もっと壊して。
この心を。
貴女を失っても平気なくらい。
貴女を思い出せなくなるくらい。
この空っぽの心の器に涙が溜まらないように。
ねぇ、その瞳で壊して。
太公望は今日も血を流す。
彼の周りには今日も死骸が出来る。
それは何もおかしなことではない。
それが彼の日常のはず。
仮眠としか言いようがない程の睡眠をとる太公望の最近の寝る前の習慣は一分の黙とう。
ここは鳳凰山の竜吉公主の桐。
目を瞑り髪の毛すらも動かない太公望の隣で竜吉公主はただ黙って座っている。
だけど、今日は一分どころか何時間も太公望はこのままだ。
ぴくりとも動かないで、同じ格好で目を瞑ったまま。
判っている。
普賢を始めとして、十二仙が壊滅した。武成王も、聞仲も封神された。
今回の闘いは太公望の親しい者が大勢いなくなった。
死骸も、髪の毛一本すらも、残らない。
文字通り”いなくなる”。
存在の消滅。
魂魄の封印。
――――封神。
名も覚えていない兵士の何百という死より、それは重いというのか。
そもそもの原因は我らにあるとしても、それでも彼らへの哀悼の涙を流すのか。
公主は音もなく、太公望に近寄った。
「太公望、寝なされ。それではお主が壊れてしまう」
包むように、諭すように、公主は静かに太公望に語りかけた。
薄く彼は瞼を持ち上げる。
前髪が僅かに、揺れた。
その時、唐突に公主はその髪に触れたいと思った。
「・・・壊れたいのだよ、わしは」
囁くでも呟くでもなく言った太公望の言葉はとても微かなものだったけれど、
物音が死んでいたこの部屋では、それは耳鳴りがするくらい響き、部屋全体を支配した。
痛かった。
「もう、誰を失っても痛みを感じず、立っていられるくらい壊れてみたい」
血塗れになって、視界も世界も真っ赤でそれでも前を向いて生きていける程に―――。
公主は何も言わず、ただ太公望の正面に座り込んだ。
横に流れてくる自分の長い黒髪が煩わしかった。
「のう、公主。わしの心が壊れるのと、お主を失うのとどっちが早いだろうかのう」
それは答えを求めているというよりは、自分に問い掛けているようだった。
何でも無い口調で、まるで”今日は寒いね、雪でも降るだろうか”というような感じで。そう、そういえば昔太公望とそんな会話をしたな、と公主はふと思い出した。
「不吉なことを言うでない。」
それは、太公望の心が壊れることか、自分がそのうちいなくなるようなことの、
どっちに対してか公主は言いながら分からなかった。
「どうせなら、お主に壊されたいよ。」
こんなに脆い陶磁器のような器なら。
ひびだらけの硝子。
砕けちって、粉々になって、ちっぽけな屑のように零れていって。
それは、とても甘い夢。
「私には出来ないよ」
そう、出来ないのだ。
したくない、ではなく不可能なのだよ、太公望。
「いや、お主の瞳は時に人を狂わせる。わしとて例外ではない」
そんなことを言われても公主は微動だにしなかった。
太公望も動かなかった。
知っているよ、私の瞳が時に、他人にどう映っているのか。
それはきっと、あの人の血がこの体の中に流れているから。
「呪縛なのだね」
公主はそう言いながら、床につけていた手を離し
太公望の顔へと伸ばした。
太公望は動かない。
一度だけ、公主の指先が頬に触れると瞬きをした。
ああ、此処に、身体なんてないんだね――。
清廉な重すぎる空気が充満した部屋で、私達は、空っぽの心をお互いに突きつけているのだ。
冷たい頬の無機質な感触に、公主はそう思った。
そして、太公望の髪には触れずに、顔の輪郭に沿って指を滑らせた。
背筋を伸ばして座禅の格好のままの太公望と、片手をついて、少し前かがみの体勢の公主の視線が合い、縺れて解けた。
「約束しよう、太公望。お主が壊れてしまうときは必ず私が傍にいよう」
きっと、私に止める気はないだろう。
血塗れで、視界も世界も真っ赤で、それでも進むというのなら――。
「お主がもう、全てを捨てるというのなら私も一緒にゆくから。」
輪郭をなぞって顎から零れた指が、膝の上の太公望の手の上に降る。
「これは、また、とんでもない約束をしてしまったのう」
初めて、少しだけ笑って太公望が言った。
そして、動いた。
零れてきた公主の指を受け止めるように掌を開いて返す。
その手は手袋をしていなくて、ほんの少ししっとりしていて、確かに温かかった。
「私は約束したことは守るぞ」
つられるようにおどけて公主が言う。
微笑みながら、けれど、その拍子に落ちてきた一房の髪をまた鬱陶しいと思いながら。
「ああ、知っとるよ」
密かな夜に、秘めやかな約束。
ちっとも可笑しくないのに、忍び笑いが漏れて。
痛くなんかないのに、涙が出そうになって。
―――それでもかまわないから、今は寝ようぞ。
朝が来ればお主はまた戦って。
また屍が増えて。
目の前がまた赤く上塗りされて。
でも、忘れないで。
いつも見張っているから。
お主が壊れるその瞬間を息を殺して見つめているから。
壊れていく。
「壊して」と囁くアナタに
壊されていく。
虚ろな唇。
掠れた声。
壊そうか。
アナタが砕けてしまうなら。
その破片で空を切り裂いて。
ばらばら零れる蒼に埋もれて。
流れるままの黒く光る髪を握り締めて。
二人でこのまま壊れていこうか。
この世界と一緒に。
ほら、世界は二人の思うがままに。
闇色の水に包まれ、穏やかに昏々と眠る太公望を見つめながら公主は静かに祈る。
・・・・・・どうか、世界よ。今だけは壊れないで・・・・・・
書き逃げ御免
・・・・どうする、俺。初投稿にこんなもの書いて。
逃げていいっすか?草子さま。
翠蓮堂、逃亡。
しかも、ちょい次回への伏線張ってたりして(抹殺)
印象に残る強い言葉がたくさんあって引き込まれます。
この公主も太公望も、その存在感にドキドキします。(草子)
もどる