―――それは記憶の隅にこびりついて離れない声。

『俺の勝ち、だな…』

カチリと撃鉄の鳴る音が静かな部屋に響く。
流れ出す血は床を染め、深紅のカーペットをより鮮やかに染め上げていた。
荒れた息遣いはふたつ。
ひゅーひゅー鳴る空気音は、肺を傷つけた為か。
男は咳き込み、血を吐きながらも立っていた。若い男だ。少年と言っていいかもしれない。霞んだ視界と暗がりでもそれだけは見て取れた。
掠れた声で男は言った。
その場で動くことができたのは、そのかろうじて立つ男だけだった。

『任務完了』

銃声が響いた。
そして、ブラックアウト。



月面都市はコロニーと違い、爆発が起きればすぐどうこうなるというような脆い場所ではなかった。
けれどやはり本来ならば人間の居住できる環境ではない土地であり、施設は密集しましてここは中央部に近いホテルだった。付近住民を避難させれば人命は助かる。だが、失われてしまう都市機能は甚大なものとなるだろう。
確かに危険は伴う。
だが爆発は可能な限り阻止すべきだとヒイロは判断した。
―――爆弾を頼む。
ヒイロは小さく笑った。
彼はこれをどこかで爆破しろとは言わなかった。言外に頼むと言ったのだ、解体を。
ドーム外へ運ぶには時間が足りなかったということも確かにあるだろう。
それでも彼がまず考えたのは人命であり、ここに根をはり生きる人間達の生活そのものだと思った。
それがヒイロの知るデュオが考えるだろうことだった。

彼は敵ではないという確信が、こんな時でも嬉しい。

ヒイロはポケットから取り出したドライバーで慎重にケースの蓋を固定するネジを外した。時限タイプとはいえ、振動を与えるのが危険なことに変わりはない。
中には透明なプラスティックの蓋があり、その奥にいくつものカラフルな配線が見えた。蓋には認証用の小型端末がついており、どうやら配線に触れるにはそのパスを解除する必要があるようだ。
ヒイロは胸元から取り出した自作の機械を端末に接続し、機械が膨大な情報の中からパスワードを割り出すのを待った。
動揺している自覚はあった。
ヒイロは深く息を吐き出した。冷静にならなくてはならなかった。
けれど頭の奥は静かに澄んで冴えていて、「やはり」としか思わなかった。
彼がいるような気がしていた。
それは勘だ。いるはずもない人間がいるなどと、何故自分が思ったかはわからない。
ただ、最後の角を曲がる直前に閃いただけだ。
そして聞き覚えのある声。
忘れもしない彼が飛び出した。
只者ではないと思った男が、護衛という職…あるいは任務に就いていただけだ。だが、ヒイロは相手方の護衛の名簿に目を通していた。その中に彼の名はなかった。
偽名だとも考えられるが、おそらく自分同様サポーターとして急遽参加したのだと思われた。
それだけの権限をもつとなれば、カトルの差し金ということになる。
(カトルと彼には何か関係があるのか)
コロニーと地球、遠い距離を越えて二人が会うような機会はいつあったのだろう。それとも、二年前デュオが地球に来る前はコロニーにいたということだろうか。
全ては『二年前』。
それは一体、何の符号なのか。
――ピピッ
ヒイロの注意を喚起するように響いた電子音に意識を切り替える。
割り出されたパスワードを打ち込むと、プラスティックから軽い音をたてて留め具が外れた。
振動を与えないようにそれを除き、配線に触れる。
まずは明らかにダミーだとわかるものを取り除き、関係のない配線を外していく。
もっとも警戒すべきは起爆装置に繋がる導線だ。
扱いを間違えれば即爆発に繋がるそれを慎重に探り出しながら、ヒイロは横目でタイマーを見た。
(あと5分)
パスワードの割り出しに時間がかかりすぎていた。


「ひ…っ!」
追い詰められた男は、その場に崩れるように座り込んだ。
元々護衛を本職としているわけではない男は、逃亡した先が行き止まりだった時初めて自分が逃げ道を誘導されていたことに気づいた。
命令することには慣れていたが、体を動かすことは苦手だった。
それでも、例え作戦が失敗しても自分の身は安全だと思っていた。自分には強力な後ろ盾がある。後ろ暗い作戦にも多く拘わっていたから、切り捨てられることもないという打算もあった。
カチリと撃鉄が鳴った。
「オレの勝ちだな」
にっこり微笑んだ青年を前に男は震えた。
自分は死ぬのだとわかった。


余計なコードを除くと、最後に残ったのは3本だけだった。
このうち危険なのは1本。2本はダミーだ。
―――確率は1/3か。
こういう場合は2択を迫られることが多いのだが、どうやらひねた中年男は見た目通り半端な性格をしていたらしい。
―――いや、違う。やはり1/2か。
起爆装置へ繋がるのは1本。
ダミーが1本。
そして余分な配線が1本。
煩雑に絡み合い起爆装置の奥へまとめられた導線は、余分な配線ですらヒイロを惑わせた。
「赤、青、黄色…か」
カラフルなコードのうち、残った三本はきれいな原色をしていた。その配色にヒイロは信号機を思い出した。
「赤は危険、青は安全、黄色は注意」
まさかそのまま当てはめはしないだろうが、と考え、タイマーを見る。残り2分。迷う時間はなさそうだ。
このうち1本に触れれば爆発。
真の導線をカットできれば不発。
1本は、何事もない。
(避難は終わっただろうか)
三十分あればトロワならばなんとかするだろう。
だとしたら。
(失敗して失くすのは俺の命のみだ)
それは少し心が軽くなる思考だった。誰も巻き込まないで済む、この状況でそれは救いになる。
けれど、ヒイロはそれだけで終わることも出来なかった。

『…ヒイロ?!』

彼は呼んだのだ。
ヒイロの名前を、初めて。
小さく笑みが洩れた。あんな状況で咄嗟に出ただけだとしても、嬉しかった。呼ばれたくて告げたのだ。
会いたかった彼がすぐ傍にいる。
もっときちんと話をしたいと思った。傍にいて、気配を感じて、言葉を交わして、触れて、笑って欲しいと思った。


―――赤は、嫌いなんだよ。


耳に蘇った声に導かれるように、ヒイロは赤いコードを鮮やかに切り落とした。




2007.7.4.
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