ワタシ達は、歪みきって悲鳴をあげる広い世界の果てと果てから、お互いを見つめあってる。
眩暈がするほどのその距離は、アナタがワタシに辿り着いてもきっとせばまらない。
それは、永遠だから。
永遠という、距離だから。
白い手
女の手を掴んだとき、頭の中が遠い何かとつながった気がした。
うるさいほどの雨音に理性が摩耗していく。
だから、その腕をつかんだのかもしれない。
その女の。
なぜここにいるのかとか、ここで何をしているのかとか、そんな疑問は意識をかすめもしなかった。
敵意も、恐怖も、何もなく。からっぽの頭。
楊ゼンは額に張り付いた濡れた前髪ごしに、何か言おうと口を開けたまま、女の姿を凝視する。
雨の細く長いすじが全てを塗りつぶす灰色の空の下、目を伏せた女だけが濁った色彩の中から浮かび上がるように白い。
女が目をあげた。
その美しい顔に、慈悲深いとさえいえるような透き徹った微笑が生まれる。
そして彼女が言った。
「離して。気持ち悪いから」
「・・・・・妲己」
やっと出た声は低くくぐもって掠れていた。
妲己がもう一度繰り返す。
「気持ち悪いから離して」
言い返そうと思っても、今度は咽がカラカラに乾いて、何も言えなかった。
妲己の頬を、ゆっくりと幾筋もの雨の雫がつたい落ちていく。
貴石のようなその蒼い大きな瞳が、瞬きの度に影の色を変え、楊ゼンを見上げる。
「欲しいものもわかってて。果たすべき理も知っていて。それでもどうしてあなたはそんなに
不幸そうな顔をしているの?」
唐突の問い。
「・・・・何の・・・・話ですか」
「さあね。何の話かしらん」
妲己が笑う。
「多少の居心地の悪さに目をつぶれば、今の状況に安住するのは簡単だものね。
流れた血はやがて固まって、傷口をかくしてくれるのかしら・・・?
何が怖いの? なぜ震えるの?
醜くて気持ち悪い自分自身? それとも美しくて聡明な自分自身?」
それと確かめるまでもなく、妲己の腕を掴む楊ゼンの手は細かく震えていた。
「何を祈るの。誰に祈るの」
「・・・・・っ、祈ってなんか・・・・」
「祈ってる。助けを求めてる。あなたは。かわいそうにね。かわいそうにね」
クスクス。クスクス。さざめくような甘い声。
楊ゼンが苦しげに大きく息を吸う。そして早口で言う。
「僕は、あなたを消します。もうすぐ。必ず」
「・・・消してみれば?」
首をかしげて妲己が言う。笑顔のままで。
「できるものならねん」
そして楊ゼンの手から逃れて、ゆらりと後ろに下がる。
「そうしたら、あなたは救われるのかしら・・・・?」
余韻のように言葉を残し、その姿はふっと銀灰の雨に消えた。
楊ゼンは目を細めて空を仰いだ。
雨粒が目にはいり涙のようにあふれる。
今にも落ちてきそうに重い曇天。
絶え間ない、いっそ感動的なほどの雨音の群れ。
美しい蛇のような彼女の目が、誘いまとわりつくような声を生みだすあの紅い唇が、
太陽を見た後の残像のように眼裏から離れない。
不自然なほどに白く薄い彼女の皮膚に触れた指先が、震えたまま止まらない。
―――消さなければ。あの女を。
指先から震えが伝わって、肩も足も震えた。
妲己が去ってやっと襲ってくるこの感情の渦は、怒りなのか怖れなのか、それとも嫌悪感なのか。
多分、それら全部。
楊ゼンは凍りついた表情のまま、今まで目の前にいたあの女が、『死』という虚無そのものだったのだと思った。
では、あの人は?
例えその感情が憎しみのみであったとしても、ただひたすら彼女に向かって走っていく、あの人は?
白く細い、美しい美しいかいなにとらわれた、泣きたくなるほど強い意志。
いつだって不敵に笑う空の色をした目。
そして、自分は?
(――――怖い。怖いよ・・・・・)
消さなければ。
早く。
早く、あの女を。
「すごい雨だのう・・・・」
人気のない廊下に佇んで太公望は、何の気なしに外を見ていた。
雨が続くとなると、これからするべきことも変わってくる。
全ての可能性を頭の中で整理しながら、簡易な作りの手摺りを指でコツコツとはじく。
気配を感じて振り向くと、楊ゼンがいた。
「・・・遅いお帰りで」
「何の連絡もなしに、申し訳ありませんでした」
ぱたぱたと、楊ゼンの長い前髪から水がつたって床に落ちる。
「おぬし、びしょぬれだのう。勝手に風邪をひくならまだしも、周囲にうつされたらかなわんぞ」
「これからの進軍経路をチェックしてきました」
「おお、それはありがとう」
そこで初めて、太公望はやけに無表情な楊ゼンの目に気付いた。
手摺りにもたれて相手の出方を待つ。
しかし楊ゼンは何も言わず、さりとて立ち去るわけでもなく、どこを見ているのかわからない眼差しを宙に向け佇んだまま。
「・・・・何か、他に言うことは?」
じれた太公望がため息交じりに口を開く。
楊ゼンが初めて太公望の目を見た。
「このまま、行くつもりですか? 師叔。これでは妲己の思うがままではないですか?」
「はあ? 妲己?」
「・・・あなたが一番わかっていることでしょう?」
太公望が一瞬だけすっと目を細めた。
「そういえば。・・・妲己の、匂いがする・・・」
「そうですよ。僕は、彼女に会いましたから」
吐き捨てるような楊ゼンの言葉に太公望が笑いだす。
「まさか。何であやつがここにいるのだ。っつーか、いたらわしらヤバイって。今やられたら全滅だって」
「何とでも」
冷静な答え。
「わかっていながら、妲己の手駒となっている僕たちは、一体何者ですか。全て彼女の筋書き通り。
この道に最後にたどりつくのは、一体どこですか」
「・・・・おぬしは」
言いかけた言葉を呑み込んで、太公望が自分の足下に視線を落す。
そして言葉を選び、言う。
「わしは、わしだよ」
「・・・・」
「誰の描いた筋書き通りに動いていても、これらが全て誰かの手の中のことでも、
それでもそうするのはわしの意志だし、わしは誰のものでもない。こんなこと言うまでもないことだろう?」
それには答えず、楊ゼンが首をふった。
「早く、殺さなければ。妲己を。なぜこんな回り道を」
「回り道をしなければあやつには辿り着かん。おぬし、今夜はやけにおかしなことばかりを言うのう」
「そうですね。おかしいですね。でも・・・・・妲己は『死』です。彼女の描く運命は・・・
何もかもをとりあげる。いつのまにか魅入られて」
「うーむ。何を言っているんだか。見事な壊れっぷり」
かすかに笑って太公望が腕をのばし、ぬれそぼった楊ゼンの長い髪をそっと掴んだ。
二人の目線が合わさる。
「では、何ですか? 妲己は、あの女は何者ですか?」
「そうだのう。・・・・・言うなれば『無』かな。何もない、まっさらな存在。
怒りとか怖れとか悲しみ、人を動かす全てを生みだす者。もしくは歴史すらね」
「無であり、全て、ですか。おっしゃる意味がよくわかりませんね」
「わしもわからんよ。でも、そうなんだよ。きっと。
そして、全ての始まり」
全てのはじまりの、あやふやで暗い場所。
―――『悪人』が来るよ。
―――お前を迎えに来るよ。
―――『悪人』から逃れるために、ここにいてね。ここで待っててね。
―――その姿を変えなさい。そうしなきゃ『悪人』に見つかってしまうから。
―――迎えに行くよ。迎えに行くよ・・・・迎えに・・・・
迎えに来るのは、いったい誰?
父様?
悪人って誰?
僕を、殺すの?
それとも僕を使って、誰かを殺すの?
姿を変えてイイ子でいれば、悪人は来ないの?
怖いよ。怖い。
誰か助けて。
助けて――――――
はじまりの、遠い記憶。妲己の白い手を掴んだとき、まっすぐと繋がった孤独と恐怖の原風景。
彼女の手は、死ではなく、終りではなく、「はじまり」。
今の「僕」がはじまった場所。
恐怖が僕を追い立てる。
やっと・・・・・思いだしたよ。
楊ゼンの頬を涙がつたった。
「・・・・師叔。始まりを消せば、彼女を消せば、全ては終りますか?」
「終りなんて、そんなものどこにある。求めても手に入るのは幻であろうよ」
はじまりの白い手は、しかし終りすら与えてくれない?
『殺す価値もない』とただ笑って、もがき苦しむ細い道を指し示す。
「では、ではどうすればいいんですか・・・・じゃあ、僕は」
・・・どうすれば、本当の自分として生き始められるのですか?
「知らんよ。おぬしが何を求めているかもわからぬし」
太公望は楊ゼンの涙を無表情で見ていた。
「・・・・何を求めているか、だなんて」
楊ゼンの言葉が雨音にまぎれる。聞き取れないほどの細い声。
「僕はいったい・・・何者なんでしょうね」
太公望が目を細めて笑った。
その微笑の意味なんて、楊ゼンにはわからなかった。
「そんなこと、知らんよ。誰もね」
体をそらせ、暗い夜の雨を見る。
「誰も、自分が何者かなんて、知らないんだよ」
でも、彼女は知ってる。
己が何者なのかを。己がすべきことを。
そして彼女の描く輪の中でもがく者たちの、すべての希望と痛みを。
楊ゼンと別れた太公望が、暗い廊下を歩いていく。
雨の音というものは、静寂よりももっと深い静けさ。
耳にしみ込んでいくような。
すれ違う夜番の兵士達に軽口をたたきながら、頭の中では目まぐるしく様々なことを考えていた。
何をしていても常に頭のどこかで思考するくせは、もうずっと前から。
大きな筋書き、そして細々とした事務的なこと。
後悔とか、自分のしていることへの疑問、そういったこともたまに心をかすめる。
でも、かすめるだけ。
泣くことだって、できるけど。
頭をかきむしり、体を折って罪悪感に叫びだすことだって。でも。
「あれ、スース、まだ起きてるさ? ジジイは早く寝るものさ」
「うるさいわ。そういうおぬしだって、子供は早く寝ろ」
天化とすれ違ったあと、太公望は意味もなく一人でにっと笑ってみた。
誓ったから。
この手をいくつもの血で染め罪で染め、誰の望みを手折っても。
何もかも笑い飛ばせるくらい、強くなるって。
そう誓ったから。
強くなって、妲己を倒すのだと。
目を閉じると『はじまり』の声がする。
何度となく聞いてきた、運命を紡ぐ白い手を持った、彼女の声。
・・・・・・忘れてはいけない
アナタがすべきこと
アナタが来るべきトコロ
忘れてはいけない
血を吐くほどに、覚えていて
アナタが憎むべきは、このワタシだということ
アナタが駆けのぼるべき場所は、ワタシのいるここだということ
この声を聴いたなら
唇を噛んで叫びだすほど、ワタシを憎んで
そして何一つ許さないで
ワタシを、ワタシのしたことを、何一つ許さないで
・・・・・・何一つ忘れないで
太公望は目を開き、呟いた。
ここではないどこかへ、もしくは、遠い遠いこの世のもう一つの果てへ。
「ああ、忘れぬよ」
あとがき
もう「ビバッ! 悪人!」の思いだけで書きました・・・・。
誰がこんなの読んで喜ぶというのでしょう。
それは私・・・・私だけ・・・・。