえに差別がない。これは義平等(平等性智:澄んだ水の水面が同じ高さであることに喩えられる宝生如来の智慧)と言われる。

 三つには、法(教え)が平等であるという現等覚である。この大菩提は、ものの自性が清浄であり、すべてのものにあまねくゆきわたり、その教えはすべての人々を教化するからである。これは法平等(妙観察智:澄んだ水の水面にすべてを映し出すことに喩えられる阿弥陀如来の智慧)と言われる。

 四つには、すべての業が平等であることを知る現等覚である。この大いなる菩提は、私欲にとらわれず、すべての分別動作をそのままに、如来の種別を超えた平等の境地に通ずるからである。これは一切業平等(成所作智:澄んだ水がすべてのものの成長を育むことに喩えられる不空成就如来の智慧)と言われる。

 この「さとりはすべてにあまねし」という教えを四段に分けて説き終り、大日如来は金剛手菩薩に呼びかけられた。

 金剛手菩薩よ。もしあなたたちがこの四つの悟りを生み出す法を聞いて、これを読み誦え、身に保ち持っていたならば、たとえ今ここで数えきれない重い罪をなしたとしても、必ず一切の地獄に墮ちるという報いを超えて、そのままで無上正等覚(さとり)を証することであろう。

 かくて、大日如来は、第一段で、すべてが大楽であることを示したのに続いて、第二段では、それを実現する方法を説き終り、これらの四つの現等覚を、より一層に明かにしようと考えて、顔を和らげ、微笑まれ、手に智拳の印を結び、「一切の法は自性平等(法界体性智:澄んだ水がいたるところにゆきわたることに喩えられる大日如来の智慧)」という教えを一字で表わす聖音「アーク」を唱えたのであった。

 すでに、大日如来は、御自分の智慧を主客の両面から説き終られて、この理想の世界を八大菩薩によって象徴される八つの法門として、もっと具体的に説明しようとされた。



三段 (降伏の法門) 降三世明王の巻

 大日如来は、従い難いものどもを、心身を制御することによって、煩悩や悪行に打ち勝つという調伏の修行に励む釈迦牟尼如来(お釈迦様)の姿になり、すべての法は平等で、善悪を離れているという最も勝れた境地をもたらす教えを説かれた。これは真実の智慧の理趣(みち)である。

 貧り(むさぼり=貪欲:自己の欲するものに執着して飽くことを知らないこと)は、その本質からすれば、善悪の分別も、それに執らわれた表現も超えたものであり、人によっていかなる善にも活かすことができる。貧りがかかるものである以上、瞋り(いかり=瞋恚:自分の心に逆らうものを怒り恨むこと)も同様で、善悪の分別も表現も超えたものである。したがって、もし自我に執着することなく、それを善に活かしきれば、邪悪に打ち勝つための大きな瞋りが生み出される。このように、瞋りが善悪の分別を超えたものであるとすれば、痴しさ(おろかしさ=痴愚:根本の真理を知らないこと)も同様で、善悪の分別を超えたものである。ゆえに、小さな自我に執らわれず、それを善に活かす時は、これが愚かとか、あれが賢いなど、物事の理非をあれこれと言いたてるような、小さな痴しさを超越して、大きな痴しさの境地に至るであろう。

 このような三毒と呼ばれる貧りと瞋りと痴しさの悪しき心の働きは、すべて相対的な区別にたった認識に過ぎず、すべてのものは善悪の区別や表現を超えたものなのである。したがって、すべてのものが、その本質において、現象の上に見られる相対的な区別や表現を超えたものである以上、この本質を知るための真実の智慧の理趣も同様に、かかる区別や表現を超えたものでなくてはならない。

 こうして「悪はもともと悪ならず」という善悪を超えた法門を説き終わり、大日如来は金剛手菩薩に呼びかけられた。

 金剛手菩薩よ。もしあなたたちがこの「悪にその性なし」という理趣を聞いて、これを読み誦え、身に保ち持っていたならば、たとえ三界の一切の生き物を殺したとしても、決して悪の報いを受けて地獄に墮ちることはない。それどころか悪しきものを調伏(うちなび)かしたことの果報を得て、速やかに無上正等覚(さとり)を証することであろう。

 かくて、金剛手菩薩は、この悪を調伏する教えを、より一層に明らかにしようと考えて、手に降三世の印を結び、蓮華の花のような美しい微笑みをうかべながら、一方では、はげしい忿怒の表情で、眉をひそめて睨みつけ、鋭い牙を出しながら、法力を以て仏敵や怨敵や魔障などのすべての悪を降伏する(討ち倒す)姿に変身された。そして、この教えを一字で表わす聖音「ウン」を唱えたのであった。



四段 (観照の法門) 観自在菩薩の巻

 さらに、大日如来は、善悪が共にその本性において平等にして清浄であることを示すために、「ものすべて浄らかなり」という真理を自由に観る智慧を生み出す理趣(みち)を説かれた。この境地は観自在菩薩の境地である。これは「四種の不染」の教えと呼ばれる。

 この世間における一切の貪欲は清浄である。何となれば、すべてのものの本性は清浄であって、善や悪の貪欲などという区別は現象の上にあらわれたものに過ぎず、決してその本質にまでさかのぼって汚すことができるものではない。このように貪欲が清浄であるとすれば、この貪欲の不足によって起こる瞋恚も痴愚も、その心に根拠がなく、すべて清浄である。(金剛法菩薩)

 このように、貪欲も瞋恚も痴愚も、この世のすべての垢(けがれ)が清浄であるがゆえに、これらの垢から生じる一切の罪の業(おこない)も、その本性は悪ではなく、極めて清浄である。(金剛利菩薩)

 また、この世における一切の構成要素も、その本性は善悪の区別なく清浄であるから、これらの構成要素が一時の存在を保つために、仮に組み合わさったもので、すべての生き物は清浄である。(金剛因菩薩)

 さらに、この世の中で働いている理性も、宇宙の本性そのものであり、大日如来の最高智のあらわれなのだから、とても浄らかで、現象の上の区別や表現で汚されるものではない。(金剛語菩薩)

 このように、貪欲の本質が清浄であり、諸々の貪欲から起こる瞋恚も痴愚も清浄であるならば、これらの三毒から生じる悪業も、本質は清浄であると観なければならない。世界を構成する一切は清浄であり、それを自覚する智も清浄である。この本質の清浄性を証明する四つの見方(四種の不染)を説き終わり、大日如来は金剛手菩薩に呼びかけられた。

 金剛手菩薩よ。今ここで私が説いてきた真理の理趣を、身に受持し、読んで唱え、よく心の中に考えたならば、たとえこの現実世界の中に生活し、様々な欲望の中にあっても、その本性までが汚染されることはない。それはちょうど、濁った池の中に根を沈め、泥で自らを養いながら、そこから咲きい出る白や赤の蓮華の花が、決して泥に汚されないのと同じである。垢は美しいものにかぶさる仮染めの塵にみたてることができ、その本来の清浄を観ぬく時には、無上正等覚(さとり)を証することであろう。

 かくて、すべてのものの真実を観ぬくことがまったく自由な観自在菩薩の姿をとられる大日如来は、この「ものすべて浄らかなり」という真理の意味を、より一層に明らかにしようと考えて、顔を和らげ、微笑まれ、左手に持つ蓮華を、右手で開花させるような、開敷蓮華の姿勢(泥中にあって清浄を保つ蓮華の法門)を示めされた。そして、諸々の欲望がものの本性まで汚染できないことを観察し、すべての生き物が汚されることがないという真理を一字で表わす聖音「キリーク」を唱えたのであった。



五段 (富の法門) 虚空蔵菩薩の巻

 ついで、大日如来は、三界のすべてのものの主であり、そのすべての福を集める一切三界主如来の姿となられ、すべての如来がすべての人々に灌頂(めぐみ)する真実なる智慧の理趣(みち)を説かれた。これは灌頂の智慧をみきわめる「四種の施行」である。

 まず、自ら智慧の水をすべてのものに灌ぐものとなり、これによって真理を悟って成仏する。最上の宝を他人にも自分にも施し、三界のすべての心に願うところとなり、三界の法王の境地に到る。(灌頂施)

 また、あらゆる人々に義利(よきもの)を施し、世の生活に不如意なものを取り除く。そうすれば、この世の一切の願いは満ち足らされるであろう。(義利施)

 次に、如来の法(おしえ)を人々に施すことにより、一切のものが法性(普遍の真理)を獲得することであろう。(法施)

 最後に、生(いのち)の資(もと)となる種々様々なものを施す。この行ないによって、世のすべての飢えたるものは、ことごとく苦しみから救われ、身口意(しんくい)も安らかで楽しいものとなるであろう。(資生施)

 かくて、一切の如来の灌頂智蔵という真理の体現者であり、虚空(おおぞら)のように無限の福徳を身に持つところの虚空蔵菩薩は、この「四種の施行」の真理を、より一層に明らかにしようと考えて、顔を和らげ、微笑まれ、金剛と宝珠とを連ねて作った冠を頭に頂いて、「すべてのものに智慧の水を灌ぐ」という教えを一字で表わす聖音「タラ−ン」を唱えたのであった。



六段 (実働の法門) 金剛拳菩薩の巻

 次に、大日如来は、一切の如来の活動が完全無欠であることを見まもる智慧を備えた得一切如来智印如来の姿となられ、すべての如来の身口意(しんくい)の活動が、そのまま私たちの上に加持される(およぶ)ことを知る真実なる智慧の理趣(みち)を説かれた。これは私たちに真実なる働きをもたらす「四種の智印」の教えである。

 まず、あなたたちの小さな我に執らわれることを止め、何ものにも執着しない自由な活動を行なうようにすれば、あなたたちの活動が、そのまま一切の如来の身(活動)と同じものになり、あなたたちの身体の上に、諸々の如来の活動(宇宙の活動)を実現することになろう。(身印)

 また、真実なる智慧の教えを聞いて、邪悪な見解を排斥すれば、一切の如来の語(言葉)が、あなたたちの言葉と同じになり、如来の法(宇宙の音声)を体現することになろう。(語印)

 さらに、真実なる智慧の真義を悟り、一切の如来の智慧の働きを知ったならば、あなたたちの身体のままで、諸々の如来の心の活動(宇宙の真理)を実現できる三摩地(境地)に到達することになろう。(心印)

 最後に、これらの活動のすべてが、如来の心のままに働くことになれば、あなたたちの業(おこない)が、一切の如来の金剛のごとく不動な業と等しくなり、諸々の如来の最も勝れた完成の境地(宇宙そのもの)に到達することになろう。(金剛拳印)

 この「身口意の全活動の完全性」の法門を説き終わられて、大日如来は金剛手菩薩に呼びかけられた。

 金剛手菩薩よ。もしこの三つの活動の完全性という真実なる智慧の理趣を聞いて、これを読み誦え、身に保ち持っていたならば、一切の自由を獲得することであろう。また、一切の智慧の自由を得て、自分の知能活動が、如来とまったく同等になるであろう。さらに、小さな我を離れる時に、あなたたちの身口意の活動は、如来の身口意の活動と等しくなり、すべての行動の完成成就を得ることができるであろう。すなわち、身と口と意とのすべての活動が、金剛のごとく堅固で不動なる完成の境地に到達するのである。そうして、あなたたちは、ただこの身のままで、無上正等覚(さとり)を得るのであろう。(即身成仏)  かくて、大日如来は、この真実なる活動の理趣である「四種の智印」を教えるために、金剛拳菩薩の境地に立たれ、この「四種の智印」の教えを、より一層に明らかにしようと考えて、顔を和らげ、微笑まれ、この自由の境地を表わす金剛拳の印を結び、金剛のごとく堅固で不動なる全活動の完成を一字で表わす聖音「アク」を唱えたのであった。



七段 (転字輪の法門) 文珠菩薩の巻

 続いて、大日如来は、すべての分別と戯れの議論を離れた智慧の完成の境地に立たれ、この境地を象徴する一切無戯論如来になられて、アの音から始まる一切の語音を自由自在に操って、言語活動の上に現われた「言葉に相(すがた)なし」という真実なる智慧の理趣(みち)を説かれた。これは「四種の解脱」と言われる教えで、文珠菩薩の智慧である。

 すべての諸法は、その本質において、いかなる実体をも持たないのであるから、空である。宇宙に存在するあらゆる事物は、もろもろの事物が縁起によって成り立ったもので、固定的実体がないのである。これを諸法の空と呼ぶ。

 すべての諸法は、その本質において、定まった形相がないのであるから、無相である。だから前述の諸法の空というのは、表現上の仮の相(すがた)なのだから、もし諸法の空に固執したならば、逆に空から遠ざかってしまう。これを諸法の無相と呼ぶ。

 すべての諸法は、その本質において、特定の方向や目的を持たないのであるから、無願である。だから前述の諸法の無相について、その相から離れたいという願いに執着することは、逆に空から遠ざかってしまう。これを諸法の無願と呼ぶ。

 このように、すべての諸法は本質において空であり、固定した相も、目的も方向も願いもないのであるから、すべての諸法は自由で光り輝いている。真実なる智慧の理趣に照らしてみれば、ものはみな清浄なのである。これを諸法の光明と呼ぶ。

 かくて、清浄で邪気のない文珠菩薩の姿に変身した大日如来は、この「ものも言葉もすがたなし」という教えを、より一層に明らかにしようと考えて、顔を和らげ、微笑まれ、自らの智慧を象徴する鋭い剣を振るって、一切の如来を切る姿勢をとられ、この教えを一字で表わす聖音「アン」を唱えたのであった。



八段 (入大輪の法門) 転法輪菩薩の巻

 ついで、大日如来は、世の一切の如来の悟りを示す輪のごとく円満なる境地に立たれ、この境地をそのまま名とする一切如来入大輪如来(人々のために慈悲の心を起こして真実なる法輪を回転させる纔発心転法輪菩薩の如来)になられ、完全にして円満なること大いなる輪のごとき境地に入るための真実の智慧の理趣(みち)を説かれた。これは「四種の輪円」と呼ばれる教えで、宇宙の秩序を表現する曼荼羅(シェーマ)の一つである。

 まず、あなたたちが、自分自身の心も、世のすべてのものも、堅固不動にして、連なる輪のごとく完全無欠であることを悟れば、たちどころに一切の如来の環のごとく完全なる智慧の境地に到達することができる。(如来の法輪)

 次に、世の義利(利益)の偏在はありえず、それはすべてに平等円満であり、あたかも虚空(空間)のごとく尽きることなく、宝を取り出すことができるという虚空蔵菩薩のような円満なる境地に入ることとなろう。(大菩薩輪)

 さらに、すべてのものの円満で平等なることを悟れば、たちどころに大乗の妙なる完全なる真理の境地に入ることであろう。(妙法輪)

 最後に、すべての事業の円満で平等なることを悟れば、たちどころに一切のものの働きが円満で安全なる境地に到達するであろう。(事業輪)

 かくて、この「輪のごとく欠くるところなし」という真実の智慧の理趣を説かれた大日如来は、纔発心転法輪菩薩の姿に変身されて、より一層にこの教えを明らかにしようと考えて、顔を和らげ、微笑まれ、この教えを象徴する金剛輪を右手の中指に乗せて、左手で一つ股の金剛杵(独股杵)を持って、この杵で右の輪をクルクルと回転させて、この輪に喩えられる真理の働く様子(曼荼羅)を示された。そして、この完全無欠な輪のごとき境地を一字で表わす聖音「ウーン」を唱えたのであった。



九段 (供養の法門) 虚空庫菩薩の巻

 それから、大日如来は、世の一切の如来を種々に供養するための広大無辺なる儀式の蔵という名前を持つ一切如来種種供養蔵広大儀式如来(虚空を庫にしてすべてのものに惜しみなく円満にものを与えて欠けることがない虚空庫菩薩の如来)となられ、一切の如来を供養する非常に勝れた境地を生み出す真実なる智慧の理趣(みち)を説かれた。これは「四種の供養」と呼ばれ、すべてのものを利して養う四つのすぐれた行ないの実践である。

 まず、菩提(さとり)を願う心を発すれば、それがそのまま諸々の如来の最も喜ばれるところとなり、広大な供養になる。なぜならば、真理の具現者である一切の如来と菩薩は、真理を知り、悟るものが一人でも多いことを願っているからである。(発菩提心供養)

 次に、この世のすべてのものを救済することは、それがそのまま諸々の如来を供養することになる。なぜならば、すべてのものを苦海から救い出して涅槃に度(わた)らせることが、如来の本願だからである。(救度供養)

 さらに、妙なる真理を記した経典を身に受持することが、そのまま諸々の如来への供養になる。なぜならば、経典に書かれた内容は、如来の悟りであり、それを人に知られることを欲するからである。(妙経供養)

 このように、般若波羅蜜多(最高の真理)を記した経典を、身に受持し、読誦して、自分で書き写し、他人にも書き写させ、よく心に考え、十種の修行を実践したならば、それがそのまま諸々の如来の供養になるであろう。(般若供養)

 かくて、この「真実の供養」の教えを説き終わった虚空庫菩薩は、より一層にこの教えを明かにしようと考えて、顔を和らげ、微笑まれ、一切の事業が空しからずという境地を一字で表わす聖音「オン」を唱えたのであった。



十段 (忿怒の法門) 摧一切魔菩薩の巻

 続いて、大日如来は、すべての障害を克服するための悪に対する強い忿怒を内に潜めた智慧の境地に立たれ、その境地を象徴するために、拳を強く握り、その境地をそのまま名とする能調持智拳如来(外に憤怒を内に悲憂を懷いて一切の悪を摧く摧一切魔菩薩の如来)となられて、「世の一切の悪を調伏する智慧の蔵」という真実なる智慧の理趣(みち)を説かれた。これは「四種の忿怒」と言われる教えである。

 まず、一切の有情(生きとし生けるもの)は、その本質において平等であり、自他の差別は現象の上だけのものだから、すべて自他の差別によって起こる忿怒も、その平等性の発露そのものであり、対立的な忿怒ではない。これは忿怒の平等と呼ばれる。

 また、一切の有情は、現象の上からみれば、惑と業と苦の三つのあり方の中にあって、苦しむ存在であり、これは調伏しなければならない存在である。一切の有情は平等なのであるから、忿怒は調伏の働きがある。これは忿怒の調伏と呼ばれる。

 世の一切の有情は、その背後に潜む法性(不変の本質)の現象界における差別と展開に他ならないのであるから、この法性を強く自覚することが、そのまま大いなる忿怒である。これは忿怒の法性と呼ばれる。

 世の一切の有情は、その本質においては、いかなる行為も行動も完全で不変な金剛のごときものなのだから、現象の差別を離れ、この本来の金剛性を強く自覚すれば、我執にとらわれ束縛された行動を調伏できる。なぜならば、すべての生きとし生けるものを調伏することは、さとりのためだからである。これは忿怒の金剛と呼ばれる。

 ではいかなる理由によって、世の一切の有情を調伏することができ、菩提を開くことができるのであろうか。それは、現象の差別を撤廃させることによって、その背後の清浄な菩提を見成する時に、大いなる忿りを離れるのである。

 かくて、摧一切魔菩薩は、この「大いなる忿り法門」を、より一層に明らかにしようと考えて、顔を和らげ、微笑まれ、手に金剛牙の印を結び、身体全体を金剛夜叉の姿に変身させて、すべてのものを恐怖させ、仏道に引き寄せようとされた。大いなる忿怒は、そのままで大いなる歓喜となり、この教えを一字で表わす聖音「カク」を唱えたのであった。



十一段 (普集の法門) 普賢菩薩の巻

 ついで、大日如来は、はかり知れぬものの動きと、その根底にある平等な静けさを表わす境地に立たれ、その境地をそのまま名とする一切平等建立如来(すべてのものの心の中の理想である如来蔵を人格化した普賢菩薩の如来)となられ、実在の世界にあっても、現象の世界にあっても、すべてのものが最も勝れた形で現われるという真実の智慧の理趣(みち)を説かれた。これは普賢菩薩の徳として表現される「四種の出生」である。

 まず、すべてのものは、その本質において平等であり、現象界で見られる区別は仮のものに過ぎない。したがって、ものの本質を観る根本の理性(真実なる智慧の理趣)は、万物の平等性に他ならない。(阿しゅく如来:第三段と第七段の統合)

 また、自他の執着を離れて、すべてのものの平等を自覚すれば、この世の一切の義と利は、自他の追及の対象ではなく、あらゆるものの義と利になるからである。したがって、ものの本質を観る根本の理性(真実なる智慧の理趣)は、万物に普遍している共通の利益に他ならない。(宝生如来:第五段と第九段の統合)

 次に、すべてのものは、共通する清浄なる法性があるのであるから、ものの本質を観る根本の理性(真実なる智慧の理趣)は、万物に普遍している共通の法性それ自体に他ならない。(阿弥陀如来:第四段と第八段の統合)

 最後に、すべてのものの事業(三業:働き)は、実在界の本質に根ざす事業そのものなのだから、ものの本質を観る根本の理性(真実なる智慧の理趣)は、万物の事業それ自体に他ならない。(不空成就如来:第六段と第十段の統合)

 かくて、この「平等にして差別なし」という実在界および現象界の普遍的原理を説き終わり、普賢菩薩と等しい金剛手菩薩の姿に変身した大日如来は、一切の如来と菩薩が相互に関連して集会した三摩耶(実在と現象の差別がなくなった曼荼羅)に入られて、「世の一切は空しからず」という境地を一字で表わす聖音「ウン」を唱えたのであった。



十二段 (有情加持の法門) 外金剛部の巻

 ここで、大日如来は自らの姿に戻られて、「世の一切の有情(生きとし生けるもの)は互いに加持し合う」という真実なる智慧の理趣(みち)を説かれた。これは現象界にある諸々の低い次元の神々(外金剛部の諸天)に力を与えて悟りを獲得させるための「四種の蔵性」と呼ばれる。

 まず、一切の有情は、その本質において、如来となりうる清浄な可能性を内に蔵している。これは如来蔵と呼ばれる。なぜならば、大日如来のあまねくゆきわたる光明は、一人一人を離れて、全一なる一切我として、広くあちらこちらにゆきわたっているからである。これは普賢菩薩の徳として人格的に表現されている。(大円鏡智)

 また、一切の有情は、その本質において、平等の堅固にして不変なる智を蔵すること金剛のようである。なぜならば、虚空蔵菩薩の智慧の水によって灌ぎ浄められているからである。(平等性智)

 さらに、一切の有情は、その本質において、妙なる法を内に蔵する。なぜならば、すべてのものは、この正しき理を覚える時、自己と他者のために、誰でもが理解できる言語を活用して、その真理を再現して伝達できる。これは観自在菩薩のごとくである。(妙観察智)

 そして、一切の有情は、その本質において、羯磨(はたらき)が本来清浄にして純粋なる活動を内に蔵する。なぜならば、すべてのものの働きは、宇宙本然の活動の発現であり、あなたたちの身口意の三密の活動が、そのまま如来の三密の活動となるからである。これは金剛拳菩薩の徳目である。(成所作智)

 かくて、如来や菩薩のはるか外にある仏法の守護神である外金剛部の諸天も、自己の本質において、宇宙そのものである大日如来の化身であることを悟り、大日如来自身の境地に入り、歓喜の声をあげ、より一層に「有情みな加持す」という真理を明かにしようと考えて、「金剛のごとく不壊にして自由なる真理」を一字で表わす聖音「チリ」を唱えたのであった。



十三段 (諸母天の法門) 七天母の巻

まず、天母(めがみ)である七人(炎魔天母、童子天母、毘しゅぬ天母、倶吠羅天母、帝釈天母、暴悪天母、梵天母)が、この教えを聞いて、大いなる歓びに充ちて、大日如来に礼拝し、七人の天母たちの願いである四摂を述べた。すなわち、四摂とは、「未だに仏道に近づかないものを近づけること(徴召)」、「近づいたものを仏道に導き入れること(摂入)」、「仏道を破壊したり有情(生きとし生けるもの)を殺すような不善な心を滅ぼすこと(能殺)」、「仏道に住した修行者を大悟させること(能成)」であり、これらの四つの願いを異口同音に述べ、これらの願いを一字で表わす聖音「ビュ」を唱えたのであった。



十四段 (兄弟の法門) 三兄弟の巻

 ついで、「力はすべてにあまねし」という有情加持の法門を聞いて、歓喜の心を抑えることができない三人の高神たち(梵天:ブラフマン、大自在天:シヴァ、那羅延天:ヴィシュヌ)が、大日如来に礼拝し、自らの心に生じたさとりを一字で表わす聖音「ソハ」を唱えたのであった。



十五段 (姉妹の法門) 四姉妹の巻

 ついで、「力はすべてにあまねし」という有情加持(生きとし生けるものの加護)の法門を聞き終って、この法門の四つの部門を、それぞれ受けた四人の天女たち(適悦:ラテイ、死天妃:マラニー、猪美妃:ヴアーラヒー、成就美妃:シッデイカーシー)は、自らの心中のさとりを一字で表わす聖音「カン」を唱えたのであった。



十六段 (各具の法門) 五部具の巻

 ここで、大日如来は、限りなくはかり知れない究極の真理を表わす境地に立たれ、その境地をそのまま名とする無量無辺究竟如来となられて、ここまで説いてこられた教えが、平等で円満で金剛のごとく不変な真実なる智慧の理趣(みち)であることを重ねて明かし説かれた。

 まず、究極の真理(般若波羅蜜多)は量に限りがない。したがって、それは一切の如来に及んで欠けるところがない。(無量)

 また、究極の真理(般若波羅蜜多)は辺に限りがない。したがって、それは一切の如来に及んで例外がない。(無辺)

 次に、すべてのものの構成要素は清浄で同一な性に基づいているのだから、究極の真理(般若波羅蜜多)は一性である。(一性)

 また、すべてのものは、それ自体が絶対究極なのであるから、究極の真理(般若波羅蜜多)は究竟である。(究竟)

 かくて、この「究極の真理(般若波羅蜜多)」を説き明かされた大日如来は、その教えを聞き終えられた金剛手菩薩に呼びかけられた。

 金剛手菩薩よ。究極の真理(般若波羅蜜多)を聞いて、身に受持し、読誦し、心に思い考えるならば、そのものは、この世における自分と他人のためのすべての行為が、そのまま自他の区別を超越して、如来や菩薩の行為と等しくなるであろう。
故に大日如来と四仏の真言「バン ウン ウン ウン ウン」を唱えるのです。



十七段 (深秘の法門) 五秘密の巻

 かくて、大日如来は、宇宙の秘密の法性に得て、戯れの議論と分別を超えた境地に立たれ、その境地をそのまま名とする得一切秘密法性無戯論如来となられ、比べるものが何もない無始無終の法門を説かれた。これは「大いなる楽は金剛のごとく不変で空しからずして真実なり」という真理(この経の題)を知る真実なる智慧の理趣(みち)である。

 菩薩は小さい我を離れ、自らの欲望そのものを、普遍的な大きい我とするがゆえに、いついかなるところでも、大いなる楽を得る最勝の境地に到達する。

 菩薩は最勝の大楽の境地に到達するがゆえに、一切の如来の最勝の大いなる菩提(さとり)を完成成就することができる。

 菩薩は一切の如来の最勝の大いなる菩提を完成するがゆえに、強力な悪を摧く一切の如来の最も勝れた徳を得ることができる。

 菩薩は強力な悪を摧く一切の如来の最も勝れた徳を持っているがゆえに、三界のいかなるところにあっても自由な境地に到達できる。

 菩薩は三界のいかなるところにあっても自由な境地に到達するがゆえに、世のすべての生きとし生けるものが生死にさ迷うを止める。

 このように、菩薩は大きなる精進の心をもって、世のすべてを救い、利益し(たすけて)、安楽ならしめ、そのすべてを最勝で絶対で究極の境地(涅槃)へ度(わた)らしめるのである。

 それはなぜかを百字の偈(詩)によって示そう。


  菩薩は勝れし智慧を持ち、なべて生死の尽きるまで、つねに衆生の利をはかり、たえて涅槃におもむかず。


  世にあるものもその性も、智慧の及ばぬものはなし。ものの有姿もその本性も、一切のものはみな清浄し。


  欲がこの世をととのえて、よく浄らかになすゆえに、すぐれしものもまた悪も、みな残らずにうちなびく。


  蓮華が泥から咲きいでて、花はよごれによごされず、すべての欲もまたおなじ。そのままにして人を利す。


  大いなる欲はきよらかで、大いなる楽に富みさかう。三界の自由を身につけて、堅くゆるがぬ利を得たり。


金剛手菩薩よ。すべてのものの本初である「真実なる智慧の理趣(みち)」を聞いて、日々の朝に読み誦え、あるいは聞くだけで、一切の安楽と快適を得ることができ、「大いなる楽は金剛のごとく不変で空しからずして真実なり」という境地に到達できるであろう。この世のこの身のままで、すべてのものの自由と快適を得て、十六の大菩薩が表わす十六の生の段階(禅定)を通って、如来の金剛のごとく究極普遍の境地に達することができるのである。これを一字で表わす聖音で唱えよう「ウーン」。



流通

 かくて、一切の如来と持金剛菩薩たちは、みなこの座に来て集まり、この教えを空しくせずに、滞らせずに、速やかに完成させようと欲して、みな共に法を説いた大日如来の智慧の姿である金剛サッタを称賛して言う。

善いかな善いかな大いなる行者、 善いかな善いかな大きな楽、 善いかな善いかな大乗の法、 善いかな善いかな大いなる智慧。
  
善くこの教えを説く時は、 理趣の経に金剛の力あり。 この勝れた経を身に持てば、 すべての悪魔に害されない。
  
如来と菩薩の境地を得て、あらゆる悟りを成就する。



合殺

すべての如来と菩薩たちは、共に教えを説き終わり、聞く者すべて成就させようと、心歓ばぬものはなし。
毘盧遮那仏 毘盧遮那仏 毘盧遮那仏 毘盧遮那仏 毘盧遮那仏 毘盧遮那仏 毘盧遮那仏 毘盧遮那仏 毘盧遮那仏 毘盧遮那仏毘盧遮那仏
と11回繰り返し唱えて称えているのです。



回向

私達が理趣三昧を修行して得たよい功徳を、もっともすぐれた悟りの完成に回し向けさせて下さい。諸仏よ。どうか私達の願いを哀れんで、仏海のなかにとりいれて、私達の悪業を消し、大楽の三昧に浸からせて下さい。またこの功徳で、天も神も弘法大師も、どうかご法楽を増しますように。また一切の精霊たちも、仏道が完成しますように。なお、国家が安泰で国民が長生きし、天下は安楽で真理が栄えますように。そして、この教えを受け継ぐ私の災いを除き、罪を滅ぼし、善を生ずるという大きな願いが実現できますように。私達の悟りを求める行願があともどりしないよう、三界の迷える者を導いて真理の世界に引き入れて下さい。だれも同じ本性をもっているのですから、かならずみんなで宇宙に溶けこめますように。

以上で般若理趣経を終わる。




結縁灌頂
 
蓮華が咲き乱れる道を進む。今正にみほとけ様の御前にやって来た。指先に渡された花は、諸々の仏達の中のお一人と結ぶ唯一のものだ。自身の全ての花に託し、そっと指先を開く。花は仏の蓮華座となって、静かに落ちていく。そして千載一遇のみ仏と出会う事となる  こうしてお大師様は御年32才の時、唐の都・長安にある青龍寺に於いてこの儀式に入檀(儀式を受けること)されました。お大師様は在等唐中に二度入檀されましたが、いずれも中尊大日如来さまの上に花が落ちたと伝えられています。この儀式を「灌頂」(がんじょう)と言います。  お大師様は唐の恵果和尚より金剛・胎蔵の両部の大法を学ばれ、帰朝されてからは弘仁3年(812)11月に京都の高雄山寺にて金剛界、続いて12月に胎蔵灌頂を厳修されました。  灌頂の種類は多様で、中でも僧俗を問わずどなたでも金剛・胎蔵の諸仏と縁を結ぶことが出来る灌頂を特に「結縁灌頂」(けちえんかんじょ)と言います。受者は印と真言を面授され、その両目を覆われます。印の先には花を授けられ蔓茶羅へと導かれます。そして花を蔓茶羅に投ずる事によって蔓茶羅の諸仏と「仏縁」を結びます。これを「投花得仏」(とうけとくぶつ)と言います。次に如来の智慧の水を阿闍梨様より注いでいただきましす。そうする事によって煩悩の闇をさまよっている我々に道しるべを与えて頂きます。この時を機会に、本来私たちの心の中に備わっている仏の「眼」を次第に開眼する事が出来るのです。『金剛頂瑜伽中略出念誦経』と言うお経の中にはこの灌頂について次のように説いています。「一切衆生を悉く救わんが為にその器たると否とを論ぜず、また大罪を犯した者も尽引入せしめし、一度この大檀を遙見し、入檀すれば、一切の罪障を遠離す」 つまり全ての生きとし生ける者を 救うために、灌頂の儀式にのぞむ者 の素性を問わず、また大罪を犯した 者も一人残さず儀式にのぞませ、ひ とたび蔓茶羅(大檀)を遙見し、儀 式を受けることが出来れば、一切の 罪障が遠離することが出来ると説い ています。現在高野山では毎年5月3日より5日までを胎蔵界、10月1日より3日まで金剛界にて「結縁灌頂」を開 檀しております。との事ですのでこの尊い 仏縁にお触れいただいて、心豊かで 幸福な毎日を送られますことをお祈 りいたします。 南無大師遍照金剛     
《春季》 《秋季》 5月3・4日 午前8時30分〜午後4時まで 10月1・2日 午前8時30分〜午後4時まで
5月5日 午前8時30分〜午後3時まで (3日午前8時より「庭儀結縁灌頂三昧耶戒」の法会)
 10月3日 午前8時30分〜午後3時まで (1日午前8時より「庭儀結縁灌頂三昧耶戒」の法会)






悟りを開眼する
弘法大師(空海)


空海19歳のとき、今の高知県室戸岬にある洞窟(御蔵洞)で、求問持法を修行していたとき、口に明星が飛び込んできて悟りをひらく。その時、かれが目にしていたものは、海と空だけであった。これを記念し、以後、「空海」と名乗る。