○音楽を聴くこと
 
 音楽を聴き演ずるのを見て人が受けとめるものは何だろうか。それは、大きく3つに分けることができる。
 ひとつは趣味、もうひとつは製作・演者の技術・腕前、そして表現されたところのものだ。
 様々なタイプ・ジャンル・形式の音楽のうち、どれを聴くようになるか、どれを歌うようになるか、どれを演るようになるかは、ほとんどたいていの場合、偶然か趣味だ。親や兄弟や友人や恋人など周囲の人間との関係から触れることが出来たもの、やるはめになるもの、ふと好きになったもの、妙になじんで気持ちのいいもの、思いが入り込めるもの。質感や雰囲気、趣味が気に入るもの。
 自覚の有無に関わらず、人は自分が触れることが出来る音楽すべてを受け入れるわけにはいかない。自分のものを選択するし、せずにはいられない。

 聴き、歌い、演っていくうちに、選んだものの方法・技巧・技術・理論を身に付けていく。その形を受け入れたり作り出したりするための技術を培う。抗原抗体反応の凸と凹のように、歌や曲の旋律・リズム・イディオム、文法や言い回しを受けとめるように感受性を養う。そしてさらに積極的に、今度は酵素が蛋白質を分解したり合成したりするように、自ら歌い、演り、作り出し発信するために感受性を鍛え訓練し(それは見方を変えれば、自分の感受性を特定の鋳型に入れてしまうことでもある。それは価値判断の基準を作ることではあるが、ということは物事を白紙の状態では受けとめられなくなるということでもある)、想像力に力を付け、形を把握する。

 歌や曲の一つ一つの音は、互いに関係して意味を作っている。
 たとえばジャズやフュージョンやダンス・ミュージックといった黒人音楽の流れを大きく汲む音楽では、受けとめる者は体の中で感性として8分音符や16分音符のリズムを刻んでいることが必要だ。刻まないで聴くのはまったく誤りで、インチキとさえ言っていい。なぜなら刻んでいるリズムに対して訴えかけるように作られた音楽だからだ。素直に泣いて盛り上がるか、あるいはすかしてみせてクールを装うか。リズムの文脈の中でかっこ良さを求める音楽だからだ。
 これが判っていないと、姿が見えないと感じたり、限界が判らないと感じるはずだ。必死で想像力を働かせても、漠然と受けとめるだけで、自ら行動を起こせないはずだ。感じたり歌ったりするためには訓練が必要なことは明らかだ。送り手と受け手には、共通の言語が必要だ。たとえば私は、歌謡曲やロックはかなり判る。ジャズも結構判るつもりだ。シャンソンくらいなら何とか想像がつくかもしれない。でも雅楽やケチャともなれば、想像も出来ない。ただ承るだけ。

 ただここで大切なことは、感受性と想像した像にズレや矛盾が生じたときは、感受性の方をだましてはならないということだ。つじつまが合うように努力すべきだが、もしごまかすのなら頭の方にすべきで、感受性にウソをついてはならない。もしそれを積み重ねれば、やがて窒息したり、飢えに苦しむことになるだろう。でもそれは、感受性がすべて正しいということでもない。不思議に思い、疑問に思うなら感受性に質問を繰り返し、感受性が納得したら頭に合わせていい。保留しておいて先を見に行くのはいいが、決して強引にこじつけて先を急いではならない。

 また、詞のある曲や、何か具体的な事件や事柄を描いた歌を受けとめ理解するのは、それを自分でも体験しているか、知識として知っていなければ、かなり難しいことだ。
 たとえば、日本の近年の中学や高校を知っていないと、「卒業写真」や「不良少女にもなれなくて」は判らない。アメリカの産業が衰退していく街の悲哀を知らなければ、作者ビリー・ジョエルが伝えようとした「アレン・タウン」は理解できない。
 曲を聴き歌を歌ってそこに自分を重ねる、追体験するためには、自分の経験や知識の蓄えが必要で、想像も出来ないものを差し出されても、味わうことなど出来ない。ただ承るだけ。
 逆に自分が歌を作るときには、極めて個人的で特異な事件をそのままなぞって歌にすると、それは他人と交感不能の、自慰のごとき物になってしまう。レコードの売上をほかの何よりも優先させる音楽家のなかには、詞を書くにあたってマーケティングまでする者もいるという。この自慰をする者とマーケティングをする者を両極とする振子の間でバランスを取ることが必要だ。描くことを欲するもの、歌いたいという衝動を起こさせるものを歌う。ほかの誰かに伝えるために。ほかの誰かと分かち合うために。
 
日本の表現へ
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元版1990−1991
本版2003