欠けた月 満ちる月

 

 

 




 

 






「今夜は明るいのう」

 白く輝く月を見上げ、太公望がつぶやいた。

 

 趙公明との戦いに勝利を収めたその夜。
 太公望は戦場となった渭水のほとりにいた。

「しかし、随分派手に暴れたものだのう」

 原型を現した趙公明のおかげで、あたりは滅茶苦茶だった。
 樹はなぎ倒され、岩は崩され、地形がすっかり変わっている。

 太公望は回想する。

 あの時。

 死にかけた魂を抱え、うずくまっていたあの時。

 太公望の前に現れたのは、妲己だった。
 羌族を滅ぼした憎むべき敵。
 人間界に混乱をもたらす恐るべき仙女。

 妲己を倒すために、太公望は人間界に降りた。

 

 あれは、現か幻か。
 あの時、妲己が現れなければ、太公望はそのまま死を迎えたはずだ。
 魂魄を失い、封神台に閉じ込められる。
 肉体を失う死を。

 あれが幻なら。
 それほどに憎しみが深いのか。
 許せないのか。

 あれが現なら。
 何故、敵に塩を送るような真似をするのか。
 太公望の死は好都合なのではないのか。

 

「あれはやはり、妲己に救われたということになるのかのう」

 結果的に、太公望は生きている。
 死から抜け出し、趙公明を倒すことができた。

 もしも、現なら。

 何故、妲己は現れたのか?

「あやつの考えることは、時々どうもわからん」

 太公望はぶつぶつとつぶやきながら、渭水のほとりを歩く。
 不完全な形の月が、大地を照らす。

(わしの力だけではあやつには勝てん。しかし、犠牲は出したくないのう)

 不完全な己。
 いつも、何かが欠けている。
 理想には現実が、信念には力が。

 目的を果たすために戦い続けていても、なにか欠けている気がして。

「まるで月のようだのう・・・」

 太公望はため息とともにつぶやく。
 明るい夜。

 ふと、甘い香りがした。
 太公望の目が月に向く。
 同時に降り注ぐ、甘い声。

「だあってぇン。太公望ちゃんってばくじけそうになってたんですものぉン」

 太公望の心を見透かしたような言葉。
 色香と可憐さと、女が持てる様々な要素すべてを含む、そんな声。
 月を背に立つ細い姿は、紛れもなく。

「な、なななななな」

 突然現れた声の主を指さし、太公望は驚愕した。
 驚きのあまり、まともな言葉が出ない。
 薄紅の髪、長いまつげ、整った顔立ち、完全なスタイル。

 妲己だった。





***







「なんで、おぬしがここにおる!」

 ようやくまともな言葉を叫ぶ。
 太公望の取り乱すさまに、妲己は満足げにころころと笑う。

「あらん、酷いわねン太公望ちゃん」
 鼻にかかったような甘い声はひどく魅惑的だ。
「折角挨拶に来たのにん。つれないわン」

 太公望は、打神鞭をかまえて妲己を睨む。

「挨拶だと?何を考えておるのだ、おぬしは」
「疑うなんて酷いわん。挨拶は挨拶よン」

 ゆったりとした足取りで妲己は太公望に近づく。
 太公望は依然警戒の表情で、妲己との距離を取ろうとあとずさる。

「怖いのん?太公望ちゃん?」
 くすくすと妲己が笑う。
「おぬしは策士じゃからのう。警戒するに越したことはない」

「あら、光栄だわん」

 妲己は歩みを止めると、手近な岩に腰かけた。

「お話しましょ、太公望ちゃん」

 太公望は黙ったまま、妲己を見つめる。
 妲己は相変わらず微笑んだままだ。

 あの、どこか嘘のある笑顔。
 先ほど考えていた疑問が、口をつく。

「わしが死んだほうが、おぬしは好都合ではないのか」

 唐突な言葉に、妲己は驚きはしなかった。

「あらん、本気で言ってるのン、太公望ちゃん?」
「違うと言うのか?」

 妲己は小首を傾げ、頬に手をあてる。

「そうねぇん。あなたが死ねば楽かもしれないけどン」

 そこで間。
 妲己の表情が少し変わる。
 相変わらず微笑んだままだが、なにかが変わった。

「わらわはね、楽しいことが大好きなのン」

 太公望は黙ったまま聞く。

「強い相手も好き」

 まっすぐな視線が太公望を射る。
 驚くほど、真剣な眼差しだった。
 作り物めいた笑顔の、そこにだけ真実があった。

「わらわを倒すのでしょう?太公望ちゃん?」

「おぬしは・・・」

 

 なんだ?

 これではまるで。

 倒されることを望むような。

 

「わらわの所までたどり着くのでしょ?」
 つづけて妲己が問う。

 望むように、祈るように。

 太公望に問いかける。
 その笑顔は、いつのまにか儚げなものにかわっていた。

「・・・そうだ」

 思わず太公望は答えていた。
 答えなければいけないような気がしたから。

 誓うように、確かめるように。

 

(そうだ、それがわしの目的。封神計画の目的ではないか)

 

 何を確かめているのか、この仙女は。
 何を知りたいのか。
 これもあるいは罠なのか?
 狡猾な妲己の罠なのか?

 強大な敵、憎き仙女。

 儚げに微笑む、これは現か幻か?

 太公望は困惑した。
 太公望の困った顔に、妲己はまたくすりと笑う。
 揶揄を含まない笑顔。
 いつもとは違う作り物ではない笑顔に、太公望の困惑はますます深まる。

 

(これは、誰だ?)

 

 いつのまにか、妲己が太公望のすぐ前に立っていた。
 妲己の手が、太公望の顔にのびる。
 そっと頬に触れる手は、思いのほか暖かい。
 太公望は驚いて目を見開いた。

「大好きよん、太公望ちゃん」

 耳元で吐息にも似た囁きが聞こえた。

 

(これは約束)

 

 頬には、柔らかな感触。
 息がかかる距離にある長いまつげ。
 長い薄紅の髪からは、不思議な花の香り。
 くすくすと楽しげに笑う妲己。
 呆然と立ち尽くす太公望。

「う、うわあああああっっ」

 事態をようやく把握し、太公望が後ろに飛び退く。
 その顔は耳まで赤い。

「な、何考えとるのだおぬしは!!」

 太公望の慌てように、妲己は嬉しそうに微笑む。
 いっそ無邪気なほどの笑顔に、一瞬目を奪われる。
 妲己は、ふわりと背を向けた。
 空気のように軽やかな動き。

「またねん」

 淡い光の玉が妲己を包む。

「ちょっ、ま、待たんかい!!」

 笑い声と香りを残して、妲己の姿はかき消えた。
 渭水のほとりに一人残されたのは太公望。
 真っ赤な顔で、拳を震わせている。
 頬には、まだ先ほどの柔らかい感触が残っている。
 唇の触れた跡には甘い香り。

「な、何を考えとるのだ、あやつわあああああっっ!!」

 月明かりの岸辺に、太公望の絶叫が響いた。







          ***







 陣内の見回りをしていた天化は、遠くに太公望の姿を見つけた。
 歩いてきた方向からして、渭水からの帰りのようだ。

「おう、スース散歩かい?」

 天化の声に、太公望が振り向く。
 途端に、天化の表情が変わった。

「・・・スース、あんた」

 驚いた顔で、太公望の顔を指さす。

「?なんだ?」

「キスマークついてるさ」

(!しまった!!)

 太公望は思わず頬を押さえる。
 そして、なぜか響く絶叫。

「なにいいいいっっ!?」

 複数の叫び声とともに、太公望は人垣に囲まれた。
 一体どこにいたのか、武王やら楊ゼンやらビーナスやらが太公望を取り囲んだのだ。

「おぬしら一体どこから・・・」

 唖然とする太公望には目もくれず、全員が好き勝手なことを言い出す。

「おい太公望、お前いつの間に!?一体どんなプリンちゃんと知り合ったんだよ!」
「太公望どのもすみにおけねえなあ」
「こら!勝手に話を作るでない!」
「ひどいですわ、太公望さま!私というフィアンセがありながら!!」
「ちょっと!浮気なんてサイテーよっ!!」
「御主人!僕は見損なったっすよ!」
「・・・ちょっと待て、誰が婚約なぞ・・・」
「にいさま、キスマークってなあに?」
「もちっと、おっきくなったら天祥にもわかるさ」
「うわあ、お師匠さまおめでとうございます!!」
「・・・・・・武吉、よくわかっとらんだろう・・・・・・」
「へええ、太公望がなあ!おい、今度紹介しろよ!!」
「ハニーの浮気者おおおおお!!」
「うぎゃああああああ!!」

 もう何がなんだかわけがわからない。

 ついに太公望がキレた。

「いいかげんにせんか、ぼけえええええ!!!」

 瞬間、ぴたりと全員が口を閉ざす。

 キレた太公望の顔は怖かった。
 怒りに我を忘れ、太公望は叫ぶ。

「いいか!?これは、だっ」

(は!いかん!!)

 太公望は真実を口走りかけたが、すんでのところで我に返った。

(まさか、妲己のせいとは言えん・・・)

「これは?」

 全員が復唱する。

 視線が太公望に集中している。みんな興味しんしんだ。

「だっ、だからそのだな・・・」

 しどろもどろの太公望。視線が痛いし怖い。
 必死で言い訳を考える。

「その、だな、だから」

「だから?」

「さっきまで満員電車に乗っておってのう」

「そんなわけあるかーーーー!」

 全員のきびしいツッコミと何発かの攻撃が太公望を直撃した。

「何をするかおぬしらー−−!!」

 太公望がキレて、打神鞭を振り回す。
 周軍の夜はいつもにも増してにぎやかに更けていった。







          ***







 妲己は自室の窓辺から月を見ていた。

 不完全な形の月。
 数日たてば満ち、真円を描くだろう。

 そして、また欠けていく。

 永遠にくりかえされる満ち欠け。

 まるで自分のようだ。

 いつも、何かが欠けている。

 力も、美貌も、権力も、妹達も。
 いくらあっても、何かが欠けている。

 

(本当よ、太公望ちゃん)

 

 だからはやく来て。

 わらわを捕まえて。

 血も肉も魂も、歴史も。
 全部あげるから。

 

 永遠をちょうだい。

 

 消えることのない憎しみで胸を満たして。
 他の誰かなんか見ないで。

 ここだけを目指して来て。

 他のことなんか考えなくていいの。


 あれは約束。


 誓いの言葉のかわりに。

 刻むくちづけ。

 

「わらわは待ってるのよん、太公望ちゃん」

 

 待っているの。満たされる時を。

 永遠に満たされる時を。

 

 儚く微笑む仙女の姿を、欠けた月が見ていた。

 










―終―

 












 あとがき

 初封神小説。そして初妲己×太公望・・・。
 はうう、長いー。ごめんなさい、草子さん!
 妲己ちゃんは孤独なのですよ、きっと。
 自分と同じ孤独を持ったヒトを探してて、んで、見つけたのが太公望なのです、多分。
 だから戦う。試す。いじめる。からかう。
 それが妲己ちゃんの愛情表現なのさ・・・。





 草子の感想

 はああああ・・・・妲己ちゃん・・・・
 読んでてぐいぐいお話にひきこまれて、すごく集中して読んでたので
 だからこそ、中盤の「満員電車」には度肝をぬかれました。ええ、本当に。
 よくわかってない武吉が何だかかわいくて(笑)
 二人の気持ちの対照がすばらしいです。
 何か欠けている、二人。全然違う所を、見てて、でもどこか同質で
 近いのに遠い、遠いけど近い、ジャンプを読んでても感じる二人の距離感が
 すっごくよく表れてると感じました。
 またまたまた、妲己ちゃんがツボすぎ・・・・
 せつないとも儚いとも違う、何て言うんだろう。
 自分の気持ちを全部知ってて、でも開き直ってるっていうのとも違うんだけど。
 表現うまくできませんが、この妲己ちゃん大好きです。とっても素敵です。
 文章が隅々までまた美しいんだ、これが。
 どこ読んでも感心してしまうほど綺麗。
 本当にしてやられました。
 妲己×太公望、最高です!
 朱音さん、最高です!
 こんなに幸せでいいんだろうか? っちゅーぐらい、うれしいです。
 どうもありがとうございました!






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