「愛しているわ」と女は言う。

何を愛しているのか。

誰を愛しているのか。

本当に愛しているのか。

全ての真実は薄い膜の向こう。

女は誰にも決して真実を言わない。





ことばにはできないこと






 女は月を背にして浮かんでいた。
 その姿を目にしたときは、また彼の嘘だと思った。
「なんだ楊ゼン。こんな夜中に趣味の悪い」
 殺気は全く感じ取れなかったから、いつも彼の隣にいる男が彼が外に出たのを勘良く察知して来たのだと。
 くすと笑って、男が化けた女は彼の目の前まで降りてきた。
 やはり、あの男だと思う。
 こんな慈悲に満ちたような微笑をあの女がするはずもないから。
 誰かと間違えているのではないかと、降りてくる微笑をただ見上げて待つ。
 女は足首ほどの高さで、足を地にはつけずに止まった。
 しぜん、見上げたままになる。
「太公望ちゃん」
 笑いの込上げる茶番を続ける気らしい。
 どうせだから、奴がネを上げるとことんまで付き合ってやろうか。
 奴程度に翻弄されるのは面白くない。
「何故、こんなところにおる?」
「あなたこそ、どうして?」
 ここは周城の外。
 太公望はその忠実でよく気の付く相棒すら連れずに一人でそこを歩いていた。
「何、昼間に周公旦の見えないところで寝ておったからな。いざ夜になったら眠れんから、散歩だ。周城の側ではまた誰かに見つかって煩いしな」
 そう言いながら、本当に何故出てきてしまったのだろうと思う。
 口にしたのは、たった今考えた言い訳。
 よくもまあ思った先から言葉が出てくるものだと、自分でも感心する。
「本当?」
「もちろん」
 白く細い手が伸びてくる。
 絡んだしなやかな指がうなじを捕らえる。
 気味の悪いほどに優しい指の動きは心地良い。
 ゆっくりと腕と肘も彼に降りてきて、気が付くと息を吹きかければ届く場所に綺麗な顔があった。
 一瞬だけ、その顔に魅入る。
 いつも傍らにある男の小奇麗な顔とはまた違った艶やかさ。
 そこまで考えて、これはあの男が化けた姿だと思い直し溜息をつく。
「おぬしこそ、何のつもりだ?」
 そういえば元々自分が尋ねたのだ。
 今度ははぐらかされはしないと、どんな言い訳をするのかと身構えて訊く。
「あなたに逢いに来たのん」
「それは光栄だ」
 この女本人でさえなければ。
「太公望ちゃん」
 桜色の髪が、揺れる。
「愛しているわ」
 妖艶に笑う。
「って、言ったら、どうする?」
 ああ、やはりあの男だと思った。
 あの男が言うのなら、どこか予想通りでつまらない。
「おぬしは紂王を愛しているのではなかったか?」
「ええ、愛しているわ」
 真実ではないくせに。
「おぬしの妹達も」
「ええ勿論」
 これは本当。
「嘘をつけ」
 そんなに全てをこの女が『愛して』などいるわけないのに。
 誰もかもの愛とか怒りとか、そんな感情がどう働くかを知っていて、それで誰も大切にしていないから最凶の策士で敵なのだ。
「あら、失礼ねん。本当なのに」
 本当に気を悪くしたように言う。
 あの男も演技過剰を通り越して別人だなと、内心で吐き捨てる。
 斬新な解釈で面白くはあるけれど。
「では、博愛主義か」
「そうよん。だからあなたも愛してる」
 みんなと一緒。
 それはつまらない。
「妲己」
 はじめて、女の名前を呼んだ。
「待っていろ。そこで」
 女が顔を寄せる。
「それで、あなたは何をしてくれるのん?」
「殺してやる。いつか、必ず、わしが」
 それは約束か誓いか希望か。
 どれにしろ、本人ではないから意味がない。
 本人ではないから言えた。
「ええ」
 何への了承だったのか、そう言って、女は唇を重ねてきた。
 外見はあの女でも結局はあの男だから、げ、と心の中で呟く。
 別にあの男のことは嫌いではないから、嫌ではないけれど。
「愛してる?」
 主語を欠いた問い。
 信じられないような、答えは決まりきったような問いだけれども、やはりその主語は目の前の女。
 何故この男はこんなことを訊いてくるのだ。
「・・・ああ」
 答えたらどうなるかと、考えなかったわけではない。
 女に変化した男をからかうための冗談とも取れるだろうけれど、それは本心。
 だって自分は女を憎んでいるから。
 『この女のために生きてきた』
 『この女を目指している』
 『寝ても覚めても考えるのは、一日たりとも忘れたことなどない女は、この女ただ一人』
 たった一人を運命の相手と決めて焦がれつづけるのに似ているだろう?
 憎しみは愛と似たものだと知っている。
 憎しみは愛より深く暗いものだと知っている。
 憎しみは愛を包括し、愛は憎しみを曖昧にするものだと聞いている。
 だから間違いではない。
「あいして、おるよ」
 それはひどく歪んだ自傷行為。
 だけど女は微笑んだ。
 すべてわかっているとでもいうように。
 だから私もあなたの望むようにしてあげるというように。
 まるでそれは知らず心の内で詫び続けていたものに許されたようで、もしもこの男が意図してやっているのなら、本当に愛してしまえるかもなと思った。
 だがどこか張り詰めた夜の空気を破って男の声が彼に届いた。
「太公望師叔!」
 切羽詰った声は背後からして、続いて地上に降り立つ軽い音と足音。
 その短い間に肩と首筋の仄かな温もりは離れ、また彼自身の肩も強く後ろに引かれる。
「妲己!」
 遠目からでも彼が女に対して構えてさえいなかったのは明らかだろうから、何か術をかけられていたとでも思ったのだろう。
 彼を背後に庇うようにして三つ又の宝貝を隙なく女に向かって構える。
 その様子を見て女はくすりと笑った。
 ・・・・ああ、この女は本物だったのだ。
 では、もしかすると先の言葉も本物だったりするのだろうか。
 そうするなら、今背中しか見えないこの男も、女は愛しているということになるのだろうか。
「太公望ちゃん」
 現状を無視した思考は甘い声で名を呼ばれたことで引き戻された。
 既に女は羽衣を大きくはためかせて夜空の向こうに消え去ろうとしていた。
「待って、いるわ」
 無意識の内に、ああ、と答えていた。
 それは声にはならなかったけれど、満足そうに笑んで消えたから、わかったのだろう。
「くっ・・・」
 それだけ呻いて、男が追おうとする。
 無駄だから男の手にした宝貝の、三叉に分かれた方とは逆の端を掴んで引き止める。
「やめておけ。おぬしが適う相手ではない」
 もしかしたら、止められることを望んでいたのだろうか、あっさりと刃先を下ろして悔しげに目を伏せた。
「わしも、おぬしも。到底適う相手ではないよ。今は、まだ」
 ・・・・・女は、待っていると言ったのだ。
 誰もを愛していると言った女が、自分を待っていると。







 憎しみは糧。
 恨みはこの存在を生に繋ぎ止める杭。
 戦うために哀しみに縋り付いて。
 愛しみは動けないようにこの身を絡めとってくれる。
 けれど憎しみは、恨みはいつか消えてしまうものだと知っている。
 悲しみと愛しみは残るけれど、それは生きる原動力にはならない。
 憎んでいなければ戦えない自分を知っている。
 だからこれは欺瞞。
 憎んだ振りをして、恨みを理由にしてあの女の前に立つのだ。
 嘘を、つくのだ。
 今横にいる男も、背後にある城にいる沢山の仲間達も、汲み上げた水が指の隙間から零れてしまうように失ってしまうのは耐えられないから。
 既に忘れてしまった憎しみを忘れられない振りをして、誰も失わないうちにあの女を殺すのだ。




自分も誰にも真実は言わない

真実は口には出来ない

ことばにしてはならないから

 







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