○自分は何者?
 
 日本の哲学・文化一般に自己を描こうとする力が弱い原因は、その歴史にある。「日本」という存在が脅かされた経験が比較的少なく、占領され踏み付けにされた経験はないという歴史である。このために、自己を捉えようとする想像力は湧きにくい。
 そして、天皇以外に根拠を求めようとするエネルギーなどあるはずもない。必要に迫られたときには、天皇以外にすがるものはない状態となっている。

 今現在でいえば、日本人は日本国内に留まっている限り、自画像(「日本人」としての)を求める必要には迫られない。物理的にも平和であるし、精神的にも安全である。
 でももし外に出てしまったら、程度の差はあれ、日本人としての自画像を求められることになる。それには何とこたえればいいのか。 もし、その人が、車好きであったり、スキーの選手だったりすれば、比較的問題は少ないかもしれない。けれども、音楽とか、映像とか、社会科学とか哲学とか、何か表現行為に携わっている人なら困惑するだろう。「日本」って何だ?
 神社仏閣に和太鼓で、似合わないスーツ姿に眼鏡をかけて民謡でも歌ってみせれば、外国人、とくに西洋文化圏人は満足してくれるだろう。なぜなら、それは彼らが描いた日本人の姿だから。目の前で体現してみせれば、納得し、安心してくれるだろう。
 でもそれに違和感や抵抗感を感じるとしたら、どうすればいいだろう?柳葉敏郎や吉田栄作をかっこいいと感じ、サザンオールスターズを愛聴するときのイメージは、これとは違うはずである。柳葉敏郎や吉田栄作をかっこいいと感じるときも、眼鏡をかけてカメラをぶらさげなければならないのだろうか?サザンオールスターズを愛聴する者も、「日本人の心」演歌を歌ってみせなければならないのだろうか?

 結論から言えば、自分で自分の今の生活を描くしかないのである。自分の感性で、自分の経験を、観る者聴く者に伝わるように。
 ロックは好き。そろばんや習字は習った。カラオケでは演歌を歌うこともある。ドラムスでジャズを演る。和服は子供の頃お祭りのときに着た記憶しかない。ドライブに行くときにはユーミンやサザンを聴く。
 もちろん、歴史を学び伝統を守ることは大切なことだし、一方、外国にある魅力あるものを無視し切り捨てることは無茶である。けれども、それらに縛られる必要も無い。時間的にも空間的にも、「今」を表現する。


 ではここで、「日本」という存在が脅かされた経験が比較的少ない「日本」の歴史を振り返ってみよう。ただし、これは史実研究のつもりではないので、高校日本史・大学受験の日本史の教科書や参考書を一次資料とする。
 
日本の表現へ
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元版1990−1991
本版2003