時は少し遡る。


男は走っていた。
先程銃弾が大腿部を掠めたことで彼の足の動きは鈍っていた。それでも捕まったら終わりだという思考が男に実力以上の力を与えたのか、その動きは彼がこれまで発揮したことがないほど機敏だった。
はあっ…はあっ…はあっ…
自分の吐く息と心臓の音がうるさかった。
走りすぎた体が限界を訴え、口の中に苦い味が広がる。
しかし男はそこで気づいた。
他に音がない。
何も、追跡者の足音も。
撒けたのだろうか?男は急に静かになった背後に安堵と不安を覚えて振り返った。

「鬼ごっこは終わり?」
「ひっ…!」

いつの間にかすぐ後ろに長い髪を編みこんだ青年がいた。
その顔に見覚えはない。もう少し男が冷静だったなら、服装から彼の多少の事情は理解できただろうが生憎そんな余裕はなかった。
見事な動きで足払いをかけられ男は尻餅をついた。
「手間とらせるなよ。こっちは忙しいんだから」
息も乱さずにっこり笑った青年は、自分を決して逃がしてはくれないだろう。男はそう確信した。それでも、彼は身動くことすら出来なかった。
青年の視線だけでその場に縫いとめられたように彼は動けなかった。
圧倒的な存在感。
なのに。
(気配がない)
背中を冷たいものが伝った。体が震えていた。
優秀と呼ばれる護衛は幾人も見てきた。だが、何かしらの感覚はあるものなのだ。それが人間である限り、どれほど注意深く殺したとしても。
こうして目に見えているのに何も感じられない。
男は彼が恐ろしかった。
こんな人間がこんなところにいると聞いていたら、こんな厄介な仕事を引き受けることはなかっただろう。
こんな見たことも聞いたこともないような恐ろしい存在がいるのなら。
しかしそのとき、彼の脳裏に閃いた単語があった。
目の前の青年のように表現された人間が、かつて、居た。
「…『死神』」
思わず口にした単語に青年の顔から笑みが消えた。
向けられた殺気に体が震えた。
彼を豹変させたのは今自分が口にした言葉だろうか。

「死神…お前…、まさか……」

そうだ、昔聞いたことがなかっただろうか。
『死神』は、気配をもたない男なのだと。
そして、その傍らにはいつも…

「まさか…死神、の……」

表情のないままゆっくり細められた青年の瞳に、ついに耐え切れなくなって男は走り出した。最早死に物狂いだった。
角を曲がれば一瞬とはいえ視界は塞がれる。その間に出来るだけ距離を稼ごう、と彼は考えた。
そして曲がった瞬間に悟った。
そこは壁だった。

もう、逃げ道はない。

何故自分は、『その名称』を出してしまったのだろうか。
恐慌状態のまま男は後悔した。
その瞬間まで自分は彼に遊ばれていただけだった。今は表情のない気配のない青年はまるで人形のようで。
その無機質な瞳が、更に恐怖を煽った。

「オレの勝ちだな」

にっこり笑った顔はやはり瞳は笑みのカケラもなく、撃鉄を鳴らした手は途惑いもなく眉間へと照準を合わせた。

「…任務完了」

そして。
銃声がひとつ、無人になったフロアに高く響いた。


背後で響いた覚えのある音にカトルは振り返った。
「…五飛。デュオは?」
「……」
「まだ中、なんだね」
小さく頷いた五飛を、カトルは睨みつけた。
「だから反対だったんだよ、僕は」
「だが奴以上の適任者はいなかった」
それ以上言うことはない、と口を閉じた五飛を暫く睨み、カトルは顔を伏せた。
「もう、銃なんて握らせたくなかったのに」
「…それはお前が決めることではない。あいつ自身が選んでここへ来た」
「でも五飛。二年だ。たったの」
「『もう』、二年だ」
それきり何も言わなくなった五飛に、カトルもまた口を噤んだ。
走り続ける車は現地との距離を刻一刻と開いていき、要人であるカトルは「戻る」という選択肢を選ぶことはできなかった。
今は護られる以外何もしてはならない彼に出来ることがあるとしたら、それは全て避難を終え次の指示を出せる状態になってからだろう。

(違うよ五飛)
彼は言葉にせず、こころの中でだけ呟いた。


『まだ』、二年なんだよ。




2007.7.11.
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