女神のつまさき

 






美しい夜だった。
風が穏やかで星が明るい。
月のない空は静かに澄み渡ってどこまでも続いていく。
息を吸うと胸が涼しい。
なんて清らかな空気。
しんと張りつめて柔らかい。

この世で一番美しくやさしい夜の闇。

空を見上げながら、楊ゼンは三尖刀を抱きしめる。
もやもやとひっかかった気持ちの答がわからなくって小さく息を吐きだした。
ひとりだからかな、と思う。
あまり感じたことのなかった、寂しいという感覚。
違う違うと否定してみても、穴が開いてしまったような心のどこかで地上を恋しがってる。

自分以外の誰かの存在。

目をつぶると様々な顔が浮ぶ。
能天気な顔、気が抜ける顔、アホっぽい顔・・・(皆揃ってろくな顔つきをしてない)
そして下らないことを幸せそうに話す明るい声。
その騒がしさの中で安らぎを感じるようになった自分は、何て小さいのだろう。
何て変わってしまったんだろう。
変わってしまったことは哀しくはないけれど。
何かこそばゆい。まるで小さな子供みたいで。

あの人のせいだ。

また、溜め息をつく。



おぬしは崑崙にいったん帰れ、と無表情で告げた後、桃まんを頬張りながらにっこりと笑って彼は言った。
『強くなったら戻ってこい』

そんな子供を送りだすオヤジみたいなことを言われても・・・・。
しかも強くなったらって・・・。

何が楽しいのかガハガハと豪快に笑いながら、困った顔をした楊ゼンの肩を太公望はがしがしと叩いた。



と、いうわけで、楊ゼン、崑崙に帰って一人修業の毎日。
強くなれ、と言われても、あの人は何をさして「強さ」と言うのだろう。
もう僕は十分強いのにね。
これ以上?
どうやって。
十二仙でさえ相手にならないのに、これ以上どうやって強くなれというの。
かといってこのままでは地上に帰れない。


『楊ゼンさん、強くなるために山ごもりするって聞いたさっ。
 そりゃもうすっごい必殺技をあみだすんだってね。
 俺っち目からビームとかいいと思うさ。楽しみさ〜〜〜』

『このままじゃ駄目駄目だから、アンタ道場破りの旅に出るんだってね。
 100人切りを達成するまで戻らないんだって? 
 それも最後のシメは禁城になぐりこんで妲己とタイマンするって話じゃない。
 あたしちょっと感動しちゃった。がんばって!』

『申公豹サマを生け捕りするための狩りに出るって聞いたっすよ。すごいっす!!』


楊ゼンは崑崙に帰る自分への仲間達のはなむけの言葉?を思いだしてげんなりとした。
噂には尾ひれがつくもの。でもその元凶はわかってる。
きっと太公望が面白半分に話を広げたに違いない(小学校低学年なみの人だから)
だからこそ、必殺技の一つも編み出さずには地上に帰れない。
と、思い悩む変なところで生真面目な楊ゼン。

「・・・・目からビーム・・・妲己とタイマン・・・・申公豹を生け捕り・・・」

暗い顔でブツブツと呟く楊ゼンの背に、声をかける者があった。

「おぬし・・・頭は元気か?」
「えっ、はいっ、そりゃあもうっ」

いきなりの声にまぬけな返事を返しつつ飛び上がって楊ゼンが振り返ると、
長い黒髪の仙女があきれた顔をしてこちらを見ていた。
月のない空を背景にして、彼女は白い月のようだった。
何一つ欠けるところがないのに、どこか寂しく光っている美しい天の女王。
楊ゼンは思わず目を細めた。
「竜吉公主・・・さま」
「眠れなくて」
竜吉公主がきれいな声で言う。
「眠れなくて散歩をしていたのじゃよ、楊ゼン。おぬしは?」
「一人で修業を」
「・・・ご苦労様」
少しだけ笑って公主が手をのべる。
楊ゼンがその手をとると、ゆっくり仙女は地に降り立った。
どうしてこんなにも、と思うほどの儚い微笑。
思わず吸い込まれるようにその顔を見ながら、少しためらいつつも楊ゼンが口を開く。
この降って沸いた幸運を逃してはいけないと必死だった。
「突然ですが、僕に修業をつけていただけませんか?」
妲己や聞仲にも劣らないとされる彼女の実力がいかなるものかなんて知らない。
単なる噂なのかもしれない。
でも行き詰まった修業に突破口が見つかる唯一の可能性に楊ゼンはすがりたかった。
「・・・・今? ここで?」
「次にあなたにお目にかかるのはいつだかわかりません。場所はどこでもいいのですが・・・」
竜吉公主は答えずに黙って目を伏せた。
ひどく華奢で、背丈は楊ゼンの肩までしかない。
いつも遠くから眺めるだけだったその人の姿に、なぜか胸が少しだけ高鳴った。
抱きすくめたら折れてしまいそう。
何てことを考えているのだろう、と一人で赤面して楊ゼンが口を押さえる。
今は強くなることだけ考えなくてはいけないのに。
竜吉公主が顔を上げた。
「体を動かすのは久しぶりだけれど・・・少しだけなら」
「は、はい! お願いします」
ぱっと顔を輝かせた楊ゼンに微笑んで、竜吉公主が後ろに下がり距離をおく。
「では楊ゼン、どこからでもかかってこい」
「は? どこからでも、と言われても・・・」
竜吉公主がいつもの儚げな微笑をうかべたまま小首をかしげ繰り返す。
「だから、どこからでも」
「え、じゃあ、はい。行きます」
何の構えもとらないでよほど腕に自信があるのかなあと思いつつ、楊ゼンがひゅっと三尖刀を振るう。
微動だにしない竜吉公主のわきをかすめて、衝撃が渦をまいて公主の背後の岩を砕いた。
「って、公主、やる気ないんじゃないですか! 今僕がはずしてなかったら絶対あたってましたよっ!」
「わざとはずすだなんて・・・ひどい・・・男の風上にもおけないのじゃ・・・」
うつむく公主。
当たったら色々責任をとらせてやったのに・・・とこれはブツブツと公主が呟いた独り言。
「次もはずしたりしたら私は金輪際おぬしを許さないことにした。だから次は本気で来い」
「ええっ?」
「ほら、早う」
「は、はい」
内心で汗をかきながら、楊ゼンが今度は狙いを定めて三尖刀をふるう。
もうどうにでもなれ、の気分。
先端から走った大気の刃が竜吉公主に届く直前に、彼女の姿がふっと消えた。
そして次の瞬間、楊ゼンは頬に強い衝撃を受け後ろにふっとばされていた。
公主が拳をつきあげたまま、はっはっはっと非常に爽やかに笑う。
頬をおさえながら起き上がり、涙のにじむ目で楊ゼンが公主を見上げる。
「・・・・いきなり殴るだなんて・・・あの道徳真君さまだって、こんな戦い方はしませんよ・・・・」
「今日のテーマは『素手で殴る』じゃ!!! いつもいつも宝貝にばかり頼っておってはいかんのじゃ!!」
「・・・な、なんて原始的な・・・」
「んん? 何か文句でもあるのか?」
竜吉公主、いきなり元気。
早速頭の上の宝貝を降ろして傍らの岩の上に置く。
「ほれ、おぬしもそのフォークみたいなやつを・・・」
「三尖刀です」
あきらめきった楊ゼンが三尖刀を地面においた。お互い素手で、二人が向き合う。
「足技も可じゃ! 寝技は・・・・うーむ。怪しさ爆発だから不可じゃ!! 
 夜だし! はたから見たら妖しさ満点じゃ!!! 私はかまわんがのう!」
やたら楽しそうな竜吉公主。
「それと私が女だからといって手加減は無用じゃ。良いな?」
「・・・・今さら手加減なんてしませんよ・・・・・・そんなことしたら殺されそうだし
「では、楊ゼン! まいるぞ!」
そうして、仙人界きっての美男美女の殴り合う音が響き渡り、崑崙の夜はゆるゆると更けていった・・・・・。







数時間後。
清らかな水の湧き出る泉のふちに腰掛けた竜吉公主が、目を伏せた楊ゼンの頬にそっと手で触れた。
楊ゼンが顔をあげる。

「・・・・きれいな顔が台なしじゃな」

そう言って公主がぷっと吹き出す。
あなたがしたんでしょう、あなたが! と言いたいところを公主が怖いので我慢して、楊ゼンは曖昧に笑った。
見事な青たんが目の上にできている。
というか、全身ボコボコ。
公主のほうは、ほとんど無傷。やはり宝貝なくとも崑崙最強の女であった。
かなわない人というのはたくさんいるのだなあと、楊ゼンは思わず涙ぐむ。
滲んだ涙を隠そうと、唐突に大きな声で言う。

「強くなりたいです。僕は。あなたぐらい」

「・・・もう強いよ。おぬしは十分」

「駄目なんです。僕じゃ・・・駄目なんです」

弱い僕ならば必要ないと、あの人は冷たく笑うのだろう。
やけくそな気分だった。
打ち身だらけの体も痛いけれど、自信を失った心も痛い。
公主がくすくすと笑うのでむっとしてその横顔をにらんだ。

「そうやって悩んだりいじけたり。おぬしの若さが私には羨ましいよ」

「そんなこと言われたって嬉しくないです」

公主が真顔になった。

「強くなる方法を教えてあげようか?」

ひゅっと吹き抜けた風が二人の髪を揺らした。
公主が前に向き直りたんたんと言う。

「宝貝に頼らないこと。考える前に動くこと。朝ご飯はしっかり食べること」

「朝ご飯・・・・ですか・・・・・・・・」

そして一番大切なのはね、と公主。

「頭で考えず、拳で考えるんだよ。楊ゼン。拳で!」

「公主・・・・・」

楊ゼンがぱちぱちと瞬きをする。
綺麗な顔をしてこの人は何て熱っ苦しいことを言うのだろうと、むしろ感動した。
武成王だってこんな恥ずかしいことは言わない。

でも。

ふっと肩をすくめて楊ゼンは笑った。

あなたのように、なりたいと願うなら。
あなたのそのつま先ほどの強さを願うなら。

かちかちに固まった頭と体が柔らかくなった気がした。
見る方向を変えると、新しい何かが見えてくるのかな。
一人では嫌だと震える子供にも。

楊ゼンの顔を神妙な表情で覗き込む竜吉公主。
はかりしれない強さを持った人。

それも、いいかもしれない。
たまにはね、たまには。

「わかりました、拳で、ですね。公主」

 



そうして竜吉公主直伝のかかと落としをマスターした楊ゼンは、翌日意気揚々と地上へと帰っていった。
















ああ、オチもなく意味もないお話(笑)
書きたかったのはかわいい楊ゼンとあつっくるしい公主。
うわ、本当にあつっくるしい! たまらんっ。
あと、今週号にちなんだ「殴り合う話」
あとおまけでオヤジで小学生な太公望?
題名は本来なら「女神のかかと(落とし)」だけど
それじゃあんまりなのでつま先にしときました。

自分で言うのもなんだが、この楊ゼンの情けなさとかわいさには自信あり・・・
ふふ・・・(涙)
私は何回楊ゼンを殴れば気がすむのだろう・・・・





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