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 ”インフォームド”な合意  生きるのが大変な人のための話  大量絶滅の話
 教育の話  海と生命の話  病原菌あれこれ
 エコ・ビジネス、公共事業  人間とデジタルの話  企業倫理の話
 琵琶湖をめぐる思いつきモロモロ    
 病原菌の話


<エコ・ビジネスのはなし(1)>

最近生き物の話から遠いんでは?というお便りなどいただきました。
全くその通りでございます、というところですが。

とはいえ、このところ私のアタマが動物そのものからちょっと離れていたこ
ともありまして、いきなり生き物の話というのも難しいなあ、というところ
です。

で、ときどきお便りをいただいたりする環境系の事業や環境に配慮した製品、
健康食などをひっくるめて、エコ・ビジネスとして取り上げてみましょう。
ITよりはいきものかな、と。(^^

まとめて話をするにはバリエーションが広すぎるので、いくつか具体的な例
を取り上げてみます。
第一回目は有機農法、で行ってみましょう。


有機農法とはなんぞや、というと、有機の反対は無機であるわけで、無機肥
料を使わない農法である、ということになります。
有機農法であるからといって農薬を使わないこととイコールではありません。

一般に、植物が生育するためには光と水と各種の無機塩類が必要です。

自然界では生物の死骸や排泄物を虫や微生物、バクテリアなどが無機物に分
解し、それを植物が吸収する、というサイクルがあります。

しかし、全く自然の状態では、供給される有機物(死骸や屎尿)もそれほど
多くありませんし、また、このような生物による分解はそれほど早いスピー
ドではありません。

そこで、人間はごく原始的な方法の一つとして、焼き畑農業を行います。
森の木々を焼いて殺すことで、大量の生物の死骸が発生するわけです。
擬人化するとなんとなく恐ろしい感じがしますが。(^^;

もう少しスマートなやり方としては、落ち葉を集めて湿気を与え、腐葉土を
作ってこれを肥料にする、という方法があります。
これは、広大な落葉樹林のある地域なら活用しやすいですね。

雑草のような植物(繁殖力が強く、手入れが不要で、作物に害を与えないも
のが最適)をわざと農地に大量にはびこらせて、それを土に混ぜ込む、とい
う方法もあります。
レンゲなどがよく使われますね。

一面に広がるレンゲ畑、というのは、実は生物の死骸を供給するため、とい
う見方もできます。
で、まあなぜあえてこんなイヤな言い方をするかといえば、少なくとも食料
のことを考えるときには、かわいいとか美しいとかいうことはとりあえず問
題にならないんだ、ということを強調したいからです。


さて、もう少し文明とやらが発達していくと、都市というものが成立するよ
うになります。
都市というのは、自給自足では生活できず、周辺の農村部から食糧供給を受
けてはじめて成り立つものです。

しかし、食べ物が大量に運び込まれたとすると、とうぜん、それが消化され
たものも大量に出てくるわけですね。
人間が大量に集まって定住するようになると、排出物が非常に問題になって
きます。

そして、この排出物を肥料に使う、というシステムが出てきます。
ご存じの通り、江戸期の日本では他に類を見ない完成度で人間が食物連鎖の
中に組み込まれていました。
排出される汚物や残飯のほとんどすべてが、食料生産の基盤となっていたの
です。

非常に優れたシステムではあったのですが、都市が拡大するにつれ、逆説的
ですが農村と都市の距離が大きくなり、都市の中心部から農村まで屎尿を運
ぶことが困難になります。

また、住宅地の近郊では、においや衛生面の問題から、屎尿肥料の使用が難
しくなっていきます。

そして、20世紀に入り、工業化学の発達の過程で化学肥料が生まれます。
植物に必要な無機塩類をバランスよく与えてやれば、従来の有機肥料よりも
ずっと早く植物が生長する、というのですね。

このあとのことは、だいたい皆さんもご存じでしょう。
化学肥料は、分析的な手法によってその作物が必要とする無機物を効率よく
供給するよう配合されています。

しかし、作物の周辺で活動する他の生物のことは考慮されていませんから、
供給される無機物はどうしても単調になり、分析的手法で見落とされた無機
物は徐々に不足していきます。

このことは、他の生物による土壌の改良を失わせることになり、最初の数年
以降、大量の化学肥料を投与しなければ作物が育たない、という問題を生み
出します。

また、微量元素が作物の味や歯ごたえに与える影響などというものは科学的
分析が非常に難しく、せいぜい含まれるミネラルや糖度、といったところが
指標とされるにすぎません。

この結果、見た目は美しく整っていて色つやもよく、しっかりと育っていて
も、薄っぺらな味だったりただ甘いだけで単調な風味、といった現代の野
菜・果物ができあがるわけです。

このあたりのイメージは、「化学調味料」と本来のだしの関係に似ています。
化学調味料は、いわゆる「うまみ」や「風味」として知覚される物質を分析
によって特定し、それをエキスとして取り出したものです。

鰹節や椎茸などを煮詰めたり戻したりする手間を省き、安定したうまみや風
味を、ごく手軽かつ安価に得ることができます。

しかし、製品化の過程において万人受けする味と、コストパフォーマンスと
いう視点が入ってくるために、本来のだしに比べると、どうしても平板で単
調な味わいになってしまうのです。


さて、前置きとするにはちょっと長すぎる話になってしまいましたが、ここ
で私なりの結論を一つ。

有機農法は「よい」栽培方法である。
しかし、だからといって化学肥料を使った無機農法が「悪い」ということに
はならない。

化学肥料を含めた無機農法がどれほど人間に貢献してきたかというのは、た
とえばコメの値段(価値)を考えてみればわかります。

江戸期の日本において、一石(10斗、200キロ弱)のコメというのは、
1人の農民のほぼ年収に相当します。

もともと一石という単位は、1人の人間が一年に食べるコメの量、という意
味合いをもっています。
言い方を変えれば、一石のコメを残してやれば、あとの収穫は年貢として取
り上げても農民は生きていける、ということになります。

とはいえ、タバコや果樹、繊維の原料となる綿など、商品として現金になる
作物の栽培が盛んになるまでは、衣類や農具、生活雑貨を手に入れるのもコ
メとの交換でしたから、単なる「食費」とは全く意味が違うのです。

年収が200キロのコメと同じとして現代に当てはめてみると、キロあたり
なんと2万円という価値があることになります。
10キロの袋が20万円です。

毎月のお米代が20万円、あるいはどんぶり一杯のご飯が5000円と言わ
れたら、皆さんはどう感じますか?
「そんな馬鹿高いものが食えるか」「とてもじゃないけど普段は食べられな
いよ」と思うでしょう。

ほんの数世紀前まで、現在先進国と呼ばれている国々においても、食料とい
うのは本当に貴重なものでした。
食料の生産量が、そのまま国や地域の飢餓状態に反映されていたのですから、
生産効率を上げる意義は、今とはかなり違っています。

ここまでで言いたいことは、野菜の味というのは、生産効率=コストパフォ
ーマンスとの関わりで失われてしまったモノであって、言い換えれば「安物
の野菜」だからおいしくない、というのと同じだ、ということです。

さまざまな作物を普通の人が食べられるようにした、その意味において化学
肥料というのは何も責められるようなものではない、と。

ちゃんと「いきもの」として存在する物を食べて暮らそうと思うならば、そ
れなりの代償を支払う必要があります。
現代では、何とも便利なことにそれを「お金」ですますことができる。

あとは、「工業製品」ではなく、「いきもの」を食べることにどれだけの対
価を払うか、という価値観の問題です。


ちょっと脈絡がないのですが、自然食をすすめようという人々が、自分たち
の良さをアピールするために、化学肥料や近代的な農業を不当に貶めようと
する、という構図にちょっと不満があったもので。


ちなみに、スーパーなどでそれほど高価でなくて無農薬・減農薬とあるよう
な野菜では、無菌室のような工場で栽培されていたりします。

これなら害虫も病気も入り込みませんから、それほどコストをかけずに無農
薬が実現できますし、天候にも災害にも影響を受けず、安定した生産量を確
保できるわけです。

虫食いの痕もない「無農薬」、どう考えますか?

また、有機農法が安全かというと、それもかなりばらつきがあります。
有機農法には先ほど書いたように馬糞や牛糞を肥料として用いますが、普通
の牧場で家畜に抗生物質を使わないところはあり得ません。

普段の飼料にも抗生物質が入っていますし、少しでも調子が悪ければすぐに
注射を打ちます。
家畜は一頭一頭が高価な上、感染症がいったん広まると、その被害が非常に
大きなものになるおそれがあるためです。

大量の抗生物質を与えられ続けている家畜の屎尿から作った有機肥料、それ
を用いることにどれほど安全性があるのでしょうか。

つまり、本当の意味での自然食、「いきもの」としての作物がほしければ、
サイクルすべてを「いきもの」としなければいけないのです。

本当においしい食べ物、安心できる食べ物をほしければ、それだけの対価を
支払わなければならない、その覚悟がないならえらそうなことを言うな!な
んて思ってしまうわけですが。

また敵を作りそうですか? (^^;




<エコ・ビジネスのはなし(1+)>

(1)の配信内容に対する反応について考察してみました。

まず、個人の財布のレベルの話ではなく、もっと社会全体で考えていかなけ
ればならない問題だ!というような意見がいくつかありましたが、私はそう
は思ってません。

社会全体の問題、なんていうのは実在しません。
あるのは、個人にとっての現実と、それが集合して一つの振る舞いのように
見える「社会」だけです。

社会というのが一つの複雑系であるとしたら、社会全体の振る舞いをいきな
り変えることはできません。
複雑系においては、ほんのわずかな初期条件の違いが、結果として生じる事
象において巨大な差異として現れる、という特徴があります。
逆に言えば、理想的な結果(社会のあり方)を先に想定して、そこから逆算
して有効な初期条件を決めることなどできないのです。

と、いかにもな言い方ですが、こういう言い方自体も机上の空論ぽくて好き
ではないので、もう少し言い換えておきましょう。

何か(日常であるとか人生であるとか)を変えたいならば、まずは自分の生
活を変えることです。
自分が満足できる暮らしをする。
その結果が他人から見てもいいなあ、と思えるようなものであれば、それを
まねする人が増えるでしょう。
それで満足する人間が増えるとしたら、社会における「シアワセな人」の割
合が増えている、ということです。
もちろん、どのような結果をいいなあと思うかは個人次第ですが。


で、ここでなにをいいたいかというと、すべての人間が同じように望む「結
果(社会のあり方)」なんてものは存在しない、ということです。

前回、個人の財布の問題として食の問題をとりあげてみせたのは、財布とい
うのが人間の価値観を一番シンプルに表しているからです。
質のよい食にはコストがかかる、これは「事実」です。
それをふまえた上で、じゃあ、どの程度食にコストをかけるか、という判断
は個人の価値観である、ということですね。

安心できる食べ物、おいしい食べ物こそ何物にも代えがたい、という人なら
ば、一杯のご飯に1000円出しても惜しくないかもしれません。
しかし、一般的な人ならば、一杯のご飯に出せるのは200円くらいかなあ、
あとの800円は他のことに使いたいなあ、というところでしょう。

選択肢がないとしたら、それは個人の価値観が実現できていない、というこ
とです。
しかし、日本では少なくとも食に関しては相当な自由度があります。

スーパーやコンビニの食べ物という選択肢が、一番コストの低い食です。
本当に生き物として作物や家畜を栽培している農家の食べ物、これは恐ろし
く高価ではありますが一応選択肢として存在します。
自家栽培の野菜やニワトリ、これはその中間くらいのコストの食でしょうか。

金銭的な基準以外にも、たとえばおいしさと健康というのも時には矛盾する
物です。
精進料理のような種類の食事が体によい、というのはおおむね事実でしょう。
しかし、だからといって油っぽい物や香辛料をたくさん使った料理においし
い物が多いのも事実です。
味は悪いが健康によい物、健康には良くないが味はいい物、そういう選択肢
もあり得るわけです。

結局、選択肢がある、そのこと自体が重要なのであって、選択自体に優劣を
付けることは、個人の価値観を否定することでもあるのです。


さて、次にもう少しミクロな問題として、有機農法自体のはなしです。
いくつかうーん、とうならされるようなお便りをいただいています。
話が見えやすいように適当にアレンジを加えているので、いただいたお便り
通りではありません。

一つは食品メーカー勤務の方で、コンビニやスーパーで売っているようなカ
ップデザートを開発していた時の話です。
有機農法の果物を使えば印象がいいだろう、ということで、上に飾るカット
メロンに、有機栽培のものを使って試作をしていました。

ところが、試作の段階で大変なことがわかります。
できあがった試作品が、どれもサルモネラ菌に汚染されているのです。
どこから来た物かをトレースしていったところ、メロンの皮の周辺に菌がた
くさんいることがわかりました。

有機肥料に用いていた鶏糞の中のサルモネラ菌がマスクメロンの皮の網目部
分に入り込み、洗剤で洗っても消毒液につけても殺菌しきれないのです。

もちろん、メロンとして普通に切って食べる分にはなんの問題もありません。
しかし、カップデザートの飾りという状況では、網目部分が周囲のプリンや
生クリームといった「培地」に接触することになり、そこで繁殖してしまっ
たのでしょう。

結局、有機栽培メロンの採用はあきらめざるを得なかった、ということです。


もう一つは、キムチに芋虫が混入していた事故で、メーカーが回収する騒動
になった、という話です。

有機農法や減農薬野菜が話題になった頃、しきりに言われていたことが、
「虫も付かない野菜」がまともなはずがない、ということです。
まともな野菜を使っていれば、芋虫がついていてもなんの不思議もありませ
ん。

確かに、製造過程で取り除いた方が望ましいのはそうなのですが、たとえ混
入があったとしても、消毒液などのように「どう考えても混入してはいけな
いもの」が製造過程で混入することに比べれば、個々に対応すれば十分であ
って、回収する理由はありません。

雪印事件以来、食品業界が緊張感をもって業務を行っていることの表れとは
言えますが、極端な潔癖主義は実質の判断を失って官僚的になり、何が消費
者の利益であるかを見失う恐れもあります。

「混入」という字面だけにとらわれて、それが許されるものか許されないも
のか、回収の必要があるのか、の判断を思考停止してしまうことのないよう
にしたいものです。




<エコ・ビジネスのはなし(2)>

このところジャーナリスティックな話が続いてしまっていますね。
「忙しい」時のアタマでは、ファンタジーのあるネタよりも、ジャーナリス
ティックな文章の方が書きやすいので、どうしても。(^^;

しばらく個々の事実を追うミクロな視点で来たので、少しマクロ側に切り替
えてみましょう。
今回は、「環境」と「産業」という視点で考えてみます。

どちらも広い意味の言葉ですから、適当に意味を定義しておきますと、「環
境」のほうは「人間と人間だけのためのもの以外」を、「産業」は「人間が
行う人間のための生産・消費活動全般」を指すことにします。

たとえば、普通のビルは人間だけのためのものですから「環境」ではありま
せんが、田んぼや畑は、間接的には人間のためですが、とりあえずは植物が
よく育つようにするための空間ですから、一応「環境」に入ります。

そして、「魚を獲ること」は普通、人間だけのための活動ですから「産業」
ですが、「魚を養殖すること」は一応魚という人間以外の動物を増やす活動
ですから、ここでいう「産業」ではない、としておきます。

ちょっと違和感を感じる定義ではありますが、人間の行う活動がすべて生態
系を破壊するわけではなく、むしろ生態系を豊かにすることがある、という
ニュアンスを残したいためにこういう定義にしています。


さて、このように定義をしていきますと、いわゆる自然保護というものが3
つくらいの方向性で分類できることになります。

最初が動物愛護系の自然保護です。
一番代表的なものとしては、動物権の思想があります。
人間もその他の動物も、動物の一種としての立場は何ら変わるところはない、
だとしたら、動物にも人権と同様に動物権があり、殺されたり傷つけられな
い権利があるはずだ、というのですね。

いかにも近代的な環境保護の発想のようにみえますが、少なくともヨーロッ
パに限れば動物権的な概念の源は意外に古く、中世頃にはよく動物が裁判に
掛けられています。

村人の飼っていたニワトリを皆殺しにしてしまったイタチを、捕まえて裁判
に掛け、無慈悲で無益な殺戮を行った罪によって死刑とする、といった判決
が出されるのです。

現代の「害獣駆除」からするとなんとも余分な手間がかかっているような感
じがしますが、これも「裁判を受ける権利」が動物に認められているからこ
そ、このような手続がとられるわけですね。

さらにさかのぼれば、紀元前の神話でも動物が神や王に命令を与えられてい
るシーンが登場していますし、牧畜の文化ともなんらかの関係があるのでし
ょう。
ちなみに、日本で家畜(軍事用の馬などを除き)が盛んに飼育されるように
なるのは、江戸期くらいのことで、ごく歴史は浅いのです。

この動物愛護系の自然保護を徹底すると、基本的に動物を殺すことはできな
くなり、日常的な食事としては植物がメインとなります。

動物同士の殺し合い(食物連鎖)はどうなんだ、という反論もありそうです
が、人間は作物だけを食べて生きていくことができる、それなのに動物を殺
すのはゼイタクのためであり、無益な殺生である、という再反論があります。


次の方向性が、生物資源(生物多様性)保全系の自然保護です。
おそらく、多くの科学者と農林水産業従事者は、ここに当たると思います。
動物愛護系との違いに着目して分類するならば、「絶滅や極端な個体数減少
のおそれがなければ、産業として利用してもよい」という立場です。

減っている種は保護する、それほど減っていない種でも、たくさん増やせば
それだけたくさん獲ることができるのでがんばって増やす、ということにな
ります。

動物愛護系と生物資源保全系の戦いの有名なものとしては、捕鯨に関する条
約の制定があります。
日本を含め、いくつかの海洋国ではクジラを獲って産業に利用していました
が、マッコウクジラなど多くの種のクジラが絶滅の危機に瀕しています。

そこで、クジラを保護すべく捕鯨規制の条約が制定されることになったので
すが、その規制の仕方が問題となったのですね。

捕鯨国側の主張は、「定期的に調査捕鯨を行い、十分な個体数が確認されて
いる種については産業のための捕鯨を認める、調査費用や保護のための費用
は産業のための捕鯨の収益の一部を当てる」というものでした。
ミンククジラの一部は、むしろ増えすぎて他の種のクジラの個体数の回復を
妨げている、という報告もありました。

これに対し、反捕鯨国の意見は「一律禁止」の一本槍です。
そもそも殺すこと自体が許されないのだから、個体数がどうの、絶滅のおそ
れがない、という議論はかみ合うわけがないのですね。
最後は政治力の問題でほぼ全面禁止で押し切られたのですが。


三つ目の方向性としては、楽しみのための自然保護、ですね。
遊び場としての「自然」を残したい、増やしたい、という方向性です。

「珍しい自然」に限って言えば、人間が関与すればするほど、破壊されてい
くと考えて間違いないでしょう。
しかし、だからといってどこもかしこも立入禁止にしていたのでは、人間が
「自然」に触れる機会はますます失われてしまいます。

芝生と植林の森に囲まれた、排ガス臭いオートキャンプ場が一般人の触れら
れる「自然」のすべてだとしたら、それはちょっと悲しいことです。

とはいえ、スタート地点が結局のところ「娯楽」ですから、客観的な自然保
護とはどうしても衝突することが多くなります。

アクセス手段は楽なほうがいいというので山林を切り開いて高速道路を造る
こともあるでしょう。
たくさんの観光客によい食事や宿を用意すれば、大量の下水やゴミが発生し
ます。

ブラックバスの密放流や河原を走る四駆のせいで川の生態系が破壊されたり、
マニアのために高山植物や珍しい鳥や昆虫が密猟されているのも同じ方向性
でしょう。
「自分にとっての自然」は大事にしたい、というありかたです。


ちなみに、客観的な裏付けのない自然保護も、結局はこの趣味としての自然
保護の域を出ないことがよくあります。

たとえば、二酸化炭素を非常に速い速度で吸収するというので、ケナフとい
う植物の栽培が温暖化防止の方法として推奨されたことがあります。
ケナフの種があちこちで配られたり、雑誌で紹介もされていたので聞いたこ
とのある人も多いでしょう。

しかし、ケナフというのは一年草でして、植えて急速に生長し、二酸化炭素
を大量に取り込むとしても、一年たてば枯れてしまうのです。
枯れたケナフをどうするか?

燃やしたりゴミに出したのでは、結局二酸化炭素は再び空中に放出されます。
ケナフから紙を作る、という研究がすすめられてはいますが、今のところ事
業化しているところはごくわずかですから、無計画に栽培されたものをひき
とるような事業所はないでしょう。

廃油から石鹸を作る、というのも一時期流行りましたね。
廃油に苛性ソーダなどをまぜると石鹸ができるのですが、苛性ソーダという
のは毒性があります。

分量を正確に配合しなければ生地や皮膚を痛める石鹸になってしまいますし、
余った苛性ソーダを適当に水道に捨てたりすれば、下水を汚染します。
いずれにしろ、化学の知識がまったくないような状態で扱うことはおすすめ
できない物質なのです。

同様に、天然だから安全、化学でないから安心、といった宣伝文句が無意味
であることも意識しておきましょう。
人間が利用するには不都合があったからこそ、産業化されずに「天然」に放
置されてきたものだってたくさんあるのですから。。。




<公共事業のはなし>

エコビジネスといいながら、どうもあまりエコビジネスの話になっていない
ような気もしますね。

が、とりあえず前回に環境と産業の関係、というのを書き始めたのでその路
線でもう少し。


このところ、公共事業の見直し、というやつが盛んにマスコミで報道されて
いますね。

数十年前の計画で今の実状にあわないものや、コストパフォーマンスが極端
に悪いもの、将来性のないものや環境への影響が大きすぎるものなどについ
ては、計画の白紙撤回も含めて再検討しよう、という話です。

もちろん、手放しにほめられる内容でもないのですが(たとえば、公共事業
費そのものは変わっていないので、結局は新たに公共事業の計画をすること
になるでしょう)、実務主義のYossieとしては、とりあえず一歩でも踏み出
すことに意味を求めますので、十分評価に値する動きだと考えてます。

だいたいにおいて公共事業というのは、本当に必要かどうかよりも公共工事
を通じて経済の活性化を図る、ということが目的になりますので、ちゃんと
経済効果が発生しさえすればどういう形で工事を行っても構わないわけです。

この前までNHKで四大文明の特番をやってましたが、エジプトのピラミッ
ドは、農耕のできない時期に失業対策としてなされた公共工事だった、とい
う仮説を取り上げていました。
ピラミッド自体には大した意味はない、とすると、これまたなかなかコロン
ブスの卵なわけですが。

大変な労力と費用がかかっているとしても、だからといってそれ自体に重要
な意味があるとは限らない、という事象は昔からあったのですね。

日本にはあまり大規模な遺跡建造物がありませんが、江戸期の参勤交代制な
んかは「大変な労力と費用がかかっているが、それ自体には重要な意味はな
い」制度の例ですね。
労力と費用を費やさせること、それ自体に意味があったわけですから。


さて、こういう視点からすると、「大変な労力と費用がかかりさえすれば
(経済効果さえあれば)、それ自体には意味がなくても良い」のですから、
かつては、公共工事なんてのは、別に完成しなくてもよかったのですね。

調査であれ用地買収であれ、とりあえず計画が始動してしまえば、さまざま
な企業や組織が動き始めることになります。
いったん始動してしまえば、あとは工事自体が進行しようが停滞しようが、
「対策費」や人件費という形でカネが流れはじめます。

公共工事が実際に進んでしまえば自然は破壊されてしまうし、そもそも完成
してしまうとそれ以上カネを流し込むわけにはいかなくなってしまうので、
正直なところを言えば、完成しなくてもよい公共事業なんてのはいくらでも
あるはずです。

むしろ、完成してしまうと困った事態になることもあるでしょう。
最初に言ったとおり、工事それ自体には大した意味はないので、完成して稼
働したところで商業ベースに乗るわけがなく、大赤字になるのは当然です。

高速道路や主要幹線道路、新幹線などの道路交通網で、「計画」がすべて実
現したら現在の3倍くらいの総延長(=キャパシティ)になる、という話を
聞いたことがあります。

確かに現在でも交通渋滞は社会問題ではありますが、この先大幅に自動車交
通量が増加するようなことはないでしょうし、新幹線の乗客が倍になる、な
んてこともあり得ないでしょう。
つまり、計画する側でも、最初から実現しないだろうと思いつつ計画を立て
ている、ということです。

どうせ実現しないならば、採算度外視で巨大な計画を立てた方がいいに決ま
っています。
その方が、相対的に「調査費」や「対策費」として動かせる額も自由度が高
まるからです。
だからこそ、日本全国津々浦々、あれほどたくさんの巨大公共工事の計画が
存在するのですね。

ところが、「どうせ実現できるわけない」といい加減に立てていた計画に対
して、いい加減に融資がされたうえにいい加減に着工して工事が進んでしま
った時期があるのですね。
そもそもの計画が採算度外視ならば融資も回収率度外視、工事そのものも機
能度外視、と。
この時期のことをバブルとかなんとか言うわけですが、ま、これはおいとい
て、と。


コドモの頃、学校で「国家の繁栄を願ってお寺を建てる」なんていう話を聞
いて、「なんでお寺なんか建てるだけでみんながシアワセになるとおもった
んかなあ、昔の人はアホやなあ」とか思いませんでしたか?

大仏建立、巨大な寺社仏閣の建築なんていうのも、「救貧のための公共工
事」だった可能性があるのです。

カミサマホトケサマがみんなを救わないとしても、大仏作る工事で働いて、
なにがしかの給金をいただければ、まずはメシの種にはなりまっせ、という
わけですね。。。。


あれ、ちっともエコじゃないかな?




<公共事業のはなし(2)>

さて、別に私自身は公共事業が無駄であってもよい、と言うつもりはありま
せん。
どうせ金を使わなければいけないのだとしたら、なにかしらちゃんと役に立
って、長い間意味のあることに使ったほうがいいに決まっています。

なぜ前回のような話をしたかというと、ああいった「公共事業を推進する側
の論理」というものをちゃんと踏まえておかなければ、環境保護であるとか
合理的な税金の利用といった議論が意味を持たないからです。

「いきもののはなし」ですから環境保護運動の方をとりあげておきますと、
「美しい環境を保護しなければならない」とか「これこれこの生物が貴重で
ある」といった意見は、「カネの使い道を考える」という視点においては、
全然意味のないものです。

事業を推進する側も「そんなことはわかっている」からです。
客観的なデータだ科学的な裏付けだ、ということを一生懸命調べて提出して
いるグループがよくニュースに取り上げられていますが、それでは公共事業
は止まりません。

本当に工事や開発を止めたければ、事業を推進する側のロジックに乗った上
で、「もっとイイ開発方法がある」「もっとすばらしいモノができあがる提
案がある」という形で意見を言うのでなければなりません。

「自然派」という価値観を共有するグループを作ってしまうと、その時点で
もう「産業派」の人間は、「自然派」のいうことを聞くわけにはいかなくな
ってしまうからです。


自分や仲間が「自然派」であることを確認するために反対運動をするのなら、
せいぜい運動も「自然派」らしくやればいいのですが、結果を求めて反対運
動をするのなら、運動のレベルは「産業派」と同じくらいに泥臭いモノにな
ることを覚悟しなければなりません。

誰もが知っている世界規模の某自然保護団体((^^;)などは、大企業そこの
けの政治力と攻撃的な活動力を持っています。
一応非暴力主義を掲げているのですが、現代社会ではなにも暴力だけが攻撃
の手段ではありません。

たとえば、ある自然保護にまつわる主張をある国の政府に実行させるために、
構成員に呼びかけて、その国のホテルを片っ端から予約し、キャンセル料の
発生する日の前日に一斉にキャンセルする、というような作戦がありました。

十数日前になっていきなり数百室の空きができれば、ホテル側は真っ青にな
るでしょう。
しかも、キャンセルしているのはあくまで個人ですから、どれが不当なキャ
ンセルかを追求するのはきわめて困難です。

多くの先進国においてホテルや観光業というのは大きな額の動く産業です。
毎日数千万円、数億円の被害が生じていくのを、じっとこらえているわけに
はいきません。

文字通り、一つの環境保護団体が、一国の政治的な決定を左右する力を持っ
ているのです。


ずっと以前に、「人権のはなし」として権利というのは、対立する両者の力
のバランスの釣り合う場所にラベルを貼ったものでしかない、ということを
言っていました。

同じように、「自然」にもっと権利を与えたいならば、「そちら側の人間」
が力を持つ必要があるのでしょう。
よかれ悪しかれ、戦いや駆け引きをしなければ「結果」は得られないのです
が。



どうも、ひねりのないオチになってしまいましたが。




<治水のはなし>

ニュースなどでもご覧になったと思いますが、月曜の大雨で、東海地方は大
変な被害にあいました。

東海道新幹線も麻痺したために、水害の状況は東京圏や近畿圏でも注目を集
めていたと思います。

イヤな言い方になりますが、どんな災害も悲劇も自分や近縁の人間が関わら
なければ、「ブラウン管の向こうの事件」でしかないわけです。

が、今回は、自分も冠水の中クルマを走らせなければならない目にあったの
で、改めて災害の恐ろしさを現実のモノとして思い知ったというところです。


昨年、今年と東京都内でも続けて発生しているため注目を集めているのが、
都市型の水害です。

従来、水害といえば、細く曲がりくねった河川で、大雨の際に急激に流量が
増加するために発生する鉄砲水の類や、土地が平らで低く、時には河床の方
が高い位置にあるような海抜0メートル(ときにはマイナス)地帯の問題で
した。

これらの治水に関しては、それこそ有史以来、人類は戦いつづけてきており、
コストパフォーマンスを無視するならば、おそらく対策を講じることができ
るレベルの建築技術を獲得したといえます。

とはいえ、ここでいう「コスト」には、建設や維持管理にかかる金銭的・人
的費用だけでなく、破壊される自然環境、という要素もあるのですが。


これに対して、都市型の水害では、また別な要素が対策を困難にしています。

近代に入ってから成立した都市では、雨水処理というのはライフラインの設
置と同じレベルで原初的な問題です。
雨水の流れる経路を整備し、水がたまりやすい箇所の排水を解決しておかな
ければ、土地造成も工事用道路の整備もできないからです。

従って、雨水処理、大雨対策をまったく考えていない都市、市街地というの
はあり得ません。
問題となるのは、どのレベルで対策を考えるか、ということです。

先ほど書いた「従来の治水」においては、どの程度の対策をなすか判断すべ
き基準は、「地域住民の生活」対「金銭的費用(+自然へのダメージ)」に
なります。

自然へのダメージ、にカッコがつけてあるのは、いままでの公共事業ではそ
れが重視されていなかったこと、あるいは「動物権」や「自然権」というも
のをどれだけの価値の物と評価するかについて社会の一致した意見がないこ
と、を表しています。

いずれにしろ、比較考量すべき要素は大きく二つであって、天秤を釣り合わ
せるのはまだそれほど難しくないと言えます。

ところが、都市計画のなかで治水にどれだけのコストを投じるか、という場
合、複雑な利害関係が発生するのです。

思いつくままにまず挙げていきますと、「地域住民の生活」「金銭的費用」
「税金の使途としての合理性」「住居権の侵害」「大規模工事による生活・
産業への弊害」といったところでしょうか。

自然へのダメージが言われることは少なくなりますが、代わりに税金の使途
としての合理性が問われることが多くなります。

従来の水害の場合、河川流域のすべての住民は基本的に似たようなリスクを
負っていますから、それほど内部での対立はありません。
これに対し、都市型水害では、水害に遭う地域と遭わない地域というのはわ
りとはっきりと分かれてしまいます。

要するに、坂の上に住む人間が、坂の下に住む人間のために水害対策費を出
してやらねばならんのか?という議論です。

農村部と違って都市圏では住居の選択権がありますから、「自分は水害に遭
うのがイヤでわざわざ高台の土地を選んだんだ、なのになんで水害のせいで
自分まで負担をしなきゃいけないんだ」という意見には、それなりの合理性
があります。

住居権の侵害も、これと似たような要素です。
いったん市街地が成立した後から、護岸工事を進める、堤防を高くする、河
川の幅を広げる、といったことがあると、その地域は非常にごちゃごちゃと
してしまいますし、窓から見えるのは堤防のコンクリだけ、なんてことにも
なりかねません。
川幅を広げる工事では、立ち退きを迫られることも日常的ですね。


都市圏での大規模工事は、渋滞や振動、騒音、大気汚染など、生活や産業に
大きな影響を与えます。
土地の買収費用や様々な補償も、けた外れに大きくなります。
金銭的な費用も、恐ろしいほど膨れ上がってしまうわけです。


そして、利益の方として上がってくるのは「地域住民の生活」、つまり「万
が一水害が発生したときの被害額」であるわけです。


大きく分けて、この三つの要素が、都市水害の対策で考量されることになり
ますが、結局のところ、一番安く上がるのが「地域住民の生活」を軽視する
ことだ、という結論ですね。

道徳的にはほめられたことではなくとも、政治的判断としてはまっとうです。

「蟻の穴から堤が破れる」というように、水害対策というのはその地域すべ
てを完全に同じレベルに引き上げるのでなければ、一番弱いところが破綻す
るだけです。
半端に工事をしてしまうと、逃げ道を失った水が、かえって一カ所に集中す
ることにもなりかねません。
まんべんなくふりわければ道路が冠水するくらいですんだかもしれない水量
で、その一カ所が壊滅的な打撃を受けることもあり得るわけです。

様々な反対運動を押し切りながら河岸すべてを削りまくり、コンクリで埋め
尽くしていくくらいなら、一定の被害を容認した上で、その被害に個別に現
金で対応、という方がよほどコストパフォーマンスが高い、という判断です
ね。

政治的判断としてはこういったものである、ということを踏まえますと、水
害対策をもっと充実させろ、という意見はいくら言っても実現可能性が低い
です。
一方で、被害者への支援金を充実させろ、という意見の方は案外採用されや
すいでしょう。

300億円かけて護岸堤防工事を進めます、というニュースをみたら、う〜
ん、またコンクリ河川が増えるのかあ、と白ける人も多いでしょうが、今回
の水害に支援金20億円!というニュースがあれば、へー、結構本気で支援
するんだなあ、という印象を受けるでしょう。

家財の買い換えや家屋の新築、自動車の売り上げも伸びるでしょうから、こ
の支援金は「ちゃんと回るカネ」になるわけですね。。。




<野外活動のはなし>

秋の行楽シーズン、というやつで、ハイキングやキャンプ、芋煮会などアウ
トドアのレクリエーションにでかける機会も多いのではないでしょうか。

で、今回は今挙げたようなお手軽な物からややハードなものまで、野外活動
全般についてちょっとYossieが考えることなど。


アウトドアの遊びのジャンルというのは、この十年間だけでも非常に広がっ
てますね。

ふた昔くらい前には、アウトドアといえば(そういう言い方もなかった気が
しますが)登山や海水浴、あとはスキー、といったくらいだったので
はないでしょうか。

しかし、いまではたとえば登山の中でもハイキング、トレッキング、トレイ
リング、ロッククライミング、アイスクライミング、アルパインクライミン
グ、シャワークライミング、夏山登山、冬山登山、といった感じでそれぞれ
スタイルや理論、装備などが整えられ、それなりに市民権も得ています。

水辺でも、シュノーケリングやダイビングの他にも、ヨットやプレジャーボ
ート、ジェットスキーあたりはかなり手頃になりましたし、サーフィンだけ
でなく、ボディボードもスポーツ用品店では定番になってます。
カヌーやイカダ、チューブライディングなども、イベントをやっているのを
よく見かけます。

スキー場(最近は、新しい名前を考えるのに苦労しているとか)関連でも、
かなり遊びが多彩になってます。
従来のアルペンスキーはすっかり片隅に追いやられ、上半身の自由度が高く、
パフォーマンス的な滑りのできるカービングスキーやファンスキー、モーグ
ルスタイルがメインになっています。
スノーボードも今ではすっかり多数派、ボード向けのハーフパイプやジャン
プ台を設置している「スノーパーク」もかなり増えてきました。

パフォーマンスよりは自然との一体感、という向きには、山岳スキーやクロ
スカントリーもずいぶん敷居が低くなっていますし、エクストリームやヘリ
スキーも一部の「変人」(笑)の遊びではなくなってきました。


で、マイナーだったジャンルがだんだんメジャーになっていくというのは、
その道の先駆者みたいな人々が、マスコミに出たり、普及活動に力を入れた
り、といったことがあって徐々に浸透していくことから始まりますね。

あとは何かのきっかけで一気にブームになる、そしてブームが去った後には
ホントに好きな人だけが残ってそのジャンルを熟成させていく、と。

そして、どのジャンルにおいても、その発展過程においてだいたい似たよう
な問題を抱えます。

ごく初期にその活動をはじめたような人々というのは、なにも情報がない状
態で、試行錯誤を重ね、道具をそろえたり、そもそもの活動の場所を確保す
るのにも大変な苦労をしています。
「見たこともない変なことをやっている」というのは、外部の人間との摩擦
が非常に大きいものです。

自然は誰の物でもない、というようなことをいいますが、多くの里山は個人
の所有物ですし、国有林であっても「国」の持ち物であって個人が自由に利
用できるというわけではありません。
川にしろ海にしろ、その場所に頼って生計を立てている漁師がいるわけです。

その物や空間を自由に使用したり処分したりする権利、これが所有権ですが、
所有権を持っている者は税金にしろ管理費用にしろ、いろいろな責任を負っ
ているのです。
逆に言えば、責任を負っていない人間には、使用する権限もない、というこ
とですね。

しかし、町中に住んでいると、人工物と「自然」がまるでかけ離れた物のよ
うに感じてしまうために、「自然」は誰がどのように使ってもいいんだ、と
思いこんでしまうことがあります。

このあたりの錯覚のせいで、地元の人間と軋轢を生じるのですね。

たとえば、ダイバーと漁師の確執はとくに長く続いていました。

ダイビングをしていてまわりにいろいろなサカナや貝やエビがいる、簡単に
捕まえられるから適当に採って浜辺でたき火をして取れたてを食べる。
「うめ〜」とか言って大喜びしていたら、なにやらおっさんがすごい勢いで
走ってきていきなり殴りつけてくる。
「なにすんだよ!」ということにもなるわけです。

漁業関係者は大変な手間と費用をかけて、水産資源の保護と育成に取り組ん
でいます。
特に沿岸部では、漁をしていい時期や漁獲高など、厳しい制限をすることで
乱獲を防ごうと必死です。

町中の人間としては、なんであんたらは獲ってもよくて、俺達はだめなんだ
よ、なんて言いたくなるわけですが、少なくとも日本の沿岸部では、人間の
努力なしに漁獲高を維持する事は不可能です。
海も、畑と同じなのです。

自分の育てている畑の中で、サッカーをやっている連中がいたらどうでしょ
う。
「大丈夫だよ、踏まないように気をつけてるから」と言われて引き下がりま
すか?

カヌーなどは漁への影響がかなり少ない(「もっとも静かなる乗り物」と言
われたりもします)のですが、それでも最初の頃には石を投げられたりした
と言います。


「自然と一体になりたい」とか、「なににも縛られずに自由になりたい」と
いった動機で新しいジャンルの野外活動にふみいる人は多いものです。
しかし、それが広まって行くに連れ、あちこちでいざこざが起こってくる。

問題を解決するためにはどうしたって説得や理論、線引きが必要になります
から、結局のところ、政治的な指導力を身につけざるを得なくなってしまう。
アウトドアの雑誌によく出てくるような「第一人者」も、昔の著作などを読
んでみるとたいていはめちゃくちゃなことをやっています。
一種の「無法地帯」を求めて野外に出た人たちだからです。

しかし、有名になり、自分たちの活動が多くの人に影響を与えるようになっ
てしまうと、そうもいかない。
インタビューでした発言の一つが、のちのちの波紋を呼ぶことにもなりかね
ず、どうしたって慎重にならざるを得ない。

そういう責任を負いたくなければ、みんな捨てて逃げればいい、という人も
いるでしょう。
しかし、責任を逃れるということは、同時に権力を捨てるということでもあ
ります。
環境を守る、という活動にだって、権力や政治力が必要なんです。

ヒト、モノ、カネを動かす力が権力です。
権力なんていらない、とうそぶいていたところで、ヒトもモノもカネも動か
ないんです。


で、野外活動の話に戻ります。
要は、新しい人間の活動が始まるときには、どうしたって今までそこで活動
していた人たちとの間で摩擦が生じるんです。

しかし、なわばり争いというのは非常にエネルギーを使いますから、両者が
納得できるラインが成立したなら、そこからはみ出さない限りはお互い攻撃
することはやめよう、という合意ができあがっていきます。

しかし、なぜそのような位置でラインが成立したか、という経緯を後から知
ることはなかなか難しいことです。
時には、地主の方が「その代表者を気に入ったから」その場所を使うことが
許されている、ということもあります。

そういうことがあるので、アウトドアの活動で何か新しいことをしようとい
う場合、できれば事情を知っている地元の人間と触れあるようにして欲しい
なあ、などと思うわけです。

確かに、よく知った仲間と遊びに行くときには、水入らずで楽しみたいとい
う思いも強いでしょうが、「事情を知らなかった」ですむこと、すまないこ
とがある、ということです。
町中にすんでいると、畑や漁場がどれほど重要なモノか、それに思い至る想
像力を育てるのは難しいんですよね。。。



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