全部、知ってるの。
全て手の中に収まってる。
けれどたった一人だけ、ワタシにもわからない人がいる。
遠い遠い、空間が違っていそうな距離にいる。
見つめあっているのに、顔は見えない。
それでもいい、でも。
ただね。
──ワタシを忘れないで
◇ ◇ それは決して醒めない夢 ◇ ◇ ◇
──ねぇ、シアワセってなあに?
きっとそれは、醒めない夢。永久(とわ)に消える事の無い。
好きな事だけを繰り返し。
それが決して醒めない夢。
醒めない夢が、私の幸せ。
「──どうして?
太公望がいないとはどういう事じゃ?」
翡翠の瞳。長い黒髪。
震える指先、冷めた顔色。「おかしいと思っていたんです、最初から。
でも、あの人は気紛れだから、ただの散歩かもしれないと、皆、思っていたんですよ」蒼い瞳、蒼い髪。
珍しく息が乱れている。「誰が」
彼を連れ去った?
「──妲己」
蒼い髪の呟き。「え?」
「少し、前なんですが。僕はあの女に会いました」不意に、けれど噛み締めるように、ゆっくりと。
「その後に、師叔とも話したんです」
徐々に思い出す。
暑くもないのに汗が流れ出した。「妲己のこと」
銀の雨の日。
かさぶたが剥がれるように見えてくる。
心の中の、ゆるい部分。そこにしまった恐怖が。
──流れた血はやがて固まって、傷口をかくしてくれるのかしら?
「正直、ぞっとしました。きっと見透かされているんです。
全て──」
消さなければ。
「今の僕たちも」
重すぎる。
「妲己の手の上で、弄ばれてる」
翡翠の瞳。
「それなら、血を流せばいい?」
『貴方』という空白(すきま)を埋める為に。そうしないと──
「公主?」
「何でもないよ、楊ゼン」
心配ないと優しく微笑む。「──ただ」
けれど、本当は、泣きたいほど。
痛いから。
「貴方がわざわざ来るなんて思わなかった。楊ゼンが来ると思っていたのに」
薄桃の髪。
軽く微笑んだ唇。
「太公望を返せ」
──てしまう。
「?何を、言っているのん?」それは演技?
──れてしまう。
「昨日から見当たらない。心当たりのある場所は全て探した」
──われてしまう。
「あとは」──こわれてしまう。
「おぬしだけ」
──壊れてしまう。
「──そうよん」
ふわりと、風もないのに髪が靡く。
それだけで、花の香り。噎せ返るような、花、花、花──
酔わされる。
「約束だから」
「──?」
「わらわを忘れない約束」
音を立てて、壊れた。
「いつまでも、どんな時でも」
妲己が顔を近づける。
公主の肩に手を乗せて、背伸びをしながら。耳にかかる髪を掻き分けて、艶やかな唇を近づける。
耳打ち。
「貴方には、わからない」
ぞくっとする。
氷のように冷たい言葉が。その吐息が。
憎むべき者。
忌むべき存在。魔女。
禍禍しい。
けれど。
美しい。
だから。
「──こわれてしまう」私が。
翡翠の瞳。
あふれそうな、涙。
薄桃の髪。
その朱唇が、耳朶を掠める。
瞬間、零れ落ちた雫。甘い呟き。
「可愛い」
舐めとった朱唇は、そのまま白い肌をなぞり。
重ねた──唇を。
軽く音を鳴らして。
そして、再度、重ねる。微笑んで──侵入する。
妲己は心の中にいる。
竜吉公主の心の中に。どこまでも広がる、青緑の森。
彼女の瞳に似た色をしている。薄桃の髪は、その中で異彩を放っていた。
『見つけた』
その中に佇む少年──呂望。
『ねぇ』
『?』あどけない仕草で顔を上げる。
『貴方は?』
──ワタシを知らない貴方はいらない
『サヨナラ』
森が、赤く染まった。
「ごちそうさま」
これは夢だ。
悪い夢。朝がくれば、日が昇れば。
これは必ず醒める夢。
「美味しかったわ」
薄桃の髪。
乾いた朱唇。
赤い舌がなぞる。「──貴方の、太陽は」
粉々になった。
狐は光が嫌いだから。
満月は目障り。
そう言って、月を喰べてしまった。今度は太陽。
自分を焼き殺そうとしているから。
そう言って──
「朝は、もう来ないわん」
夢は醒めない。
静寂が、包み込む。
翡翠の瞳を。
漆黒の髪を。
──涙も。
「また、会いましょう」
風の中に消えた薄桃。
花の残り香。酔わされる。
触れられた唇を手の甲で拭った。
そして人差し指で、なぞる。
妲己の触れた唇の痕を。
不意に、その指先を。
柔らかい皮膚を噛み千切った。血が滲む。
流れ出す。
真っ赤な血。あの女の、唇のように。
「──痛い」
苦痛に歪んだ眉。
血が乾く。
舐めたら、苦くて。
傷は。
残っていた。
乾いた血の下に。
また、血が滲む。
「──確かに血は、隠してくれるわん」
とてもとても痛い傷を。
「でも、癒す事は出来ないの」
ワタシと同じ。
「妲己姉さま」
不意に、呼ばれた。「──貴人?」
振り返る。
さり気ない動作だけで、ふわりと漂う、花の香り。「どうして、あんな事を言ったのですか?」
「何のこと?」
はぐらかす。答えがない、気がしたから。
「太公望はここにはいないのに」
「!」
表情が、少しだけ。
僅かな動揺。
それから、空を見上げて。諦めたように呟いた。
「距離を縮めたかったの」
──ワタシを、ワタシのしたことを、何一つ許さないで
「永遠は、遠すぎたから」
確かめたい。
貴方のココロに、ワタシはいる?
翡翠の瞳。「──夢を」
見たい。
いつまでも。
永久(とわ)に消える事の無い。好きな事だけを繰り返し。
それは決して醒めない夢。
◇ ◇ ◇ ◇
綾瀬忍さんのあとがき
『白い手』が大好きなので、そのイメージを借りてしまいました。ごめんなさい。
とりあえず『我が侭』『幸せ』『夢』『女の子(笑)』がテーマです。
話の中で、翡翠の瞳は公主、薄桃の髪が妲己ちゃん。
本物は茶色だけど、草子さんの裏トップの色がすごく可愛かったので。
ちなみに師叔ですが、機会があったら書きたいなぁ。
忍でした。