逆らって守り通す力がなかった



願うこともせずに、強風に向かう
足下に伸びる黒い影がひきちぎられ、私から走り去ってく

あれはきっと私自身。

ここからいなくなるもう少し先の














考え事をする時に人が葉をむしるのと同じ仕草で、邑姜は羊の毛をむしる。
彼らは迷惑そうな目をこちらに向けるだけでたいして痛がりもしないから、一向に彼女の気は晴れない。
鳴いてくれたらいいのに。泣いてくれたら。そして逃げてくれたら。
イライラする。吐き出せない何かが濁った雨水のようにたまって心の出口をふさぐ。
ぶちりと、根元からくすんだ白い毛を一塊ひきぬいたら、まだほんの子供だったその羊がやっと逃げていった。
毛の塊をつかんだ手をだらりと下ろし、小さな後ろ姿を見送った。
「さよなら」と。抑揚のないおかしな声で呟く。
目を上げる。
空が赤い。そして細く白い月がそこに。
イライラする。むしゃくしゃする。
気分さえ悪くなって、固く握った拳で強く頬をこすった。
『もう、時間だよ』
聞こえてきた声に肩をゆする。考えるまでもなく、それは彼女自身の心の声。
「冷静で」「頭の良い」彼女にはわかってる。もう時間なのだ。


彼らは皆興奮していた。紅潮していたり、青ざめていたり、顔色は様々だったけれど
なぜかひそめられた声音はどれも震えていて、戦への期待と恐怖で少し混乱した目をしている。
「自分たちは今とてもうれしいのだ」と、男が邑姜に言った。
太公望は一族の誇りで、その手助けができる自分たちはとても幸せなのだと。
「何の咎もなく殷に殺された先祖や仲間達が、今我々の後ろに立ち、我々の背を押しているのかもしれない」
そう男が言ったとき、この人はなんて気持ち悪いことを言うのだろうと邑姜は思ったけれど、曖昧に笑って頷いておいた。

とても良い事を言ったのだと言わんばかりの満足げな男の顔に、ずっとつきまとっていた邑姜のイライラが少し晴れる。
「その通りですね」と言ったら、男は誇らしげに笑って、「人の受け売りですが」と謙遜までしてみせたのでますます気が晴れた。
出陣の時間を問われ、邑姜は空を睨む。ますます濃くなる夕闇の朱。
「まだです」と、一言。
少女の言葉に、凡人には預かり知らぬ理由があるのだと男は思い、何も問わずに低く頷く。
本当は理由なんてなかった。
ただ、やり残したことをやろう、と思った、それだけのこと。



「やり残したこと」に向かって、邑姜は草原をかけた。
必死に足を前へ前へと動かすと、自分から何かが抜け落ちていくような喪失感。
気分は高揚したけれど、熱を帯びた体はどこかに沈んでいくようで。

『バカばっかり』
心の中で呟く。バカばっかり。
でも知ってる。
本当にバカなのは、自分だ。

胸が苦しい。ぜえぜえと耳障りな自分の息遣いが耳元までせりあがる。
どこまで走ったらあの人はいるのだろう。
ねえ。ねえ。どこまで走ったら?
少し泣きそうになってそう繰り返し、次の瞬間には、あの人に辿り着く前にいっそ死んでしまいたくもなった。

でも、それでも、死んでしまいたいと思うほどに自分は生きることを選ぶのだということを痛いほどに知っていて、余計に胸がつぶれた。
死んでしまいたくなるほどに、私は生きたいと願ってる。
人の気持ちは全部裏返しだから?



金色の瞳はまるで黒い穴のようだった。
赤い夕日が彼の体に染み込むように透けて髪がキラキラと光っていた。
ハアハアと荒い呼吸を収めようと前かがみに彼を見上げ、その表情を窺う。
「そんなに息をきらせて。馬で来ればよかったのに」
「人間には、足があるから。私には足が、あるから」
息継ぎをするたびに、言葉が不自然にぶちぶちと切れた。
「走ればいいと思ったんです。走れる、時には」
「ふうん」
口を開けたまま、邑姜は目をこらして、老子とその背後の森と空と日と月を見た。
老子の大きな目はどこを見ているのかわからないほどに表情がなく、その目ばかりを見て育った自分の目も同じように無表情なのか、とも思う。
でもこれからは、その目ばかりを見ていたこの目は他の誰かと他の何かを映すのだ。

「あなたに挨拶をしに来ました。老子。私は、もう行きます」

ああよかった、と邑姜は思う。その言葉をなめらかに、確かに、言えて。

老子が首をわずかにかしげる。
「もう二度と会えなくなるわけではないのに」
「ええ。でも、一つの区切りでしょう?」

「・・・機を見ることは、あなたに教わったこと」

いつか言った台詞を繰り返してみる。
生きる術も。様々な知識も、人を見る目も。時代を見る目も。
全部全部あなたに。
泣くことも笑うことも、もしかしたらきっと。
じゃあ。と、今さらながら泣きそうな気持ちで、邑姜は少し笑いだしたくなる。
あなたから全てを受け取って、つかめた全てがあなただけで、そうしたら私にはあなたを愛すること以外何ができた?

「あなたは誰のために戦うのかな」
老子の言葉に邑姜は短く答えた。
「私のために」
くっと顎をひいて眉根をよせる。手をのばしても触れられない人の、影のような姿。
「『誰かのため』や『何かのため』に、誰かを殺せるとしたら、それはどんなにか恐ろしいことでしょう」
「傲慢だと?」
「違います。ただ、私は、そうした人の狂気のような純真さが怖いだけ」
たとえば自分と同じ血を持つ彼の人のような。
「だから私は、自分ためにしか戦えない」
そう言った後少し間をおいて、視線を下に落とすと、邑姜は続けた。

「お願いがあります」

声がかすれた。

「私を、おぼえていて下さい。ずっと」

笑ったのだろうか。彼は。ふわっと、空気が動く、そんな気配が。


「私はこれから大人になるけど」

あなたを置き去りにして大人になるけど。

「大人になって何人も子供を生んでもう何も迷わない程に聡くなった私ではなくて」

あまりにも苦しくて声が歪んだ。感情というものが死ぬほどに痛いだなんて知らなかった。

「今の私を。浅はかで、世界の何たるかを知らない、小さな、ちっぽけな、今の私を」


「・・・・ずっと、おぼえていて下さい」


つまるところ言いたかったことはこれだけ。今はもう願えるのはこれだけ。
好きだよ。好きだよ。
本当に好きだよ。
この気持ちを、守り通すことができずに、全部流れてく。時間も、私も。
私は今から、最初からかなうはずのなかった恋を少しでもこの場所に刻みつけて、走り去っていくのだ。


手を伸ばして老子の指に触れてみた。
当然のごとく実体のないそれは何の感触もなくすり抜けたけれど、邑姜はかまわなかった。
答えなんてはじめから求めてもいなかったし、どうあがいたってもうこの時が過ぎれば自分の激情なんて
最初からなかったかのように全ては流れていくのだから、せめて今だけはと、その手に頬をよせてみる。
これが自分のしたいことなのかどうかは、よくわからない。
どうすればこの人の傍に少しでも近づけるのかだなんてわからないから。
涙ぐんでいることを彼は知っているのだろうか。
奥歯を噛みしめて叫びだしそうな気持ちを私が必死におさえていることを彼は知っているのだろうか。

あなたの生きる永遠の中でこの一瞬はどれほどの跡を残せるのだろう。


夕日はたとえでもなんでもなく、血の色そのものだ。睫毛にかかった涙の粒にその血の色が滲む。
老子のふせられた金の瞳が淡くかげり、さらさらと髪が鳴った。

「どうか、幸せに」

邑姜は顔を上げた。そう言った老子の顔があまりにも綺麗で綺麗で。
頷いて見せた。ええ、と。















『どうか幸せに』



自分はきっと幸せになるだろうと思う。
死にたいほどのこの想いも、そしていつか忘れる。いつか振り返って微笑むほどのやさしい過去になって。
そうやってこの恋は終わるのだ。

邑姜は、進軍の先頭を立つ馬に乗り、前を見つめながら声もなくただ泣き続けた。











妲己サマ親衛隊の私としては、「妲己には絶対に負けない」発言をかましたタイジョウ老君のこと実はあんまり好きじゃなかったんですけど(本気で・笑)、コミックスの表紙の老子がとっても綺麗で、彼が好きになりました。この親子をカップリングとして考えると、一番好きなのは、邑姜ちゃんにつれなくされるアホ老子なんです。でも、もし私が邑姜ちゃんの立場だったら他に選択肢もなく老子に恋をしてしまうだろうなー・・・と、思います。色々教えてもらって、血のつながらない保護者で、どこか遠い存在で、綺麗で強い人、とくればもう絶対好きになってしまうでしょう(単純) そして寿命が圧倒的に違う二人は決して結ばれないのですね(さらに単純) 
ああもう。こういう少女漫画みたいなありがちなの大好き!!
「人生で唯一の恋」も美しいけれど、どんなに哀しくても、実らない恋は過去になっていくのですよね。邑姜ちゃんって発っちゃんとくっつくんでしょ? 


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