考えていて、ふと思った事があった。 |
“陣内大蔵”は実存しないのではないか。 いや、正しく表現すると、 『人物として実在する“陣内大蔵”はあくまでプライベートの“陣内大蔵”であり、 アーティストである“陣内大蔵”は目に見えるその人物に微妙に重なりながら在る 概念のようなもの』 ではないか。 丁度、ファンが本名とペンネームを持つように、 “陣内大蔵”という芸名に付随する“陣内大蔵”という作られた人物像。 |
たまに本人が、気になる言葉を口にした。 「夢を壊すから…」 “夢を壊すから”、ファンには見せない陣内大蔵が在る。 その『夢』とはつまり、アーティストである陣内大蔵の 『イメージ』を意味する。 人はよく言うだろう。 「イメージが崩れた」 それは、自分が思い描く『イメージ』と『本人』との 差異を意味する。 |
人は自分の中に、相手の『イメージ』を持つ。 それは結局、自分が解釈した相手の写像とも言える。 常に刷新を繰り返しながら、それでもそれは『実像』とはなり得ない、 相手に微妙に重なりながら存在する、『イメージ』。 その像には“こうであろう”という思いの他に、自らのその想いも重ねられる。 漠然と“こうあって欲しい”と。 それは一種の『願い』であり『エゴ』でもある。 |
同様に相手も、自分の『イメージ』を持つ。 相手の中に存在する自分のイメージ。 それが『もうひとりの自分』。 また、自分の中にも無意識の内に自分自身の『イメージ』を持つ。 それもまた『もうひとりの自分』。 人は時として、その両者のギャップに悩まなくてはならない。 |
『君の中に在る 私 は、私ではない』 |
“アーティスト”と呼ばれる職種に就く者は、 その作品に自らの思いを投影する。 絵であれ、焼き物であれ、小説であれ、歌であれ、 作者の意思が反映されない作品はなく、 あるとすれば、それは既に“アーティスト”の作品とは呼べない。 人はその作品から作者のその思いを感じ取ろうとする。 しかし、そこから導き出される感想は人それぞれだ。 それは“同じ人はひとりとして存在しない”事と同義であろう。 |
また、抽象的な要素をより多く持つ作品は、その分多様な解釈をされる。 |
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その解釈は、その作者を逆照射し、 そして印象付けられる『イメージ』。 日常知り得ない人に対して持たれるそのイメージには、 カリスマ性をも付与される。 人の中で作り出される『イメージ』。 そこに人知れず紛れ込む『エゴ』。 善い意味でも悪い意味でも、それは避けがたい事実。 |
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陣内大蔵の場合、長年ラジオでパーソナリティを勤めていた所為か、 “気さく、親しみ易い”といった“隣のお兄ちゃん”的『イメージ』がある。 また、敢えてそういったイメージ付けを行っていた感もある。 アーティストである“陣内大蔵”に。 そうする事により、 当初あったマイナス評価となり得るイメージを払拭していったが、 同時にそれは、個人たる陣内大蔵を侵食していく事となった。 もちろんその『イメージ』は、そう隔たりのあるものとは思えない。 しかし私が思い描く陣内大蔵もアーティストである陣内をベースとした、 全く以って個人的なイメージであり本人その人とはなり得ない。 |
既に、下手なアイドルより偶像化された『存在』である。 アイドルはアイドルであるが故に『実像』を持つが、 陣内大蔵の場合、イメージと実像は何の疑いもなく『=』だと思われている。 それはまた、善しにつけ悪しきにつけ、シンガーソングライターが背負っている 宿命の様なものとも言える。 この混同の割合は、本人が思っている以上に大きい。 しかしあくまで『イメージ』は、 決して手で触れる事が出来ない概念としてしか存在していない。 |
欠いたモノがあるとすれば、 それは自分自身の中に存在する『陣内大蔵のイメージ』だ。 アーティストである陣内大蔵が変わった訳ではない。 受け止める側がそれぞれ持っている『イメージ』が変わったのだ。 人によりその変化は、希望であり絶望である。 周囲が抱くその様々な『イメージ』は、しかし実際に本人を動かし得る 要素ではない。 本来、『イメージ』と『実像』とは分けて考えなくてはならない。 『現実』社会に住むプライベートの陣内大蔵と、 『仮想現実』に存在するアーティストである陣内大蔵を。 混同が混乱を生むのなら、それは尚更であろう。 |
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しかし。 “しかし”、と考える。 果たして分けてしまう事に意味はあるのだろうか。 『陣内大蔵』は生まれて初めて出会った、 『体温を感じる歌うたい』であり『意味のある歌うたい』だ。 『歌』というストーリーを演じる役者ではなく、 彼そのものが『歌』なのだ。 |
『歌』が、彼自身を形作る。 |