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 教育の話


<知らぬがエデン>


ボノボと呼ばれる類人猿の特集をNHKでやっていたので、その番組の印象
などを少し。

ボノボが本格的に研究されるようになったのは1970年代で、現在でも一
般的にはあまり知られていない名前ではないでしょうか?

ヒトに近い類人猿としてはまず浮かぶのはチンパンジーですが、ボノボはチ
ンバンジー以上にヒトに近いいくつかの特徴を備えています。

直立歩行に適した足の構造により、比較的長い時間、安定して二本足で歩け
ること、学習能力や認識能力が高く、人間ともかなりの範囲で意思の疎通が
はかれること、などは特に目立っています。

何年かの訓練(と言うよりは限りなく「教育」に近いのですが)によって、
人間の2歳から3歳程度の幼児と同等のコミュニケーション能力を獲得しう
ることが確認されています。

今回の番組では、たとえば石器づくりの能力や、その能力を自らの試行錯誤
でより高度なものへ向上させたこと、あるいは過去・現在・未来を概念とし
て持ち、「約束」をすることができる、というようなことが取り上げられて
いました。

このあたりの訓練の様子や、どの程度のことができるのか、という話はいく
らでも一般向けの本が出ているので、そちらに任せることにします。
近所の図書館にでも行けば、何冊か適当なものが見つかるのでは。

そういう訳なので、事実の説明よりは、Yossieがこの種の「能力開発」の研
究について思うことをちょっと書いてみたいと思います。


チンパンジーでもボノボでも、よく言われるのは「潜在的」能力、と言われ
るものです。

たとえば、訓練や人間との生活の中で、ある概念(「欲しい」、とか「イヤ
だ」というような感情も含まれます)を人間に伝えられるようになることが
わかると、「意思伝達の潜在的能力がある」という言い方をします。

訓練さえすれば、という意味がそこに含まれているわけです。

このような研究が世間で大きく取り上げられるとき、それは総じて「人間と
サルはこんなに近い、つまり人間も自然の一部なのだ」というロジックとし
て論じられています。

しかし、類人猿の「潜在的」能力が人間の能力に近ければ近いほど、非常に
皮肉な結論をも導くのではないでしょうか。

それは、「自然である」ということは、持つ能力を引き出さないことである、
すなわち、

▼「知った」ことこそが人間を「不自然」にしている

のだ、ということです。


ボノボは、特に必要がなければ石器を使いません。
しかし、石がその場にあり、石器を使わなければ餌がとれない、という状態
においては、石器を作り、それを使います。

より高度の石器でなければ餌がとれない、という状態になれば、より高度な
石器を作るように試行錯誤し、ごく短期間でその能力を向上させます。

一個体の中でさえ、学習の結果を蓄積できるわけです。
間違いなく、このような能力なり性質は、人間が文明を育てた原動力と共通
するものです。

さて、このような寓話を我々は知っています。

▼へびは女に言った、「あなた方は決して死ぬことはないでしょう。それを
食べると、あなた方の目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神
は知っておられるのです」。(創世記、第三章第四節・五節)

ボノボは「知る」ことのできる者でありながら、「知らず」に森に暮らし、
ヒトは「知り」、そして森を出た、と。


あいにくなことに私はキリスト教ではありませんで、森が楽園であったのか
は「知り」ません。
神学者でもありませんから、キリスト教原理がこのような説話と「科学」と
の関係をどのようにとらえているかも知りません。

が、興味深い話をひとつ。
キリスト教で異端として弾圧された分派は数多くあるのですが、その中に
「拝蛇教<オフィート>」があります。

すなわち、聖書の蛇は人間に「善悪を知る」ことを教えたのであって、むし
ろ「主」は人間を無知のまま「恥」さえも教えずに閉じこめていたのだから、
神よりは蛇の方が人間にとって感謝すべき存在である、という発想です。

もちろん、淫祠邪教であるとして弾圧を受けた、とされています。
しかし、少なくとも記録に残るほどの勢力になったからには、相当の支持を
得たとみるべきでしょう。

史実を編纂する時の権力者にとって、「敵」であったからこそ邪教であると
されたわけで、とるに足らない存在であれば、単なる犯罪人として処分すれ
ばすんだはずです。


さて、我々がボノボたちにとっての「蛇」であるならば、ボノボたちは、
「蛇」と故郷の森の、どちらのルールに従うべきなんでしょう。

「蛇」である我々としては、彼らに「善悪」を教え、あるいはいかに彼らが
「原始的」で「無知蒙昧」な暮らしをしているか、目を開かせるべきなので
しょうか。。。




<教育のはなし(1)>


「教育」と一言でいってもいろいろなスケールがあるので、思いついたこと
から時々書いていみます。

一番広い意味では「文化を他者に伝達すること」くらいでしょうか。
ここで言う「文化」というのは、サバイバルの方法、行動様式、仲間内での
ルールなどのうち、後天的に学習しなければいけないもののことです。
別にヒトに限らず、多くの高等生物がもっています。

人間の場合、行動様式のほとんどの部分を後天的な学習によって左右される
ので、「教育」がなければ「文化」は全く次世代に伝わりません。
オオカミ少女の話などは、オオカミに教育されてオオカミの文化を受け継い
だものといえるでしょう。

例のボノボであれば、研究対象のボノボたちは、ボノボの文化ではなく、人
の文化を伝達されていることになります。


逆に、一番狭い意味では学校教育の中でも、受験対策、ということになるの
でしょう。
「教育産業」と言うときの意味ですね。

語学教育、理科教育、といった中で、受験に必要な「エッセンス」を抽出し
てみました、というような感じです。
あるいは、必要ない部分を切り捨ててみました、と。

いまさらここで受験制度の悪弊について並べ立てても仕方がないので、なぜ
受験制度がうまく機能していないか、ということだけ。

おそらく、一番の原因は多くの日本人が「器用すぎる」ことでしょう。


「柔軟な」受験制度を目指すために、この10年ほど様々な試みがなされて
きました。

画一的にならないようにするために、「一芸入試」をはじめとして得意科目
だけで勝負させたり、面接を重視した特別な推薦枠をつくったり、学問から
かけ離れたようなユニークな入試問題を出してみたり、ということをしてき
たわけですが、どんな形に対しても、「受験対策」という方向で対策が練ら
れてきました。

そして、そのような対策によって、求められている回答を実際に出せるよう
になってしまう、そういう器用さを持っているわけです。

不幸なことに(?)普通の企業のサラリーマンにとっては、そのような器用
さこそが一番求められています。

既製の枠の中で仕事をするには、その枠にうまくあわせる器用さが必要です。
その器用さを持ってしまっているが故に、いったん会社になじんでしまうと、
その枠がどれほどいびつな形で、不自然であるかになかなか気づかない、と
いうこともあるんでしょうが。

さて、器用さを身につけるためには、器用さが必要な環境におけばいいわけ
です。だから、学校はあえて「いびつな枠」を作るようにしていたりしたわ
けです。

しかし、この5年ほどで急速にその枠が壊されてしまいました。
「今時の若者」は枠に合わせなければならない、という環境を経ていません。
ある意味では、従来の枠にとらわれない若者が増えており、一方では、非常
に「不器用」な若者が増えているのです。


粘土はかたどって焼けば固くなり、煉瓦にでもなるかもしれませんが、好き
なように曲がりくねって生えている松を柱にするのはなかなか難しいもので
す。

美しく仕上がれば大変な価値を持ちますが、形が悪ければ屑にもならない。
それが競争社会、というヤツでしょうか。。。



<遺伝子社会主義>


やたらに忙しかった木曜〜月曜をようやく終えました。
仮眠をつなぎつつあちこち飛び回るというのは、やはり体に悪いですね。
お肌もあれ気味(?)です。
今日は昼すぎまで寝てしまいました。(^^;


最近軽く流し読みした本のひとつに、「遺伝子できまること、きまらぬこと
(中込弥男)」があります。
昨年末頃の出版で、新聞などでも取り上げられていたため、なんとなくタイ
トルに聞き覚えのある方も多いのでは。

私が興味を持ったのは、いろいろ紹介されている事実よりは、むしろ著者の
遺伝子に対するスタンスの方で、それほど感情的でもなく、いっぽうで「科
学者」的な無批判にも偏らず、なかなかおもしろい見方をしている気がしま
す。

リンクスタッフの方の掲示板( http://www.linkstaff.co.jp/ )で以前に
も軽く取り上げていましたが、遺伝子組み替えによる"デザイナーズ・チャ
イルド"や"ジーン・リッチ"などと言った言葉は、「いきもののはなし」
読者であればきっとどこかで耳にしていらっしゃるのではないでしょうか。

ただ、私自身の考えとしては、デザイナーズ・チャイルドやジーン・リッチ
の問題は、大して深刻化しないだろう、というものです。
理由としては簡単なもので、良い性質・悪い性質が先祖代々伝わるものであ
ることは、数千年前からとっくに知られていたから、というものです。

さまざまな形質や性質が直系血族には濃く現れる、その事実がなければ「家
柄」や「家系」、あるいは「民族」の持つ意味もきっと全く変わっていたで
しょう。

とにかく、「成功者」が多くの子孫を残し、「成功しない」者の遺伝子を受
け入れるのを避ける、そういうことは人間が社会を形成したころからあった
ことでしょうから、べつにいまさら改めて騒ぎ立てることでもない、という
ことです。


遺伝子と形質や性質の結びつきの解析がもたらすかもしれない問題は、「遺
伝子社会主義」とでも言うようなものではないか、と私は考えています。

遺伝子と形質・性質の結びつきが解明されていく段階で、様々な「非社会
的」な精神的気質が、実は遺伝子上の問題であることがわかることでしょう。

犯罪を起こすのが遺伝子のせいだ、というわけではありませんが、「情動
(興奮)の抑制にかかわる酵素の働きが鈍い」、だとか「ある種の刺激に対
しては、些細なことで非常に興奮する」といった性質は、犯罪に結びつく可
能性が高いことは確かです。

現実問題として、遺伝子のせいであろうが何であろうが、犯罪を犯せば社会
から排除されるのはしかたのないことです。
私が問題となるかもしれないと言うのは、また少し違いまして、一言で言え
ば「がんばれない」遺伝子、というのが発見されたときのことです。


ひどく主観的な表現ですが、「がんばれない」というのは、たとえば「精神
的負荷に耐性が低い」、「苦痛を伴う作業に対して極端に能動性が減少す
る」といった事象をまとめて言っています。

「努力できない」「我慢できない」「協調性がない」「思いやりがない」
これらの性質は、従来ならば「人格」の問題であって、道徳的な問題でしか
ありませんでした。

ところが、仮にこれらの性質に「遺伝子」という科学的な裏付けが与えられ
たとすると、どうなるでしょう。
「自分はがんばれない遺伝子の持ち主だから、がんばれないのだ」という者
が多く現れたとき、彼らをどのように社会は受け入れるべきでしょうか。

生物学的差異に基づく差別が許されないものであるとしたら、彼らにも平等
な機会が与えられなければなりません。
とはいえ、「がんばれない」人間に「がんばらせる」のは、「がんばれる」
人間にがんばらせるのに比べはるかに大きなエネルギーが必要であるという
事実は、教育などの現場ですでに実証済みです。

弱肉強食の競争原理からすれば、効率の悪い人間は切り捨てれば、やがて効
率の良い人間が多くなって良いではないか、ということにもなります。

障害者や老人、病者や浮浪者をまとめて虐殺し、「我が領土には老いや病、
貧困で苦しむ者なし」と豪語した領主が昔いたとかいないとか・・・


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