風の剣 水の檻

 

 

 

 

 

 

自分の白い手をじっと見ていた。
何の意味もなく。
いつのまにか息を止めていて、気付いたときには胸が苦しかった。
長い長い髪を後ろに流し、一度だけ瞬きをして振り返る。
少年の顔をした、青い目の道士が立っていた。
かすかな風にその目と同じ青い上着がさわさわと揺れている。

「・・・太公望」

「久しぶり」

にっこりと微笑んだ彼の笑顔は変わらない。

でも、変わった。
変わってしまった。

いいとか悪いとか悲しいとか、そういう気持ちではなく。
ただそうあっさりと呟くように心で思って、見つめていた白い手を伸ばし、彼の腕に触れた。

「お帰り」

そう短く言って、公主も微笑んだ。

 

 

 

 

 

「おうおうおう! やっぱり絶景だのう! 鳳凰山から見る景色は!」
「言い方がまるでジジイだな。おぬし」
「公主に言われたくないぞ?」

鳳凰山の張り出した岩の際に並んで、二人で空を見上げる。

「こうやってると・・・引退後のジジイとババアのようだのう・・・」
「は?」
「いや、こういうのものんびりしてていいなーっ・・と」
「封神計画はどうじゃ?」
あくまでたんたんとした公主。
一瞬黙ってから太公望がやけにはっきりと答える。
「もうバッチリ! 完璧すぎて怖いぐらい! さすがわしっ! わしってエライ!」
「・・・・」
「ということにしておこう。あえて」
「ちょっと疲れぎみか? 太公望。突然訪ねてくるなんて」
ふ、と空気を嗅ぐように笑ってから、太公望が首をそらす。
「たまにはさぼってもよかろう。わしだって」
首をそらしたまま、仰向けになりそうなほど体を曲げ、息を吸う。
「たまにはね」
「相変わらずじゃな。おぬしは」
「そうでもないぞ? 公主」
ふふふ、と含む所のある笑い顔で太公望が公主の目を覗き込む。

手には打神鞭。

突然立ち上がって強い力で公主の腕を引きよせ、それを振るう。

「疾っ!!」

 


感情の薄い瞳の中に見え隠れする、彼自身にも抑えきれない激情。
それが風を生む。

刃となって。

 


青い空が広がっていた景色は、猛烈な勢いで渦を巻く空気に全て遮られた。
ひそめた眼差しの先にただ風だけが世界を埋め尽くす。
色を持たないはずの風なのに、今はそれしか見えない。今は。

そして、太公望の声。

「強くなったかな、わしは」

公主はぶつかりそうに間近にある太公望の目を見た。
笑い顔のままの太公望が、風になぶられて二人を包む黒い羽のように広がる公主の髪を片手でつかむ。
わずかに苦しげに、公主が声を震わす。
「すごい・・・風。まるで嵐のよう」
「大丈夫、わしが支えているから」

こちらを貫き通すようなまっすぐで強い眼差しが痛くて、
公主は太公望の肩に両手を置いてその目から逃れようとうつむく。

無意識のうちに公主は問う。

「何が・・・欲しい? 太公望。私があげられるものならば・・・望むものを・・・あげるから」

だから?

だからそんな目で見ないで?
だからその嵐に私を呑み込まないで?

自分の心がわからなくて、問いたい言葉が見つからなくて、公主は震える咽をつまらせたまま目を伏せる。

あなたは、何が欲しいの。


「全部」


太公望が答えた。
自分の肩に置かれた公主の細い手首をつかんで、
求める人の眼差しを得ようとうつむいた公主の顔を下から覗き込む。

鮮烈な笑顔と強い声で。

「おぬしの、全部。―――全てが、欲しいよ」

眩暈がした。
一瞬だけ目の前が暗くなり、公主の体から力がぬける。

 



その体を抱きとめて、あわてて太公望が風を止めた。
急に戻った静寂の風景の中で、肩で息をしながら公主が太公望の手から身を起こし長く息をはく。
「すまぬ。公主。つい調子にのってしまった。おぬしの体が弱いことを忘れておった」
いつもの調子に戻った太公望が言う。
先程までの激しさは影さえもなく、本当に反省ひとしきり、といった様子。
どうしたらいいのかわからず、公主はただ曖昧に笑って答えた。

「・・・大丈夫だよ。私は。立ちくらみ・・・かな?」

岩に腰掛けゆっくりと息をつく。
太公望もその隣に並ぶ。

「強くなったな。おぬしは」
「・・・すまない。どうかしてた、さっきは」
「本当に強くなった。ビービー泣いてた子供のころのおぬしとはとても同一人物とは思えんよ」
「公主の前でビービー泣いた憶えはないぞ」

「泣いてたんだよ。いつも」
たとえ涙はなくとも。

公主はまた無意識に、組んだ自分の白い指に視線を落とす。

泣いていたおぬしは私の手の中にいた。
私のものだったのに。

 



「あ・・・鳥・・・」
太公望が呟いて、ゆるやかに弧を描く眩しいほどに白い鳥を指さした。
「珍しいのう。こんな高い所に鳥が飛んでいるなんて」
この鳥が遮る日の影は、地上まで届くのだろうか。
遠い遠い、人の住む地上に。

なぜか、魅せられたように太公望はその白い鳥を目で追う。
遠い眼差し。
そして視線は下に落ち、はるかに霞んで見えない地上へと彷徨う。

公主はその横顔を見ていた。


――――ああ、そうか。

心の中で呟いて、小さく息をのみ、首を振る。
彼の横顔から読み取った答え。

 

 

欲しいのは「全部」だと言ったあなたは。
同じ激しさで、この世界の全てを求めているんだね。
天を掴むほど、そして掴んでその天を落とすほど腕を伸ばし、傷つくことも傷つけることも厭わず。

いくつもの血の道をその後に残し。


善悪の別のない、苛烈な思いの深さだけで、くいいるようにこの世界を見ている。

 


・・・・あなたは気付いていないのかもしれないけれど。

 

 

遠くを見るような横顔のまま、太公望が公主に言った。

「おぬしにはわしには見えないものが見えるのだろうな。それだけ長く生きていれば」
「人を年寄り扱いするではないよ」
「事実だろう?」

笑いながら太公望が言う。

「ゆうに先年以上・・・わしからは想像もつかない長い時間だ。考えただけで眩暈がする」
「・・・そうじゃな」
眩暈がして倒れたまま過ごせたら、いっそ幸せなのに。

「わしの80年は・・・あっという間だった。振り返ってもあまり多くは思い出せんよ。
 断片的な場面や感情の記憶ばかり」
「時の流れとはそういうもの。どんなに激しい思いも、
 いつかそうやってとぎれとぎれの記憶の欠片になってしまう」

それには答えず、ふと思いついたように太公望が公主の顔を見た。
そして問う。

「何が見える? この先の未来に、おぬしの目には何が映る?」

 

「ただ、血の色が」

 

隠すことはしない。隠す必要もない。
あなたがそれを問うならば、私は答えるだけ。

血の赤が。
行き止まりの先に続く、何もないがらんどうの果てが。

 


太公望は前に向き直り、空を見ながら目を細めた。
あまりにも明るい青に、白い雲さえも薄く影を落すような光の渦。
人界と仙界を繋ぐ同じ空。流れる時は違くとも。

太公望が呟く。

「血の色は、生きることの、証明みたいなものかな」
穏やかな声だった。

 

公主は目を閉じる。

 

何もかもわかってて。
それでも、それでもやめない。

運命すらも曲げてみせると、その静かな情熱と傲慢さで。

 

「おぬしの中にも、わしの中にも、同じ色の血が流れてる。

 血の色は・・・・息をすることと同じ色だ」

 

ぱっと目を開けて、公主も眼前に広がる空の青に見入った。
つきあげてくるどうしようもない、にごった苦しさを紛らわすように静かな静かな声で言う。

「そうかもしれぬな」

血の色は同じ。でも。

「おぬしは・・・私には見えないものを、見ている。その目で」


こんなにも違う。

紡ぐ言葉が。望む未来が。
同じ空を見て、同じ声を聞いていても。

私の熱は色あせて、ここに永遠にとどまるだけ。


「与えられる未来はただ一つだけ。だけどわしは・・・変えられないものなんて信じない」
「そう」
「だから行くよ。公主。何度たたきのめされても。どんなに情けなくっても」
「その手からボロボロと大切なモノを落としながら?」
「・・・・・・・・・・・それでも」

灰色の雲が空を埋め尽くす。
急変する景色。嵐の前兆。

「それでも、行くよ。わしは」

公主はうつむく。
風が止む。



「そうじゃな」



私は、行けない。



見えすぎる未来がこわいよ。太公望。
はかりしれない、人の持つ熱と熱がぶつかりあった後の、恐ろしいほどの沈黙が怖いよ。
「何を捨てても」という、その熱自体・・・怖くて仕方ないよ。


ねえ、知ってる?
あなたの望む「全て」は、全てじゃあ、ない。

みんなみんな、あなたの前からなくなってく。

 

ただ、残るものはね。

想いだけは永遠に消えないと信じる、誰かの言葉。心。
託され、つながっていくことを願う、誰かの情熱。
消失と再生を繰り返す時代の変化。

そんな苦しくて重くて、儚いものが欲しいの?

「今」を捨ててでさえ。

この細い体のうちで、そんなことを望んでいるの?

私はただ唇を噛んで、あなたの炎に巻き込まれぬよう、虚ろに笑って後ろ姿を見送る。
二人の距離は広がるばかりだ。

 


公主は太公望の肩を抱いて、彼の頬に自分の頬を寄せた。
太公望が目を閉じてそれに応える。

こうやって触れ合っていてでさえ。

 

「公主の頬は・・・冷たいのう」
顔を寄せたまま、公主の髪を片手でもてあそび、太公望がぽつりと言った。
「おぬしは暖かいよ。・・・泣けるほど、あたたかいよ」

手を握りあい、穏やかな吐息が触れ合う。
こんなに側にいるのにね。

 

公主の目をかすめるように、また未来が垣間見えた。
紅い色。鮮烈な赤。
目をつぶって小さく息をのみこみ、太公望の肩にもたれる。


遠くなってく・・・
全部消えてく・・・

笑っているいくつもの顔。

 

 


私のつかめた全て。

全部全部、あなたが燃やしつくしてしまう

 

 

 

「公主は、何が欲しい?」
太公望の問いに公主は何も言わず笑った。
「人に言わせといて、自分だけだんまりはなかろう」
「私は欲深いから、だから言えない」

「欲深い? わしよりもか?」

「・・・ある意味、おぬしよりも」

 

それはなんだかすごく以外だ、と太公望が目を丸くして笑った。
公主は無言で、微笑みながら遠くを見る。

 

 

 

 

とどまることしかできない水も、
全てを呑み込み姿を変え進むしかない風も。

全部全部一つになって、
憎しみも悲しみも熱くはり裂けそうな情熱もない、
真っ白な地平にたどり着いて消えてしまえばいい。

風も水も光も。紅い陽炎のような火も影も。

全部一つになって、消え去ってしまえばいい。

そうすればもうかわかない。
私は何もなくさない。

私も、あなたも、狂わない。

 

それが私の望むこと。
声にもできず、
この美しくて空虚な、水色の空の向こうの星々に願いをかける。


口には出さないけれど。
あなたは振り返らずに行くのだろうけど。
それを止めないけれど。

 

全てを失う日がくるのをただ黙って待ちながら。

胸に抱え朽ち果てていく、願い。

 

 

 

 

 

 



あとがき

うっわ。駄目っすねえ。読み返してらんない。
激しくて激しくて、別にいい人でも何でもない太公望と
ネクラでネクラで、でも「私は暗いのよ。だから?」って感じに開き直ってる
公主サマを書いてみました。
太公望のことを愛してるんだか憎んでるんだかわからない感じの。
だって崑崙もボロボロで公主サマ住むトコなくなっちゃうから、心のどこかでは
「冗談じゃねーよ、太公望さんよーーー」って思っているのではないかと(笑)
・・・・救いのない話、でも救われなくたって別にいっか、しょうがないしね
って感じのを書いてみたかったのですよ。
やっぱりくどくて自己陶酔っぽい文章になってしまいました。
しかもスムーズにお話が運べなくてなんだかとぎれとぎれですなあ。場面が。


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