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モーゼの十戒や十七条の憲法
 
 子供の頃、社会科でモーゼの十戒や十七条の憲法の文言を見て、盗みを犯さないこと、とか、勧善懲悪、とか、子供に言って聞かせるようなことをなぜ大人の社会に向かって、しかもたった十や十七しか提示しない指針の中に入れる必要があるのか?と疑問に思っていた。

 でも今になって思うことは、それはまさに必要な指針だった。少なくとも、必要な知恵が織り込められている。
 人(社会)は、宗教のような内側から上へ引っ張ってくれるものか、場面場面で途切れたりすることのない連続した人間関係のような外側から律してくれるものがないと、持たないのだ(った)。
 
 
試しに十七条の憲法を読んでみる
 
一.
一に曰く、和(やわらぎ)を以って貴(たっと)しと為し、忤(さか)らふること無きを宗(むね)と為(せ)よ。人皆党(たむら)有り、亦(また)達(さと)れる者少なし。是(ここ)を以って、或は君父に順(したが)はず、乍(ま)た隣里に違ふ。然れども、上(かみ)和らぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)ふに諧(かな)ひぬるときには、則ち事理(ことわり)自(おのずか)らに通(かよ)ふ、何事か成らざらむ。
 
 集団・仲間内・徒党と集団・仲間内・徒党の間の調和が大切だとし、無視・反目することはないよう、肝に銘じよ。
 人はみな仲間・朋党・集まりを組むが、物事をよく悟っている者は少ない。このことによって、先達が蓄積した知恵を無視してしまったり、仲間・朋党・集まりの外の人たちや事物と仲違いを起こしてしまう(楽しみで仲間・朋党・集まりでアウトドアにキャンプに行くのはいいが、川や山が汚れてしまうことはどうでもいい、という振る舞い、人々の年金として集めたお金なのに、それを仲間・朋党・集まり内の住む家(官舎)を準備するのに使ってしまう、などの振る舞いをしてしまう)。
 しかし、各々の仲間・朋党・集まりの上位の者たちが他の仲間・朋党・集まりと互いにそれぞれを見渡すことが出来、下位の者たちは仲良く出来て、互いに十分に意見を述べ合うことが出来るなら、物事の道理は自然に通る(川や山に遊びに来た集まり同士が互いに、あるいは川や山を守りたい人たちがそれぞれに主張して話し合いが出来、互いにそれを汲み合えるなら、ゴミは自分で持って帰る、そうすれば自分の仲間内は楽しめ、自然は維持され、後から来る他の人たちも自然を満喫出来るようになる、年金として人々から集めたお金は、全て年金として人々に給付する、など)。通らないことがあるだろうか。あるはずがない。
 
二.
二に曰く、篤く三宝(さんぽう)を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生(よつのうまれ)の終(つい)の帰(よりどころ)、万国(よろづのくに)の極宗(きわめむね)なり。何れの世、何れの人か、是の法を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪しきもの鮮(すくな)し、能(よ)く教ふれば従ふ。其れ三宝に帰(よ)りまつらずば、何を以ってか枉(まが)れるを直(ただ)さむ。
 
 神とか、仏の教えとか、その道を修行している者の言うところをあつく敬いなさい。それすなわち、生命を超えたところが指し示す指針である。いつの時代、どこの国に、これを尊重しないところがあろうか。
 人は、極悪の者はとても少ないものだ。物事の道理や知恵をよく教えれば、これに従うものだ。その教えが神や仏といったもの(あるいは信念も?)によるものでなければ、どうやって道理に適わない振る舞いを正せるのだろう?
 
四.
四に曰く、群卿百僚、礼を以って本とせよ。其れ民を治むるの本は、要礼に在り。上なきときは下斉(ととの)わず、下礼なきときは、以って必ず罪有り。是を以って、君臣礼有れば、位次乱れず。百姓礼有れば、国家自ら治まる。
 
 政治(家)も行政(役人)も広く社会一般の人々も、礼を生きる根本に置きなさい。社会が治まる要は、礼にある。社会の上(位)に礼がないならば、秩序は保たれない。下に礼がないならば、罪悪が蔓延する。上に礼があれば、下が上を軽蔑して乱れたりはしない。広く人々一般に礼があれば、社会は自然に治まるものだ。
 
六.
六に曰く、悪(あしき)を懲(こ)らし善(ほまれ)を勧(すす)むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。是を以って、人の善を匿(かく)すこと旡(な)く、悪を見ては、必ず匡(ただ)せ。其れ諂(へつら)い詐(いつわ)るものは、則ち国家を覆すの利器たり。人民を絶つの鋒剣たり。また佞媚(ねいび)する者は、上に対しては、則ち好みて下の過ちを説き、下に逢いては、則ち上の失を誹謗す。其れかくの如き人は、みな君に忠なく、民に仁なし。是れ大乱の本なり。
 
 悪を懲らしめ善を勧めることは、いにしえの頃より伝えられる人がふみ行うべき良い道である。人の良い行いを見たら、これを隠すことなく、人の悪い行いを見たら、これを必ず正しなさい。
 悪を見てもその当事者にへつらい、偽って周囲に伝える者は、すなわち、国を転覆させるものそのものである。社会を崩壊させるものそのものである。
 また媚びへつらう者は、上には下の悪口を言い、下には上の失策を誹謗する。このような者は、上にも下にも信義はない。これすなわち、社会の崩壊の大本である。
 
七.
七に曰く、人、各々任あり。掌(つかさど)ること宜しく濫(みだ)れざるべし。其れ賢哲官に任ずれば頌(しょう)音則ち起こり、奸者官を有(も)つときは、禍乱則ち繁し。世に生知(苦労せず自然に頭がきくこと)少(まれ)なれども、尅(よく)念(おも)えば聖と作(な)る。事大小となく、人を得れば、必ず治まり、時急緩となく、賢に遭えば、自ら寛なり。此に因りて、国家永く久しくして、社稷(しゃしょく)危うきこと勿(な)し。故に古(いにしえ)の聖王は、官の為にして以って人を求め、人のために官を求めたまわざりき。
 
 人にはそれぞれ任務がある。人は、(たぶん、天から与えられた)この役割 を阻害するかたちで、乱れてはならない。
 賢明な者が官(役割)に任ずれば礼賛が起こり、奸計を持ち邪悪な者が役割に就けば、禍が起こり、社会に乱れが生じる。生まれつき賢明な者は少ないけれども、人はみな、物事をよく想像し、((仕事の)対象に)思いが致れば、聖となる。
 事の大小にかかわらず、適所に適材が納まれば、事態は必ず収まり、社会は治まる。平時であろうが非常時であろうが、賢明な者が政治の要にあたったならば、社会は穏やかに治まる。これによって国家は永く続き、社会は安泰する。
 そうであるから、いにしえの聖なる王は、官のために人材を求めたのであって、人のために官を求めたのではないのである。
 
 
人の道・「正しく」生きる ( と言ってみる )
 
 選挙に行かないで政治家を悪く言う人を見ると思う。自分や自分の身の周りの人に出来ないことを、突如として政治家・役人にだけ求めるのは無理だ。それは立場によって、持つ責任の重さの度合いに違いはあるかもしれない。けれども、(同じ)社会に生きる人間として、自分(達)に出来ないことを突如として政治家・役人にだけ求めることは、自分(達)はただの人間だが、政治家・役人だけに聖人君子であることを求める、ことは無理だ。
 
 若者が不道徳だ・壊れているといって、突如として『教育問題』に着目する政治家・役人を見ると思う。自分や自分の身の周りの人に出来ないことを、突如として若者にだけ求めるのは無理だ。それは未成年者は成長途上の、これから知識や分別や道理を身に付けていく存在(であるとその役割が現社会では規定されているの)かもしれない。けれども、こと物事の道理が通るか通らないかということに限っては、若者を「正しく」育てることが社会の未来である、というよりも、彼らは今の社会全体を映している鏡に過ぎない、ということを肝に銘じるべきだ。

 
「人に任せて文句を言う、日本の政治文化」「を(中略)変えたい」 宮台真司 朝日新聞2011年9月25日 うねる直接民主主義。
 

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