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17


 アーイーはそう言ったきりうつむいて、しばらく黙っていた。
 自由にならないいくつもの摂理や煩悶が、その沈黙にこめられていた。強靱な翼による飛翔と、自在な二本足による疾走は、一本の木の枝の上に、冷たく透き通る冬の空のような虚を生み出していた。
 鷲にとっては、なわばりを守ることが絶対だ。人間にとって家族や社会がとても大事だということと、大差ないことなのだ。なんとなくは気づいていたはずなのに、どれほど重いものか、僕は意識していなかった。アーイーも、彼女にとって当然のことをわざわざ言わなかった。
 アーイーは、この村に偶然現れたんじゃない。なわばりの中にある唯一の人間の居場所だったんだ。なわばりの外にある町の中学に、関心が向くわけがなかった。
 アーイーは、給食を食べなかったんじゃない。食べられなかったんだ。なわばりの外のもの、そして自ら狩っていないものを食べることは、鳥類最強たる鷲の矜持が許さなかったんだ。
 屋根の上で鳴くことも、カインを打ちのめしたことも、王様を決めたがったことも、すべては広大ななわばりという絶対的な空間の中で、最強を誇示する行動だった。それが鷲の本能なんだ。人間を含めて、牙も羽もない脆弱な生き物が群れて身を守るのと同じ、当然の行動なんだ。
 アーイーはアーイーで、人間の群れに社会という特別な構造があることをあまり意識していなかった。僕もそのことを彼女にうまく伝えられなかった。今だってうまく説明できそうにない。
 だけど僕は、カインを助けたいと思う。なんとかしてあげたいと思う。血族ではない存在だろうと、暴君であろうと、悪魔に取り憑かれるような弱者であろうと、見捨ててはいけないと思う。それはきっと、僕が人間だからだ。
 僕たちはすれ違う。人間と鷲は、わかりあえない。その最初のステップに、僕たちは初めて立った。
 僕たちはすれ違う。一定の距離を置いたまま出会い、傷つけ、憎み、乖離(かいり)し、忘れ去る、そういうことを、人間と鷲は続けてきたのかもしれない。これからもすれ違い続けるかもしれない。でも、永遠に平行線を続けていくのだろうか。
 僕たちはまったく異なる存在だけれど、それでも、同じ『生き物』だ。打ち続ける心臓の鼓動とともに、飛んで、歩いて、ときには休んで、僕たちの選ぶ道は、決してまっすぐじゃない。だからいつか、僕たちの道は必ず交わるだろう。
 「ねぇ、アーイー」
 僕はうつむいたままのアーイーに呼びかけた。
 「それでもやっぱり、カインをほうっておいていいことにはならないよ」
 「そう、かな」アーイーはうつむいたまま答えた。
 「そうだよ」僕は答えた。「村の人たちは誰も、悪魔を追い払えばそれでいいなんて思ってない。みんな、元のカインに戻ってほしいんだよ。意地悪くて、臆病で、だらしなくて、ほんとはどうしょうもなく弱いヤツだけど、それでも僕らの村は、ひとりが欠けるだけでああやって大騒ぎになるんだ」
 「……よくわかんないな……」
 アーイーはさみしそうな顔をした。
 「わかんなくて、いいから」僕は言った。「カインを助けてほしいんだ」
 アーイーは顔を上げて、ほんのしばらく一瞬目を合わせて、それからまた顔を落とした。
 「もしかして、あたし、いま、ガソくんのために何かしなくちゃいけない? それが人間を知るっていうこと?」
 僕は、小さくうなずいた。
 「誰かの……ために……」
 アーイーはそうつぶやいて、……今度ははっきりと顔を上げた。何かに気がついたらしい。
 木の下を凝視する。僕もその視線を追った。麓から、怪しげな紫の光が近づいてくるのが見えた。たいまつじゃない。たいまつはあんな色じゃない、あんなに激しく揺れ動いたりしない。

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