月と女の子







「あんまり甲斐性があるタイプには見えないわね」
「あら、そんなことないわよ。強くなるわ、あの人は」
「それにきっと思い込みが強くて回り道するタイプ」
「そうね。でも、回り道したって目標にたどり着けるならいいのよ。道を誤っても私がいるしね」
「じゃあ根本的な質問。どうして結婚なんてするの?」

金の髪の仙女は青い露のような目を細めて笑った。

「絶対に負けないためよ」


・・・それは少しだけ昔のこと。





* * * * * 





対峙する二人と二人の間に風が吹いたとき、喜媚の幼い口元からクスリと笑みが漏れた。
ふわっと、一瞬だけゆるく広がった髪を片手で押さえ、王貴人も肩をすくめるようにして微笑む。
二人の仙女の向こうには、遠すぎてはっきりとは映らない稜線が明るい色彩で横たわる。
空の色が薄い。空気が乾きすぎている。声がかすれ、風もかすれる。
妲己の命を伝えにやって来て、なかなか去ろうとはしないその妹達にいらだちながらも、蘭英は「今日は洗濯日和だわ」などと頭の片隅で考えていた。(後で旦那にやらせよう)
一方、背を向けたままの張奎の様子を伺いながら、貴人と喜媚もその日のおやつのことについて考えていた。(やっぱり「タピオカ入りココナッツアイスクリームナタデココ添え」で決まりよね)
微妙でいて伸び切った緊張感。先に動いたのは、気が短い二人の姉妹。
「いいこと思いついた☆」
「喜媚姉さま、やっちゃって下さいな!」
「えいっ!☆」
あまり警戒心も抱かずに二人の様子を見ていた蘭英の不動のまゆ毛が、しかし次の瞬間ぴくりと上がった。内心舌打ちをする。(うっわ・・・逆鱗)
「張奎・・・・・」
言ったのは喜媚。しかしそれは喜媚であって喜媚でない。
バサリと音をたてて深い藍色の上着の裾がゆれ、同じ色のその目の瞳孔が不自然に大きく広がり、一瞬浮かんだ嘲笑うような表情がぱっと弾けて消える。残るのは彼の人そのものの厳しい眼差し。
高くもなく低くもないその声が、もう一度名を呼ぶ。
「張奎・・・・」
その声に答えるように、凍るような無表情で張奎が振り返った。
届きそうに近くにいる、聞仲に変化してこちらへと手を伸ばす喜媚の姿。
顎を反らせた張奎の髪が風になびいてさらさらと音をたてた。聞仲の姿がゆっくりと微笑む。
「張奎。こちらに・・・」
「うるさいんだよ!!」
言った瞬間、城壁の岩壁が破裂音をたて、飛び散った。
岩の塊が蛇のように堅いその身をくねらせて、突き刺さる槍となり喜媚に向かって宙を走る。
クスクスと笑うばかりでよけようともしない貴人と喜媚の前に蘭英が手を広げて立ちふさがった。
「駄目よ。あなた」
「蘭英っ?」
岩の爪が蘭英の白い頬をかすめ、その身を貫こうとする寸でのところで、止まった。
張奎が荒く息をつく。
「なぜ、止める」
「私が言いたいのは、今この子たちと戦う時かどうかってことよ」
「・・・・戦うべき時、なんてものはもうとっくに過ぎてるんだよっ・・・」
もうあの人はかえらないから。どんなに悔やんでも、今から誰と戦っても。
「あら、どうして?」
わざと知らないふりをして蘭英が首をかしげる。傷口に血がにじみ、頬をつたった。
その血から目をそらすように、張奎がまた背をむける。
「太公望は殺す。武王も殺す。お前達はその次に」



「あーあ・・・いっちゃった。つまんないりっ☆ せっかく喜媚、こんなオヂチャンに化けたのにっ」
姿を消した張奎に、変化を解いた喜媚が唇をとがらす。一方貴人は満足そうに笑った。
「でも白熱の夫婦バトルが見れましたわね」
「それはよかった」
そう答えたのは一人残った蘭英。傷口から流れる血を布でおさえて、少し疲れた顔で二人を見上げる。
「気が済んだなら、あなたたちはもう消えなさい」
「・・・痛そう。それ・・・。張奎ちゃんは、暴力夫☆」
「下手に大人ぶってるより、あれぐらいのがかわいいのよ」
「なんであんな人と結婚したの?」
貴人の問いに、蘭英は一瞬目を大きく開いた。急におかしくなって笑いだした。
そういえば、昔も聞かれたことがあった。
その時の話相手が誰だったかは思い出せない。でも自分の答えははっきりとおぼえてる。
あの時とまるで同じ気持ち、同じ言葉で、蘭英は答える。
「絶対に負けないためよ」
「はあ? じゃあもっと強い人と結婚すればよかったのに。ちょっと性格難ありだけど、聞仲とか。濃い同士でぴったりじゃない!」
何げに失礼な貴人を蘭英は大人の余裕で無視。
「そういう強さのことを言っているんじゃないの。どんなことにも『負けない』強さ」
「どんなことにも?」
「悲しいこと。つらいこと。寂しいこと。私たちが自分を守るべき本当の敵は、たとえばそんなことじゃない? 敵は、どこにでもいるのよ。世界の全てに。そして自分の中に」
気付くと世界は悲しいことばかり。
人の心が、人と人のつながりが、穏やかで安らかなまま時が流れるなら、一人きりでも大丈夫。
でも誰も憎しみ合うことや争うこと、失うことから自由にはなれない。そんな私たちの存在の不自由さ。
だから人間はね、自分をつなぎとめてくれる誰かを探そうとして恋をする。
「この不安定で脆い世界の全てに、弱い私に、私は絶対に負けないように、あの人といるの。あの人といるかぎり、私は無敵なのよ」
「そんなの、綺麗事。二人でいれば負けない、なんて。たんなる思い込みじゃない」
「だってそうなんだもの。思い込みでも何でも、あの人といれば私はいつも幸せだと思えるの。私たちはみんな幸せになるために生きてるんでしょ?」
「それも綺麗事」
「あら。綺麗なことはいいことよ」
「うーん・・・そう言われてみると・・・」
妙に納得顔の喜媚と貴人に、蘭英は、夫に干すのを頼み忘れた洗濯物のことも忘れ、不思議なほど穏やかな気持ちでいた。
なぜか憎めない。どんなに離れた場所に立っていたとしても、私達はきっと同じ心を持っている。
砂ぼこりを舞い上げる風に細めた目で、二人の顔を眺めた。
お人形のように綺麗な顔。そして小動物のように純粋な瞳。
「何でそんなことを私たちに話すの? のろけ?」
「あなたたちが女の子だからよ。きっとね」
「喜媚ね。よくわかんないけど、わかんないんだけどね」
喜媚が小さな両手を握りしめて言った。
「妲己姉さまが大好きなの。三人でいると、幸せなの。そしてね、三人でいるかぎり、何が起こっても、世界がどんなことになっても、喜媚はずっとずっとしあわせなんだって思うの。
たとえばそういうこと? 『絶対に負けない』って」
そっと自分の体を抱きしめて、蘭英は綺麗に綺麗に微笑んだ。
「そうね。きっとそう」






* * * *


ねえ、知ってる?
男の子はね、がんばってがんばって、強くなろうとするの。

でもね、女の子は生まれたそのときから、
何が一番この世界で大切なのかを、当たり前のことのように知っているのよ


* * * *









「何が一番大切なのかを・・・・当たり前のように・・・」
ぶつぶつと一人つぶやく蘭英のほうへ張奎が体を向けた。
「何それ」
「おまじないみたいなものよ」
迷いそうになった時、自分に言い聞かせる呪文。
月がまぶしいほど明るい夜だった。張奎と蘭英は、大きな寝台に仲良く並んで寝ている。
「昼間さ、あの二人と何か話した?」
「話したけど、秘密。女の秘密なの」
「ふーん・・・・」
蘭英の髪が月の銀色を透かして溶けるように光っていた。
張奎は胸元に込み上げる気持ちが一体何かわからず、ただそれを見ていた。
ずっとずっと言葉が出ない。大切なことほど、口に出そうとするとすいと身をかわすように見えなくなって、咽がつまる。
抑え難い激情がたまにあふれ出すけれど、それ以外、あまりにも大きなものを失った自分の中には、語るほどのものは何も残っていないような気もした。
「静かだね」
「うん」
蘭英が小さく息をついた。溜め息にならないよう、そっと。
どんな強いことだって、自分には言えるのだろう。
でも夜はあまりに静かで、様々な音が聞こえすぎる。
この国が壊れていく音。誰よりも愛しい人が、行く先を見失い苦しむ声。
本当は苦しかったし、悲しかった。どうしていいのかわからず、たまらなく不安にも思った。
月の光が格子模様に影を描く高い天井を祈るように蘭英は見つめる。
心に誓って、揺るぎない本当の真実だと信じてやまないことを手にしても、それでも現実から目を閉じてしまいたい時はある。
「蘭英」
布団の中で、張奎の指先が蘭英の指にふれた。
少しだけ大きい張奎の手が、少しだけ小さい蘭英の手をそっと包んだ。
「蘭英。ごめん・・・・・」
「昼間のこと?」
「それもあるけど・・・・」
触れ合う手の温度に少し泣きたくなって、やっぱり蘭英は天井ばかりをじっと見つめ続けた。
張奎もどんな顔をしていいのかわからないまま、天井を見つめる。
「いろいろ。ごめん」
弱い自分が、迷う自分が、そんな自分を知っていながら激情のまま走り続けることしかできない自分が、今はとても心もとなくて。
どうすることもできないから、せめて手を握った。
「・・・ごめん」
「うん」
ぎゅっと力をこめて蘭英は張奎の手を握り返した。
「ねえ、あなた」
つないだ手が熱くて、大きく大きく息をすった。
少し震えた、やさしい声で言った。
「よく、女は群れたがるって言うじゃない? あれは正解よね。群れて正解なのよね」
「そう?」
「何が一番この世界で大切なのかを知ってる、ってことは、つまりそういうことなのよ」
「ああ。さっきのおまじないの文句だったっけ、それ」
「おまじないじゃないわ。この世の真理よ。私の見つけたね」

・・・・・・ああ、私には、この人がいるものね。

話しながら、何度も何度もそう思った。
何か悲しいことを考えても、そう繰り返せばいつも、いつも泣きたいぐらいに安堵する。
(一人じゃなくって本当によかった。あなたがいてくれて本当によかった)
大切な人と共にいるならば、不安は永遠に続く苦しみではないね。
そのことを何よりも一番に女の子は知っていて、一人で強くなるよりも、大好きな誰かと一緒に生きることを選ぶのだ。
悲しいこの世界に『絶対に負けないために』。

今日、乾いた風の中で、子供のような目をした仙女達と話したことを宝物のように自分の心で繰り返す。

「私達、絶対絶対勝ちましょうね。そのために一緒にいるんだから」
そんなことを言いだした蘭英に一瞬驚いたように黙って、張奎が答えた。
「そうだね」
蘭英は頭を傾けて、張奎の横顔越しに、丸い月を見た。


―――三人でいるかぎり、何が起こっても、世界がどんなことになっても、
   喜媚はずっとずっとしあわせなんだって思うの。


(私もそう思うわ)
声には出さず、張奎の手をぎゅっと握って、ただ月に向かってそう伝えた。















◎あとがき◎
この回のジャンプ、手元にないんですよー・・・・。話おぼえてないし。
貴人ちゃんとキビちゃんが登場した後、本編のほうではすぐ戦闘に入ってたのかな?
張奎の一人称もわかんない。鳥煙のしゃべり方もわかんなくって出したかったけど出せなかった。

「愛って素晴らしいわね」ただそれだけのお話。
まあいいや。
私は「愛は地球を救う」と思います(笑)


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