○「日本」形成期1.
 
 漢書地理誌と後漢書東夷伝によれば、弥生時代前期から後期(紀元前2世紀から紀元2世紀)の「日本」列島上には、100に及ぶ国々が存在していて、互いに征服し合いながらその勢力を拡大し合っていた。それらの国々のなかには、朝鮮半島上にあった漢の楽浪郡や魏の首都洛陽に遣いを送り、貢ぎ物をして認められようとする動きがあった。
 魏志倭人伝によると、弥生末期(3世紀)、こうした争いの中でかなりの数(30余り?)の国を統率した邪馬台国が台頭し、その女王卑弥呼は、魏の国に近づいた。この“国連合”が直接大和朝廷の前身かどうかは分からない。けれども、おそらくこうした“国連合”がいくつか存在しており、そのどれかが、あるいはいくつかが併合しあって、後の大和朝廷になったのだと思われる。古墳時代前期(4世紀)には、畿内を中心に、北九州から中部地方までを勢力範囲とする“国連合”が存在しており、これが後の大和朝廷だと思われる。

 百済記からすると、この“国連合”は朝鮮半島にまで勢力を拡大した。百済と親を結んで新羅と対立し、半島南部を勢力範囲とした(任那)。また好太王碑銘によると、この“国連合”は、高句麗とも対立している(注:この時期の状態については資料や証拠が少なく、推測・推論の域を出ない歴史像が大きい。その中にあって好太王碑銘の文面は、旧日本陸軍による作り話だという説がある。明治以降の日本の朝鮮侵略を考えれば、特に注意を払うべき点だと思う。ただ、ここでは、その真否を展開するつもりはない。その理由は前節終わりに記した通り)。
 古墳時代中期(5世紀)、この“国連合”は宋にさかんに遣いを送り、宋の認知と承認を得ようと努力している。その結果、統率者武は、安東大将軍、征夷大将軍の称号をもらっている。中国によって倭と呼ばれたこの“国連合”は、東を治める者として中国に認められたわけである。

 以上までの歴史で興味ある点は、当時「朝鮮」半島上、「日本」列島上に存在した多数の国や民族や部族や氏族たちのそれぞれの自意識はどんなものだったか、ということである。現在の「朝鮮」や「日本」に近い枠組・概念があったのだろうか。それとも、例えば現在のアフリカやかつてのヨーロッパのように、人種・言語・習俗的に異なる諸族が散在し、連合したり対立したりしていたのだろうか。私は、後者であると想像する。古くから存在し強大な勢力を誇っていた中国の諸国の東側では、それに比べれば弱小の勢力が混沌としていたのだと思う。
 
日本の表現へ
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元版1990−1991
本版2003