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 ”インフォームド”な合意





<インフォームド・コンセント小考>

「インフォームドコンセントとは」、なんて説明は検索でもかければ立派
なサイトがいくらでもかかってくると思うので省略します。

軽く触れておくと、患者に医療の知識があまりないことを前提として、そ
れでも理解できる方法や言葉で十分な説明をし、その後に行われる医療機
関側と患者の間の合意のことを言います。

で、こういう抽象的な言い方ならば確かにすっきりとまとめることができ
るのですが、実際に個々の事例にこの方針をあてはめようとすると、医師
側が何を為すべきか、患者側が何を求めるべきかを見定めることすらなか
なか難しいのです。

私や家族が最近迫られた一つの選択は、苦痛の緩和と器官の外部化に関す
る問題でした。
病院側の人間関係の問題も絡んで、私たちのテンションを大いに下げるこ
とになったできごとでもあります。
今回は、これを具体例としてあげてみたいと思います。


状況を簡単に説明しますと、下腹部、骨盤内に腫瘍の塊がたくさん散らば
っており、それが腸を圧迫して腸閉塞を起こしかけていました。
で、閉塞を解消するために、管を広げるステントという器具を入れていた
のです。

これで一応閉塞は解消されたものの、この器具は長期間に渡って腸内に残
置させるように作られているものではなく、だんだん最初の位置からずれ
たり、周囲の組織と擦れたりしてひどい痛みを引き起こすようになりまし
た。

それ以前からモルヒネの類を使った疼痛管理に入っていたものの、ここで
引き起こされる痛みはまた経路が異なるのか、従来の量の鎮痛剤では痛み
を抑えられない、という事態に直面したのです。

で、普段担当医となっている内科の医師は、局所的な痛みを抑えるために
全身に対する鎮痛剤の量を増やすのはうまい方策ではないという考えでし
た。
そこで、徐々に鎮痛剤の滴量を増やしつつ、様子を見るという方針をとっ
ていたのです。

結果として、本人は痛みをこらえる日々が続いていましたのですが、滴量
が増えてもやはり痛みはひどく、眠れない日が続いて肉体的にも精神的に
も消耗してきました。
しかし、内科の医師は方針を変えようとはしません。
悪い意味で頑固と言うわけではないのですが、その辺りの事情はまた後ほ
ど書きます。

このままでいいのだろうかというところで、以前に手術を執刀した外科医
の診察を受けることになりました。
セカンド・オピニオンということも言いますし、別な医師に診てもらうの
もいいのでは、と思っていたのですが、これが意外な方向で事態を混乱さ
せることになっていきます。

この外科医は、「この器具は本来二週間ほどで取り出すべきものであって、
こんな風に数ヶ月も入れっ放しにしておくものではない」ということを明
確に述べ、「速やかに取り出すべきだ」と患者本人に対して主張しました。
つまり、内科医の方針とは明らかに異なるのです。

患者本人としては、何はともあれ目の前の痛みをなんとかしてもらわない
とろくに眠ることもできないのですから、とにかくそれを最優先にしてほ
しいところです。

「器具を取り出したからといって間違いなく痛みが消えると保証できるわ
けではないが、鎮痛剤で痛みが抑えられない以上、他に取りうる選択肢は
ない」という外科医の主張に正面から反論する要素はありません。

では取り出す方向で、と治療方針の転換に同意したところまではよかった
のですが、実際にはその意味というか、「取り出す」ためにどのような施
術が必要かという説明を本人は事前に確認していなかったのです。

我々周囲の人間は、数ヶ月前から「対症療法をどの程度行うのか、家族で
決めておいてくれ」というような話をされていました。

対症療法、つまり臓器を外部化して人工の機器に頼るようになれば、器官
の機能不全をカバーすることはできますが、生活のクオリティは低下して
行きます。
対症療法は、行えば行うほど身体から伸びるチューブや点滴、電源ケーブ
ルが増える一方だからです。

しかし、そういうことを考えなければならない状況なのだということを、
本人にはっきりと告げることのできないまま、今まできてしまっていたの
です。

「では取り出す方向で」という方針に同意はしたものの、そのために全身
麻酔を行ってステントを摘出、同時に後の腸閉塞に備えて腸の中間部から
チューブを伸ばし、下わき腹に人工肛門を取り付けるという手術の内容を
聞かされたときには、「そんな大事だとは思わなかった」と本人も言って
いました。


確かに手術を取りやめるのは患者の自由です。

しかし、「痛みを取るにはこれくらいしか方法はないですよ」と言われな
がら手術を中止するという決断は、ある意味で自死に近しいものがありま
す。

内科医の優柔不断は、一種の諦めからくるものであったわけです。
基本的に、生活のクオリティを保ちつつ寿命を延ばすことはもはや不可能
だと思っている。
だから、あとは切ったり開いたりといった身体への侵襲をできるだけ控え、
ゆっくりと最期を迎えようという方針の反映が、先に述べた様子見の態度
だったわけです。

しかし、外科医の方では部分的な問題の解決可能性を示してしまったわけ
です。
とりあえずその痛みに限れば、対処方法がないわけではないですよ、と。


その後この外科医と内科医は表立って対立するようになり、手術の日程が
決まってもなお、一週間前までそれぞれが「私が担当します」と言っては
ばからないという事態が繰り広げられました。

その二人の医師の間でどのようなやりとりがあったのかはわかりませんが、
執刀医は外科医ということに決まったようです。

そして、現在本人は内科病棟から外科病棟に移り、明日の手術を待ってい
る状態です。


一体本人は、あるいは私は、何を知ろうとするべきだったのか? 何を求
めれば納得のいく治療を受けている満足感を得られたのか。

それすらもわからない、闘病生活なのでした。




<”納得診療”>

インフォームド、つまり”適切な情報が与えられた状態”で自分で治療方
針を判断し、医療機関との間に合意を設定するということと、”納得し
て”診療を受けること。
言い換えの段階でややイメージが変わってきそうです。

通常の場合、つまりその時点での症状及び原因が把握できており、治療が
可能であるならば、両者にはそれほど差はありません。

例えば、まず「あなたの症状はAというウイルスによるもので、Bという
器官がCという状態になっているために怒っているのです」といったよう
な形で、コンテンツとしてのテクニカルな情報やデータ類を提示します。

次に、治療方針としてありうる選択肢が複数あるならば、それを提示しま
す。
「2週間ほどの入院が可能であれば、Dという薬剤のみで治療ができます。
入院が困難であれば、日常生活をしながら服用可能なEという薬剤を用い
ますが、その場合通院期間は1、2ヶ月になるでしょう」といった感じで
す。

この二つ目のステップで、現時点での症状やその病原が文脈の中で位置付
けられます。
簡単に言えば、重い病気なのか、軽い病気なのか。
患者にとっては、これを知らなければ治療方針の判断がつきません。
行動を決定しうる要素なので、コンテクストとしての情報といえます。
治療内容について患者の知識が不足している場合、このコンテクストとし
ての情報が非常に重要になります。

もちろん、医師にも個性はありますし、患者にも個性があります。
両者の人間関係もいろいろですし、それに従って提供されるコンテンツや
コンテクストは編集されるでしょうが、”インフォームド”と呼べる状態
にはこれらの二つの要素があると考えられます。

インフォームド・コンセントでは、この二段階の情報提示を受けて、患者
が自発的に治療方針を選択し、医療機関と合意する、という手続きが想定
されているのです。


ですが、実際に治療の方針を決めるに当たっては、もう一段階のステップ
が必要になります。
先ほどの例では、治療方針として二つの選択肢があげられています。
入院か、通院か。
好きな方で構いませんよ、と言われても、患者は困惑するでしょう。

ここで、医師によるコンサルテーションというステップが入ってくるので
す。
”コンサルテーション”というカタカナ語にも直接置換可能な日本語の単
語がありませんが、例えば経営コンサルタントのコンサルです。
(これで説明になっているでしょうか?)

「私としては入院をお勧めしますがね」

こういう一言も、このコンサルテーションに当たります。
コンサルテーションは、コンテンツやコンテクストから導き出される結論
を伝えるものですが、そこには医師の主観なり判断が濃厚に入り込んでき
ます。

もちろん、建前上は患者にとって最大の利益があるように、ということに
なりますが、患者にとって大差がない場合、あとは自分にとって最大の利
益になるように行動するのもビジネスとして当然ということになります。

そして、少なくとも日本の大半の患者は、この”コンサルテーション”が
なければ診療方針など決めることができないのです。

この段階で、インフォームドコンセントの難しさが分かってくるのではな
いでしょうか。
適切な情報があったとしても、決定的な選択肢があるわけではない場合、
結局のところ医師の提案する方針がほぼそのまま実行されるのです。


で、表記の「納得診療」という話になります。
仮にこれを”納得した上で診療を受ける”という概念だとした場合、イン
フォームドコンセントは極めて日本的なアレンジが加えられることになり
ます。

つまり、説明の段階で「この医師にまかせても大丈夫かどうか」を患者は
判断し、このセンセイならと”納得して”、「あとはおまかせします」と
いう合意を行う、そういった手続きに変容するのです。

だとしたら、患者の実行しうる実質的な権利はせいぜい「このセンセイは
信用ならないから別な先生がいい」という程度のものでしかないわけで。

”納得診療”という概念、医師のプレゼンテーション能力だけが取り上げ
られることになったりしないでしょうか。

カルトの信者は教祖に何をされてもそれは”納得”済みでしょうし。




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