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<疑うチカラ、信じるチカラ>


前回と前々回で学校の無力さを書いていたわけですが、これからの社会を
踏まえて、学校で教えるべき重大な内容が一つあると私は考えています。

それは、「信じるチカラ」です。

別に道徳や愛を語るつもりはありませんよ。
「信じるチカラ」は、「疑うチカラ」の次に来るものです。

我々も含め、現代日本的な教育を受けてきた人間は、「疑うチカラ」を一
生懸命伸ばしてきました。
「疑うチカラ」はたとえば、欠点を見つける能力、批判をする能力、改善
をする能力、です。
批判精神であり、現状を否定をする能力、です。

迷信や盲信、「絶対的なもの」を全力で否定するのがこの20年ほどの流
れだったので、批判精神が鍛えられるのは当然です。
もちろん、この「疑うチカラ」は非常に重要です。

しかし、「疑うチカラ」をどう活用するのかということを学校は教えなか
ったために、「信じるチカラ」を持っていない人間が増えてしまいました。


「疑うチカラ」は、一種のろ過フィルターみたいなものです。
本来は、そのフィルターを通すことによってきれいな水、つまり「信じて
も良いもの」を手に入れるためのものです。
ところが、「疑うチカラ」の活用法をしらない人々は、フィルターにかか
った不純物を見て、「この水は汚れている」「だからこの水は飲めない」
と思い込んでしまうのです。

知性や教養、豊富な人生経験はより目が細かく、面積も広いフィルターを
編み上げていきます。
世間の流れをそこに通したとき、自分のフィルターに自信を持ち、通り抜
けてきたものはもう大丈夫だと思うことができれば、水を飲むことが出来
ます。
この「水を飲むことができる」こと、これが「信じるチカラ」です。

よく出来たフィルターは、それだけたくさんの水をよりきれいにすること
ができます。
豊富できれいな水が、その人の人生をより豊かにしてくれるでしょう。
「信じるチカラ」は、この原動力なのです。

しかし、性能のよいフィルターは、それだけたくさんの不純物やゴミを引
っ掛けます。
荒くて小さなフィルターよりも、ずっと多くの汚れを見てしまうわけです。
それを見て「こんなに水が汚れている」「とても全部の汚れを取り除くこ
となんてできない」と思い込んでしまうと、もはやどんな水も飲めなくな
ります。

知性や教養を鍛えるほどに、世の中の「問題」はたくさん目に付くように
なります。
真剣に努力している人間ほど悩みが深く、大きくなっていくのはこのため
です。

個人が解決できる問題などたかが知れていますから、そのストレスに耐え
かねて、生活や精神状態、人間関係などのどこかが破綻します。
こうなると、作り上げた巨大なフィルターを手放さざるを得ません。

もちろん、それでは世間で生きていくことはできませんから、フィルター
なしで飲める流れ、「清浄の地」を求めていくことになります。
哲学や宗教の方向へ昇華すれば、それはよいのでしょう。
しかし、悪くすればカルトや過激派、内的世界への逃避として表れること
になります。


「複雑な世界」で健康に生きていくためには、よくできたフィルターが欠
かせません。
世界の複雑さをすべて受け止めるキャパシティは、普通の個人が持ちうる
ものではないからです。

そして、同時に、そのフィルターを使って汚い流れからきれいな水を手に
入れる訓練もしなければならないのです。

「信じるチカラ」を身に付けるのは時間のかかることであり、利害の生じ
る人間関係の中ではうまく教えることができない種類のものです。
義務教育が、その役割を担うべきだと思っているのですが、どうでしょう
か。


一生懸命に知性と教養を磨き、感性を身につけてきたはずなのに、正体不
明の絶望や不安感に囚われて身動きできなくなっている人へ。
あなたが見ているものはなんでしょう。
自分の作り上げたフィルターにたまっている「ゴミ」なのかもしれません
よ。
それだけたくさんのゴミを取り除ける自分のフィルターに、自信を持ちま
しょうよ、と。


<塩漬けの未来>

「塩漬け土地」という言葉があります。

これはもともと
『自治体が将来公共施設を作ったり公共事業を実施するための用地を自治
体に代わって、土地開発公社(自治体の出資法人)が銀行から借金して土地
を購入したが、その後自治体が財政逼迫により、その土地を事業化するこ
とができず、5年以上放置されている土地』
としてバブル崩壊以後に問題となった土地を指すもので、後に意味が拡大
していろいろな場面に使われるようになりました。

総じて、バブル期に高値で取得したけれど、賃貸しても売却しても巨額の
損失が出ることが確実なので、帳簿上は取得時のままの価額で計上してあ
るものの、実際には処分することも利用することもままならない不動産の
ことです。

金融機関の側から見れば、塩漬け土地というのは不良債権の担保です。
膨れ上がった時価に応じて無謀な投資を行い、いざ回収しようにも担保の
はずの土地の価値はとっくに吹き飛んでいる。
競売にかけてしまえば大幅な貸し倒れが明らかになってしまうので、返済
が滞っていても強制執行に踏み切るわけにはいかない。
それどころか、相手企業が倒産してしまうとそれまでの無謀な融資も清算
し、特別損失として計上しなければならなくなるので、その企業の財務状
況が極端に悪化しているがゆえに追加融資する、という逆転の状況さえ生
まれていました。

「100万円を返せなければ追い込みをかけられる。100億円を返せなければ、
ふんぞり返っていても金を持ってくる」といった表現さえあったくらいで
す。

金融機関にしろ行政にしろ、担当者はその部署を外れてしまえば過去のこ
とについて責任を追及されることはまれでした。
したがって、自分が担当部署にいるときにさえ破綻しなければ、結果とし
て不良債権がどれだけ膨らもうが、自分の責任にはならない、という発想
が事態をさらに悪化させていたのです。


さて。
「返ってくる見込みのない投資をしてしまったがゆえに、逆に利用も処分
もできない」、それが「塩漬け」という状況なのだという話を書いてきま
した。

土地のほか、株式についても「塩漬け株」といった言い方をするのですが、
私の考えでは、実はこの「塩漬け」現象は、人間にも生じています。
今回は、「塩漬け」になっている人間達の状況と、彼らが生まれてきた経
緯を取り上げてみたいと思います。


▼「塩漬け」の人間達

とは、「返せる見込みのない投資を受けてしまったがゆえに、それを利用
も処分もできない」でいる人間のことです。

一言でいえば、「働けないでいる若者達」です。

「働く能力があり」「働く意志があり」「働く機会がある」のに、働いて
いない若者がたくさんいます。
いったいこれはどういうことなのか?

いろいろな機関や研究者、コンサルタントがそれぞれに分析の結果を示し
ていますが、私にはそれが身近にいる「働けないでいる若者」の像とうま
く合致しないのです。

一般的に言われているのは、以下のような分析でしょうか。

・贅沢に育ち、現状でもバイトや小遣いでそれなりに暮らしていけるから
「やりたくない作業や嫌な思いをしても金を稼がなければならない」と
いう意識が薄い

・働くことの格好のいい部分だけがアピールされるドラマやマンガを見て
育った結果、格好が悪い作業は「本当の『仕事』ではない」と思うよう
になった

・高学歴化が進行し、誰もが高等教育を受けた結果、「自分の学歴や経歴
に見合う地位のある仕事につかなければならない」という見栄やプライ
ドを持つ若者が増えているが、現実にある職業が知的でクリエイティブ
 な方向へスライドしている割合は低い

といったところでしょうか。

いずれの分析も、確かにそういう部分はあるでしょう。
しかし、「どんな仕事でもいいからちゃんと働いて自立したい」と思って
いるにもかかわらず、やはり働けないでいる若者がたくさんいるのです。

一体何が彼らを働けないでいさせているのか。
実は、そこには「塩漬け」の土地や株式と共通の要素があるのではないだ
ろうか、というのが今回の論旨です。


現時点で就職していないことが問題となるのは、主に二十代から三十代の
人々です。
幼い頃からバブル景気のおかげで豊富な教育資金をつぎ込まれ、日常生活
においても潤沢な小遣いを受け取ってまさに「青春を謳歌」してきました。
既婚のサラリーマンの平均的な小遣いが3万円や5万円だったときにも、
アルバイトと小遣いで毎月10万円を自由に使える学生がたくさんいました。

資格をとる、語学を勉強したいから留学する、と親からさらに投資を受け
つづけます。
「〜高校を出た」「〜大学に入った」「パソコンが得意らしい」「駅前の
英会話スクールで…」と、順調に(あるいはどうにか)経歴を積み増して
いきます。

そして、近所でも親戚の間でも家族の中でも、そして自分の中でも「それ
なりに賢くてうまくやっている」という評価ができあがっているわけです。
一世代前ですと大学や大学院に進学する割合はそれほど高くありませんし、
コンピューターやネットを日常的に使う、ということに慣れない人も多い
です。

「自分たちがやっていないことをやっている」というだけで、自分の子ど
もが自分達よりも優れた可能性を持っているような気になってしまうわけ
です。
しかし、現在では大学院も特に選ばなければ進むのは容易ですし、コンピ
ューターや英会話の習得にしても、やる気とある程度の柔軟さがあれば、
数ヶ月でも十分な成果をあげることができます。

学歴、コンピューターのスキルや語学の能力が(幻想だとしても)知性の
証明であった時代は過ぎ、経歴や資格には「今この程度までできている」
という指標以外の価値はないのです。

で、就職活動なり就職した先でどうもうまくいかない、と。
確かに、好景気であればここまでその幻想があからさまに剥ぎ取られるこ
とはなかったでしょうが、一緒に仕事をしてみれば、その人間の器や程度
というのはすぐに知れるものです。

学生や新人なのですから、そこであらためて「自分はまだできていないか
ら、少し背伸びを止めて足場を小さめに固め直そう」という発想に切り替
えられればいいのですが、自分が「それなりに賢くてうまくやっていけ
る」はずだ、という発想から抜け出せないと、また苦しむことになります。

本人は一生懸命張りぼてを作りつづける。
周りの人間は、それは張りぼてだよ、と本人に教えたくて穴をあけたりガ
ワをめくったりする。
本人は、なぜみんなして自分をいじめるんだろう、自分が作っているもの
を壊そうとするんだろう、と悩みながら、その穴やはがれかけたガワをつ
くろいつづける。
本来ならば、骨組みや核に使うべき材料を使って。


結局何が問題の原点かというと、投資(教育)を受けている間に、それが
投資であったことに気づかない、ということです。

人材育成という観点で見た場合、教育を行っている期間というのは一方的
な投資です。

そして、その教育という投資の結果作り上げられた能力を使って、今度は
収益をあげ、投資に対して還元していく。
それがビジネスというか、健全な社会構造としてあるべき姿です。
もちろん、親や教師が子どもに教育を行うような場合、還元される利益は
金銭とは限りません。
「立派な子どもを育てることができた」「苦労させられた教え子が今は活
躍している」という充実感も、ちょっとやそっとの金では手に入らない、
大変に価値のあるものですから。

ところが、目先の成績をあげることや経歴を積み上げることが「目標」に
なってしまうと、この構造が成立しなくなってしまうのです。
本来一方的な投資であるはずの教育が、同時に成績や経歴に対しての「報
酬」という意味合いも含まれてきてしまうため、投資を受けて一人の社会
人になった後、改めて投資に対して還元する、という意識が失われてしま
うのです。

だから、「大学まではいいなりになってきたのだから、もういいでしょう。
後は好きなようにさせてもらうよ」といった発想が生まれてきます。
このような発想は、自分が投資を受けてきたのだという感覚が全くないこ
とを示しています。

それでも、こういう発想を持ち、自分なりに好きなように動いていくなら
ば、本人にその気がなくとも結果として還元していることになる、そうい
う場合が結構あります。
田舎の家を飛び出して都会に出て行く。
苦労しながらもなんとか暮らしていって、何年かたったら結婚の挨拶をし
に実家に顔を見せに来た、そんな80年代風の風景も悪くないでしょう。


一方で、より深刻なのは、投資を受けている最中にはそれが投資であるこ
とに気がついていなかったのに、社会人になるかならないかのタイミング
で「それが投資であったことに気づいて」しまった人々です。

いわゆる中流家庭でのんきに暮らしてきた若者の場合、学校の勉強以外の
ことは何も(本当に何一つ!)考えなくとも、20歳過ぎまで問題なく暮ら
せてしまえます。
就職活動や実際の仕事をし始めて初めて、一生自分が働くということ、生
計を立て、子どもを育てるということの大変さを想像するようになります。

そこでようやく、はた、と気づくわけです。
自分がどれほど多くの投資を受けつづけてきたのかを。
そして、それを親達に還元すること、あるいは同等の投資を自分が子ども
の世代に対してすることの困難さを。

ここで、ちょっとした図々しさや楽観的な性格の持ち主ならば、「もしか
したら還元率はあまりよくないかもしれないが、さしあたり自分にできる
ことをやるしかない」、という割り切りが可能です。

しかし、ちょっとした真面目さや悲観的な性格の持ち主は、自分が還元し、
次の世代に対して投資しなければならないもののあまりの大きさに圧倒さ
れてしまうのです。

親に対する恩義と負い目は紙一重ですから、親に対して申し訳ないと思う
人間がかえって苦しむのは非常に皮肉なことです。


彼らにとって最大の恐怖は、「投資に対して還元できない」という事態が
明らかになることです。
すなわち、自らが”不良債権化”していることの自覚があるのです。

職を選ばなければ就職口はあるのに、そして本人はどんな仕事でも構わな
いと思っているのに就職できない、それはここに問題があるわけです。

普通に「安定した」職業では、将来のビジョンがある程度の幅があるにし
ろ、見えてきます。
そして、自分がつくことのできる「安定した」職業が、「その待遇と社会
的地位では、投資に対する十分な還元ができない」ものであるとき、それ
が明らかになることを恐れるあまり「その仕事につくわけには行かない」
のです。

かくして、その能力を利用も処分もできない人材が、どんどん発生してい
るのです。


もう少し言うならば、ネットバブルもそこに寄与しているはずです。
コンピューター関連の神話的な成功例がいくつか示されたことにより、コ
ンピューターに携わっていれば無限の可能性があるような幻想が生み出さ
れました。

現在の待遇がどれほど悪くとも、あるいはまったく収入のめどが立ってい
なくとも、そして自分自身ではどうしようもなく不安に駆られていても、
周囲に対しては「今はスキルをつけるための修行の時期だから」と言って
いるだけで可能性があるように見せることができるのです。

このような粉飾決算、「飛ばし」行為は長くは続きません。
そして、その間も債務は膨れあがるばかりです。


読者の周囲にも、多くの「塩漬け」の人がいると思います。
その人たちは、投資に対して十分な還元ができないことことがわかったな
らば、できるだけ早く公言すべきです。
周囲の人たちは、その人が思っているほど多くのものを期待しているわけ
ではありません。

「なんでもいいから安定した仕事につきなよ」と言われているとき、それ
は借金を棒引きしてくれているのです。
あなたの借金は、あなたが思っているほど大きくはありません。

「不景気だから」「こんなご時世だから」というエクスキューズが使える
うちに、いったん今までの自分の経歴を捨てる「再生のための破産宣告」
をしなくてはならないのです。。。


最後に。

現在、そして将来親になる人々へ。

教育というのは投資です。
投資というのは、ただひたすらに金やエネルギーをつぎ込めばよいという
ものではありません。
本人が返済できる以上のものを過剰につぎ込めば、将来かえって本人を苦
しめることになります。

それに、投資というのは利益がついて返ってくるのが当然というものでも
ありません。
子どもへの投資に回すよりも、自分たちが有益な使い道を示すことが、そ
れ自体で子どもによりよい影響を与えることもあります。


現在学生、あるいは教育を受けている人々へ。

教育を受けるというのは借金をしているのと同じです。
いくらでもお金を出してくれるから、と与えられるままに受け取ることは
やめましょう。
将来それはどういう形でならば還元することができるのか、その投資を受
けることによって自分は何を実行できるのか。

投資を時には断ることが、自立への第一歩なのだということをお忘れなく。



<自己家畜化、奴隷の基準>

「返せる見込みのない投資を受けてしまったがゆえに、それを利用も処分
もできないでいる人材」のことを、塩漬けの人間達、と書きました。

「なぜ彼らは働けないでいるのか、そして何に苦しんでいるのか」、とい
うことを考えてみたわけです。
で、前回書いたのは分析であったり予防のための心がけであったりするわ
けですが、そもそもその寄って立つ視点に対して疑問をもつ、ということ
もできます。

投資の効果として人間の成長をとらえれば、確かに前回のような計算がい
ろいろと成り立ってきます。
しかし、それは「結果」だけを見ているから成り立つ計算でしかありませ
ん。

今回は、視点そのものを変えてみたいと思います。


最初に、自己家畜化という概念を紹介してみます。

20世紀の始め、資本主義、つまり労働(生産性x時間)を「売買」可能に
する仕組みが一般的になった頃には、すでにこういったことが言われてい
ました。
社会的な生活を送ろうとするのであれば、人間は自分や自分の子孫を「家
畜化」したほうが、間違いなく生きやすいのです。

一般に家畜とは、“人間が飼育し利用する動物”をいいます。

もう少し具体的には、
・性質が温順で、人になれ、人間の生活環境に順応し、容易に繁殖しうる
・人の生活に役立ち、人の改良に応ずる
という特徴があります。
たとえ飼育が可能でも、ライオンやトキのことは家畜と呼ばないですよね。

さて。

性格が温厚素直で、人とうまく交流でき、さまざまな環境に順応でき、異
性との交友にも積極的で、子育てや家庭の運営も上手。
仕事や家事の能力が高く、勉強熱心で他人のアドバイスを上手に生かすこ
とができる。

そんな人間は、一般社会においても歓迎されるでしょう。
あれ、と。

先ほど家畜の特徴としてあげたものと見事に一致していますね。
一般に人材として望まれる姿に近づこうとすればするほど、実はそれは
「家畜」にも近づいているわけです。

「家畜」という言葉には悪いイメージが付きまとうので、どうも違和感を
感じてしまいますが、「人とうまくやっていける」ことが、家畜でも人で
も同じように求められるものであることはなかなか否定できません。


ここで、どうしても自分が「家畜」向きではないと感じている人は、非常
に悩むことになります。

性格が悪い、コミュニケーションが苦手だ、環境の変化に弱い、異性に興
味が湧かない。
仕事が遅い、ミスが多い、家事はへたくそ、勉強は身につかない、etc.

こんな人間は、世の中で求められていないんじゃないか、と。


しかし、改めて考えてみますと、自己家畜化というのは、まさに労働力が
売買されるがゆえに顕著になった傾向です。
そこには、「人間=労働力」という大前提があるのです。

「人間=労働力」だから、望まれる人物像が家畜と似たようなものになっ
てしまう。
これはどういうことなのでしょうか。

確かに、人間は働かなければなりません。
労働の義務、といったことをわざわざ持ち出さなくとも、動物は食住を確
保するために様々な活動をしないわけにはいきません。
しかし、あくまでもそれは人格の中の一つの要素でしかありません。
労働力であることがその人間の全てであるとしたら、それは奴隷です。

労働力としての基準でその人間の人格全てを計ろうとするのは、まさに
「奴隷の基準」なのです。

自分がたまたま労働力としてうまく機能していないとしても、だからとい
って「自分が人間としてダメだ」と思い込むのは、この「奴隷の基準」に
囚われているのではないでしょうか。

どんな人間であれ、「その人が生きている」というだけで「ヒトの多様性
を増す」という生物として最も重要な貢献をしているのです。
ことさらに自らの生命力を削って、ヒトとしての多様性を減らすよう「頑
張る」ことなどありませんよ、と。





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