むかし、むかし。
まだ光が足りなくて、世界が噎せ返る黒のものだった頃。
歓びも哀しみも憧れもすべて見上げた空に占拠され、両膝を抱えて泣いていた僕に
――――それの名は「恐れ」だよ、と誰かが言った。











【 childhood's angst from the soul, and who? 】
 












薄暗い闇の中に、靴音だけが鮮やかに響いた。場所にそぐわない。
長い廊下。その所々には鼻を突く異臭が住み着いていて、少年の不安を煽る。
(この匂い、知ってる・・・・)
――――腐敗した死体のもの。
何故こんなことが解ってしまうのか、それが解らない。
ただ、救いのようにその場所には何もなかった。壊されてしまった魂の化石は、きっと染みのように床や壁や柱、あらゆる場所に貼り付いてしまっているのだろう。
だけど。
(・・・どうして?)
どうしてなのだろう?確かに畏怖はあるのに。
(どうして?)
それすらも懐かしいと感じてしまうのは。
まるで母の胎内。得体の知れない始元。
本能のコエ。
歩いて。そうすることで一歩、また一歩と逃れられない事実へと近付いていく、そんな既視感。
肩ほどまでの青い髪を揺らし、危うげに足を踏み出して。そうやって歩くのは、よく知った、家、のような処。・・・けれど襲うこの心細さの理由なら、ちゃんと解る。
ひとりで、というのは初めてだったから。
いつも隣には父がいた。恐れから自由であったのはその為。だから今は、
こわい。
足下を見つめても、影の輪郭すら掴めない。
けれど進まなければならない。ダイレクトに送られてくる信号のようなものが少年のなかには在った。
――――部屋を出ては行けない、と言った。父。
その言葉の意味は、実際にこうしていると身体に嫌と言うほど凍みてきたが・・・・この感じ。あからさまな「死」の残像に対する不可解な・・・まるでこの手を離れてしまった感情。それに加えて、違和感。絶対的な違和感。
気付いてしまう。この場所は間違っている、と。
少年が此処を通る時は必ず父によって意図的にひと払いがされていた為、明確化された事実と成すことは出来ない。しかし漠然とした何かか押し寄せてくる。
此処も今よりは温かかった気がする―――それが少年の脳裡に最初に浮かんだもの。
これは何?
これは何なの?
急にぽっかりと穴が空いてしまい、しかもそれは修正不可能な大きさで。
―――――何なの?
「どうして誰も、いないの?」
混乱して。深い混乱に流されて。
「わらわは、いるわん」
そしたら、いて。

 

 

 

ワタシハココニイルヨ。

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

きれいなひと。そうおもった。
だけど、どうしてだろう?
そのひとみをこわいとかんじたのは。





確かに気配はなかった。けれど振り返った、その先――――
「・・・・・あ」
暫しの間、声を失くしていた。或いは殺されていたのかもしれない。
目の前に立つ、オンナノヒトに。
「――――だれ?」
漸く零れた。



見上げてくる少年の眼に、その女は微笑みを返しただけだった。
質問には応じなかった。問いそのものが始めから存在しなかったと、彼女は名を持たないのだと・・・・
(そう思えばいいの?)
どちらも本当の事かもしれない。けれどその可能性は逆にそのどちらもが偽りである事も暗に指し示していた。
真実は何処に行ってしまったのだろうか。戻ってくるのだろうか。
・・・・それともこれは夢か、幻?
そう考えた少年の心を見透かすように女は屈み込んで、二本の角を持つ少年の頭をそっと撫でる。慣れた仕草に見えた。
確かな感触。
それは一見少年に、この場所は今も動き続けているしこれからも変わらない―――現実である、という事実を伝えるものであったが、
(、つめたい)
変わり果ててしまった此処に似て。
「生」の欠落。
「だれなの?」
予期せず口を衝いて出た、繰り言。教えられた言葉はただそれだけ、そんな風に。
「・・・そんなことは然して重要ではないのよん」
今度は聞き流す事なく、はっきりと女の容良い口唇は紡ぐ。けれどそれすらも答えとは呼べぬ代物だった。そのくせ、消し去れない真性。
「大事なのは、あなたが此処にいてわらわも此処にいる、その事実。違うかしらん?」
違わない。それは事実。そのことだけは幼い少年にも理解できた。ほんとうのことだ、と。
このひとが語るのは真実・・・?
自分が何故部屋を飛び出してしまったのか、その理由はこのひとが知っているような気がして。
「・・・何でも知ってる?」
「ええ。知りたいことがあるなら、わらわに聞けばいいわん。・・・・その総てには答えてあげられないけど」
それはたとえば彼女の名であるのだろう。
少年は自身と彼女の周りに広がる空間について問う。
「ここはどうしてこんなに静かなの?」
誰もいないの、とは。言わない。彼女がいる。今は。
少年が見つめる女は、その質疑を予想していたようにさらりと応答した。
「みんないなくなってしまったから」
「いなくなった?」
「そう」
何処か暈した言い方だった。
「どこに行っちゃったの?」
不思議そうに問う、自身の中に刻まれた穢れにまだ気付かないでいる少年に、女は優しく答える。
「すごく遠い処」
刹那、女の目が殺戮の色に染まったことに少年は気付かなかった。ただ、その「遠い処」から流れてくるものに怯えた。
それ以上は何も言えなかった。
――――言えば何か変わっただろうか?




「今日はもうお帰り」
少年の肩に手を掛けて女は言う。
「お父さまが心配するわよん」
その女の真意を少年は掴み損ねた。或いはそのまま素直に呑み込むことが出来なかった。
女は立ち上がる。同時に視点だけでなく総てが遠のいてしまったように少年は感じた。
その殆どが安堵であったが、密やかに含まれる寂しさも紛れ込んで棲んでいた。
「お父さまのこと、知ってるの?」
「ええ」
それから暫し考え込んでから、
「じゃあ、お父さまの様子が、最近おかしいのも?」
口にした言葉にも、
「勿論よん」
当然だと。
――――間違いなくこの女は何もかもを知っているのだ。
「教えて。
 ・・・・理由を」
抗いようのない引力に引き摺られ無意識のうちに、望むことはかたちになった。
一番、知りたかったこと。
(僕の知らない処で、何かが起きてるんだ・・・)
怯えている。いつも自分を守り育ててくれた父が。
とてつもなく不吉な標(しるし)に。
その正体は解らないが、少年は少年なりの感覚で危機感を感じていた。
以前よりも少年は彼の部屋から出る機会が少なくなった。彼の父は彼を残してどこかに出掛けていくことが増えた。
歯車が狂い始めた。
今までうまく行っていたことが突然、我を忘れて衰えだした。急速な速さで。
「教えて」
瞬間、縋る少年の瞳に映ったものは、
「あなたの所為」
氷点下の微笑。この世のモノとは思えない美しさと残酷さの共存の証を生む。
絶望に足を掴まれた少年の心に気付いて、尚も。だからこそ。
「あなたの存在の所為」
繰り返される答え。傷に傷を重ねる、ただそれだけの為に。



「お前なんて生まれてこなければよかったのにね」

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「楊ゼン!」
悠久の回廊に唯一人立ち尽くす我が子の姿を捕え、彼の父・通天教主は足早に駆け寄る。
「何故、こんな処に・・・・」
事態が掴めない。繋がりが見えてこない。
言い付けを守らなかった楊ゼンに正体の解らない靄の掛かった、穏やかならざるものを感じ取る。
そして見る。
――――感情の凍り付いた眼を。
その少年はそれ以外の何者でもなかった。
通天教主の表情を支配するものが驚愕へと変わる。それと、絶望に限りなく近い何か。
「一体、何が・・・」
言った矢先に、その眼光には病が伝染る。恐れと言う名の・・・・・
その男はその場に崩れ落ちる。
この場所に残されていたもの、それは彼の子だけではなかった。
精神を侵蝕する、
「・・・・妲己」
残り香。彼女の存在を示す。
空間一体を包み込む如く広がっているのは、麻薬のような疑似快楽への誘いの手。
「おとうさま」
目の前で身じろぎ一つしなかった少年が口を開いたのがその時。
「・・・いなければ、よかったんだね」
「何・・・・?」
「ぼくがうまれてこなければよかったんだね」


そうすれば父が苦しむこともなかった。自己否定。存在価値の消失。
―――――不吉な標の正体は、僕だったの?




ねぇ、そうやってヒトは壊れていくの。
何かを愛して、何かに怯えて、壊れていくの。

けれど。


「・・・違う!」

   深い深い闇の底

「お前はいていいんだ」

   其処にも届く光があること

「お前がいること・・・お前を守ること・・・・
 それこそが、私の生きる意味なのだから」

   忘れなければ、生きていける。

「たとえそれが苦しみであったとしても」

   信じていれば、生きていける。

「・・・・・お前がいてくれてよかった」

   生きていけるのよ?

―――――そしてその光を奪うのが私たちの役目。

ごめんなさいね?

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

僕の身体をきつくきつく抱きしめてお父さまはそう言った。
泣いていたのかもしれない。


みんな。



そのまま僕は深い眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

窓の外には欠けた月が息を潜めてひっそりと其処に在った。その僅かの光りを浴びていると思い出す昔がある。
あの頃は光が少なくて。たった一筋の光で。それ故に易く翳に遮られてしまっていたように思う。
その光を感じることはもうなくなってしまったけれど。
(死にたい、なんてもう思わないよ)
この地に溢れかえる光が、今は自分を守っている。そして自分もその中のひとつなのだと。
忘れはしない。信じている。


『お前なんて生まれてこなければよかったのにね』


忘れはしない。
けれどそれが誰だったか、ずっと思い出せずにいた。
その言葉だけが反芻されて、他には何も覚えていなかった。
……その女。
今なら解る。記憶はなくとも。

「あなただったんですね」

そっと呟いて。
その声は誰にも届かずに空を切って舞い戻ってくる。
――――胸に刺さる。
だからこそ、辿り着かなければならない。
たとえこの手で殺めることは叶わなくとも。



道程で怖れることならある。
失うことと、奪うこと。そのどちらもが怖いと。

最期に怖れるものは、ただひとつ。
あの女が怖いと、
そう思う自分自身。

立ち尽くす世界の端から2番目。


今もまだ在り続ける痛みを抱いて、引き換えに手に入れた多くの光に包まれて。
(あなたを怖れて、憎んで)
忘れられずに。
――――何処まで行ける?



透き通る夢、眠れずに。
朝が来たならさよならを言おう。
だけどもしその時涙が流れたなら、僕はきっと此処にはいない。

 

 

 

 

 

《目を閉じて、
・・・おやすみ》

 

 

 

 

 















*小さな声で*

珍しいもの大好きです。
・・・いや、言い訳じゃなくて(笑)。

楊ゼンと妲己。この取り合わせって結構好き。
というか、私が好きなキャラ同志の場合は大抵好き(全てといわない辺り・・・)。
しかし草子さんの「白い手」とネタが被ってるような(汗)。
そういうわけでこの作品は草子さん個人に贈らせて頂きます。版権もろともお受け取り下さい。
あ、途中の通天教主の科白は玉鼎のものでもあると思っていただければ幸いです。ええ、とても。だから「私たち」なんですよ。王天君含んでるの。

実はあちこちに謎が残ってますがどうしようもありません。これが私の性ですから。
真実に囚われないこと、仮想世界を広げること。
そうすることで少しでも多くの人に思考を巡らせて頂ければ目的は果たされたと。
そう言えるでしょう。
矛盾点に関してはようするにあれです、私個人の趣味によりアレンジ(いいのかよ?)。

一応言っておきますけど。楊ゼン→妲己、というわけではないです、はい。
書き方がややまずいですよね、これ(苦笑)。うわははははは(←殴)。

オヤスミオヤスミさあ眠ろう。
さあ逃げよう(ヲイ)。






またまた精神的で繊細な世界を作っててステキです。
私が思うに、「生まれてきちゃいけない人」なんてこの世にはいないと思います。
だって自分のせいじゃないもの。生まれてきたのは。子作りをした親のせい(またそーゆーことを・・・)
妲己ちゃん、かっこよすぎ! 「・・・ごめんなさいね?」のトコロ、もうかっこよさに震えちゃいます。
もう、どんどん奪って下さい! さあさあ! って感じ(涙) ああ、ステキすぎいいいいい・・・・
楊ゼン君と妲己ちゃんの関係がまた良いです。楊ゼンの気持ちの描写が、とても豊かですごいですよね。
いや、私のへたれた文章なんぞと、全然かぶってないですってば! (草子)




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