○明治維新
 
 経済の動向によって変化する社会構造と江戸幕府統治の体制・理念との矛盾の拡大、長い平安の中で少しずつ生まれて来ていた社会の中の弛みや腐り、ヨーロッパ・アメリカのアジア侵略(進出)とその手の日本への接近によって、江戸幕府の体制は次第に揺らいでいった。


 1800年前後、ロシア女帝カザリンの極東進出政策と江戸幕府の蝦夷開発計画がぶつかり始め、摩擦が生じ始めた。同じ頃から、イギリスやアメリカの船が、アジア・アフリカ進出や捕鯨などの海上活躍により日本近海に出没するようになり、彼らが薪水や食糧を要求するようになった。そんな中でゴローウニン事件(ロシア人ゴローウニンが松前藩に捕らえられ、一方高田屋嘉兵衛がロシアに捕われた)やフェートン号事件(オランダ船を追ったイギリス船が長崎に侵入、薪水・食糧を強奪)といった事件が起こり始め、幕府は外国船を追い払う方策をとる(異国船打払令)。
 しかし、アヘン戦争(1840-1842)で清国がイギリスに敗れ、香港島を奪われ不平等な南京条約を押し付けられたことは幕府に大きな衝撃を与え、薪水・食糧を求められたらそれを提供し、穏便に帰ってもらうように方針を変える(天保薪水給与令)。同時に、沿岸の防備の強化を企図し始めた。
 こうした中でオランダ国王ウィルレム2世が、鎖国を続けると中国と同じ目に遭いかねないと開国勧告を出し(1844)、緊張はにわかに高まった。


 一方、水野忠邦が老中として幕政を担当(天保の改革、1841-1844)した際に打ち出した上知令(江戸・大坂周辺の政治・経済的に重要な地を没収して幕府直轄地とする令)が大名・旗本の反対によって失敗したことは、幕府中枢(門閥譜代大名から出た数名の老中による合議制)の権威失墜を決定的にした。薩摩や長州、肥前や土佐や水戸といった“雄藩”をはじめとする大名の発言力が強まり、これらの意思を無視して国の方針を決定することは困難な状況が明らかになった。
 1853年にアメリカの艦隊(ペリー東インド艦隊司令長官)が来航して開国を要求したとき、老中阿部正弘は京都の朝廷に事態を報告、大名・幕臣に諮問した。幕府中枢の発言力が弱まり、大名がそれぞれに主張をするので論争・政争が起こり、社会不安が増大した。一方、夷狄(外国)による脅威が増したことにより天皇による神国日本像が強くなり、尊王思想が強いイデオロギーとなった。国を運営するうえで天皇の判断・天皇の意見・天皇の許可が最重要なものだとみなされるようになったのである。


 1857-1858年、日本は大きな政治問題を2つ抱えていた。ひとつは将軍の継嗣問題で、従来の幕閣中央によって政治を取り仕切ろうとする譜代諸侯を中心とした南紀派と、新しい政治の流れを作って対外危機を乗り越えようとする雄藩を中心とした一橋派が対立していた。もうひとつは、アメリカが締結を迫っている通商条約に天皇の同意が出ないことだった。
 この困難な状況に対し、幕府は南紀派の中心人物井伊直弼を大老に任じ、直弼は南紀派が押す人物慶福を次の将軍(14代将軍家茂)に決め、天皇の同意のないままに条約を締結する(日米修好通商条約)という荒腕を発揮した。そして反対する者に大弾圧をもって応じた(安政の大獄、1858-1859)。この弾圧に憤激した水戸浪士たちによって、井伊直弼は暗殺される(桜田門外の変、1860)。
 井伊直弼が暗殺された後を継いだ老中安藤信正は強引な政策をやめ、朝廷・幕府・雄藩の妥協と融和を目指した。孝明天皇の妹和宮を将軍家茂の夫人に迎えることで公武合体を実現し、薩摩藩の幕政改革要求を受け入れ、長州藩の攘夷実行要求を受け入れた。
 ここで開国を主張する薩摩藩と攘夷を主張する長州藩の対立が明らかになったが、幕府・薩摩藩は朝廷内の公武合体派と画策し、攘夷派の公家をいっせいに罷免してしまい、長州藩を中心とする攘夷派は京都から一掃されてしまった(8月18日の政変)。攘夷派はテロや反乱を繰り返し、朝廷・幕府・薩摩藩は長州に軍隊を送ってこれに応じていたが(長州征伐)、欧米列国が艦隊を送り込んで来てかけた圧力に屈し天皇が条約に勅許を出した(1865)ことで、尊王を根拠にした攘夷は全く捨て去られることになった。


 幕政改革・開国を求める薩摩藩と攘夷方針を捨てた長州藩は、土佐藩の坂本竜馬らの仲介によって密約を結び、連合して倒幕に方針を変えた。一方、孝明天皇の死亡によって公武合体の形が薄れ揺らついた幕府は、土佐藩主山内豊信らの建白を受け入れ、一切の政治権力(国の運営権)を朝廷に返上した(大政奉還、1867)。
 これを受けて薩長倒幕派は、土佐藩も抱き込んで、岩倉具視ら朝廷内の急進派と画策し、明治天皇親臨のもとに“王政復古の大号令”を発した(『諸事神武創業の始』にもとづいた天皇を中心とする新政府)。これによって薩長雄藩を中心とする明治新政府が発足し、260年に及んだ江戸幕藩体制は崩壊した。


 しかし、土佐藩主山内豊信らの反対を押しきって明治新政府が“王政復古の大号令”と同日に発した“(元)15代将軍徳川慶喜に対する辞官納地の要求(位の返上と領地の新政府への納付の要求)”は旧幕臣や会津・桑名藩を憤激させ、新政府との間に戊辰戦争が勃発した(1868.1)。しかし慶喜は戦意を失って江戸城を明け渡し(4月)、激戦の後会津藩が9月に、箱館五稜郭に立てこもった旧幕臣たちも翌年5月に降伏し、ここに、明治新政府による国内統一が達成された。


  明治に入った日本にとって、ヨーロッパやアメリカが、かつての中国に取って代わった。日本の存在の根拠を天皇に求める一方で、欧州の文物を貪欲に求め、欧州と同化しようとする心理が働いた。福沢諭吉の脱亜入欧論などはその典型である。一方、服装や食物や建築など、生活の場が急激にヨーロッパ化するのに抵抗を感じた人々が日本主義や国民主義を主張し始めた。幕末と明治時代前期の思想の流れを図にしてみる。

 <図:幕末・明治前期の思想の流れ

 この後第二次世界大戦でアメリカに敗れるまで、天皇は日本の存在の根拠であり、神であった。それは明治新政府によって作られた大日本帝国憲法によって明確にされていた。そして対外的な緊張が高まれば高まるほど、そのイデオロギーは神経質になり、露骨になった。江戸幕末から第二次世界大戦が終わるまでの期間に日本が接することになったヨーロッパ・アメリカは(その志向が)“帝国主義”列強であり、日本はその存在(存亡)をかけて闘うことになった。難しい舵取りをしていくことになる。日本は、欧州の拡大競争に巻き込まれた。
 
日本の表現へ
日本の表現へ
元版1990−1991
本版2003

 


 
<参考>
 
ロシア、イギリスなどのヨーロッパの接近 : 商館長ドゥーフと洋学の発展

ゴローウニン事件 : 幕末へ・・

フェートン号事件 : ナポレオン戦争(1799−1815)でオランダはフランス側であったため、オランダとイギリスは敵対関係にあった。この事件で長崎奉行松平康英は切腹、長崎の警備に当たる佐賀藩の藩主・鍋島斉直は逼塞。( 佐賀県立歴史資料館 )

天保の改革 : 1830年代からの大凶作(天保の大飢饉)によって、農村は荒廃、米価・諸物価は高騰、餓死者も出たが、幕府・諸藩は適切な対策をとらなかった。農村では一揆が、都市では打ち壊しが発生、1836年の飢饉はとくにひどく、1837年、幕府の窮民対策に不満をもつ元東町奉行与力の大塩平八郎は貧民救済をかかげて蜂起した(大塩平八郎の乱)。乱そのものは情報が漏れて1日で鎮圧されたが、「大坂という重要都市で、幕府の役人であった武士が主導して、公然と武力で反抗したこの乱は、幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた」(「詳説・日本史」 井上光貞・笠原一男・児玉幸多 山川出版 1984年  P218)。そこで、大御所として院政を敷いていた前将軍家斉の死(1841)をきっかけに(前将軍家斉が敷いた院政からの解放をきっかけに)、手を打つ(幕政改革を行う)流れになった。しかし上知令の失敗にあるように、長く人心を無視した幕府中央の求心力は、すでに失われる流れになっていた(権威は失われていた)。