今西錦司さんの「生物の世界」は、私が生物学をやろうと思った最大にし
て唯一(唯二、くらいかもしれません。私は高校の時の生物の先生にも非
常に影響を受けたので。犬山の霊長類研究所の出身で、ロッカーにサルの
骨格標本を入れている、といううわさもある楽しい先生でした)のきっか
けです。
その内容は様々で、とても一回のメールでまとめられるようなものではな
いし、賛成できない部分ももちろんあるのですが、私の印象という主観的
な視点で思いつくままに取り上げていきたいと思います。
▼世界は一つのものであること
今西論がなかなか「科学」として扱われないことの一つの理由に、現在の
科学が専門性を帯びすぎていて、複数の分野にわたるような理論、あるい
は異なるアクセスによる理論構築を、専門家が認めることができなくなっ
ている、という点があると思います。
非常に細分化された研究分野が、それぞれに独自の研究・発表の手法やフ
ォーマットを作り上げていて、その手法やフォーマットからはずれた理論
や文書は、全く学術的に評価しない、という状態になっているのではない
でしょうか。
まあ、こんなことを書いていると長くなってしまうので、本筋に戻りまし
ょう。今西論の主要なテーゼの一つに、世界の一体性ということがあると
思います。私の思うところによれば、
1. 無から有は生じない。
2.
とすれば、簡単なものから複雑なものも生じないはずである。
で、
3. 生物は無生物の中から生じた。
4.
簡単なものから複雑なものが生じないとすれば、無生物も生物も複雑さ
においてかわるところはない。
5.
だとすれば、世界を構成するものはすべて連続しており、同じように簡
単であり、複雑であるといえるはずである。
まあ、こんな風に書いてしまうといかにも乱暴なのですが、順番にいろい
ろなことを考えてから、最後にまたこれに触れることにしましょう。
今西論のきっかけとして、いわゆる「すみわけ」という現象がよく紹介さ
れています。実際には今西論の中核をなしているようなものでもないんで
すが、現在の生物学では、理論に対応する実例を挙げて報告する、という
形式をとることになっているので、目に付く理論として取り上げられるの
でしょう。
「棲み分け」というのは、
▼利用する資源が重複する部分では競争が激しくなるため、資源利用の仕
方が、相互作用により、互いに競争を回避する方向にずれること、
などといわれます。
よくわかりませんね。
たとえば、ヤマメとイワナの関係で棲み分けが観察されます。
いずれも川の魚ですが、本来生息できる水温域は一部が重なり合っていま
す。それぞれ、単独で生息しているときには生息できる水温域いっぱいに
広がって生息しています。
ところが、ヤマメとイワナが両方同じ川に生息する場合、ある一定の温度
を境にそれより上流がイワナ、下流がヤマメの生息域として「棲み分け」
されるのです。
つまり、ヤマメとイワナは互いの存在を「認めて」、競争を回避すべくそ
れぞれの生息域を制限するようになるのですね。
このような棲み分け(あるいは食い分け)の例としては、アユ・オイカ
ワ・カワムツの生息域の変動、ヨーロッパヒメウとカワウの食性、小鳥の
餌場の分層などが挙げられています。
なお、今西論の紹介で、棲み分けを紹介しつつ、このように生物は調和的
な社会を作っているという主張、といった書き方をしている文章もありま
すが、すくなくとも「生物の世界」においてはそのような理論構成はして
いません。
▼生物は環境の延長であり、環境は生物の延長である。
棲み分けという現象が今西論と関わるとすれば、この見解との関連でしょ
うか。
生物は、どんなに原始的にみえるものであっても、栄養を取り入れ、
危険から身を守り、交配する相手を見つける機能を持っています。
ここで、その生物にとっては、食べ物がなければ生きていくことはできず、
交配する相手がいなければ増殖できません。あるいは、その生物が生まれ
てくるとき、その体を構成するべき材料はどこから来たのでしょうか。つ
まり、環境なしにはその生物は存在し得ない、と。
その意味で、生物は環境の延長であるわけです。
では、環境は生物の延長である、というのはどういう意味でしょうか。
環境が生物を取り巻くものであり、生物に何らかの影響を与えるのでなけ
れば、それは存在しないのと同じです。「環境」ではない。
環境は生物によって「認識」されて初めて環境となるわけです。
ここで、「認識」といいますが、深い意味を与えてはいません。
ある事象が存在し、それが生物に何らかの影響を与え、それと連動して生
物に何らかの事象が発生するとしたら、それは認識があるものといっても
いいでしょう。
シュレーディンガーの猫ではありませんが、生物がいなければ環境は決定
されないわけです。
ともかく、生物といい環境と言うとき、両者は独立に存在するものではな
く、主体と客体、あるいは自己と外界などという区別はなく、連続してい
るのである、ということです。
どうも哲学臭くなってしまいましたね。ただ、こういった視点を多少なり
と先に述べておかないと、進化論の話も単なるお題目になってしまいかね
ないので、少々我慢、というところです。
さて、いよいよ今西進化論にはいるわけですが、ここでもちょっと前振り
を(^^;)。
総合説(無方向な変異と自然淘汰を中心に、様々な理論を統合した理論)
によれば、進化と言うときには、まず個体が変わり、その変化した個体の
子孫の勢力が広がっていって、やがて種の主流となる、ということですね。
言うなれば、種の中で常に「王位継承争い」が起こっているわけです。
もっとも優れた血統の一族がその種を支配し、血を残す権利を持つ、と。
この場合、その血統でない一族は、いつか根絶やしにしなければなりませ
ん。「平家にあらずんば人にあらず」ではありませんが、王位継承争いに
敗れ、王家の血を引くこともできなかったものどもは、いつか歴史の闇に
消えていくのです。
これに対し、今西論では、無方向な変異と自然淘汰を否定します。
こういう表現ですと、やたらにラディカルな説のように思われるかもしれ
ませんので、もう少し言葉を足しておきますと、変異は無方向ではないが、
いわば20度から30度の広がりを持った一方向であり、病弱なものは生
を全うせず、老いたものは滅びる、という点では淘汰はある、といいます。
では何が違うかというと、
1.
生物は盲目的な存在ではなく、環境を「認識」している。
2.
であるとすれば、おおむね適応的な方向へ変異して行くはずである。
3.
同じ場所に住み、同じ暮らしをしている生物たちであれば、その適応的
な方向はおおむね似通っているはずである。
4.
とすれば、わざわざ一部のものの血のみを残すようにしなくとも、やが
てその生物たちはすべて同じように変異して行くはずである。
5.
すなわち、自然淘汰がなくとも変異によって種は変わっていくし、変異
のきっかけは環境の変化であろう。
とすれば、
▼種は、変わるべき時が来れば、一斉に変わる
のではないでしょうか。
幼虫とさなぎと蝶が全く別な「いきもの」であるとしても、それは時期的
な相の違いにすぎません。
古生物と現生生物を比べてみたときに、それが別の形質を持っているとし
ても、その中間が連続して一系列をなすのであれば、それは自己同一的な
種と考えることもできるのではないでしょうか。
そして、アメーバ以来、現存するすべての生物は祖先を共有していること
を考えれば、地球生物の成長の一過程にすぎないのかもしれず、生物が地
球という惑星を構成する無生物から生まれてきたのであれば、地球という
恐ろしく古くから生き続ける一個の生命体の成長しつつある姿であるのか
もしれない、と。
そして、ここからはYossieの空想です。
いきものは、自己のコピーを最大に増やすことを行動原理とするという。
なら、地球も自分のコピーを欲しがっているのかもしれない。
すると、地球は、宇宙空間に自分のコピーを作り出すために、あるいは自
分のコピーを探しに行くために、35億年をかけて「宇宙に行ける生き
物」を作り出したのだろうか。。。
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