○元寇 |
唐の滅亡により対外影響力を低下させていた中国に、新たな強大な勢力が出現した。モンゴル帝国の出現である。モンゴル民族は蒙古高原を統一し、急速に拡大して西はヨーロッパ、西アジア、東は中国、朝鮮半島まで征服した。その手が海峡を渡って日本にも伸びてきた。元寇である。 久々に訪れた日本の存在の危機であった。ユーラシア大陸における快進撃をみても分かるように、これは重大な危機のはずだった。圧倒的な軍事力を誇る元軍であったが、「日本」海峡、荒天、反乱を繰り返す高麗に助けられ、元の侵略は食い止められた。 この危機に当って国を統率して戦ったことにより、武家政権(鎌倉幕府)の地位・存在感はさらに固いものとなった。一方、モンゴル帝国の対外影響は長くは続かなかった。政争により、急速に分裂の方向へ向かった。 鎌倉幕府が日本(大和)の政治権力を掌握し、統治階層として武士階級が産業から離れた後も、農業や商業は発達し、経済社会は変動を続けた。武士階級はその変化についていくのに難航し、経済的に困窮しはじめた。また、元寇の撃退は成し遂げたことは大きかったが、土地を得たわけではないので、鎌倉幕府は「戦いの褒賞として領地を与える」ことは出来なかった。このため再び社会不安が増大しはじめ、新たな武装集団も生まれはじめた。 この秩序の乱れの中で、天皇を中心とする律令中央がその復権を目指して立ち上がり(元弘の変)、この騒ぎに様々な武家が関与して鎌倉幕府は滅びてしまった。しかし律令中央による再秩序の試みは失敗に終わり(建武の新政)、再び武士階級による秩序が築かれた(室町幕府)。 室町幕府は、土地や武士一円に支配力を持つ領国を持った守護大名や惣村、有力な寺社との微妙な力関係の上に成り立っていた。守護大名、惣村、寺社の発言力は大きく、反発や反乱や一揆が頻発して、社会は揺れた。 この頃、貿易は、日朝貿易、朝貢形式による日明貿易、琉球貿易、私貿易とそれが賊化した倭寇が行われていた。これらによって中国の文物のほか、東南アジアの文物が流入した。朱子学が入り、絵画や建築に枯山水(唐山水)の風が流行した。 一方和歌は連歌へと発展し、出版技術の流入発達により、書物が広く世の中に出回りはじめた。漢画(唐絵)に対して大和絵が生まれ、能や田楽などの舞踊が発達、隆盛をみた。 不安定だった室町幕府による秩序維持だが、幕府将軍家の継嗣争いをきっかけにして守護大名の覇権争いが起こり(応仁の乱)、秩序は崩壊し、戦国時代へ突入していった。日本中で守護大名が覇権を目指し、それぞれ国を治め、武力を整え、覇を争った。下克上の世、戦国時代である。 |
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