エストニア・タリン合唱祭



 NHKの『地球に乾杯』でバルト海沿岸の小さな国・エストニアの音楽祭を扱っていました。
 エストニアはバルト3国では最も北に位置し、フィンランド湾を挟んで北にあるフィンランドと同じ系統の民族・エストニア人が主な民族です。

 中世にドイツ騎士団領になり、ルター派新教を受け入れるなどドイツ文化の影響が強かったバルト諸国は、合唱が国の文化として根付いており、どの国でも大規模な合唱祭があります。
 人口150万人ほどのエストニアの首都タリン(Tallinn)で1999年に催された合唱祭には、
合唱団員2万人、聴衆10万人以上、合わせて12万人強が参加したといいます。人口比を日本に置き換えると・・・合唱団員(人口の1.3%)は160万人、聴衆(6.7%)は約840万人、どこにも入りません(^◇^;;(爆)
 100年以上前から5年に一回催されるこの合唱祭に向けて、2年前に課題曲が発表され、全国各地でレッスンです。合唱祭の折には首都タリンの学校などが全国から馳せ参じる合唱団員の宿舎として開放され、炊き出しが用意されます。開会式で大統領が記念演説をするこの合唱祭は、文字どおり国をあげての祭典なのです。

 この合唱祭につきものの曲『我が祖国 我が愛』は、エストニアの第二の国歌とも言うべき歌です。
 1945年にソ連に併合されて以来、この曲は当局によって演奏が禁止され、この曲の作曲者は合唱祭を含む公の活動が阻まれていました(*)。ところが、
1960年の合唱祭で、4万とも6万とも言われる聴衆から自然にこの曲の合唱が湧き起こったのです。6万人は人口の4%、25人に1人です。泣く子も黙る秘密警察も頭を抱えたことでしょう、「いくら禁止されてる歌を歌ったとはいえ、そんなに大勢の国民を逮捕はできない」と。同時に、きっと震え上がったことでしょう-----どんな恐怖政治を以ってしても、この国民から歌を取り上げることはできないし、歌の背景にある独立への願いを押し潰すことは出来ないのだ、と。
 ともかくも、この合唱祭を契機に『我が祖国我が愛』は再び演奏を認められました。ソ連からの独立を勝ち取るより遥か昔にエストニアの国民が勝ち取ったひとつの、しかし偉大な自由でした。

 *しかし、作曲者Gustav Ernesaksが旧ソ連時代のエストニア国歌の作曲者であること、自選歌集(エストニア音楽協会、1991)の解説文は(1)Ernesaksは永年エストニア国立アカデミー男声合唱団を指導してきた(2)『我が祖国 我が愛』は1944年にモスクワで作曲された、と述べていること、等々を併せ考えると、曲の運命はともかく、Ernesaksがまったく旧ソ連時代に活動できなかったとするのは事実に反するようです。

 それから約四半世紀、エストニアを含むバルト三国のソ連からの独立運動は、エストニアではlaulev revolutsioon、“歌う革命”と呼ばれました。特殊部隊や戦車を繰り出すモスクワ政府に対し、民衆は暴力ではなく歌とスクラムで立ち向かいました。
 旧ソ連時代に亡命してアメリカに移住していたエストニア人も、1999年の合唱祭に3桁の合唱団員を本国に送り出し、肉親達との半世紀ぶりの再開を果たしました。祖国を襲った運命に翻弄されつつも祖国を思い続けた彼等を象徴する曲『巣箱の方へ飛んで行く』-----エストニア人をミツバチ、祖国をミツバチの巣箱になぞらえ、エストニア人の愛国心を歌い上げた曲です-----も、この合唱祭で歌われました。

 エストニア人にとって、合唱とは民族のよりどころ、アイデンティティそのものなのです。

 確かに日本はエストニアと比べて合唱の歴史が浅く、国民に合唱が根ざしている度合いもエストニアに遠く及びません。
 ですが、
歌に思いを込め、その思いを人々に伝えることはできます。それを明確に打ち出しているからこそ、私はうたごえ運動に魅力を感じ、その一員として歌い続けているのです。


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