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 ”インフォームド”な合意  生きるのが大変な人のための話  大量絶滅の話
 教育の話  海と生命の話  病原菌あれこれ
 エコ・ビジネス、公共事業  人間とデジタルの話  企業倫理の話
 琵琶湖をめぐる思いつきモロモロ    
 琵琶湖をめぐるモロモロ

 

<シルク・ドゥ・ビワラ>



まず、琵琶湖の現状として紹介していたのが、滋賀県の行政がネットで公
開している資料「県政e新聞(2002年7月10日)」です。
http://www.pref.shiga.jp/hodo/e-shinbun/2002/7/10/0710gf3001.PDF

バスやソウギョは釣りのためにわざと放流したものでしょうが、それ以外
のほとんどはペットショップで広く販売されている種ばかりです。

キャットテールやガーパイク、チョウザメやカミツキガメ。
南北アメリカ、アフリカ、アジア、アフリカ、オーストラリアと、南極を
除く全ての大陸から日本に連れて来られ、結果として琵琶湖という開放系
の水域に何らの管理も追跡も無しに継続的に放流がなされているのです。

多くは肉食で大型になる種であることから、飼い切れずに琵琶湖に放流し
た可能性が高いといえます。

メートル級になる魚が「ターン」できる水槽は、その重さだけでも数百キ
ロからトンの単位になります。
魚のエサ代や器具の費用ももちろん掛かるのですが、普通の家屋ではその
ような重量物が「ある」こと自体が大変な負荷になります。

バブル期ならばまだしも、現在では大型肉食魚の途中からの引き取り手は
めったに見つからないでしょう。
きちんとした配慮をした場合、移送の費用だけでもバカになりません。

ブームに乗って大繁殖した大型犬ともども、今後続くであろう”不景気
な”数年で、何が起こるのか考えたくもないところです。


美しいもの、神秘的な存在、奇妙な魅力を持つ生物、そういったものを手
元に置きたいという気持ちはよくわかります。
私も基本的にはペットが大好きです(ネコは苦手ですが)。
水族館や動物園もよく行きます。

しかし、飼い切れないのであれば自分で殺すべきです。
このあたり、普通の動物愛護団体などとは意見が異なるかもしれません。
が、私は「ペット”愛玩物”として手に入れたのならば、”愛玩物”とし
て処分するべきだ」と考えています。
そして、殺すことを通じて自分が愛玩物として動物を必要としているだけ
なのだと自覚し、次からはそのような用途に沿うような種、飼い方を合理
的に選ぶべきなのです。

愛情もなく、上手に飼っていく能力もないくせに”私は優しい”と勘違い
している人間が、得てして一番害を及ぼすものですから。


さて、本題の方に戻りましょうか。
上記のような外来魚による生態系の混乱もさることながら、現在最も琵琶
湖の”変容”に荷担しているのは、ブルーギルです。

ブルーギルが日本に定着した経緯はよく分からないのですが、断片的に残
っている記録からすると、最初に持ち込まれたのは戦前で、食用の養殖魚
とする可能性を探るためであったようです。
この時期には国内での食糧事情が悪かったこともあり、役に立つ生物資源
なら何でもいいから集めてみる、という状況でしょう。

しかし、ブルーギルは繁殖力はともかくとして成長が遅く、養殖魚には向
かなかったようです。
戦後、スポーツフィッシングの対象魚としてPRされたり、淡水真珠貝の
寄生主として売り込まれたりしたのですが、結局は鳴かず飛ばずで終わっ
てしまいました。

日本ではバスに比べるとあまり大きくならず、しかも頭が良くない(警戒
心が薄い)ので簡単に釣れてしまう、雑食性でどんなエサでも食べるため、
他の魚を狙っているとジャマになる、すぐ針を飲み込んでしまって外すの
が大変、などが釣り師から嫌われる理由でしょうか。

そんなブルーギルがなぜ日本中に広がることになってしまったかというと、
「バスとセットでの放流」が一時期流行したからのようです。
アメリカでは、適当な釣りの対象魚のいない水域に、両者をセットで放流
して繁殖させる、という手法があるそうです。
この場合、ブルーギルはバスのエサ、という設定です。
ブルーギルは苔や水草も食べ、年に4回も産卵するため、バスのエサとな
る小魚の供給源となるわけです。

ところが、どうしたわけか日本ではセットで移入された両者の立場が入れ
替わってしまっています。
盛んに密放流されたバスがそれほど増えていないわりには、ブルーギルば
かりが大増殖しているのです。

ブルーギルは水生昆虫から小魚、卵なども食べるため、その水域の生態系
に壊滅的な打撃を与えます。
ブラックバスの稚魚や卵も食べるため、究極的に生き残れるのは何でも食
べるブルーギルと、ブルーギルを食べることのできるブラックバスだけに
なってしまうのです。

天敵がいなければ、両者の関係は繁殖力とエサの豊富さだけで決まるでし
ょう。
琵琶湖における外来魚駆除でも、ブルーギル1000匹に対してブラック
バス25匹、といった状況です。

この辺りで現実的な落としどころを考えていけば、ある程度釣り人と漁業
関係者、自然保護の観点の間で実効性のある方針が立てられる気がするの
です。
ブルーギルが減ることによってブラックバスを含めた他の魚や生物が増え
るのならば、少なくともその一点においては力を合わせる余地があるわけ
です。

しかし、問題となるのはどちらかといえばメンタルな部分です。
釣り師の方では長年かけて例の”キャッチアンドリリース”という教義を
作り上げてきていますし、漁業関係者の方では「こっちは生活がかかって
いる。なぜ遊びで釣り糸を垂らす連中のためにこっちが譲歩しなければな
らないんだ」という不満がくすぶっています。
自然保護の人々としては、現状について危機感は募らせているものの、事
実上原状回復が不可能な問題を前にして、はっきりした方針を打ち出せず
にいます。たとえば漁業関係者としては、在来種が壊滅しているのなら他
に養殖可能な水産資源や他水系の生物を導入しようと考えるでしょう。
しかし、自然保護の観点からすれば、それも生態系を混乱させるものだか
らです。

で、先ほどのペットの処分の話から推察できるかと思いますが、私はこ
の”キャッチアンドリリース”に非常に懐疑的です。

「スポーツフィッシングの資源を保存する」ためにするのだ、という意見
ならば賛成できます。
表現はどうあれ、「なかなか手に入らない貴重な遊び道具なのだから、使
い捨てにしたらもったいない」という考えはごくごく自然なものです。
よいオモチャは大事にするべきです。

これに対して、「自然保護の気持ちを育てる行為」だとか「魚とのスポー
ツなのだ」とかという主張に対しては、私は非常に怒りさえ感じます。
欺瞞や勘違いでないとしたら、その無神経さが恐ろしいくらいです。

人間は、自然に近づくだけで自然を汚染します。

町から出るために自動車に乗り、電車に乗る。
ブーツを履いて歩き回れば石はめくれ、苔は削れる。
その地域にはない植物の種子、虫、細菌やウイルスを持ち込む。
小便をする、大便をする。
煮炊きをする。

人間が自然の中で遊ぶとき、それは自然を消費しているのだということを
自覚するべきなのです。

傷つけただけで殺さないようにしたから「優しさ」「心の通うスポーツ」
になるというのなら、駅前で他人を殴りつけてみればいいんです。
怪我を負わせても「殺さないでおいてやった」と言うのでしょうか?
殴り返されたら、「ナイスファイト!」とかいって健闘をたたえてみせる
のでしょうか。


魚釣りを通じて精神を成長させた人間がいることは確かでしょう。
しかし、それは釣りと言う「自分が何かを追究したこと」によって成長し
ているのであって、必ずしも釣りそのものが人間を普遍的に成長させるも
のではありません。

過程と結果をごちゃ混ぜにするから、「キャッチアンドリリースの精神は
子供の教育にとって素晴らしい。だから多少生態系を混乱させるリスクが
あるとしても、スポーツフィッシングの対象魚を再放流することは正し
い」などという意見が出てくるのです。

繰り返しになりますが。
その人たちが、釣りを通じて素晴らしい人生を獲得できたのだということ
について疑義をはさむつもりはありません。
しかし、その経験があるからといって、釣りをしさえすれば素晴らしい人
生が獲得でき、釣りが制限されれば人生が台無しになる、なんてことでは
ないのです。

過程と結果をいっしょにするのはどうかと思うのですよ。


どうも勢いだけの文章になってしまいました。
次回はもう少し深めて行きたいと思います。


趣味について語るとき、教育を持ち出すのは勘弁して欲しいものです。


参考リンク。
■滋賀県の琵琶湖関連ポータル
  
http://www.pref.shiga.jp/d/leisure/
■琵琶湖条例:バス釣りのリリース禁止再考を 清水国明さん提訴
  
http://www.mainichi.co.jp/news/selection/archive/200210/18/20021019k0000m040133000c.html

 



前回の続きで、結果と過程について。
主に教育的効果という面から考えてみたいと思います。

<キョウイク的効果>


キャッチアンドリリースについては、

▼所詮遊びのためのルールにすぎないのだから、他に不都合があるならば
さっさと変えればいい

というのが私の意見です。

で、教育的効果や釣り人のスピリチュアルな哲学のために「絶対に譲れな
い問題なんだ」なんてのはナンセンスだろう、というのが前回のお話でし
た。

もっとも、私はスポーツフィッシングそのものを否定する気はありません。
というよりも、人間の”人間らしい”活動ほとんど全てが、環境や他の生
き物にとっては不利益があることは否定できないからです。

私は登山やクライミング、スキーをします。
ドライブも大好きです。
アウトドア、なんてくくりでなんとなく「自然派」みたいな印象があるか
もしれませんが、いずれも環境破壊の先鋒です。

立ち入る必然性も利益もない山中に入り込み、石油で作り出した人工の雪
の上を転げまわる。
自分自身の数十倍の重量の鉄の塊を、せいぜい数名の人間を運ぶために動
かしつづける。

私は食べることも大好きです。

天然の魚がおいしいと私が思うとき、市場原理によってより多くの天然の
魚が捕まえられることになります。
安いから養殖の魚でいいやと私が思うとき、より人気のある魚の養殖のた
めに多くの水域が閉鎖され、その生物相は多様性を失います。

どんな選択肢、どんな経緯を取ろうと、”自然の幸”を獲得するとき、私
は間違いなく自然を消費しているのです。

そのことを自覚し自認しないのであれば、どれだけ大声で環境がどうのと
叫んだところで、欺瞞にしかすぎない。
それが私の主張です。

偽善と偽悪、悪をなすことに変わりないかもしれませんが、言ってること
とやってることが一致しているという一点において、私は自分のスタイル
の方がマシだと考えているのです。


で、今回は過程と結果の方を中心に。

教育的効果について語るとき、「過程」が大事なんだ!という主張はよく
みかけます。
私もそのとおりだと思うのですが、本当にその意味を分かって言っている
のか?ということも少なくありません。

例えば、いわゆる昔の「体育教師」が苦手な人、多いですよね。
とにかく結果を押し付けてくる。

自分自身がそういうものから何かを得ることができたからといって、他人
も同じように何かを得るとは限らない。
そもそも、「得たいと思っているもの」も全く違うかもしれない。
にもかかわらず、彼らは「とりあえず自分たちはこれでうまくいったのだ
から、ごちゃごちゃ言わずにお前らもやってみろ」と主張するわけです。

一方、文化系の教師は、自分自身が少数派であって言わば弱者の側にいた
ことが多いことから、「押し付けてもうまくいかない人間がいる」ことを
感覚的に理解しているものです。

ただ、同時に「自分と同じように何かを見出すことができる人間は少な
い」という考えがあるために、押し付けがない代わりに他人の教育に熱心
ではないことが多くなります。
また、文学や社会学系統の学問を学んで結局”道を踏み外した”人間も実
際に多いわけで、そんなリスキーな道をほいほい人に勧めるわけにはいか
ない、という判断もあるでしょう。


さて、「結果」を押し付けてくるのは困ったものだけれど、さりとて「過
程」というのは他人から与えることができるものでもない、というところ
まではいいでしょうか。

教育といって学校の場面ばかりを例にあげているとどうも具体性に欠ける
ので、ちょっと別な分野でみてみましょう。

イチローやナカタなど、今時の”サービス精神の少ない”スタープレイヤ
ーの共通点として、インタビューにおいて「期待された受け答えをしな
い」ということがあります。

もう少し断定的に言ってしまうと、「苦労されたんでしょうね」という質
問を否定する、ということです。


一般的に、日本人は成功者の苦労話が大好きだということを言います。
サクセスストーリーをドラマチックに仕立てる一要素として、ハードルの
設定が欲しい、ということもあります。

もう一つの要素として、成功者は”苦労”に耐えたから成功したのだ、そ
れに対して自分たち一般人はその”苦労”に耐えられなかったから(耐え
る気がなかったから)成功しなかったにすぎない、というエクスキューズ
が背景にあるのです。

同じ人間だし自分にも同じように成功する可能性があった。
ただ、自分はいろいろなことを犠牲にしてまで苦労する気がなかった。
だから現状は「成功者」とは違うけれど、それは自分が「選択」した結果
なのだ、という自己正当化ですね。

「苦労なさったんでしょうね」というインタビューは、成功者に対してね
ぎらいをかけると同時に、成功者以外に対しての”赦し”も意味している
のです。

そして、今までの「成功者」はこのあたりのひねくれ具合を知りつつも、
ある種「成功者」の責務の一つ、嫉妬の緩和手段の一つとして「非常に苦
労した」と応えていたわけです。

しかし、成功(特にスポーツ分野)のプロセスを冷静に考えれば、”苦
労”というのは結果の一つであって過程でも選択肢でもないことがわかり
ます。

イチローでもナカタでも、「自分に必要な訓練を見極め、それを実行して
きた」だけだと言います。

訓練の実行の段階で、そこには努力が必要になります。
一時的には苦痛を伴うこともあるでしょう。
しかしそれは、結果として苦痛があるにすぎず、苦痛は目的ではありませ
んし、苦痛から何かを得た、ということでもありません。
そもそも、必要な訓練を実行する上で、必ずしも苦痛が伴うとは限らない
のです。

マラソンの高橋尚子も、この辺りのことを指して走るのは楽しい、という
のでしょう。
トレーニングや競技中の肉体的な苦痛は、「現在これくらいの負荷を身体
にかけている」ということでしかありません。
苦しむために走っているわけでもなければ、負荷をかけるために走ってい
るわけでもないのです。

何度も言うようですが、「苦労をしたから」伸びる、ということではない
のです。
そして、「苦労が足りない」からダメなんだ、なんていい方は結果と過程
をごちゃごちゃにしている人間のセリフなのです。


さて。
こうして「苦労」を否定しましたが、ここでもう一本クギを刺しておく必
要があります。

結果と過程をごちゃごちゃにして押し付けてくる人間がいるのと同様に、
「苦労」と「努力」を一緒くたにしてまとめて否定してしまう人間がいる
からです。

人間、適切な訓練がなければ成長しません。
訓練といってももちろんそれは目に見えるものから目に見えないもの、短
時間のものから数十年のスパンを必要とするものまで様々です。

幼少期に重要なのは、自分自身で自分自身に必要な訓練を見極めるための
前提となる、「自分の特性を知る」能力の訓練です。
このためには、できるだけ多くの同年代の人間と自分自身を見比べさせる
のが手っ取り早い方法です。
良い部分も悪い部分も、集団の中で「違い」を感じることによって自分の
特性を知ることができます。

次に、その自分自身の特性に従って自分自身に必要な訓練を判断する能力
を磨くことになります。
弱点を補強し、長所を伸ばし、他人に認められる個性として形成していく
プロセスも、ここから始まります。

「こういうふうに過ごしたから自分はこうなった」というフィードバック
を意識しながら生活できるかどうか。
生活の中でどの部分が自分の「努力」によるもので、どの部分が自分の
「努力」によらない部分かを見極める。
効果のあった適切な努力は強化し、継続する。
効果のなかった努力、単なる「苦労」でしかなかったものは後回しにし、
あるいは放棄する。

その後数十年の成長度合いは、この部分、「自主性」を認識する能力でだ
いたい決まるといっていいでしょう。
もちろん、短期的には判断のつかないものもあります。
そういう事柄については、最終的な目標設定能力がものを言うでしょう。
「現状の自分はこうだから、いついつまでにはこうなりたい」
「そのためにはどうするか」

こういったプロセスの中には、「苦労したかどうか」なんて要素は入って
きません。
そして、「努力」がなければこのプロセスはまったく回っていかないので
す。

「努力」は辛いとは限らない。
苦しくない「努力」もいくらでもある。

重要なのは、必要だと思うことを実行していくこと。
「苦労すること」ではない、と。


ああ、なんだか道徳臭い話になってしまった。。。


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