恋愛は、先に「好き」と言ったほうが負けなのだという。
先に言わせることが出来たほうが立場が上なのだと。
ならば、この関係はなんなのだろうか。
「そうそう、毛先は丁寧に扱えよ」
「……こうか?」
「チガウ。もっとゆっくり櫛を通して…ん、そう」
長い髪というものは存外に扱い難い。
伸びるのは放っておけばすぐなのだが、綺麗に伸ばしたり艶を損なわないように手入れしたりというのはなかなか面倒くさいのだ。
デュオがしているのを見ているかぎりでは結構ずさんな扱いだと思っていたのだが、実際に自分の手で扱ってみると結構手間がかかるものなのだと実感した。
風呂の後、乾かすこと一つとってもだら長いので時間がかかる。
確かにこれは疲れているときなどそのまま寝てしまいたくなるだろう。
けれど先日そのせいで風邪などをひきこまれたのを見れば、同じ愚行を繰り返す相手を見過ごすわけにもいかなかった。
濡れ髪を放置して寝室に入ろうとするのを呼びとめ、乾かし役をかってでたのである。
櫛を通しながらドライヤーをあてていく。
一櫛ごとに少しずつ軽くなっていく感触。
艶を増す、茶色の流れ。
触れたことがないわけではなかったがこんな風に指を通すのは初めてのことだった。
柔らかな手触り。実際にお目にかかるのは初めてだが多分、これが猫っ毛というものなのだろう。細くて柔かく、手に優しい感触。
ふんわりとのぼる、シャンプーの甘い香り。
なんだかこのまま手を離すのが惜しくなってきてしまった。
もう少しだけ。
もうほぼ乾いてしまっている髪を、ヒイロはもう一度掬い上げた。
ソファに身をあずけたデュオは気持ち良さ気に目を細めていた。
後ろには目の前の髪に集中したヒイロの気配がある。
確かに面倒くさいからとそのままで寝ようとしたけれど、まさかこんなことを自主的にやってくれるとは思わなかった。
髪が傷むのももちろんだし、冷たい髪が身体を冷やすこととか。
明日になっても湿ってるんだろうなとか確かにいろいろあったのを放置したのは自分だけれど、それを、ヒイロにやらせようとも思わなかったのに。
髪をすべる、少しくすぐったい手の感触。
軽くひっぱられるような動きとやけどしないようにと調整されたドライヤーの温い風。
ただずっと見つめてくる、ヒイロの視線。
他に音もない静かな部屋の中、その息遣いだけが聞こえる。
本当に大切そうに慎重に髪をすべる指の感触。
そういえばヒイロはこの髪を妙に気にしていたっけ。
始めはその長さにうんざりしたような視線を向けていたけれど、いつからか何か別の含みがありそうな目をしてた。
あれは結局なんだったのか。
思えば、こんなにもヒイロのことだけを感じてゆっくりとしたことはない気がして。
普段は誰にも触らせたくない髪だけど、ヒイロになら構わないと思ったことも不思議で。
深く息を吐いて、そのままゆっくりと目を閉じる。
もとから疲れていたのだけれどそろそろと眠気が這い登ってきていた。
あんまりにも気持ち良かったというのが、一番の理由だろうけど。
髪はだいたいのとこ乾いているようだった。
「ヒイロ、もうい……」
やり過ぎは返って傷むことになるからとヒイロに制止を呼びかけようとして降り返った瞬間。
ヒイロがその一房に口付けた。
瞬間的に顔に血が上った。多分真っ赤になっているだろうなと混乱しつつも妙に冷静な分析をするデュオの顔をヒイロがゆっくりと瞳を上げて見つめる。
最初の一瞬は祈るように触れていたそのしぐさが、ヒイロが挑戦的に視線を合わせることで挑まれているかのような錯覚を起こした。
目を逸らせない、逸らしてはいけないと思う。知らず喉がこくりと鳴った。
ヒイロが視線を合わせたまま、一度は離した口唇をもう一度髪へと寄せる。
その口唇が触れた瞬間、ぞくりと背中に何かがはしった気がした。
静かな部屋の中、どちらも何も言わずにただ見つめあう。
「…………好きだ」
その静謐さを破ったのは、低く囁くような声だった。
逸らすことを許さない強さで見つめてくる瞳が熱を帯びる。
捕まえた一房の髪から手をすべらすようにしてうなじへ。
そして、頬へと流れていく指先。
捉えた頬を軽く引き寄せ、身を乗り出すようにして背後から口唇を重ねる。
優しい、触れるだけのそれに目を閉じたら目元にもそれは降りてきた。
静かに目を開ければ目の前にある穏やかな瞳。
それに微笑んで、身体ごと降り返ってその首に腕を回した。
暖かな感触にヒイロは目を細め、ゆっくりと抱きしめ返す。
抱きしめるその腕にかかる力をそっと強くした。
「…ぐ……っ?!」
瞬間。デュオの腕に凄まじい力がこもった。
首をしめるようなその圧迫感がヒイロの呼吸を止める。
「ヒイロさーん。お前おっそいよーー?」
奇妙に明るく晴れ晴れとした声が響く。
ヒイロには見ることが叶わないが、その顔には一瞬前の天使のような微笑みを裏切るかのような、妙に可愛らしくもふてぶてしい笑みが浮かんでいた。
「オレが、好きだっつーたのはいつ?さんっざん待たせたよなー」
首もとにかけられる力が増していく。
熱い抱擁、といえば聞こえはいいがちょっと殺意を感じられなくもない。
この場合逆に微笑んでいることが怖い。
「デ…デュオ?」
「これでオレを落としたとか思わないようにな。言っとくけど、ここまで引き伸ばした償いはキッチリしてもらうからな」
浮気されなかっただけマシと思えよ。
ようやく首から腕を離して正面からヒイロに向き直ったデュオはにっこりと可愛い微笑み付きで宣言した。
「オレってば確かにお前のこと好きだけど、やっぱりここまで焦らされたりしたんだし素直にお前のもんになるのもシャクなわけだ」
呆然とするヒイロをとても楽しそうに見つめる。
「だから、今度はオレがお前を焦らしてやる。今度はお前がオレに好きって言わせてみな、それまでオレに手だし出来ると思うなよ?」
恋愛は、先に「好き」と言ったほうが負けなのだという。
だがこの場合はどちらが強いのか?
―――恋の前途は、多難である。
end.
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