○哲学について
 
 哲学について、私は何ら専門的な教育を受けたことはないし、「テキスト」を読んだこともない。思想家について人が説明したり批評したりしたものを読んだり、大学の一般教養の哲学をサボりながら聴いただけなので、先達の蓄積や論争の中に入って論ずることは出来ない。でも、哲学とは何かということを考えてみる。

 哲学とは、言い換えれば、それは認識の仕方、物事の把握の仕方、のことである。

 古代ギリシャの哲学が今日の物理学から化学から天文学から数学から思想にあたるものまであらゆるものを含んでいたように、想像し認識し解釈する対象や方法論、想像・解釈・認識・検証作業に関わる人々の人間関係、同作業にまつわる経済問題などによるジャンル化・分類化・細分化ということをさておいてみれば、何か物事を見る、想像する、知るという行為そのものが哲学の姿である。
 一方、たとえば農業に従事する人にとって世の中は稲の育て方や農業用水の確保や補助金にまつわることが中心であるのかもしれないし、モータースポーツに参加しているものにとってはいかに速く走るか、どの車が速いか、たくさんかかるお金をどうやってまかなうかが世界の中心かもしれない。自分、自分のやっていること、自分の感じ方を中心に世の中を把握する。つまり、感性や経験がまずあって、これを認識し解釈する作業がある。

 なぜ認識・解釈するのかといえば、人間は認識作業なしでは生きられないから。それはウソでも何でもそう思えてしまえばいいのか、つじつまや整合性を求めなければならないのか、というそれにかけるエネルギーの度合い、立場の違いはある。しかし人はみな認識作業を必要とするし、ぜずにはいられない。それが哲学の素朴な姿である。
 だからたとえば20世紀のドイツ哲学といえば、20世紀のドイツにある心理状態、精神状態といったものを描き出している(はずだ)。その精神状態は経済状態や政治状況によって生み出されている。
 たとえば西谷修(明治学院大学講師、1980年当時)によれば、ハイデガーは、第一次世界大戦で敗れ政治的に孤立し、経済的にも締め付けられて困窮している状況を見抜き、こうした状態から脱出して奮い立たなければならないというドイツ人の欲求に呼応し、ナチ運動に認識として解釈としての根拠をすなわち哲学的な根拠を与えたという。

 また「バーガー社会学」のなかで、P.バーガーとB.バーガーはこう述べている。
 「近代西欧社会の特定の危機に対する知的反応が社会学(だから)である。それゆえ、社会学とは何か、それは何をどのように取り扱う学問なのかを理解するには、この知的反応の性格を理解しなければならない。
 すべての人がそうであるとはいえないけれども、人間の中には、自分の置かれている状況やその他のことについて思いめぐらすことに喜びを感ずる人がいる。しかし一般的にいえば、人間が思索に入るのは何らかの理由から自分が問題だとみなすことがらによって自分の日常生活が乱されたときである。思考は、たいていの場合、問題解決の1つの型である」。



 それでは日本の哲学はどうなっているだろうか。浅田彰(京都大学人文科学研究所助手、1984年当時)の著書「逃走論」の中から、浅田彰と柄谷行人と岩井克人の対談の一部を引用する。
 「岩井:例えばデリダでも、彼のまわりにあるいはなかに、ヘーゲルがありマルクスがあり、西洋形而上学の伝統の重さが常にある。その重さがあるから--ある意味でそれを本当に信じているから、ああいう『逃走的』なものを書き続けられるという気がしているんですね。柄谷さんがアメリカで元気になって日本へ帰ると元気がなくなるというのは、そういうことと若干関連があると思うんです。向こうでは西洋形而上学というか…。
 柄谷:それを相手にしているときは非常に実在感があるんだけれども、日本に帰ってくると何もなくて、全然空疎に見えてくるわけですね。
 浅田:『退屈ごっこ』しかないと。
       (中略)
 柄谷:たかだか西洋近代の数百年の《知》だけで、何もかも説明しようというのは無理なんで、ぼくらは何もわかっていないのかもしれない。」


 日本においては、例えばドイツ近代哲学を勉強すれば当時のドイツが見えてくる、といった意味での哲学の集積は非常に少ないのではないか。西洋哲学の研究家、東洋哲学の研究家というのはたくさんいるし、発達の度合いも進んでいる。けれども、日本の状況を認識し解釈しようとする力はとても弱いのではないか。そういう力(想像力)はジャーナリズムや言論の分野では働いているかもしれない。けれども、大学でまとまった講座として開講するような蓄積や伝統はないのではないか。我々の状況を解釈してくれ、行動や振る舞いに処方箋を与えてくれるような哲学は、存在していないのではないだろうか。
 私たちの自画像はどんなものだろうか?20世紀末に日本語を話している普通の大学生私が納得する自身の姿が、アメリカに、ヨーロッパに、中国に、アフリカに発信されているだろうか。芸者にハラキリ、歌舞伎にフジヤマ、眼鏡を掛けたビジネスマンといった他人が描いた姿に迎合しない姿を、自ら描写しているだろうか。また、白人や黒人やアメリカ音楽に自身を無理に重ね合わせることのない、自身の姿を描き出しているだろうか。

 
 
日本の表現へ
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元版1990−1991
本版2003